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43 薔薇の花 [命の樹]

43 薔薇の花
春に『薔薇の庭の喫茶店』で貰った、薔薇の苗は、初夏には花をつける事はなかったが、夏の暑さにも負けず、ぐんぐんと育っていた。夏の間は、「身体に障るから駄目よ」と加奈に厳しく言われていたため、庭仕事はほとんどしていなかった。
暑さの和らいできた10月に入って、久しぶりに、哲夫は庭仕事をした。
テラスの両脇に植えた薔薇の苗は、背丈ほどまで枝を伸ばしていた。もらった時に「丈夫に育つ」とは聞いていたが、これほど成長が早いとは思わなかった。
哲夫は、倉庫に入って、薔薇の気を支える支柱になる物を探したが、手ごろなものが見つからなかったので、与志さんに訊いてみることにした。
店は営業中の看板を出していたが、お客はなかった。最近は、平日でも数人の客が訪れるようになっていたので、インターホンからの呼出用子機を持ち歩くのが恒だった。
与志さんは、下の畑で、早生みかんの収穫作業の真っ最中だった。
「与志さん、お忙しい処、すみません。」
「ああ、てっちゃん。・・今年は、天候も良くて大玉になったから、手間がかかっちゃってね。」
与志さんは手を止めて、汗を拭きながら、笑顔で言った。
畑の脇には、20kgコンテナに蜜柑色に熟れた美味しそうなみかんがたくさん入れられ、積上げられていた。
「薔薇の枝が伸びてきたんで、支柱を作ろうと思うんですが、良いものがなくて・・・何か、使えそうなものはないか探してるんです。」
「それなら・・うちの納屋に行けば、それなりに使えるものがあるかもしれないけどね・・。」
「そうですか・・何か良いものあるでしょうか?」
「まあ、枝を支えるんなら、太めの針金とか・・どうだい?」
「ああ、いいですね。ありますか?」
「きっと、あると思うんだけどね。」
与志さんは、少し都合の悪そうな表情をしている。
「・・もうじき、これを農協が集めに来るんで、待ってなきゃならないんだよ。・・悪いんだが、てっちゃん、家へ行って勝手に探してみてよ。大抵は使わないものばかりだから、他にも欲しいものがあったら使っていいよ。いつものパンと紅茶のお礼だ。・・ああ、ついでに、納屋の入口の蝶番が緩くなってるから、修理しておいてくれないかい。」
与志の言葉どおりに、哲夫は与志の家の納屋へ行った。
入口の蝶番は、かなりがたついていたが、螺子を締める程度ですぐに修理できた。
納屋に入ると様々な道具が置かれていた。哲夫はその中から、少しさびているが使えそうな太い針金を見つけた。
「これにしよう。」

再び、みかん畑に戻って、与志さんに尋ねた。
すでに、畑に積まれていたミカンガいっぱい詰まっていた、20kgコンテナはすっかり無くなっていて、同量の空のコンテナが積まれていた。
「蝶番はガタついていたんで、修理しておきました。もう大丈夫ですよ。」
「ありがとね。」
「・・ああ、この針金、戴いても良いですか?」
「ああ、好きにしていいさ。」
「ありがとうございます。助かります。」
哲夫は、針金を抱えて戻りかけたが、ちょっと気になる事があって振り返って訊いた。
「みかんの収穫って一人で全部やってるんですか?」
「ああ・・もう10年以上、一人でやってるよ。このごろは、体力も落ちたのか、なかなか進まなくてね・・もうあと数年で仕舞いにしなくちゃいけないだろうがね。」
「そんな・・」
哲夫は、初めて聞く与志の弱気な言葉に驚きながら返答した。
「・・ああ、そうだ、てっちゃん、あんた、このみかん畑を引き受けてくれないかい?」
与志さんは、冗談交じりに哲夫に言った。しかし、哲夫は、困ったような表情をした。
「いや・・それは・・。」
「そんなに難しいもんじゃないさ。2,3年、やれば一人前にできるようになるし、農協の人だって、丁寧に教えてくれるはずさ。どうだい?やってみないかい?」
「いや・・・。」
哲夫は言葉が出なかった。
「・・私が動けるうちに、教え込んでやるからさ。」
与志さんの言葉は、だんだん、真剣味を帯びてくるようだった。
「いや・・それは・・・。」
哲夫はいよいよ返答に困った。
「そうだよねえ・・ちっとも儲けにならないしね。こんなにおいしいのにさ、昔はこれだけの畑でも十分暮らしていけたんだよ。」
哲夫は、故郷にいた頃、祖父や祖母が同じような事を言っていたのを思い出していた。
「まあ、いいさ。まだまだ動けるうちは、頑張らなくちゃね。さあ、もう一仕事だ!」
与志さんはそう言うと、籠を抱えて立ちあがった。
「すみません。」
哲夫はそう言うのがやっとだった。
本当なら、与志さんの思いを汲んで、引き受けるべきなのだろう。しかし、今の哲夫には、そんな約束はできなかった。冗談交じりとは言っても、広いミカン畑はいずれは放置される運命にちがいない。そう考えると、自分が不甲斐なくて仕方なかった。

店に戻ると、薔薇の手入れを続けた。
もらった針金をテラスの庇(ひさし)の支柱に止めたあと、伸びた薔薇の枝を針金に固定した。このまま、伸び続ければ、何年かするとテラスには、真っ赤な薔薇のアーチが掛かるに違いない。その風景を見ることはないだろうが、加奈へのプレゼントになるに違いない。
満足そうに見ていると、伸びた薔薇の枝に小さな蕾を見つけた。
通常なら10月には薔薇の開花があるはずだが、浜名湖周辺は、年間気温が高いために、開花期が少し遅いのだった。この分なら、あと一か月ほどで大きな薔薇の花が咲くかもしれない。
「加奈にはもう少し内緒にしておこう。」
相変わらず、客はなかった。


44 岬の道 [命の樹]

44.岬の道
哲夫は、後始末をしながら、ふと、須藤自転車の事を思い出した。
「立派な三輪車を貰ったんだ。何かお礼をしなくちゃいけないな。そう言えば・・」
そう呟くと、玄関の前から、石段に向かって歩いていった。
「やっぱり、これだけの段差は難しいか・・。」
哲夫は以前に、須藤自転車の主人と健がここへやってきた時、石段を登ってくるのが大変だったという言葉を思い出していたのだった。
「何とかしなくちゃな。そのうち、俺も登れなくなるかもしれないしな。」
哲夫は、何か良い方法はないかと、ぶらぶらと庭を歩いていて、ふと思いついた。
「確か、この家を建てる時、トラックが入っていたよな・・・どこかに道があったんだ。」
そう言って、庭の周囲を探してみた。
「きっと、ここだな・・・。」
哲夫はそう言うと、いったん、店の玄関に戻ってから,≪準備中≫の札をかけ、倉庫へ向かった。
哲夫は倉庫から草刈機を持ち出してきた。そして、先ほどの場所へ行くと、草刈機のエンジンをかけて、目の前の草を刈り始めた。
ブーンという音とともに、夏の間に背丈ほどまで伸びた草が次々に刈られていく。時折、大きな石が転がっていて、少しずつ、脇へどかしてから、斜面を下って行った。
道らしき場所は、石段がある場所とは反対側の東斜面をゆっくりと下る形で、与志さんのミカン畑の脇の道へ繋がっているようだった。ざっと草を刈ると、道全体が見えてきた。上から見た時の想像通り、与志さんのミカン畑の脇、農協のトラックが入ってくる道と繋がっていた。さらに、繋がっている場所には、自動車を5台くらい停められる空地もあり、草を刈った。
「これなら、ここを駐車場にして店に上がってきてもらう事もできそうだ。」
哲夫は満足そうな顔で言った。
「おや、てっちゃん、どうしたんだい?」
与志さんは、草刈機の音を聞いて、畑からやってきた。
「石段がきついかなと思って・・こっち側に確か車が入れる道があったように思ったんで、草を刈っていたんですよ。そしたらここへ出てきたんです。」
「ああ、そうかい。工事の車が入れるようにしたいって頼まれてね、ついでに、細かった道を広げてもらったんだ。おかげで、農協のトラックもここまで入ってくれるようになって、助かったんだよ。」
「そうだったんですか・・。」
哲夫は草刈機を下ろした。
「昔は、背負子にみかんを詰めて、神社の前まで運んだんだ。この先の岬の先あたりにも、たくさんミカン畑があってね、長い長い石ころ道を、何度も何度もを運んだんだ。きつかったよ。」
「へえ・・この先にもまだ道があるんですか?」
「ああ、だがしばらく人が入っていないからね。あちこち崩れているんじゃないかねえ。昔は、この岬をぐるりを一周出来たんだよ。・・そうそう、ちょうどその先に寝、小さな祠があるんだよ。謂れは知らないが、ずいぶん古いものなんだ。子どもの頃、肝試しってやったことあるだろ?ここらじゃ、皆、この道を肝試しに使ったんだ。」
与志さんはそう言うと、くすっと笑った。
「どうしたんです?」
「いやね・・あの、源治のことさ。今じゃ、良い爺さんだが。あれが子どもの頃はたいそう臆病者だったんだ。夏の祭りの後には必ず肝試しがあるんだ。祭りの最中は、騒いでいた源治だったが、いざ始まるとね、腹が痛いだの、頭が痛いだの言って、逃げようとする。いよいよ、逃げられなくて、私と一緒に行くことになったんだ。」
哲夫は自分のことを言われているようだった。哲夫も、子どもの頃は随分と臆病だった。だが、それを知られたくなくて、わざと粋がって見せていたのを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。
「わたしゃ、よく知った道だし、何も怖くなんかない。小さな提灯をぶら下げて、ずんずん、ずんずん、先に歩いていってやったんだ。気が付くと、源治の姿はなくて、戻ってみたら、そのあたりで座り込んで泣いてるんだ。」
幼い頃は、何かと女子の方が気が強い。哲夫も、年上の女子にはよく泣かされた。
「そっと近づいて行ってね、わあっ、て脅かしてやったら、おしっこ漏らして、オイオイ泣きながら逃げ帰って行ったんだよ。・・今からは想像できないだろうがね・・・。」
与志さんは、昔を懐かしむように目を細めて話した。
「何だか意地悪ですね?」
「そうかい?まあ、あいつは普通の時は、ガキ大将気取って女の子をいじめてたからね。」
「何だか、想像できますね・・。」
「懐かしいねえ・・あの頃は、子どもたちが山の中を走り回って楽しかったねえ。」
与志の言葉は、少し寂しそうだった
「今は、もう大人もここへは入らなくなったんですね・・。」
「ああ・・・まあ、仕方ないさ。」
哲夫は、岬の先端に伸びている道をじっと見つめた。
「ちょっと行ってみます。」
「そうかい、気を付けるんだよ。あまり、端っこを歩かない方が良いよ。」
「はい、気を付けます。」

哲夫は、草刈機をその場に残し、与志と別れて、細い道の先、祠のあたりに向かうことにした。

途中、樹が茂り、道に迷いそうな場所もあった。山から落ちてきた岩石もいくつも転がっていた。
山側にも海側にも、木々が枝を伸ばし、風景は全く見えなかった。少し登坂をあがり、右にカーブしたところで、急に視界が開け、5メートル四方の広場に出た。
湖からの風が強く吹き付けるその場所に、小さな祠が、湖に向かって建っていた。祠の中には、小さなお地蔵様が鎮座していた。昔に誰かが供えたのか、お椀が一つ置かれていた。

岬といってもそれほど高くはなく、海までは5メートルほどしかないのだが、足元が断崖のような岩場になっていて、随分と高く感じられる。
遠くまで見渡せる場所は、まるで別世界に紛れ込んだようだった。
「いい場所だな・・。」
哲夫はそう言うと、座り込んで湖を眺めた。
そのうち、意識がぼんやりとし始めてきた。夢中で歩いてきたせいか、随分体が怠く感じられた。
哲夫は、ポケットから携帯の酸素ボンベを取り出して、口に当て、少し休もうと体を横たえた。

45 異変 [命の樹]

45 異変
夕方になって、加奈は仕事を終えて、帰宅した。店のドアには《準備中》の札が掛けられていた。
「おかしいわね、普段ならまだやってるはずなのに・・。」
加奈はそう呟きながらドアを開けた。
「哲夫さん?居るの?」
返事はなかった。二階に上がってみたがやはり姿はなかった。
「自転車はあったから・・出掛けていないはずなんだけど・・。」
加奈は独り言を言いながら、着替えを済ませて、再び、店に降りてきた。
ふと、庭に目をやると、東側の木立の一カ所に、背まで伸びていた草むらが無くなっているのに、気付いた。サンダルを履いて、庭に出て、その場所に向かった。
草が綺麗に刈られていて、通路が出来上がっていた。
「まさか・・これ、哲夫さんが?」
そう言いながら、通路を降りていくと、隅の方に、草刈機が放置されていた。加奈は胸騒ぎがした。
槙の樹の垣根の向こうに、人影が見えた。
「哲夫さん!」
加奈が声を掛けると、畑の中から、与志さんが顔を見せた。
「おや、加奈さん・・どうしたんだい?」
「あっ・・与志さん・・いえ、哲夫さんの姿が見えなくて・・。」
加奈は、与志さんが余計な心配をしないよう、意識して落ち着いて答えた。
「てっちゃんなら、随分前に、岬の先端に通じる道の方へ行ったはずだけどね・・・もう、戻ってると思ったけど・・・。まだ、戻ってないのかい。」
「そうですか。」
「途中、道が崩れているかもしれないから、気を付けて行くように言ったんだが・・・・。」
与志さんは心配な表情を浮かべて言った。
「大丈夫だと思うんですけどね。あの人、結構、気ままな人だから・・・たぶん、ぼんやり、湖でも眺めてるのかもしれません。すぐに戻るでしょう。」
「そうだね。」
加奈は与志に礼をして、意識的に、ゆっくりと店に戻る事にした。慌てて、哲夫を探しに行くようなことをしたら、与志に余計な心配をかけてしまう。
だが、庭に入ってから、すぐに店に戻り、慌てて、結に電話した。
「結ちゃん?・・ごめんね、突然。哲夫さんの姿が見えなくて・・さっき、与志さんから、哲夫さんが岬の先端に向かったって聞いたの。・・なんだか・・心配で・・・。」
電話の向こうで、結が答えた。
「わかりました。私もすぐに行きますから。」

加奈は電話を切ってから、メモ用紙に、置手紙をして店を出た。
加奈は、急ぎ足で、斜面の通路を降りると、与志さんの姿のない事を確認して、岬の先へ通じる道を急いだ。

岬の先端までの道には、哲夫が通った痕跡があちこちにあった。長く伸びた草を払い、大きな石を道の脇にどけて、通りやすくなっていた。
加奈は、心臓の鼓動が高まるのを感じながら、次第に、心の中に湧き上がる、不吉な想像を必死に抑えようとしていた。

結もすぐに《命の樹》に、須藤幸一と一緒に姿を見せた。テーブルに置かれた置手紙を読むと、加奈の後を追うように道を急ぐ。庭を降りたところには、幸いにも、与志の姿はなかった。
「さあ、急ごう。」
幸一は大きな鞄を抱えて、結の前を歩いた。幸一は、ここの生まれで、幼い頃に何度か、この道を歩いた事があった。

そのころ、哲夫は、夢の中に居た。
なぜか、空を飛んでいて、足元には、岬が見えた。赤い屋根の自分の店を見下ろしているのだった。
「あ・・加奈が戻ってきたな・・なんだか、慌ててるようだが・・どうしたんだろう・・。」
哲夫は、風に流される凧のように、ふらふらと岬の上空を舞いながら、足元の景色をのんびりと眺めている。
「あれ・・結もやってきたな・・・何があったんだろう。」
相変わらず、のんびりと、自分とは関係のない世界の事のように眺めている。

「哲夫さん!哲夫さん!、しっかりして!」
急に、強い口調で耳元で声がして、上空から引き戻された。
哲夫はふっと気がつき、うっすらと目を開いた。
目の前には、加奈がいる。
加奈は涙を浮かべ必死の形相で、哲夫の体を揺すり、呼びかけている。何だか、ぼんやりした意識の中で、体はずっしりと重く、起き上がる事が出来なかった。
加奈は、脇に転がっていた携帯用酸素ボンベを哲夫の口に当てたが、中身は空っぽのようだった。
哲夫は、反射的にすうっと吸い込んだが、酸素は出ておらず、そのまま再び目を閉じた。
加奈は哲夫の胸に耳を当てて、心臓の音を確かめた。どくんどくんと音は聞こえるが、とても頼りなかった。
「哲夫さん!哲夫さん!」
加奈は必死に呼びかける。そのたびに、哲夫は眉間に皺を寄せて反応する。呼吸が弱くなってきていた。
「駄目よ!哲夫さん!しっかり!駄目よ!」
加奈はもう涙で顔をくしゃくしゃにしている。
ようやく、結が幸一と一緒に現れた。
「結ちゃん!・・哲夫さんが!・・・」
結は、幸一が抱えていた大きな鞄から聴診器を取り出し、哲夫の胸に当てた。
「大丈夫。加奈さん、落ち着いて。大丈夫だから。」
結は、加奈を落ち着かせるために、低い声で言った。だが、結の表情は険しいままだった。
「幸一さん、注射の準備をしてください。」
幸一が鞄の中から、注射器と薬を取り出しセットすると、結は、すぐに哲夫に注射した。
「今、強心剤を打ちました。これで少しでも心臓の鼓動が戻れば良いんですけど・・。」
三人は、哲夫の様子を固唾を飲んで見守った。


46 優しさの勘違い [命の樹]

46. 優しさの勘違い
徐々に日暮れが近づいてきていた。
「やっぱり、このままじゃいけない。家に帰りましょう。ねえ、幸一さん、おじさんを背負える?」
「ああ・・大丈夫だろう。」
幸一が哲夫を背負うと、一瞬、驚いた表情をした。
身長は、哲夫も幸一も変わらないはずなのだが、哲夫は見た目以上に軽かった。だが、幸一はそのことを口にしなかった。
三人は哲夫を連れて、今、来た道を戻っていく。

《命の樹》にあがる道のところで、与志さんと出くわした。
「おや・・どうしたんだ?哲夫さん、怪我でもしたのか?」
与志さんが心配そうに訊ねたので、加奈は咄嗟に答えた。
「いえ・・ちょっと足を痛めたみたいです。・・その先で、動けなくなって、そのまま居眠りしたようなんです。」
加奈の言葉は、つじつまの合わないものだった。
「すまなかったねえ、用心しろっていったんだけどねえ。」
与志さんは、自分が哲夫に道を教えたことを詫びるような表情で言った。
「大丈夫です。すみません、ご心配をおかけしてしまって。」
幸一もこれ以上ここに留まれば、哲夫の病気が与志にもばれてしまう。そう考えると、無感情な声で切り出した。。
「さあ、行きますよ。痛みが出る前に治療しなくちゃいけませんから。」
幸一は、哲夫を背負ったまま、すぐに坂を上った。
「与志さん、本当に、たいした事ありませんから・・」
加奈と結は与志に頭を下げた。

店に戻ると、すぐに2階の寝室に哲夫を運んだ。
結は、すぐに、哲夫に酸素マスクを着け、点滴を始めた。
寝室には心拍を計測するための機材が置かれていて、幸一が準備をした。二人は手早く全てを終えると、結は、再び、哲夫の胸に聴診器を当てて音を聴く。
しばらく、目を閉じて、具合をじっと感じ取ろうとしていた。
加奈は、不安な顔つきで、その様子をじっと見つめている。
「・・・良かった、すいぶん落ち着いているみたいです。・・」
結は加奈に微かな笑顔で言った。加奈は胸をなでおろした。
「点滴で1時間くらいゆっくり眠れれば、きっと気がつくでしょう。少し、寝かせてあげましょう。」
結は、そう言うと部屋を出て行った。
加奈は少し、哲夫の様子を見た後、階下へ降りて行った。

結と幸一は、椅子にかけていた。
「結ちゃん、幸一さん、ありがとうございました。もう、駄目かって・・」
加奈は、そこまで口にして、首を横に振った。
「加奈さん、駄目ですよ。そんなふうに思っちゃ。おじさんが悲しむわ・・。」
「そうですよ。」
幸一も慰めるように言った。
「そうね・・ごめんなさい。お医者様が二人もいらっしゃるんですものね。・・ねえ、食事していくでしょ。簡単なものしか作れないけど・・」
「あ、私、手伝いますから。」
結も立ちあがって、加奈とともに厨房に入った。厨房の隅には、結が持ってきた携帯用酸素ボンベの箱が置かれていて、結は何気なく中を開いてみた。使用したものは、上部の蓋の封印が切られるようになっていて、一見して使用したものがすぐに判った。もう半分くらいが使用済みになっていた。
「おじさん、これまでも随分使っているみたい・・・でも、一度も連絡は・・。」
加奈は、大鍋にお湯を沸かしながら、大きなため息をついた。
結はそれ以上何も言えず、加奈の横でパスタを取り出して量り、加奈に渡した。

三人は、加奈が作ったパスタを無言で食べた。結も幸一も、加奈の気持ちを考えると話題にすべきことが浮かばなかったからだった。
加奈が口を開いた。
「どうして、あの人はそうなのかしら。みんながどんなに心配しているか、何もわかっていないんだから。」
悲しみと悔しさと憤りと、何かいろんな感情が混ざった言い方だった。
幸一が言う。
「心配を掛けたくないって思っているんでしょう。」
これに結が反応した。
「心配かけたくないって・・結局、今日だってこんなふうに大騒ぎになっているじゃない。そんなの身勝手よ。」
加奈の気持ちを代弁するような言葉だった。
「いや・・自分は大丈夫だって思ってもらいたいんだろう。男ならそう言うところあるよ。」
「え?じゃあ、あなたもそうなの?そんなの、ちっとも優しくないわ。」
「優しくないって・・じゃあ、いつもいつも心配かけていた方が良いのかい?」
「そうじゃないわ。なんでも隠さず正直に言ってほしいのよ。で、なきゃ、一緒に生きている意味がないじゃない!」
「そんな、全部が全部知っておくべきとは限らないだろ?」
二人の会話は、哲夫の事ではなくなってきていた。
加奈は二人の会話を聞いて、二人の間が親密になっていることを直感した。
「じゃあ、あなたも隠し事があるのね?」
「いや・・僕はそんな隠すようなことはないさ。・・昔からそうだ。君の方が隠し事が多いんじゃないかな?」
「そんな・・・。」
急に結は口ごもってしまった。結の心の中に秘めた思いを幸一に見抜かれたように感じたからだった。
「ねえ、二人は付き合ってるのよね?」
加奈が二人の言い合いに入った。
「えっ!?」
結と幸一は顔を見合わせ、黙ってしまった。

47 医師の顔 [命の樹]

47 医師の顔
「別に隠すようなことじゃないでしょ?良いじゃない。お医者様同士って・・お仕事でも互いに助け合えるでしょ?」
加奈の言葉に、結は観念したように言った。
「ええ・・少し前・・いえ、開院してから、いろいろと相談に乗ってもらっていて・・幸一さんも、こっちへ帰ってくるって決めて・・・おじさんが落ち着いたら、お話ししようと思っていたんです。」
結は、秘めた思いを加奈が知っていることを承知の上で言った。
「そう。良かったわね。…結婚も考えているんでしょ?」
「まだ、そこまでは・・・私、一度失敗してますから。」
「失敗なんて・・あなたが悪かったわけじゃないでしょ?」
「でも・・やっぱり、幸一さんは須藤のお家の長男ですし・・私みたいなのは、釣り合わないというか・・やっぱり初婚同士が良いと思うんですよ。」
「結ちゃんも意外と古風なのね。」
加奈と結のやり取りをじっと聞いている幸一に向かって、加奈が視線を送った。
幸一は、何か言いたげな表情だったが、何も言わなかった。すると、加奈が、母親が子供を諭すような口調で言った。
「ほら・・何、黙ってるの?今でしょ?」
幸一は何のことかわからず、ポカンとした顔で加奈を見ている。
「ああ、まったく。鈍いのね。どうして、ここで結婚しようって言わないの?」
幸一は漸く意味が判って、慌てて言った。
「いえ・・それは・・やっぱり・・、結さんの気持ちが大事ですから。・・・・無理に求めるものでもないでしょう?結さんの言ってることも一理あるっていうか・・。」
幸一の言葉に、加奈はがっくりした顔をして、結を見た。
「どうして、男ってのはこうなのかしらね。何だか、幸一さんは、哲夫さんによく似てるわねえ。鈍感というか、優しさって言うのを勘違いしてるっていうか・・。そのくせ、妙な時に優しかったりして・・ね。」
結は、複雑な表情をして加奈を見た。
「結ちゃん、あなた、やっぱり苦労するわ。こういう人が一番厄介なのよ。哲夫さんを見ていればわかるでしょ?・・いつも、自分のやりたいようにやって、自由奔放っていうの。そのくせ、遠くから見守ってくれてて、困った時には頼りになる。でもちっともそんなことわかってないのよ。」
そう言われて、結は苦笑した。幸一は情けない顔をしている。
「・・でも、大丈夫。きっと幸せになれるわ。早く一緒になりなさい。」
加奈はそう言い放つと、席を立って、皿を片付け、厨房に行った。
幸一と結は、互いに見つめあい、言葉にこそしなかったが、結婚の決意を固めたようだった。

「そろそろ、おじさんの様子を診てきます。」
結はそう言うと2階へ上がり、じきに降りてきた。
「まだ眠っているようですが、呼吸も心拍も安定しているようですから、もう大丈夫でしょう。」
「ありがとう。・・ホントにありがとう。」
加奈は結の手を取って礼を言った。
「いえ、恩返しのつもりですから。」
「幸一さんも、本当にありがとうございました。」
加奈は深々と頭を下げた。
「やめてください。僕も恩返しのつもりですから。」
加奈は顔を上げて不思議そうな目で幸一を見た。
「いや・・ほら、親父の事では哲夫さんにも奥さんにもお世話になりましたから。それに、故郷に戻る決意もできましたし、おかげで、こうやって結さんにも会えましたから。・・僕の人生を大きく動かして下さったんです。だから、恩返しです。」
幸一は、晴れやかな笑顔でそう言った。
「そろそろ帰ります。明日の午後には動けるようになるはずですから。明日は午後休診にしておきます。必ず、検査に来てくださいね。」
結はそう言うと、幸一とともに帰って行った。

幸一は、店を出て、石段を下りながら結に言った。
「哲夫さん、随分痩せてたよ。」
「そうね・・。」
「・・やっぱり、かなり進行しているようだね。」
結も、哲夫の胸に聴診器を当てた時、肋骨が浮き出ているのを見て、予想以上に病状が進行しているのは判っていた。
「しかし、不思議だよね。あれだけの状態なら、普通なら激痛で耐えられない事もあるはずなんだが。」
「ええ・・・そうなのよ。体力が落ちている以外は余り変化がない・・と言うか、食欲もあるようだし、手足もしびれたりしていない様なの。」
「他への転移は?」
「おそらく、もう全身に転移している段階だと思うんだけど、・・、本格的な全身検査はしていないの。」
幸一は、石段を下りながら、じっと考えていた。そして、下に降り着いた時に言った。
「これは、あくまで仮定の話だが・・痛みを感じないって言うことは、脳への転移が進んでいるってことはないだろうか?」
「・・そうかもしれない・・私、専門じゃないから・・判らないけど・・」
「あんまり聞いたことはないんだが、まれに、脳への転移で神経中枢が麻痺すると、痛みを感じないケースはあるんだ。」
「それって・・。」
「ああ、痛みは感じないのは、大量のモルヒネを用いなくて済むからね。でも、自分の病状が判断できない。それに、予想もしないような異常行動とか・・・厄介なことには変わりないさ。」
「おじさんがそうだとすると・・普通に暮らすなんて無理ね。」
結は険しい顔でじっと足元を見ている。
「君の病院には、MRIを入れたんだよね。」
「ええ・・」
「明日、脳の検査を・・いや、全身の検査をしよう。もし、脳への転移があれば、治療方法を変えなくちゃいけない。」
二人は先程の結婚話などとっくに忘れ、医師の顔になっていて、足早に帰って行った。

48 腕の中で [命の樹]

48 腕の中で
二人が帰ってから、加奈は一度、哲夫の様子を見に行き、まだ寝ていることを確認して、片づけと入浴を済ませて、静かにベッドに入った。
「すまなかったね。」
哲夫は意識が回復していて、加奈の耳元で、小さな声で言った。
「あら・・目が覚めたの?」
「ああ、僕はまだ生きてるんだね。」
「もう、心配かけて!あれほど無理はしないでって言ったでしょう。」
加奈は、ベッドの中で哲夫の腕を掴んで、子どもように泣いた。
「すまなかった。本当に、すまなかった。」
哲夫は何度も何度も謝った。

加奈は哲夫の腕の中で少しずつ気持ちが落ち着いてきて、泣くのを止めた。
「不思議な夢を見たんだ。」
哲夫は囁くような声で言った。加奈は少し顔を動かして哲夫を見た。
「空を飛んでいた。・・いや、飛んでいるというより、、空に浮かんでいるみたいだった。足元に、うちの赤い屋根が見えてね。加奈が仕事から戻ってきた。しばらくすると、庭に走り出て・・与志さんに会った。また家へ戻って、今度は随分慌てて岬の方へ向かったんだ。・・その先にね、僕が横になって寝ていた。」
加奈は驚いた。哲夫の夢は、夕方の様子とぴったり合っていた。
「しばらくすると、結ちゃんが・・幸一君と一緒にやってきたんだ。何だか、二人は良い感じだよね。」
「もう止めて!」
「どうしたんだい?夢の話さ・・。」
「でも、それって・・。」
「やっぱりそうか。僕が見たのは夢じゃないんだ。僕はその時きっともう死にかけていたんだろ。臨死体験っていうのだろうね。」
加奈は想像したくなかった。哲夫の死はいずれ近いうちに訪れるだろう、しかし、まだその覚悟は十分にはできていない。いや、病気が見つかった時、受け入れたはずだったが、日が経つにつれて、認めたくない気持ちが強くなっているのだった。
「哲夫さん・・・一日でも長く一緒にいて・・お願い・・・。」
再び、加奈は子どものように泣き始めた。
「ごめん。もう止めよう。なんとか、繋いでもらった命だからね。大事にしないと。」
哲夫は、加奈の体に手を回した。加奈はそのまま、哲夫の腕に抱かれて、朝まで眠った。

翌日、哲夫が目覚めたのはもう10時を回っていた。加奈はいつも通りに起床し、今日の授業を休講にする連絡をして、朝食の用意を済ませていた。
「お早う、目が覚めた?」
加奈が寝室の哲夫を起こしに来た。
「ああ・・随分、楽になったよ。」
「朝食、食べる?」
「加奈が作ってくれるのかい?」
「そうよ。昔はそうだったでしょ?」
哲夫は、パジャマを着替えて、加奈に支えられながら、階段を一段ずつゆっくりと降りた。
「ふう・・まだ普通には動けないね・・。」
「仕方ないでしょ?昨日の事を考えれば、動くことだって不思議なくらいなんだから。」
朝日が差し込む窓際の席に、二人は座った。
朝食は、何時も哲夫が作るのと同じ、卵のサンドイッチとサラダとコーヒーだった。
「サンドイッチのパンがなかったから・・・・朝、コンビニで買ってきたの。どうかしら?」
哲夫は、パンをじっくり見てから、一口食べた。
「うん。やっぱり、売ってるパンは少し甘いね。せっかくの卵焼きの味を損ねてしまうみたいだ。でも美味しいよ。」
「何それ?褒めてるのか貶してるのか、わかんないじゃない。」
「いや、美味しいって。」
久しぶりに、二人は笑顔で会話ができたようだった。
「ねえ、午後には、診察に来るようにって結ちゃんが・・行けそう?」
「ああ、大丈夫だけど・・医院までは車で送ってくれるかい?」
朝食を済ませると、加奈は車を取りに行った。昨日、哲夫が整備した道を通って庭に車を入れた。
「良い具合だわ。」
車のドアを開けて、加奈が出てきた。
哲夫は、ゆっくりと玄関を開けて出てくると、テラスの前で立ち止まった。そして、加奈を呼んだ。
「ほら・・。」
哲夫がそっと指さした。
「あら、薔薇の蕾?」
「ああ・・蕾が付いているんだ。春には咲かなかったけど、今度はきっと咲くよ。」
「赤い薔薇だったわね。」
「ああ、蕾でこんなに大きいから・・きっと、随分大きな花が咲くよ。」
「楽しみね。」
「いつか、きっとこのテラスは赤い薔薇でいっぱいになる。毎年、春と秋に二度。香りも楽しみだね。」
哲夫はそう言うと、無意識に薔薇の弦に手を伸ばした。古い弦には大きな棘があった。指先にざっくりと棘が刺さり、真っ赤な血が噴き出した。
「大変!」
加奈は慌てた。哲夫は、加奈の声に驚いて自分の指を見て初めて怪我に気付いた。
「大丈夫だ・・大したことはない。」
すぐに手当てをした。
「痛くないの?」
「ああ・・それほど・・痛みはないね。」
「そう・・?」
加奈は、哲夫を乗せて、水上医院へ向かった。
水上医院には、結と幸一が待っていた。
哲夫は、結と加奈に支えられるようにして、病院の中に入って行った。


49 検査 [命の樹]

49 検査
診察室に入ると、哲夫はすぐにベッドに横になった。僅かの距離のはずだが、随分と疲れている。ベッドの脇で、結が脈を取りながら言う。
「念のため、今日は、全身の検査をさせてください。」
既に幸一はMRIの準備を済ませていた。病院の一番奥の部屋、哲夫はストレッチャーで移動し、すぐに検査が始まった。
加奈は待合室のソファに腰掛けて、じっと待っている。そこへ、結の母が顔を見せた。
「加奈さん・・大丈夫?疲れていない?」
結の母は、哲夫の病気の事を結から聞いていたが、面と向って、その事を話題にした事はなかった。
「ええ・・私は大丈夫です。」
「無理しないでね。・・私、仕事柄、多くの患者さんのご家族の苦労も見ていたから、加奈さんがどうして居るのか心配なのよ。お手伝い出来る事があれば、何でも言ってくださいね。」
結の母は、加奈の手を取り、労わるように言った。
「ありがとうございます。結さんが近くに病院を開いてくださったので、随分、心強いんです。それに、幸一さんまで・・本当にありがとうございます。」
検査室の中は、低い機械音が響いていて、結と幸一はモニター画面を食い入るように見ている。
「内臓はそれほどでもなさそうだね。」
「ええ・・肺の癌も思ったより進行していない、いえ、以前より少し小さくなっているような感じ・・。」
「投薬の効果か・・。」
ゆっくりと、MRI装置が動き、頭部の方を撮影し始めた。
「頚部も浸蝕は見られないね。」
「これ・・。」
頭部の画像が開き始めて、加奈が指差した。
「ああ・・やはり、予想したとおりだ。」
検査が終了した。哲夫はベッドに横たわったまま、結と幸一を待っていた。加奈も哲夫の横の丸椅子に座って、じっと待っている。ほんの数分の事なのだが、二人には随分長い時間に感じられた。
「お待たせしました。」
結が椅子に座り、診察机の上のモニターのスイッチを入れると、目の前に、MRI画像が何枚も開かれた。幸一は、結の後ろに立っていた。
「おじさん・・正直に結果をお話します。」
結は、一度眼を閉じ、どういう順序で話をするかを考えているようだった。
「まず、肺の癌細胞は余り大きくなっていませんでした。むしろ進行を止めているようで、ずいぶんと良い結果でした。他の臓器への転移も心配していましたが、今のところ、危険な状態なものは見つかりませんでした。」
結の説明に、加奈は力が抜けていくように安堵した。だが、哲夫の表情は固いままだった。
「だが、悪い結果もあるんだろ?」
哲夫が結に訊いた。
「ええ・・残念ながら・・・。実は・・」
結はそこまで言って、幸一を見た。
「そこからは僕が専門ですから説明します。哲夫さんの頭部の深い所に、癌が見つかりました。脳幹という部分です。心臓や肺などの体の機能を調整する、太い神経中枢部分なんです。」
「やっぱり・・そうか・・。」
哲夫は観念したような表情で呟いた。加奈は両目に涙を浮かべている。
幸一はわざと無機質な言い方をしている。
「手術で取り除く事は不可能です。哲夫さん、最近、痛みを感じないということはありませんか?」
加奈は、出掛けの怪我を思い出した。
「ええ・・どこかにぶつかって鈍い感覚はあるんだけど・・痛いっていうのは・・今朝もほら・・。」
そう言って、哲夫が指の傷を見せた。
幸一はそれを見て、確認するように言った。
「間違いなさそうですね。・・おそらく、癌に侵された部分が傷みを感じる神経の根元のようです。この部分だけなら、癌の痛みを感じなくなります。まあ、見方によっては、幸運かもしれませんが。」
「でも。この先、その癌が広がればどうなる?」
哲夫は、加奈が知りたい事を代弁するように訊いた。
「突然、呼吸が止まったり、心臓も・・何が起こるか判りません。痛みを感じることは体の危険信号ですから、すぐに何らかの対処もできます。でも、それがない分、予測不能です。一層、危険になったとも言えます。」
加奈は呆然として涙を零している。悲しむというより、絶望という言葉が似合っている。
その様子を見て、結が言った。
「加奈さん、大丈夫。一番厄介だった、肺の癌巣は小さくなっているんです。だから・・おじさんは・・そんなに突然には・・。」
結は、加奈を慰めようと言葉を繕いながら言いかけたが、結局、自分も強い悲しみがこみ上げてしまって、それ以上、言葉にならなかった。すぐに、幸一が言った。
「最悪の事態は考えておくべきですが、まずは、体力をつけることが一番でしょう。とりあえず、数日、ここへ入院して、体調を整えましょう。投薬も少し増やしましょう。大学病院に有効な新薬を手配しますから。僕も結も、医師として、出来る事は全てやります。」
哲夫は幸一の言葉に少し力を貰ったようだった。
その日から、水上医院に入院する事になった。
小さな医院だが、哲夫の事を想定して、1部屋だけ、最新の設備を備えた病室が作られていた。
結の治療が効果を上げ、哲夫は、驚くほど元気になり、ほんの三日ほどで退院した。しかし、哲夫は、店に戻ってもすぐには動けなかった。今まで何気なくやっていたはずなのに、病状を聞かされてから、不安が付きまとい、何かをやろうという気持ちにはならなかった。加奈も、そんな哲夫の様子を見ていて、哲夫の気持ちが痛いほどわかって、何も言えず、悶々とした日が数日続いた。

「ねえ・・薔薇が咲いている。すごい、大きな花ね。」
朝食の時、ふとテラスを見た加奈が喜ぶように言って、窓を開けた。
「良い香り・・きっと春にはもっともっと花が付くわよね。」
加奈が言うと、哲夫はしばらく薔薇の花を見つめたあと、自分に言い聞かせるように言った。
「いかん・・いつまでもこのままじゃだめだね。死を恐れて、自分らしく生きられないなら、ここへ来た意味がない。加奈には、本当にすまないと思うが、明日から、店を開けるよ。僕は命を使い切りたい。良いだろ?」
加奈も頷いた。


50 薪づくり [命の樹]

50 薪作り
哲夫の決断を結に伝えると、すぐに結は診察にやってきた。
結は慎重に診察をし、熟考した上で、「今の状態なら大丈夫でしょう。薬の効果も出ているようです。だけど、無理だけはしないでください。」と許可した。
二人は店を再開することにした。
久しぶりに、哲夫は、朝早く起き、パンを焼こうとして、薪が減ってしまっていることに気付いた。
建築端材をすべて、薪にしてもらって、窯の横の壁一面に軒下一杯まで、積み上げていた。一日に使う量は大したことはなく、僅かずつ減ったために、哲夫も気づかずにいた。
「そろそろ、どこかで調達しないといけないな・・・。」
しかし、今時、薪を買う場所があるだろうか。薪の手配のことは、まったく考えていなかったのだ。
ふと、夏の豪雨の際の倒木の事を思い出した。確か、あの後も、そのままにしていた。このあたりには、自分たちと与志さんしか住んでいない。町役場も、倒木の処理などしていないはずだった。
仮に誰かが持って行ったとしても、これだけの森に囲まれているのだから、森の中から、間伐をして切り出す事もできるかもしれない。しかし、それだけの体力があるだろうか。いや、それ以前に、そんなことを加奈が許してくれるかどうか心配になっていた。
朝食の時、加奈を前に哲夫は少し迷いながら切り出した。
「あのさ・・薪がね、かなり減ってるんだ。」
「え?あんなに積み上げてあったじゃない。」
「保育園のパン焼きで、かなり使ってるからね。本格的な冬の前に、何とかしないと、暖炉もつかうだろうし・・・どこかで調達しなくちゃいけないんだが・・・。」
「そんな・・どこか、調達先あるの?」
加奈はサンドイッチを食べながら訊いた。
「いや・・そんなに都合よく薪が買える時代じゃないと思うんだよね。」
「じゃあ、どうするの?」
哲夫は少し間をおいて答えた。
「ちょっと考えたんだが・・ここの森から調達できないかなって。」
「自分で切ってくるってこと?」
「ああ・・道具はあるんだ。チェーンソーも斧もある。」
「そんなに簡単かしら?」
「ああ・・夏の豪雨の時の倒木がね・・あのままになってるはずなんだ。まずはあそこからって・・。」
「無理しない方が良いんじゃないかしら・・あの時だって・・。」
「わかってるさ。でも、無くなっちゃうと困るよ。なあ、毎日、少しづつでいいんだ。保育園のパンを焼く時以外は、使う量も大したことないし。そう、毎日20本くらいずつで十分だと思うんだが。」
加奈はすぐに返事をせず、まずは、コーヒーを飲んで、自分を落ち着かせてから言った。
「わかったわ。私も手伝うわ。だけど、私が休みの間だけにして。もし無理をしそうになったら、すぐに止めるからね。」
食事の後、開店までの時間に、哲夫は、加奈と一緒に、例の倒木を見に行くことにした。
「こんなに大きかったかな?」
倒木は、ゆうに10m以上あり、太さも50センチほどだった。適当な大きさに切断しても、そのままでは運べそうにない。この場所で、ある程度小さくする必要があった。
「これ一本でしばらく大丈夫そうだな。・・だが、まずは、手ごろな大きさにここで切っていくしかないかな。」
「大丈夫?体、辛くない?私は何を手伝う?」
「じゃあ・・その鉈(なた)で、小さな枝を切り落としてくれるかい?・・小さな枝も焚き付けに使えるから、ひとまとめにしておいて。」
「わかったわ。」
加奈は、鉈を手に取ると、ちょっと振ってみた。
「ねえ・・こんなので切れるの?」
「切るというよりも叩く感じさ。鉈の刃の重さで切り落とすって言う感じかな。まあ、やってみて。」
哲夫はそう言うと、マスクとメガネをかけて、チェーンソーのエンジンをかけた。
森の中に、ブーンというエンジン音が響いている。太い幹にチェーンソーの刃を充てると、キーンという甲高い音が響き、切り屑があたりに散った。時間が経っているからか、意外軽く切断することができた。窯に入れるちょうどいい大きさに揃えて、順番に切り始めた。
加奈は、言われた通り鉈を枝の根元に打ち込む。意外と簡単に枝は落ちた。倒れてからしばらく放置されていたことで、樹が乾燥し割れやすくなっていた。
加奈は、鉈を一振りするたびに、哲夫の様子を伺った。
エンジン音が森の中に響き渡っているのだが、不思議に、五月蠅いという感覚はなく、例えるなら、大きな滝の側にいるような感覚だった。
何本が切り出したところで、エンジンを停めると、急に誰かの声がした。
「おや、てっちゃん、加奈さんも、一体、どうしたんだい?」
顔を見せたのは与志さんだった。
「おはようございます。朝早くから、済みません。うるさかったですか?・・・こいつを薪にしようと思いましてね。」
哲夫は、マスクを取ってあいさつした。
「そうかい。薪か・・そう言えば、昔は、みんなこの山から、間伐した木や下草、落ち葉なんかを集めて、薪にしたもんだよ。だから、昔の森は、どこもかしこも、公園みたいに綺麗だったさ。最近は、山に入る人もいないから、こんな大きな樹が平気で倒れてしまうんだ。」
「そうなんですね・・・。」
「加奈さんも一緒とは・・・おや、鉈かい。今時、そんな道具、使えるのかい?」
加奈は何故だか顔を紅潮させていて、弾むような声で答えた。
「ええ・・何だか、楽しくって。気持ち良く切り落とせると爽快なんです!」
「ほお、そりゃ、良かった。・・まあ、余り、根を詰めない方が良いよ。のんびりやるのがコツだよ。」
「与志さんはこれから?」
哲夫が訊いた。
「ああ、向こうの畑のミカンの収穫をしに行くところだ。午後には、農協が集めに来てくれるんだ。それまでに、できるだけ穫っておかなきゃいけないんだよ。」
「そう言えば、哲夫さんの家、ミカンを作っていたわよね。」
加奈が言った。哲夫は少しばつの悪そうな顔をして言った。
「実は、生家はミカンを作っていたんです。子どもの頃にはよく手伝わされました。」
しばらく、実家の事は考えたことがなかった。特に、病気が見つかってからは、今どうすればいいかばかり考えていて、昔の事をゆっくり思い出すことなどなかったのだった。

51 故郷のミカン畑 [命の樹]

51.故郷のミカン畑
「ふーん。それで、今は?」
与志さんは、草むらに座り込んで、哲夫に訊いた。
「もう30年以上前に出てきたっきりでしばらく戻っていないんです。電話はしますが・・。」
哲夫は、汗を拭き、与志さんの隣に腰を下ろして、話を続けた。
「みかん畑の世話は祖母の仕事でした。祖母が亡くなり、親父も亡くなって、さすがに母だけでは無理なので、ミカン畑は近所の方にお願いしたはずです。手入れをしていかないと、周囲の方にも迷惑が掛かりますからね。」
「ミカンは手が掛かるからねえ。草を生やしたままじゃ、虫が増えて周りが迷惑するんだよ。病気も出やすいから、農薬も撒かないといけないしね。ほんとに一年中、暇な時はないね。だが、手をかければちゃんと美味しく実ってくれるんだ。」
与志の言葉に、哲夫は、故郷の祖母の姿を思い出していた。
一年中、朝早くから夕方遅くまで、ほとんど畑に居た。曲がった腰を時々伸ばしながら、草を取っていた姿ばかりが浮かんでくる。
「・・ああ、そうだ。良かったら、加奈を手伝わせてやってくれませんか?」
哲夫は、思い出したように言った。
「いやいや、加奈さんに手伝って貰うような仕事じゃないよ。」
与志の答えに、加奈が手を止めて言った。
「実は、私、こっちへ越してきた時、ミカン作りをやってみたいって哲夫さんに言ってたんですよ。でも、素人が簡単にできるもんじゃないからって哲夫さんに反対されて・・・、でも、手伝いしてみたいです。」
与志は加奈の言葉に少し驚いていた。
「まあ・・加奈さんがやってみたいって言うんなら、大歓迎だけどねえ。」
与志は少し戸惑っている。
「午後の少しの時間・・お店が暇になったら、畑に行きます。いいでしょう?」
加奈は、哲夫と与志の両方に了解を取るように言った。
「・・・まあ・・一人で畑に居るのも案外淋しいもんだからね。話し相手がいるだけで違うもんだよ。よし、加奈さんに畑仕事を仕込むとしようかね。・・じゃあ、待ってるよ。」
与志さんは嬉しそうだった。
哲夫は、与志さんを見送った後、再び、倒木を切り始めた。
哲夫は、樹を切りながら、遠くなった故郷のミカン畑を思い出していた。

哲夫は、1960年、瀬戸内の半農半漁の小さな村で生まれた。時代は、戦後復興を遂げ、高度経済成長に踏み出そうとしている頃だったが、瀬戸内の片田舎はまだ戦後とさほど変わらなかった。
哲夫が生まれた頃、父は漁師だった。小さな船をもっている、瀬戸内の周防灘で刺し網漁の漁師だった。だが、哲夫が7歳の夏、大きな台風が村を直撃した。港に避難していた船の多くが、波に浚われてしまった。父の船も、波の藻屑となり、使えなくなってしまった。船を作るのは大金が掛かる。父は、やむなく漁師を辞めることになってしまった。
時代は、高度経済成長の真っただ中。鉄鋼業を始め、多くの工場が働き手を求めていた。哲夫の父も、漁師が続けられなくなったのを機に、近くの鉄工所に勤めた。朝早くから夜遅くまで、父は働いた。たまの休みも、父は自宅に小さな作業場を作って、機械とばかり向き合っていたように記憶している。
もともと、哲夫の実家はこの地を治める庄屋であった。戦前までは、この村のほとんどの土地は哲夫の実家にものだった。しかし、戦後の農地解放で、小作人に土地が分配され、僅かの土地しか残らなかった。それまでは、小作人を使って手広く農作物を作って収入を得ていた一族にとって、大きな痛手だった。それでも、哲夫の曽祖父は、贅沢な暮らしを変えず、大きな借金を作ることになってしまう。父は、婿養子だった。漁師の三男坊だった父は、借金に喘ぐ一族を承知で母と結婚し、小さな船を一つ持ってきて、暮らしを支えたのだった。
ある日、祖父が6反歩ほどの農地の半分をミカン畑にすると言い出した。当時、国策として、「特産地政策」が進められていて、瀬戸内一帯は「ミカン」を特産品とするように、農協が先導して取り組んでいた。祖父は、農協の指導員の口車に乗せられて、大借金をしてミカン畑を作った。
「お前が成人する頃には、ミカンで大儲けできるぞ」と胸を張っていた祖父だったが、小学校の時、「ミカンの大暴落」が起き、儲けるどころか借金がさらに大きくなってしまった。失意のまま、祖父は病に倒れ、あっけなく死んだ。その後、祖母はなんとかミカン畑を守ろうと働いたが、借金は返せないまま、5年後に亡くなった。
父も母も懸命に働いていたにもかかわらず、家計が苦しかったのは、きっとミカンの借金返済が原因だったのだと気付いたのは、哲夫が高校に入ってからだった。
ある日、哲夫が高校から帰宅すると、父が珍しく家に居て、見知らぬ男と話していた。しばらくすると、怒鳴り声が響き、男と父がつかみ合いの喧嘩となった。原因は借金返済の事だった。祖父が、家族に相談なしに、家と土地を借金の担保にしていたため、家と土地は取り上げられ、我が家でありながら、家賃を払う形となった。しかし、それだけでは済まず、結局、借金とミカン畑だけが残ってしまったのだった。
哲夫は、その時、故郷を出る決意をしたのだった。
まだ、若かったからだろう。祖父も祖母も、父も、母も、一体どうしてこんなに愚かなんだと怒りと情けなさとが体の中に充満した。こんなところに居る自分が嫌で嫌で仕方なく、家族とは別の場所で生きたいと願い、遠い、名古屋の大学へ進学したのだった。
今、思えば、なんという親不孝をしたものだと恥ずかしくなる。
しかし、そう思った頃には、もはや、戻れる場所は無くなっていた。
自ら捨てた故郷なのだが、幼い頃の思い出は、幸せに溢れていた。
哲夫が、小学生の頃、秋の休みの日になると、朝から家族総出で、ミカンの収穫作業をした。
自分の仕事は、収穫したみかんを背負子にいっぱいに詰めて、山道を何度も何度も運び下ろすことだった。いい加減くたびれて、寝っ転がった草叢の匂いが何だか懐かしかった。
まだ、幼かった妹は、みんなの仕事を横目に、草摘みをしたり、泥団子を作ったり、畑の中を走り回ったりしていて、哲夫には羨ましかった。
昼時になると、畑の日蔭で、みんなで車座になって、おにぎりとたくあんを摘まんだ。贅沢なおかずがあるはずもなかったが、笑顔に溢れていた。
貧しい暮らしだったが、家族みんなで力を合わせて仕事をして、幸せだった。もう二度と取り戻すことのできない幸せな思い出だった。

命のあるうちに、あの故郷の風景を見ることはないだろう。そう思うと、涙が零れそうになった。寂しさではなく、後悔とも違う、やるせない思いが胸を締め付けた。

52 キノコの話① [命の樹]

52 きのこの話①
「ねえ、これ、何かしら?」
加奈が枝打ちの作業の手を止めて、哲夫に訊いた。哲夫は加奈の声がしたような気がして作業を止め、
周囲を見まわすと、倒木の裏側にしゃがみこんで、加奈が何かをじっと見ている。
「きのこ・・よね?食べられるのかな?」
哲夫はチェーンソーを下ろして、加奈のところへ行った。視線の先には小さなきのこらしい塊がある。
「ああ・・きのこだね。・・・たぶん、クリタケじゃないかな?」
「クリタケ?」
「広葉樹林の中とか倒木に生えるんだ。・・」
「へえ、食べても大丈夫?」
哲夫は少し考えた。

幼い頃、秋になると、幾度も、祖父と裏山でキノコを採ったことがあった。
祖父は、キノコ採りの名人だった。
松茸も何度か採ったことがある。羊歯の生える山の急斜面を祖父は迷うことなく分け入って、アカマツ林に辿り着くと、落ちた松葉をそっと掻き分けるようにして松茸を見つけた。数時間で腰籠一杯の松茸を採るのだった。
《この場所は、お前と儂の秘密だぞ。誰かに話しちゃだめだぞ。良いか、お前の親父にも秘密だ。》
祖父は松茸を見つけると、毎回、得意げに言った。
誰かに話そうとしても、その場所がどこなのか、表現できるものではなかった。
ただ、子ども乍ら,祖父と二人の秘密の場所というのはドキドキするものである。何だか、急に大人扱いされたようでうれしかった。

そんな祖父が、山に入るたびに口癖のように言っていたのを思い出した。
《キノコはな、素人判断すると、死ぬことになるぞ》
キノコはよく似ていて、猛毒のものと無害なものとの区別はそう簡単ではない。クリタケにも、何種類か似ているものはあり、間違えば、命を落としかねないのだった。
哲夫は祖父から教え込まれた甲斐もあって、子どもながらにキノコの見分けができるようになっていた。祖父は借金の事もあり、人付き合いが嫌いだった。だから、哲夫が中学生の頃には、近所の人が哲夫の家にこっそりキノコを持ち込んできては、祖父に代わって、見分けを依頼されるようになっていた。その度に、「物知りだねえ」と褒められた。
しかし、あれから数十年経っている。自分の目利きに自信はなかった。
「止めといた方が良いだろ。もし違ったら大変なことになる。」
「そう・・・」
加奈は残念そうだった。
「持って帰って調べてみよう。判らなかったら、与志さんに訊いてみるのも良いだろう。」
哲夫は、以前に与志さんからキノコをもらったことがあったのを思い出していた。
「そうね。」
加奈は嬉しそうに、クリタケらしきキノコを根っこから採り、持ってきていたビニール袋に丁寧に入れた。
「ここの森にはもっとたくさんのキノコがあるんでしょうね。」
そう言うと、朝日が差し込む森を眺めている。
「さあ、そろそろ戻ろうか。開店の準備をしなきゃ。」
哲夫は、切り出した倒木の小片をいくつか抱えた。
加奈も切り落とした枝を持てるだけ持って店に戻った。開店してもすぐには客は来ない。哲夫は、窯の横で持ち帰った倒木を割り、薪にした。一回で持ち帰った量は、ほぼ3日分使うほどだった。
加奈は、持ち帰ったキノコを袋から取り出してカウンターに置くと、パソコンで調べ始めた。
「ふうん、やっぱりクリタケみたいだけど・・。」
加奈は哲夫の言葉を今一つ信用していないところがあった。
「でも・・決め手がないわねえ。・・見た目は確かにクリタケみたいなんだけど・・クリタケなら、炊き込みごはんとかソテーとか、使い道もあるみたいね。パスタもいいかもね。」
パン焼き窯に火を入れて、哲夫が厨房に戻ってみると、加奈は、まだクリタケらしきキノコをじっと睨みつけるようにしていた。
「おい、おい、開店準備は?」
「ごめんなさい!」
加奈はそう言うと、表に出て行って営業中の看板を出した。

昼近くになって、10人ほどが来店し、サンドイッチとコーヒーの注文を受けた。
「へえ、面白い!メニューがサンドイッチだけなんだ。やっぱり本当なんだね。」
若いカップルの女性がメニューを見乍ら言った。
「な、そうだろ?・・でもさ、旨いらしいんだよ、これが。・・それと、マスターの気まぐれらしいんだが、運が良ければ、焼きたてのパンもあるってさ。」
「ふうん。」
若い女性は店内を見回して、焼き立てパンを探しているようだった。

どこでどんなふうに口コミが広がっているのか、こんなふうに呟くカップルが増えているのだった。

「あのお・・今日は、焼き立てパンはないんですか?」
東の窓際に座っていた、少し年配の女性客が加奈に尋ねた。
「すみません。主人の気まぐれなんですよ。今日は作ってるのかしら・・・ちょっと待ってください。訊いてみます。」
加奈は、いったん、厨房から裏口に出て、哲夫に小声で訊く。
「あと10分ほどでできるから・・今日は、ミカンパンだよ。」
哲夫の答えをもって加奈が先ほどの客のところへ戻って伝えた。
「じゃあ、待ちます。・・娘から聞いて、一度食べてみたいって思っていたんです。」
「娘さんが・・。」
「ええ、この近くの保育園の保母をしていますの。・・毎週、持ってきてくださっているってお聞きして、ぜひ、いただきたいと思ってきたんです。良かったわ。」
「ありがとうございます。保育園には私もお届けにいったんです。皆、喜んでくれて、笑顔と元気をもらっています。」
「そう・・。」

53 キノコの話② [命の樹]

53 きのこの話2
「あの・・お近くにお住まいですか?」
「いえ・・昨日、長野から娘に会いに参りました。・・いつも電話ばかりで、なかなか娘が顔を見せないものですから・・雪が降る前に一度と思って来たんです。娘が仕事に出たので、話に聞いていた喫茶店に行ってみようっと思ったんです。」
「そうなんですか。ありがとうございます。ぜひ、ごゆっくりしていってくださいね。」
その女性はふとカウンターの上に置かれていたキノコに気付いた。
「あれは?」
女性が、加奈に尋ねる。
「・・今朝、ちょっと見つけたものです。クリタケじゃないかって主人は言うんですけど・・。」
「ちょっと拝見させてもらっても良いかしら?」
加奈はキノコを女性に手渡した。
その女性は、キノコを手に取ると、襞の中を指触り、匂いを嗅ぎ、色具合を丹念に見た後、言った。
「ええ、これはクリタケね。それもかなり上等で、きっと美味しいはずよ。」
そう言いながら、加奈に返した。
「本当ですか?お分かりになるんですか?」
「ええ・・秋には、必ず、裏山へキノコ採りに行くんですよ。」
「キノコがお好きなんですね。」
「いえ、そうじゃないんです。主人に教えられたんです。それが習慣になってしまって・・」
「ご主人に?」
「もともと、私、生まれは名古屋で、農家の暮らしがどんなものか全く判らないまま、嫁いだんです。最初の頃は、嫁としてしっかりしなきゃって、家事も農家の仕事も頑張りました。」
「農家のお仕事って力仕事も多いんでしょう?」
「ええ・・体力にはかなり自信はあったんですけどね・・でも、やっぱり慣れない仕事で、無理は続きませんでした。半年ほどで、気持ちも体も限界になってしまっていて、倒れてしまったんです。数日寝込んでしまって・・・気持ちは沈むばかりで・・・もう、ここには居られないなんて思い始めた時でした。主人が、山へ行こうって言ってくれたんです。疲れ果てた私を気遣ってくれたんでしょう。」
その女性は、キノコを見つめ乍ら、懐かしい時代を思い出しているようだった。
「体調が戻るまでは、山道を宛てもなく歩くだけでした。周囲の様子にも全く目も向けず、じっと、足下ばかり見て歩いていたようです。ある日、ふと、足元に小さなキノコを見つけたんです。なんだか、日陰で健気に生えているようで・・とても可愛く思えたんです。その周囲を見ると、いろんなキノコがたくさん生えていたんです。その日は、主人に教えられるまま、目の前のキノコを採って家に帰ると、お舅さんがとても、喜んでくれました。」
加奈は笑顔で女性の話に聞き入っていた。
「持ち帰ったキノコは、とても珍しいものだったようです。すぐに、お鍋にしていただきました。お舅さんが、私に、キノコ採りの才能があると随分褒めてくださいました。落ち込んでいた私を励まそうとされたんだと思いますけど・・・・それから、しばらくは、そうやって山へ入ってきのこ採りばかり。気持ちも晴れてきて、自分のペースで頑張ればいいんだって思えるようになったんです。」
「素敵なご家族・・優しいご主人なんですね。」
「ええ・・それから山へ行くたび、いろんなキノコを教わりました。毒のあるものとないものの見分け方とか・・料理の方法なんかもね。」
その女性は嬉しそうに話す。
「・・じゃあ、今でもご主人と山へ?」
「いえ、主人は、10年ほど前に、他界しました。」
「そんな・・。」
「突然でした。しばらくは、何も手に着かず、ただただ、泣いておりました。そんな時、お舅さんが山へ誘ってくれたんです。無心になってキノコを採りました。籠一杯に採っているうちに、何だか、主人が一緒に居てくれるように感じて、気持ちも落ち着きました。・・・・」
加奈は、その女性の話を聞いているうちに、ぽろぽろと涙が零れてきてしまった
「そのあと、舅も姑も他界し、今は、一人暮らしなんです。」
加奈は、ふっと、いずれ来るだろう自分の姿を想像した。
「おひとりで・・淋しく・・。」
そう言いかけて、やめた。女性は、笑顔で話を続けた。
「りんご畑はさすがに独りでやるには難しくて・・、大半は、近くの親戚の方にお願いしました。」
ちょっと女性は話を停めて、遠くを見た。
「少しだけ、ほんの少しだけ家の前にあるりんごの世話が日課かしら。春には真っ白な花をつけるんですよ。とっても綺麗。娘が小さい頃は、古いりんごの樹の枝にブランコなんか作ったりしてね。花選り、実選り、秋には収穫、冬になると枝切りもあって、毎日結構忙しいのよ。・・でもね、どんなに忙しくても、今でも、秋になると山へ行きたくなるんです。キノコを探していると、主人やお舅さんと一緒にいるような気がして。だから、淋しくないわ。・・・」
加奈はすっかり涙に頬を濡らしてしまっていた。
「ごめんなさい。・・・。」
加奈は涙を拭うと、厨房へ引っ込んでしまった。
入れ替わりに、哲夫が、焼き立てパンを運んできた。
「すみません。お待たせしました。幾つでもお召し上がりください。」
「あの・・奥様、随分悲しそうでしたけど・・私、何かつらい事でも思い出させてしまったのかしら?」
「いえ・・そんな・・・この頃、涙もろくなっているんでしょう。気になさらず・・ゆっくりして行ってください。」
哲夫はそう答えると、すぐに、厨房へ戻った。
厨房の奥には、蹲って、涙を拭っている加奈がいる。加奈がなぜ涙を流しているか、哲夫にはすぐに判った。
近い将来、自分はいなくなる。加奈は、独りでここで過ごす時間を想像して悲しくなったのだろうと考えると、どう声を掛けていいかわからなかった。
だが、昼食時間の忙しさで、互いに会話を交わさずに済んだ。
ひとしきりの賑わいが終わり、客が帰ると店の中は静かになった。
哲夫は洗い物をしていた。加奈は店内の掃除をしながら言った。
「もう、お客さんも途切れてきたようね。私、与志さんの手伝いに行ってくるわ。」
哲夫が返事をするもなく、加奈は店を出て行った。

54 ミカンの収穫 [命の樹]

54 ミカンの収穫
「加奈さん、こっちだよ。」
与志さんが、店の裏口に出てきた加奈を見つけて、ミカン畑を取り囲む槇の木の隙間から、声を掛けた。加奈は、、与志に泣きはらした顔を見られないよう、タオルで顔を拭いた。
「今、行きます。すみません、遅くなって。今日に限って、お客さんが多くって・・。」

ミカン畑に入ると、与志が、腰籠と鋏と軍手を手渡してくれた。
「いいかい、ミカンを摘むときはそっと左手で実を包むんだ。そして、成り口の枝に鋏を入れる。」
与志は、口にした言葉通りに手を動かす。ポロリと実が取れた。
「それから、これ。少し飛び出している枝を綺麗に切り落とすんだ。」
パチンという音とともに、ヘタの上に僅かに飛び出した枝を綺麗に切り落とした。
「こうすると、籠に入れた時、ミカンが傷つかないんだ。・・さあ、やってみな。」
与志に言われた通り、加奈はそっと身を包むようにして支えて、鋏を入れた。コロンと手の中で転がって、ヘタを上にして飛び出した枝を切り取った。
「これで良いのかしら?」
「ああ、上等だよ。だが、そんなに上品にやってたんじゃ、日が暮れる。手早くやらないとね。」
そう言いながら、与志さんはすでに籠の中に10個ほどのミカンを摘んでいた。
「いいかい、樹の外側になっている実から摘むんだよ。色目が良くて、つやつやしたのを選んでね。」
与志さんはそう言うと、次の樹に取り掛かった。

加奈は目の前の背丈ほどの樹に取り掛かった。
はじめのうちは、おっかなびっくりだった加奈も、10分ほどで慣れてきた。腰籠がいっぱいになって、通路に積みあがっているコンテナに移し、また、切り始めた。
ただ黙々と、単調に見える作業だが、どの実を摘むか、どういうふうに鋏を入れるか、一回ずつ考えながら集中して作業をした。やっている時は何だか余計な事を考えずにいられた。
畑の中には、加奈と与志の鋏の尾をとが響いていた。

1時間ほどが過ぎた頃、与志さんが加奈のところへ戻ってきた。
「そろそろ休憩にしよう。」
声を掛けらえ、加奈はハッとと現実に戻ったような気持ちになった。随分、熱中していたのだった。
「おや、随分、綺麗に摘んだねえ。」
与志さんに言われて、目の前を見ると、大きな樹が5本ほど、きれいに実が付いていなかった。
「大したもんだよ。初めてにしては上出来、上出来。さあ、少し休もう。」
与志さんはそう言うと、畑の通路に積まれたコンテナの脇に行き、殻のコンテナをひっくり返して、椅子と机にした。
そして、水筒と小さな籠を開けた。中には、お菓子が入っていた。
「さあ、どうぞ。」
コップにお茶を注いて、加奈に差し出した。加奈はそれを受け取り、一口飲んだ。
「作業はどうだい?」
「ええ・・とても大変だけど、楽しいです。何だか、夢中でやりました。」
「そうかい・・まあ、初めてだしねえ・・それに、あとどれくらい残っているかなんて関係ないだろうからね。」
そう言われて、加奈は楽しいといった自分が恥ずかしくなった。
与志はこれを生業としている。一年中、一人で畑仕事をするのだ。どれほどの畑を作っているのか知らないが、全てを自分の責任でやり通すのは並大抵の事ではないはずだった。
「すみません。はしゃいでしまって・・遊びじゃないんですよね・・。」
「いや・・良いんだよ。私も一年のうちでミカンの収穫だけは楽しいんだ。自分の苦労がすべて報われるって言う感じがね・・それで、最後の畑の最後の1個まで取り終えると、なんとも爽快な気分になるんだよ。」
「あとどれくらいあるんですか?」
「温州はここが最後だ。・・年が明けたら、青島と甘夏と八朔、ああ、あとネーブルが少しあるんだけどね・・まあ、それは大したことはない。少しばかり遅れた方が味も乗って美味しくなるから・・ただ、温州だけはいけない。採り損ねるとそのまま畑の肥やしにするしかないんだ。」
「ええっ?じゃあ、急がないと・・。」
「良いんだよ。今日は、加奈さんが手伝ってくれたおかげで随分捗ったしね。」

お茶を飲み、お菓子を食べ、ミカンに囲まれている時間は、与志にとって至福の時なのだろう。
「ねえ、与志さんはミカン農家に嫁いできたんですか?」
加奈はふと気になって尋ねてみた。
与志さんは、柔らかな表情を浮かべて、思い出話を始めた。
「爺さんは町の役場に勤めていたんだよ。私も学校を出て、役場に勤めてね。そこで知り合って、結婚したんよ。」
加奈は、与志のなれそめを聞くのは初めてだった。
「じゃあ、ミカンを作り始めたのはどうして?」
「ちょうど、国が特産地政策とかいうやつを始めていてね。町役場でも、このあたり一帯をミカンの産地にしようって決めて、爺さんが旗振り役をすることになったんだ。だが、このあたりの農家はなかなか動こうとしなかった。だから、爺さんは、この岬の土地を買って、畑にするって言いだしたんだよ。」
「随分大変だったんじゃ・・」
「ああ・・荒地同然の場所だったんだよ。それを、二人で力を合わせて、樹を切り倒し、草を刈り、ゴロゴロと転がっている岩をどかして、とにかく、畑にすることだけ考えて、朝から晩まで働いた。最初のうちは、役場も少しは手伝う素振りを見せたけどね・・。ようやく畑ができて、みかんを植えたんだ、そしたら、町一番の上等品のミカンが取れたんだ。爺さんは得意満面だったよ。」
「ご苦労が報われたんですね・・。」
「ああ・・だが・・失ったものもあるよ。ミカンが取れるまではほとんど収入はなくってね、借金もしていたし、今日食べるものにも困るくらいに、貧しかった。だから、子どもをもつことは諦めたんだ。とても育てていける自信がなかった。..」
与志さんは少し寂しそうな表情をした。

55 加奈の告白 [命の樹]

55.加奈の告白
「なあ、加奈さん・・前に一度、てっちゃんにも言ったんだが・・。」
与志さんは少し躊躇いがちに言った。
「もう私も年だ・・。いずれ、私も動けなくなる日が来るだろう。その時、このミカン畑の世話を頼みたいんだよ。どうだろうね?」
加奈は驚いた。
「哲夫さんはなんて言いました?」
「いや・・無理そうな表情で・・はっきりとは返事はしなかったんだが・・。」
「そうですか。・・」
加奈は、哲夫が答えに困った姿を思い浮かべて、胸が苦しくなった。
「今朝、知ったんだが、てっちゃんの実家もミカンを作ってたそうじゃないか・・なら、きっと、すぐに一人前にみかんが作れるようになるよ。きっと大丈夫だ。どうだろうね、やってくれないかい?」
「いえ・・やっぱり・・無理です。・・。」
加奈はそう言うしかなかった。
「ミカン畑は爺さんと私の生きた証なんだよ。何とか、残していきたいんだ。」
与志は、懇願するように言った。
「いや、全部じゃなくていいんだ。この畑だけで良いんだ。店のすぐ下で都合も良いだろ?どうだい、やってみてくれないかい?」
与志の願いも充分に理解できた。できるものなら、与志の願いを叶えてあげたい。いや、僅かでも、哲夫の命が長らえることがあるのならば、ミカン畑を二人でやるのは加奈にとっても夢のようなことなのだ。しかし、今の状態ではそんな約束などできないのは明らかだった。
「ごめんなさい。」
加奈はそう言って、顔を伏せて泣き出してしまった。
与志は驚いて言った。
「・・まあ、そんなに泣いてしまうなんて・・・・そんなに無理な事だったのかい・・すまない・・ごめんよ・・。」
「いえ・・良いんです。私の方こそ、ごめんなさい。与志さんの気持ちは十分に判るんです。でも、どうしても無理なんです。」
加奈の答えに、与志は、ミカン畑の仕事がいやとかそういうわけではなく、何かもっと別の理由があるように感じた。
「何か、言えない様な訳があるのかい?」
加奈は、与志に訊かれて、もう隠しておけない気持ちになっていた。いずれ、近いうちに判る時が来る。いつまでも隠せるものではないはずだと思い至った。
加奈は顔を上げ、気持ちを落ち着かせて、ゆっくりと言った。
「与志さん・・与志さんには、お話しておくべきでしょうね。」
そう前置きしてから、加奈は、哲夫の病気の事を話し始めた。
「哲夫さんは、末期の癌なんです。そんなに長くは生きられないんです。」
「そんな・・あんなに元気そうじゃないか・今朝だって・・・嘘だろ?」
与志はすぐには信じられない様子だった。加奈は首を振った。
「先日も・・そう、あの岬のところで倒れていて・・。」
与志はその時の事を思い出していた。
「そんなに悪いのなら、入院した方が良いんじゃないのかい?」
「いえ・・もう、治療もできない段階なんです。病気が見つかって、哲夫さんはすぐに会社を辞めました。自分らしくのんびり生きたいからってこの町へ越してきたんです。でも、ただじっと死を待っているようではいけないって思い始めて、店を始めるといいだしたんです。体力的にどこまでできるか判らないけど、最後まで生き切りたいって・・。」
与志は複雑な表情を浮かべて言った。
「そうだったのかい。・・私は最初、どんな道楽者がここの土地が欲しいって言ってるのか、いい加減な気持ちなら売るつもりもなかったんだが、あんたたちと会って、何だか、真面目に生きているのが判ったから売る事にしたんだ。、まさかそんな事情があるなんて考えもしなかったんだけどね。」
「最初からお話しておけばよかったのかもしれませんが・・でも、哲夫さんはみんなに心配を掛けるのは嫌だって言って。だから、誰にもお話ししなかったんです。」
「まあ・・そうかも知れないねえ。気を遣わせるっていうのはやっぱり嫌だよね。」
「だから、この畑を預かるなんて無理なんです。きっと、来年の秋までも・・」
加奈は、言葉を詰まらせた。それ以上は口にしたくなかった。
与志さんは深く溜息をついてから、ゆっくりと空を見上げた。
「不条理だねえ・・どうしてそんなことがあるんだろうねえ・・。」
そう言って、与志さんは加奈の肩に手を置いてから、労わる様な声で言った。
「あんたは一人でそんな思いを抱えてきたんだね。辛かっただろう。」
加奈は、堪えきれず、与志の腕にすがって声をあげて泣いた。
与志は、加奈の背を撫で、気持ちを落ち着かせようとした。そして、優しい声で言った。
「でもね・・加奈さん、ものは考えようさ。うちの爺さんは、突然だった。寝るまで普段と全く変わらず、どこも悪くなったのに・・・朝にはもう逝っちまってたんだ。看取ることも、できなかったんだ。後悔したよ。こんなことなら、あれもしてやりたかった、あんなこともさせてやれば良かったって、いくら悔やんでもどうしようもなかった。今、こうやって畑の仕事に精を出してるのは、せめてもの償いのつもりでもあるんだよ。」
加奈は与志の顔を見た。与志は涙を流している。
「それにね・・てっちゃんもきっと同じ思いだろうよ。生きてる間に、加奈さんのために何ができるか、必死で考えてるはずさ。」
加奈は少し訝しげな顔で与志を見た。
「いろんな人の世話を焼いて、いっぱい知り合いを作って・・そうさ、保育園にだってパンを届けてる。そうやって、人の絆をいっぱい作ってる。きっと、加奈さんが独りになっても淋しくないようにって思ってやってるんじゃないのかね?」
「そう・・でしょうか?」
「命を生き切るってのは、自分の欲のために生きるんじゃないよ。加奈さん、あんただってそうだろ?自分のためよりも、てっちゃんのために何ができるかって考えて、生きてるだろ?そうやって、誰かの事を考え、支え、時には支えられて生きるっていうのが何よりの幸せさ。てっちゃんがこの先どうなるのか、誰にもわかりゃしないんだ。ただ、病気が見つかって、少し早く逝くかもしれないが、今は生きてる。だから、一日一日を大事に生きるんだ。私に、何ができるわけじゃないが、苦しくなったら、いつでも、私のところへおいで。私の前で思いっきり泣くと良いさ・・。」
加奈は救われたような気持だった。

56 焼き芋パン [命の樹]

56 焼き芋パン
加奈は、翌日も仕事が午前中で終わったので、与志さんのミカン畑の手伝いに行った。
「保育園の子どもたちが、てっちゃんのことを心配しているようなんだ。毎週楽しみにしていたパンも食べられなくなるんじゃないかって・・。」
与志さんは、収穫したみかんを保育園に差し入れに行っている。一度に持っていける量は限られているので、ほぼ毎週のように保育園に行っているようだった。
「そう・・でも・・」
早朝のパン焼き仕事は哲夫の体調を考えると、まだ無理だろうと考えていた。
「そうだね・・・今は、無理しないほうが良いだろうね。」
「ええ・・。」
加奈は、日暮れまでミカンの収穫を手伝った。帰り際に、与志は加奈に紙袋を一つ渡した。
「今日の仕事のお礼だよ。うちの畑で掘ったんだ。」
袋の中身は、見事なサツマイモだった。
加奈が、店に戻ると、哲夫はもう店を閉めて、夕飯の支度を終えていた。
「これ、与志さんから戴いたの。今日の仕事のお礼だって。」
「お、これは美味しそうだね。・・今日はもう支度をしちゃったから、明日、天ぷらにでもしよう。さあ、夕食にしよう。」
夕食をとりながら、加奈は与志に聞いた話を伝えようかどうか迷っていて、つい無言になってしまっていた。
「どうしたんだい?何かあったのか?」
哲夫は、加奈の様子が気になって訊いた。
「いえ・・何でもないわ・・ごめんなさい。ちょっと、学校でね・・。」
「そうか・・なら、良いんだが・・。」
加奈は大抵のことは夕食のときに哲夫に話している。特に、迷っているような事があると、特に哲夫の解決策のアドバイスをもらうつもりもないにもかかわらず、長々と話して、自分で解決策を見つけるところがあった。だから、こうやって口を開かないときは、自分自身の抱えている問題ではないことくらい、哲夫には判っていた。哲夫に話せない事、それは病気と関係していることに違いなかった。哲夫もそのことは判っていて、あえて訊こうとはしない。それは、哲夫の病気が見つかってから自然に二人の間の約束のようなものになっていた。

「なあ、加奈。明日、久しぶりに保育園にパンを届けようと思うんだ。もう、随分、お休みしてるから、子どもたちも淋しがっているんじゃないかな。いや、久しぶりに、元気な子供たちの顔を見たいんだ。」
哲夫は食事を食べ終えて、食器を洗いながら言った。
加奈は、口籠っていた事を見抜かれたような気がした。
「無理しないで・・・。」
加奈はそれ以外口にできなかった。
「ああ、大丈夫さ。昔みたいに朝早くじゃなくて、保育園に届ける時間に焼きあがれば良いようにすれば、普段通りに起きればできるだろ?仕込みは今日のうちにやれば良いし。」
「じゃあ、私も手伝うわ。」
「お、久しぶりに加奈先生の出番ですね?」
哲夫は、パン焼きを加奈に教わったのだった。
夕食の片づけを早々に終えて、厨房でパン作りを始めた。
「どんなパンにするの?」
加奈が訊くと、哲夫は少し考えてから、カウンターの上に置かれた紙袋を見て言った。
「サツマイモを使おう。・・スイートポテトパン・・いや、焼き芋パン、なんてどうかな?」
「焼き芋パン?」
「ああ、成型するときに、焼き芋を中に入れるんだ。」
「じゃあ、少し生焼けくらいにしておかないとね。パン焼きの熱でぐちゃぐちゃになるかも。」
「そうか・・まあ、今日は、パン生地だけにしておこう。」
二人は、粉を篩にかけて、生地づくりを始めた。

翌日、夜明けとともに二人は目覚め、昨日仕込んだパン生地を切り、オーブンで半分ほど焼いたサツマイモを生地で包み込んだ。一通り、作業が終わると、哲夫が裏口に行き、焼き窯に火を入れた。
ちょうど与志さんが、朝の仕事の支度に、ミカン畑に来ていた。
煙が立ち上るの見つけると、与志さんはパン焼き窯のところへ顔を出した。
「おや・・今日はパンを焼くのかい?」
「おはようございます。ええ、久しぶりに、保育園に届けようと思って。」
哲夫は窯の火加減を見乍ら答えた。
「ふうん、そうかい。」
与志さんはそう言うと、ベンチに腰掛けた。
「ちょっと待っててください。」
哲夫はそう言うと、裏口を開けて、加奈を呼び、紅茶を入れるように言った。しばらくして、加奈が紅茶とコーヒーを運んできた。
「おはようございます、与志さん。」
「おや、これは珍しい。今日は、加奈さんも一緒かい?」
「ええ、久しぶりにパン焼きの手伝いをしてみようと思って・・。あ、これ、与志さんの紅茶です。」
加奈は、紅茶をテーブルに並べながら、与志に、昨日の会話の事は哲夫には伝えていないことをそっと耳打ちした。与志は小さく頷いた。
「そうそう、与志さんに頂いたサツマイモを使ったパンなんですよ。」
「へえ、そりゃ、きっと美味いだろうねえ。焼けたら、おくれよ。」
「もちろんですよ。」
哲夫が火加減を調整しながら、笑顔で答えた。加奈が厨房に戻って、成型したパンを運んできた。哲夫が受け取り、一つ一つ丁寧に窯の中へ入れた。
「じゃあ、できるまで、もう一仕事してくるよ。」
与志さんはそう言って、畑に戻って行った。
じきに、パンの焼ける匂いが当たりに漂い始めた。
「子どもたち、喜んでくれるかな?」
「きっと大喜びよ。」

57 見舞い [命の樹]

57 見舞い
パンが焼きあがるまで、哲夫と加奈は窯の横のベンチに座って、湖を眺めていた。
「ここって気持ちいいわね。ちょっと寒いけど。」
「ああ・・これは想像なんだが、ここの景色は、与志さんの思い出の場所じゃないかって思うんだ。店を建てる前、ここに小屋があったろ?きっと、ここから与志さんとご主人もこうやって湖を眺めてたんじゃないかって思うんだ。」
「そうかもね。」
「だから、こうやってベンチを置いて与志さんがいつでも来れるようにしたんだ。パンを焼いてると、与志さんは必ずここに来てくれるんだ。」
「へえ・・そうだったんだ。」
加奈は会話をしながら、与志さんとご主人が並んで湖を眺めている様子を想像していた。どんな話をしたのだろう、与志さんはここに来てその時のことを思い出したりするのだろうか、淋しく感じたりしないのだろうか、いろいろと考えているうちに、自分もいつかそんな風に思いだす日が来る事に思い当たって、少し気持ちが重くなってしまっていた。
「加奈、もう焼き上がるころだ。」
哲夫が窯を覗き、一つ一つ丁寧に取り出した。ほのかに焼き芋の香りが漂った。
「試食してみよう。熱いから気を付けて。」
哲夫は焼き上がったばかりの、焼き芋パンをそっと加奈に差し出した。加奈は一口食べてみた。
「あ・・熱い!・・うん、美味しい。」
「そう?」
哲夫も一口食べてみた。口の中にサツマイモの甘みが広がる。そのあと、サクサクとしたパンの感触が心地良い。
「うん、合格だな。思ったより甘くなったな。」
「与志さんのお芋が甘いのね。すごい、これならきっと子どもたちも大喜びね。」
哲夫と加奈は焼き上がったパンをトレイに並べていると、下の道路で車のエンジン音がした。
見下ろすと、軽トラックが入ってくるのが見えた。車は下の駐車スペースに止まると、誰かが、庭に新しく作った坂道を上ってくるのが見えた。
「誰だろう?加奈、見てきてくれるかい?」
加奈はすぐに、裏口から庭へ回った。
坂道をあがってきたのは、玉木商店の主人で、大きな段ボールを抱えていた。
「おはようございます。」
加奈が声をかけると、玉木商店の主人が丸っこい顔ににっこりと笑顔を浮かべて頭を下げた。
「てっちゃん、元気になったかい?」
「え?ああ、ちょっとお休みしていました。」
加奈はどう答えたものか戸惑った
「・・水上医院へ入院してたって噂だったから・・どうかと思っていたんだが・・今朝、煙突から煙が上ってるのが見えたんで、来てみたんだ。」
「入院?」
「おや?ちがったか。いや、金原さんの奥さんがね、てっちゃんが水上医院へ担ぎ込まれたのを見てたらしいんだよ。そのあと、しばらく喫茶店がお休みだったし・・与志さんの話じゃ、足を痛めたとか・・よくわかんないが、まあ、パン焼きが始まったみたいだったんでね。」
玉木商店の主人は、早口でそう言った。
金原の奥さんというのは、サチエの母郁子の事だった。水上医院の隣に住んでいるから偶然見かけたに違いなかった。
狭い街だから、秘密にしようとしてもすぐに噂は広がる。
「ええ・・大したことはなかったんですけど・・大事を取ってしばらく入院したんです。もうすっかり良くなりました。それで、今日は保育園にパンを届けるんです。」
加奈は、病気の事は曖昧にして答えた。
「そりゃあ、みんな喜ぶなあ。・・ああ、そうだ、これ。見舞いの品なんだが・・。」
そう言うと、玉木商店の主人は、抱えていた段ボールを開いて見せた。中には、パン作りの材料やコーヒー豆がたくさん詰まっていた。
「これって?」
「いや、再開したんなら、いろいろと材料がいるだろ?問屋の連中も心配してたから、見舞いの品を届けてくれって頼まれてね。・・ああ、今回は代金はいらないよ。皆の気持ちだからな。」
「ちょっと待ってください。哲夫さんを呼んできますから・・。」
加奈は余りの事に哲夫を呼びに行った。
哲夫は、最初のパンが焼きあがったのを取り出していた。加奈が玉木商店の主人の事を話すと哲夫はすぐに庭にやってきた。
「すみません。ご心配をおかけして・・。」
「おお、てっちゃん。なんだ、元気そうじゃないか。良かった。安心したよ。」
玉木商店の主人はそう言うと、哲夫の肩をたたいた。
「ほら、どうだ?良いだろ。」
哲夫は段ボール箱の中を覗いた。
「こんなにたくさん、良いんですか?」
「ああ、みんなが持って行ってくれって頼まれたものばかりだ。どうやら、問屋連中も、この店の噂があちこちで聞かれるようになって、随分喜んでるようなんだ。」
「でも・・こんなにも・・」
「なあに、気にすることはないさ。そうそう、珈琲屋の営業の奴なんか、この店の珈琲は美味しいって噂になってるみたいでな、引き合いが増えたんだって、それで出世したらしい。だから、随分、心配していたよ。ぜひ持って行ってくれって、また、新しい商品を持ってきたよ。」
「ありがとうございます。本当に皆さんには感謝しきれないほどで・・ありがとうございます。」
哲夫は涙ぐんでいる。
「いいんだよ。また、注文してくれよ。うちも商売繁盛なんだからな。」
「はい。・・ああ、これ、今日、保育園に持っていくパンです。今、焼きあがったんで、持って帰ってください。」
「おお、美味そうだ。ありがとな。」
玉木商店の主人は笑顔で受け取り、来た道を戻って行った。

58 保育園の子どもたち [命の樹]

58 保育園の子どもたち
哲夫と加奈は、続けてパンを焼き、焼き上がったパンはいつものように小さな紙袋に一つ一つ包んだ。そして、配達用の箱に綺麗に並べた。今までは一人でやっていた仕事だったが、加奈が手伝ったことで、随分、早く終わった。
「じゃあ、届けに行こう。」
「車、出そうか?」
「いや、せっかく電動自転車をもらったんだ。自転車で行こう。」
「大丈夫かしら・・。」
「大丈夫。昨夜はしっかり眠れたし、パン焼きも加奈が手伝ってくれたおかげで楽にできた。それに、玉木のご主人の話しぶりだと、街の人も心配してくれてるようだから、元気な姿も見せなきゃ。」
「そう・・わかったわ。」
自転車を庭まで持ち込んで、箱を後ろの荷台に括り付けて、坂道をゆっくりと降りた。
「与志さんのところへ寄って行こう。」
畑の間の道を抜けると、与志の家があった。与志はまだどこかのミカン畑にいるようだった。玄関にパンの入った紙袋を置いた。
そこからゆっくりと山道を下って行く。薪にしている倒木の脇を通る。もう半分ほどになっていた。
神社の前を抜けて、街の通りに出た。
もう晩秋、いや、初冬に入って、西からの風が強く吹くころになっていた。
「ねえ、寒くない?」
後ろを走る加奈が訊く。
「大丈夫。」
哲夫が片手を上げて応える。
玉木商店の前を通ると、ご主人が店先に居た。
「ありがとうございました。これから保育園に行きます。」
哲夫が元気よく言うと、玉木商店の主人も手を振って応えた。その先には、須藤自転車がある。
「ちょっと寄って行こう。」
哲夫はまた寄り道をした。須藤自転車のご主人も修理場の中にいた。奥さんが通りに出てきた。
「元気になったのね。」
「すみません。なんだか、ご心配をおかけしたようで。これ、お詫びです。与志さんにいただいたサツマイモで作ってみたんです。」
哲夫はそう言うと、パンの入った紙袋を渡した。
「まあ、ありがとう。久しぶりねえ・・うれしいわ。ずっと待ってたのよ。」
奥さんは嬉しそうに受け取った。
「どうだい、自転車の調子は?」
修理の手を止めて、ご主人も店先に顔を見せた。
「ええ、ありがとうございます。本当に助かりました。これなら遠くまで配達できそうですよ。」
「おいおい、無理するなよ。まあ、調子が悪くなったらいつでも修理してやるからな。」
須藤自転車のご主人も嬉しそうだった。

哲夫と加奈は、保育園に向かった。ちょうど、子どもたちは外遊びをしているところだった。
「あ、てっちゃんだ。」
誰かが声を上げると、園児たちは、皆、門のところまで走ってきた。
「あ、加奈ちゃんもいるよ。」
無邪気な声が聞こえてきた。自転車を止めて、パンの入った箱を抱えて園内に入ると、哲夫と加奈の周りに子どもたちが集まってきた。久しぶりの感覚だった。
「さあ、みんな、ちゃんと並んでよ。」
保育園の先生の声が響くと、みんな行儀よく並んだ。
「みんな、ごめんね。ちょっとお休みしちゃって。」
哲夫が言うと、ユキエが心配そうな表情を浮かべて、口を開いた。
「もう元気になったの?」
ユキエは、母の郁子から哲夫が入院したようだと真っ先に聞いたのだろう。誰よりも心配していた様子だった。
「ああ、もう大丈夫、元気になったよ。心配かけてごめんね。」
子どもたちの無垢な瞳がじっと哲夫を見つめている。哲夫はそれ以上の言葉が出てこなかった。
「さあ、今日のパンはなんでしょう?」
加奈が哲夫に代わって子どもたちの相手になった。箱からパンを一つ取り出して、みんなの前に開いて見せた。子どもたちは穴が開くほどパンを見つめ、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「おいも?」
「焼き芋のにおいがする。」
「そうだ、やきいもだ。やきいもパンだ!」
子どもたちは、やきいも、やきいもと言い出した。
「正解!今日は、みんなも知ってる、与志おばあちゃんが育てたサツマイモを使ったパンです。美味しいわよ!?」
「わーい!」
子どもたちは大声を上げて喜んだ。
「さあ、配るから列を作ってください!」
再び、保育園の先生が号令をかけると、みんな二列に並んで、パンを受け取った。いつもなら、そのまま、部屋に入って自分の椅子でパンを食べるのだが、今日は少し様子が違った。
パンを受け取った子から順番に哲夫と加奈の前に並び始めた。
園児全員がきれいに並び終わると、先生が「はい、どうぞ。」と合図した。
すると、
「てつおさん、かなさん、いつも、いつも、おいしいパンを、ありがとう。これからもずっとげんきでいてください。いただきます。」
と一斉に声を揃えて、言ったのだった。
哲夫が休んでいた間に、きっと園児たちは淋しかったに違いない。保育園の先生が子どもたちの気持ちを受け止め、感謝の気持ちを伝えればきっと元気になるからと園児たちに話し、園児たちも一生懸命に練習をしたのだろう。
「こちらこそ・・ありがとう・・本当に、ありがとう。・・これからもパンを作るね。・・」
哲夫はもう顔をぐしゃぐしゃにして涙を流していた。加奈も、哲夫の後ろで涙を流していた。


59 芳江先生 [命の樹]

59 芳江先生
園児たちは、椅子に行儀よく座り、サツマイモパンを頬張っていた。あちこちから、園児の「おいしい」という声が響いている。
哲夫はこの光景を眺めているのが好きだった。
子どもたちの、美味しそうな笑顔は、命に溢れ、希望に満ちている。そのためのわずかなきっかけを作り出せていることが嬉しかった。
そして、そんな哲夫の笑顔を見ている時間は、加奈にとって大きな幸せを感じられる時間でもあった。

「あの・・」
加奈の傍に来て、芳江先生が声を掛けた。
芳江先生は、この保育園では最も長く勤めていて、もう30代半ばだった。今春からは副園長として、忙しくしていた。以前、サチエの担任だったこともあり、哲夫がパンを届け始める時、園長への橋渡しをお願いした先生であった。
「先日、母がお店に伺ったようなんですが・・。」
そう言われて、加奈は、すぐにその女性を思い出した。
「ああ・・確か、長野からいらしたって・・。芳江先生のお母様だったの?」
「ええ、母はお店で加奈さんとお話しできて楽しかったって言ってました。ありがとうございました。でも、何だか加奈さんが急に涙ぐまれて厨房に入られてしまったって・・何か、母が失礼な事を言ったんじゃないかって・・ちょっと気にしていたんです。」
「いえ、キノコのお話を教えていただいて、私も楽しかったんですよ。でも、お父様の思い出話をお聞きしているうちに、つい涙ぐんでしまって・・お母様、随分御苦労なさったようで・・」
「そうでしたか。・・・。」
「お母様には、いつでもおいで下さいって、お伝えください。また、長野のお話をお聞かせいただきたいですって。」
加奈がそう言うと、その先生は少し寂しそうな顔をした。
「はい。・・でも、母はもうこちらには来れないと思います。」
「え?どうして。」
「今回、こちらに来たのは、大学病院で検査を受けるためだったんです。体調がすぐれないって言って、近くの病院で診察を受けたら、精密検査が必要だろうっていうことになって・・結局、大きな癌が見つかってしまって・・そのまま、長野に戻って一人暮らしも難しいだろうからって、こっちで入院することにしたんです。」
「そんな・・。でも・・治療すれば、良くなられるんじゃないの?」
「ええ・・なんとかそう期待しているんですが・・なにぶん、高齢で大きな手術には耐えられそうもなくて・・抗がん剤の治療だけはしてるんですけど・・。」
「きっと良くなられるわよ。」
「でも・・母は、父もお爺さんもお婆さんも送って自分の役目は終わった、だから、もう心残りはないって言って・・・なんだかさっぱりした表情で、治療もあまり・・。私はショックで、泣いてばかりいたんですが、むしろ、母に慰められてしまう始末で・・。」
「そう・・。」
加奈は、自分の事のように、話を聞いていた。
「母は、加奈さんとお話したこと、本当に嬉しそうでした。自分の思い出話を誰かに聞いてもらえるっていうのが嬉しかったみたいです。本当にありがとうございました。」
「そうなの・・少しはお役に立てたのかしらね。」
「ええ・・本当にありがとうございました。」
その先生は、頭を下げた。
加奈は、喫茶店での、その女性との会話を思い出していた。
それほどあっさりと死を受け入れられるものだろうか。哲夫は、自分自身納得する生き方がしたいと仕事を辞め、転居もして、今ここにいる。そして、毎日、もがきながら生きている。芳江先生の母も、娘の負担を考えて平静を装っているが、きっと毎日もがきながら生きているに違いない。
「お母様は、長野の山の話を楽しそうに話してくださったわ。一人暮らしだけど、淋しくない。山に入れば、いつもお父様やお爺さまが傍にいるように感じられるって・・。」
加奈が言うと、芳江先生は目を伏せて小さな声で言った。
「ええ・・母はあそこに戻りたいんだろうって判ってるんです。でも・・病身のままじゃ・・。」
「そうね・・。」
「実は私も迷っているんです。このまま、病院に閉じ込めるようにしていて、良いんだろうかって。残り少ない時間なら、母の満足する生き方を選んでもらったほうが良いんじゃないかって・・」
加奈も、哲夫の病気が見つかった時、入院して治療する事を真っ先に考えた。だが、哲夫の場合は、入院治療で快方する見込みはなかったのだった。一縷の望みでもあるなら、やはり、入院し治療に専念できるほうが良いのだろう。
「お母様自身が選ばれる道を尊重してあげるしかないのかしらね・・」
加奈はそういうほかなかった。
「なあ、加奈、そろそろ帰ろうか。」
深刻な表情で話している二人のところへ哲夫がやってきた。
「おや?どうしたんだ、なんだか深刻そうな顔しているけど・・何かあった?」
加奈は返答に困った。芳江の母の病気の事で悩んでいるのだと伝えて、哲夫はどう答えるのか、哲夫も随分悩んで出した答えだっただけに、加奈は知らせたくないと思っていた。
「いえ・・ちょっと、女同士の秘密のお話ですから・・。」
隣にいた芳江が、妙に元気よく答えた。芳江自身もあまり他人には知られたくな様子だった。
「ええ・・そうよ。内緒の話よ。・・・もう、何でもすぐに首を突っ込んでくるんだから・・おせっかいも大概にしてよね。」
「なんだい!・・ちょっと心配しただけだろ?嫌な感じだな。」
哲夫はちょっと不満そうな表情を見せた。
「哲夫さん、体、大事にしてくださいね。子どもたちは、皆、楽しみにしているんです。また、来週も、美味しいパン、お願いしますね。」
芳江は優しく言うと、園児のところへ戻って行った。
「また来週も・・か・・。」
哲夫は少しさびしそうな表情でつぶやいた。加奈は、そう言う、哲夫の後姿を見つめていた。

60 奇跡 [命の樹]

60 奇跡
園児たちは、パンを食べ終わると、哲夫と加奈のところへやってきて、「ごちそうさまでした」と一様に言ってから、園庭へ走り出していく。
哲夫と加奈は、一人一人の頭を撫でて、「ありがとう」と返答を返した。いつの間にか、これが習慣となっていたのだった。

何人か、園児が続いた後、奈美がやってきた。
奈美はいつになくうれしそうな表情でやってきた。
「ごちそうさまでした」
そう言ってから、奈美は二人の顔をじっと見て少し躊躇いがちに言った。
「ねえ、てっちゃん、今度、お店に行ってもいい?」
「ああ、いつでもおいで。」
哲夫が軽く答えると、「やったあ。」と喜んだ。
「ねえ、奈美ちゃん、何か良いことあったの?」
加奈が訊くと、奈美はちょっと考えてから言った。
「お母さんがね・・目を覚ましたの。」
「え?お母さんって・・。」
「うん、お母さん、食いしん坊だから、目を覚ましたのよ。」
「食いしん坊?」
加奈は、奈美の言っていることが理解できなかった。
奈美は、加奈がおかしな顔をしているので、何か変なことを言ったのかと少し不安げな表情になった。
「そう・・目が覚めたの・・良かったわね。」
「うん。」
そう言うと、奈美は園庭に走り出していった。
奈美の母は、交通事故で意識不明の重体で入院したままだったはずだった。源治からは、医師も意識は回復しないだろうと言っていたと聞いた。
「ねえ、哲夫さん、どういうことかしら?」
「さあ・・でも、きっと奇跡的に回復したってことじゃないかな。」
「そう・・。」
「帰りに港に行って、源治さんに尋ねてみようか?」
「ええ。」

二人は保育園を後にすると、港へ向かった。
もうそろそろ、漁の支度のために、源治は港に出て喜いる時間だった。港に着くと、源治の姿を探した。源治は、船の甲板で、網を積みこむところだった。
「源治さん!」
哲夫が呼ぶと、源治が手を上げて応えた。そして、船の舳先から岸壁に飛び移ると、二人のところへやってきた。
「てっちゃん!元気になったんだな!良かった、心配したぞ!」
「すみません、ご心配をおかけしました。」
「なあに、何もできやしないんだがな。このまま、お前さんのパンが食べられなくなるんじゃないかって、気を揉んだよ。良かった。」
源治は相変わらず元気そうだったが、やはり、いつも以上に嬉しそうだった。
「娘さんが目を覚ましたって・・奈美ちゃんが言ってましたけど。」
加奈が源治に尋ねた。
「おう、そうなんだ。医者は、奇跡だって言ってたよ。まさかなあ・・」
源治はそう言いながら、急に涙ぐんだ。
「そう。良かったですね。」
「ああ・・3週間くらい前だったか。いつも夕方、奈美の奴が、お母さんのところへ行きたいって言い出したんだ。見舞いに行くのは土曜日にしていたんだが、その日は何故か奈美の奴、どうしてもって言ってなあ。普段は、聞き分けのいい子なんだが・・」
「何かあったんでしょうか?」
哲夫が訊く。
「ちょうど、保育園でてっちゃんのパンをもらって帰ってきた日だったんだ。奈美はそれを母親に見せたかったんだろ。でな、奈美が、母親の口元にパンを近づけて、美味しいパンだよって言ったんだ。そしたら、かすかに顔の表情が動いたように見えたんだ。・・すぐに、医者を呼んで診てもらったら、少し反応があるって。」
「そう・・」
「医者が言うには、意識がない状態でも、音とか匂いとかを感じることはあるらしいんだ。・・なんて言ったか・・難しい話は分からないんだが・・生きるための本能ってやつかい?そこはちゃんと働いているらしいんだ。だから、パンの香りに反応したんじゃないかって。」
源治の話は今一つよくわからなかったが、とにかく奇跡的な回復と言っていいらしいようだった。
「奈美ちゃんが、お母さんは食いしん坊だから目を覚ましたって?」
加奈が訊くと、源治は豪快に笑いながら言った。
「え?」
源治はきょとんとした顔をして加奈を見た。そして、
「ほう、そうかい。そうかい。そうだ、きっと、そうに違いない。パンが食べたくって目を覚まそうとしてるんだろ。小さいころから、あいつは食い意地が張ってたからなあ。そうか、奈美がそんなこと、言ってたか。そうか、そうか。」
源治は感心するように答えた。
「奈美ちゃんが、店に来たいって言ってましたけど・・。」
加奈が言うと、源治ははっとした表情を浮かべて答えた。
「おお、そうだ。かあさんのためにパンを持って行こうって言ってたんだ。てっちゃんの焼いたパンが良いって言ってたからな。だが、てっちゃんが入院したって聞いて、奈美はしょんぼりしてたんだ。・・どうだ、引き受けてくれるか?」
哲夫は笑顔で答えた。
「ええ、ぜひ。今度の土曜日、午前中なら、店のパンも焼く予定ですから、一緒にやりましょう。」


61 いのちのパン [命の樹]

61 命のパン
土曜日になって、源治は、奈美と裕を連れて朝早くに店にやってきた。
すでに、哲夫と加奈は店用のパンを焼き始めていた。
「いらっしゃい。」
加奈は、三人を笑顔で迎えた。すでに、店の中の一番大きなテーブルには、パン生地といろんな材料が並べられていた。
「お母さんはどんなパンが好きだったかしら?」
加奈が尋ねると、奈美は元気よく答えた。
「メロンパン!」
「そう。他には?」
今度は裕が答えた。
「チョコパン!」
「そうなの。じゃあ、メロンパンとチョコパンを作りましょう。」
加奈が言うと、奈美が少し遠慮がちに言った。
「ねえ、加奈ちゃん・・やきいものパンは作れる?」
「ええ・・良いわよ。そういうと思ってちゃんと材料はそろってるから。じゃあ、始めましょう。・・さあ、源治さんもやりましょう。」
「ええ?俺もか?」
「大丈夫。できるわ。」
「大丈夫よ、おじいちゃん。」
奈美に言われ、源治は、最初はぎこちなかったが、次第に慣れてきて、ごつい指先を機用に使ってパンを作った。
成型を終えたパンは、哲夫が窯に入れて焼いた。焼き上がる様子を、源治も奈美も裕も、窯の覗き穴から交代で覗き込んでは、次第に膨らみ焼き色がつく様子を楽しんでいた。

哲夫が焼き上がったパンをトレイに乗せて店の中に運んでくると、みんなが取り囲んた。
「ずいぶんたくさんできたな。」
「ええ・・どれも、とっても美味しそうですね。」
源治も哲夫も満足そうだった。
「さあ、お母さんのところへ焼き上がったばかりのいいにおいのパンを届けなくちゃね。」
加奈が言うと、奈美も裕も嬉しそうだった。
すぐに袋に詰めて、源治たちは母の待つ病院へ向かった。
加奈と哲夫は、奇跡を信じて三人を見送った。

源治は軽トラックを飛ばして、病院へ向かった。車の中は香ばしいパンの香りが漂っている。
すぐに、病室に向かう。廊下じゅうに、パンの香りが広がり、入院患者も見舞いの客も、三人の行く方を興味深そうに見ていた。

病室の中には、看護師がいて、意識の回復のための治療が行われていた。
最初に反応があってから、徐々に反応は強くなっていて、時々、目を開けるようになっていた。
「お母さん、大好きなパンを持ってきたよ。」
加奈が母の枕元にパンの袋を置いた。
偶然なのか、それともパンの香りがきっかけになったのか、わからないが、奈美の母親ははっきりと目を開いた。それは、奈美にも裕にも、源治にもはっきりと判る反応だった。
「お母さん、パンだよ。」
幼い、裕が袋の中からパンを取り出して母の口元へ近づけると、わずかに口が開いたように見えた。
「ほら、食べて!」
裕はパンを母の口へ入れようとした。
「うう・・うう・・」
今度は、呻くような声が漏れる。
「裕、奈美、やっぱり母さんは食いしん坊だ・・食べたいってさ・・。」
源治は、目の前の奇跡のような光景に涙を流しながら言うと、二人を抱きしめた。
看護師がすぐに医師を呼びに行った。
廊下には、パンの香りに誘われたのか、患者や見舞い客が何事かと集まっていた。
「道を開けて!」
医師は、慌てて病室に入っていく。その様子を集まった人たちも見守っていた。
医師は、慎重に診察を終えると、落ち着いた声で言った。
「もう意識は随分はっきりしてきました。この様子なら、大丈夫。1週間もすれば、ある程度、話もできるようになるでしょう。奇跡が起きたとしか言えません。」
「ありがとうございます。」
源治は医師の手を取って涙をこぼして言った。
医師は、枕元にあるパンの袋を覗いた。
「おや、美味しそうなパンだ。これがきっとお母さんの命を呼び戻したんだ。お母さんの命のパンだね。一つ戴いていいかな?」
医師がそう言うと、裕がこくりと頷いた。
医師は、ひょいとメロンパンを摘まんだ。そして、奈美と裕の頭を撫でた。
「命のパンだってさ。」
廊下にいた誰かが呟いた。すると、口々に、『命のパン』と言いはじめ、拍手が起こった。外の騒ぎに気付いて、源治が奈美と裕に言った。
「お母さんはまだ食べられそうにないから・・外にいる人たちにあげよう。」
奈美と裕はパンの袋を持って廊下に出ると、見守ってくれていた人たちに配り始めた。
「ありがとう。きっと病気も治るよ。」
「私にもちょうだい。入院してるお父さんにあげるから。」
人々は大事そうにパンを受け取った。あっという間にパンは無くなってしまった。
「ねえ、おじいちゃん、てっちゃん、また焼いてくれるかな?」
「ああ、頼んでおくさ。だが、ちゃんとお礼を言わなきゃな。」
「うん。」
その翌日から、《命の樹》には朝から多くの客が押し寄せた。
「命のパン、ください。」
事の顛末を知らない哲夫と加奈は、一体、何の事かわからず、皆、嬉しそうに買って行ってくれるのに、只々、驚くばかりだった。

命の樹 第1部は終了しました。 [苦楽賢人のつぶやき]

命の樹の第1部が終了しました。

3か月間、ご愛読(?)いただきありがとうございました。

この先、哲夫と加奈はどんな暮らしをしていくのか、第2部もすぐ始めます。

今回は、ちょっと苦戦しています。

ちょっと幸せな気持ちになれるようなお話というのは案外難しいものですね。どうしても、ネガティブな性格なものですから、じんわりとあったかくなるようなそんな出来事っていうのは想像できなくて・・それでも、自分自身、こうあったらいいなあと思うような人と人とのつながりを模索しながら綴ってきました。
この後も、もう少し、粘ってみようと思っています。
もうしばらく、お付き合いいただけると嬉しいです。(感想などもお寄せいただけるともっと嬉しいですが・・)
よろしくお願いいたします。
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