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3-32 良い知らせ [命の樹]

32. 良い知らせ
「吉彦君、君なら、ヒカルちゃんを救えるはずだ。」
哲夫は確信を持って言った。
「でも・・」
吉彦は、当然の反応を示した。先ほどのヒカルの拒絶するような態度を見れば、当然と言えた。
「いや・・君じゃなきゃダメだ。」
再び、哲夫は確信を持って言った。
「そんなに、焦ることはない。ゆっくり、彼女に接してくれれば、そのうち、きっかけは見えるはずだから・・。普通に、ここにも顔を見せてくれればいいんだ。」
「はあ・・。」
吉彦は戸惑いを隠せないまま答えた。
二人のやり取りを聞いていた、源治が口を挟んだ。
「大丈夫さ、てっちゃんが、そう言ってるんだ。まちがいないさ。」
そう言って、笑顔で、吉彦の肩を叩いた。
「おい、そろそろ帰ろう。てっちゃん、いつも通りで良いよな?」
「ええ。」
源治は哲夫の返事を聞いて、ポケットから500円玉を一つ取り出した。一緒に来ていた男たちも同じように取り出して、源治の出した500円玉の上に積み上げて行った。
「ああ・・そうだ、娘の事だが・・・今日、一時的に退院できそうなんだ。医者もびっくりしてたよ。奇跡だってさ。」
「ええ?そんなに早く?それは良かったですね。じゃあ、あの子たちも・・。」
「ああ、今日は朝から、びっくりするほど、元気だよ。時計とにらめっこで、まだかな、まだかなって落ち着かないんだ。・・ホント、てっちゃんのパンのおかげさ。ほんとにありがとな!」
「いや・・偶然でしょう。でも、本当に良かった。」
源治も顔いっぱいの笑みを見せた。
哲夫はすぐに、厨房に入って紙袋を持って出てきた。
源治たちは、玄関を出ようとしている。
「あの・・これ、持って行ってください。」
源治は紙袋を受け取り、ちらりと中を見た。
「今朝、焼いたんです。・・退院のお祝いです。少ないけど・・。」
「てっちゃん、良いのかい?売り物だろ?」
「良いんです。お礼ですよ。娘さんが回復したから、僕のパンも皆さんに喜んでいただけるようになったんですから・・。今度、ぜひ、一緒に、いらしてください。」
「ああ、そうするよ。きっと、娘もてっちゃんに礼を言いたいだろうから。」
「お待ちしてます。」
源治は仲間たちと一緒に、石段を降りて行った。
一番最後を吉彦が歩いている。吉彦は、少しみんなより遅れて歩きながら、しきりに、店の裏の方を気にしていた。


3-33 与志とヒカル [命の樹]

33. 与志とヒカル
店を飛び出したヒカルは、すぐ下にある与志のミカン畑の中で、ミカンの樹の陰に、身を隠すようにして、膝を抱え、震えていた。自分でも異常だと感じるほど、吉彦の存在が恐ろしかった。
真冬の寒さの中、薄着でエプロン姿のまま、店を飛び出したヒカルの体は冷え切ってしまっていた。

「こんなところでどうしたんだい?」
みかんの樹の間を抜けて、与志がヒカルを見つけた。じっと蹲り動けない様子を見て、与志は、ヒカルの傍に身を寄せた。
「そこは寒いだろうに・・うちへ行こう。」
与志はヒカルの肩を抱きかかえるようにして自宅へ連れて行った。

与志の家は、玄関を開けると小さな土間があって、板敷きの間とその奥に畳敷きの居間がある、昔ながらの農家の造りだった。
「体が冷え切ってるよ。さあ、こたつに入りな。」
与志はそういうと、ヒカルを居間に上がらせ、炬燵に入らせた。
与志は何も訊かず、お茶を煎れ、そっとヒカルの前に差し出したが、ヒカルはじっと身を固めたままだった。
「みかん、食べるかい?」
そう言うと、つやつやのみかんを目の前に差し出したが、ヒカルが手を伸ばす様子がないので、一つとって皮を剥き、ひと房差し出した。ヒカルはぼんやりとしたまま、みかんを受け取り、口に入れる。口の中にみかんの甘みと酸味が広がった。少し気持ちが落ち着いたように感じられた。ただ無言のまま、与志は同じように、また、ひと房取って、ヒカルに渡した。
「どうだい?婆ちゃんが作ったみかんだ、美味いかい?」
与志の問いかけに、ようやくヒカルは小さく頷いた。
「そうかい・・じゃあ・・もっとお食べよ。」
ヒカルは無言のまま、みかんを食べる。一口食べるごとに、固まった心と体が解れていくようだった。そのうち、今までじっと堪えてきた涙がぽろぽろと零れてきた。何度拭っても頬を伝う涙を止められなかった。与志は何も言わず、ヒカルの隣に座り、同じようにみかんを食べた。
「私・・怖くて、怖くて・・逃げてきたんです。」
少し気持ちが落ち着いたヒカルが口を開いた。与志は、そっと視線を送り頷いた。
「看護士だった昔の事を知ってる人がお店に来て・・・思い出したくない悲しい出来事が胸の中いっぱいになってしまってその場に居られなかったんです。」
与志はようやくヒカルの言葉にこたえるように言った。
「まあ・・嫌な事から逃げ出したいってのは、誰にだってあるもんだよ。」
「それじゃいけないって、心に決めて、倉木さんのところに来たんです。でも・・ダメでした。」
「よっぽど深い傷なんだねえ。可哀そうにねえ・・。」
それから、ヒカルは、抱えている悲しい過去を与志にすっかり話した。

「悲しい話だね・・ヒカルちゃんは何も悪くないのに・・理不尽だよねえ・・。」
与志はヒカルの話を聞きながら、涙を流している。

3-34 朝霜のみかん [命の樹]

34. 朝霜のみかん
「よし、さっきのよりも、もっともっと、美味しいみかんを食べさせてあげよう。」
そう言うと、与志は立ち上がると、いったん土間に行った。そして、さっき畑から戻ってきた時に腰につけていた袋を取り上げると、居間に戻ってきた。
「今朝、採ってきたんだ。」
そう言いながら、袋の中のみかんを取り出した。そのみかんは、先ほどのみかんに比べると、外皮が少し色がくすんでいて、硬くなっていて、先ほどのみかんよりおいしそうには見えなかった。
「さあ、食べてみな。」
皮を剥いてひと房ヒカルに差し出す。
ヒカルが口に入れると、驚いたような表情を浮かべた。先ほどのみかんも充分に美味しかったが、これはさらに味が濃くさわやかな香りで、ひと房で充分なほど濃厚だった。
「どうだい?」
「さっきのみかんも美味しかったけど、これって特別です。今まで食べたことないくらいの濃い味。」
「そうだろ、そうだろ。」
与志はヒカルの反応に満足げな様子だった。
「こいつはね、今朝、採ってきたんだよ。でもね、ただのみかんじゃないんだ。朝霜にあたったみかんでね。ちょっと見てくれが悪いから、出荷はできないんだが、味は抜群なんだ。」
与志はそう言いながら、みかんを二つを並べて見せた。
「普通はね、霜にあたると外見が悪いから皆、年内に採りきるんだ。だが、一本だけ採らずに残しておいてね。作ってるものだけの特別な楽しみなんだよ。」
「霜にあたると美味しくなるんですか?」
「ああ・・まあ、霜だけじゃない。台風で擦り傷が着いたものなんかも美味しんだ。・・私が思うに、きっと何の苦労もなくすくすくと育ったみかんに比べて、傷ついたり、苦しい思いをした分、美味しくなるんじゃないかってね。・・・人もおんなじじゃないかね。・・まあ、何の苦労もなく人生を過ごせるに越したことはないだろうけど・・ちょっとくらい辛い思いをした方が、人の痛みもわかるだろうし・・深みも増すだろ。」

与志の言葉に、ヒカルの心の大きな黒い塊が徐々に砕けていくように感じられた。それと同時に、涙が再びとめどなく溢れてきた。
与志は、そっとヒカルの背を撫でた。
「加奈さんも、時々、ここへ来るんだよ。そして、ただ、ぽろぽろと泣くんだよ。」
ヒカルは驚いて顔を上げた。
「ああ・・そうさ。てっちゃんの病気の事、加奈さんから全部、聞いてるよ。」
与志はそう言うと悲しそうな顔をした。
「遣る瀬無いよねえ・・・あんなに素敵な夫婦なのにねえ・・。」
ヒカルは改めて、倉木夫妻の置かれている状況を思い返していた。
自分の苦しさ、辛さばかり考えていたが、倉木夫妻はもっと辛く厳しい運命と戦っている。明日、生きていられるかどうかさえ、判らない、そんな不安と闘いながら、それでも明日を普段通り暮らせるようにと願い、互いを気遣い暮らしている事を思いだしていた。


3-35 見守り [命の樹]

35. 見守り
「ずっと、秘密にしてきたらしいんだがねえ、とても、加奈さん一人で抱えきれるもんじゃない。だから、ここへ来るんだ。ヒカルちゃんも抱えきれないほどつらくなったらここへ来ると良いさ。何もしてやれないが・・話くらいは訊いてやれる。」
与志は優しく言った。ヒカルはふたたび、涙を零した。

ようやく落ち着いた頃、ヒカルは与志に尋ねた。
「与志さんが朝早く、パン焼き釜に来られるのって・・もしかしたら、マスターの体の事を気遣ってのことですか?」
与志は少し躊躇うように言った。
「いや・・初めはね、てっちゃんがパンを焼くのが、珍しくて顔を出していたんだよ。美味しい紅茶もごちそうになれるからね・・だが・・加奈さんに、てっちゃんの病気の事を聞いてからは、少しでも役に立てればと、気づいた日には行くようにしているんだよ。」
「今朝からパンを焼くって知っていらしたんですか?」
「ああ・・この年になると、朝は目覚めるのが早いからねえ。物音がしたんですぐにわかったよ。」
与志の無言の気遣いに、ヒカルは感動していた。
「朝早く、一人で仕事してるのって心配ですものね。・・私もそう思って今日は朝早く起きました。」
「ああ、ヒカルちゃんがいてくれれば、私も安心だよ。もう年だしね・・朝の寒さは意外に堪えるからねえ。きっと、加奈さんも少しは休めるだろ。」
与志の言葉に、ヒカルはちょっと意外な顔をした。
「加奈さん?」
「おや?気づいていないんだねえ。加奈さんはね、てっちゃんがパンを焼くときは、必ず起きて様子を見守ってるんだが、てっちゃんには気づかれぬように眠ったふりをしているんだよ。」
「どうして?そんな・・。」
「それが、加奈さんの気遣いだろ?・・てっちゃんと一緒に朝早く起きてたんじゃ、身が持たない。てっちゃんの事だ、そうなるくらいなら、パンを焼かないって言い出すに決まってる。だから、起きていないふりをしているんだよ。朝、私がパン焼き釜のところへ登って来るとね、2階の窓から必ず加奈さんが顔を見せてるんだ。」
ヒカルは全く気付かなかった。
今朝も、随分遅くまで加奈は階下へ降りて来なかったし、「休んでいればいいのよ」なんて言ってくれていた。
「ヒカルちゃんが朝からてっちゃんと一緒にいてくれれば、加奈さんも少しは休めるだろ。それが何よりだよ。もう、ヒカルちゃんは充分、役に立ってるんだ。加奈さんも頼りにしてるはずさ。」
与志は笑顔を見せてそう言った。ヒカルにもようやく笑顔が戻ったようだった。
「与志さん、ありがとうございました。お店に戻ります。」
「そうかい・・じゃあ、このみかん、少し持っていきな。」
与志は、そう言うと立ち上がって、紙袋にみかんを詰めてヒカルに持たせた。
「ありがとう・・与志さん・・私も時々ここに来ても良いですか?」
「ああ、構わないさ。」
ヒカルは、与志に礼を言って、元気に畑を抜けて店に戻って行った。


3-36 看護士 [命の樹]

36. 看護士
ヒカルが店に戻ると、店内には哲夫も漁師仲間の姿もなかった。厨房にも哲夫の姿がなく、ヒカルは少し心配になって、表に出てみた。
玄関先には、長机が出されていて、袋に詰めたみかんパンが積まれている。そこには、パンを買い求める客と哲夫の姿があった。
「手伝います!」
「ああ、ヒカルちゃん、助かるよ。ここは任せても良いかな?そろそろランチの準備をしたいんだ。」
「はい。」
ヒカルに笑顔が戻っているのを見て、哲夫は安心して厨房に戻った。
しばらくすると、店頭のパンの販売は終了し、次々に、ランチ目当ての客に切り替わった。ヒカルは生き生きとした様子で来客に応え、働いた。
その日は、正月明け初めての営業とあって、結構、来客が多く、一休みできたのは3時を回ったころだった。
「お疲れ様。・・ちょっと休憩にしよう。今、コーヒーを煎れるから。」
哲夫は、客が途切れたのを見て、ヒカルに声をかけた。
ヒカルは、最後の客を送り出して、テーブルを片付けていた。厨房の奥で、ガタンと物音がした。
ヒカルは哲夫が倒れたのだと咄嗟に理解し、すぐに厨房に入った。哲夫が厨房の床に蹲っていた。
「マスター!マスター!」
ヒカルは必死に声をかけた。
「ああ・・すまない・・ちょっとふらついただけだ・・ちょっと疲れたみたいだ。」
ゆっくりと哲夫が立ち上がった。すぐにヒカルの肩を借りて、店の中央にある赤いソファまでいくと、横たわった。ヒカルは厨房においてあったバイタルチェック用の機材に入った鞄を持ってくると、すぐに血圧と脈拍を測り、携帯用酸素ボンベを哲夫の口に当てる。聴診器を哲夫の胸に当て、真剣な表情で音を聞いている。一連の素早い動きは、看護士だったことを証明していた。
「苦しいところはないですか?」
「ああ・・ちょっとふらついただけだから・・。」
「血圧も脈拍も・・大丈夫です。呼吸も楽にできてるようですね。」
「ああ、大丈夫だ。・・やっぱり、しばらくぶりだから、ちょっと張り切り過ぎたかな。」
「もうお店を閉めましょう。」
「ああ・・看板を入れてきてくれるかい?」
「はい。マスターはそこで少し横になっていてくださいよ。」
ヒカルはそう言うと、玄関を出て石段を下って行った。ちょうど、加奈の車が石段下に止まったところだった。
「お帰りなさい。」
「あら・・もう店じまい?」
「ええ・・ちょっと、マスターがお疲れみたいなんです。」
加奈の表情が俄かに硬くなっていったのが判った。
「大丈夫です。さっき、バイタルチェックをして休んでもらっています。少し疲れただけでしょう。今日はお客様が多かったみたいですから。」
「そう・・大事ないのね?」
「ええ。」


3-37 ロッキングチェア [命の樹]

37. ロッキングチェア 加奈とヒカルが店に戻ると、哲夫はソファで眠っているようだった。 「加奈さん、ひとつ提案があるんです。」 「何?」 加奈は、すぐに、哲夫の傍に行くと、寄り添うようにして座って、ヒカルの話を聞いた。 「日中、マスターはほとんど厨房で立ちっぱなしなんです。座るとしても、そこにある丸椅子に腰を下ろしている程度で・・あれでは、少しも休めないみたいで、体力が続かないと思うんです。」 「そうね・・・それで?」 「マスターがちょっと体を休める場所を作りたいんです。良いですか?」 「良いけど・・そんな場所ある?」 ヒカルは、にっこりと笑ってすぐに動き始めた。 哲夫が目覚めたのは、1時間ほど後で、もうすっかり日も暮れていた。その間、加奈はずっと傍を離れなかった。 「ねえ、そろそろ起きて。」 加奈が優しく声を掛けた。 「ごめん・・寝ちゃったみたいだね。・・」 哲夫は目覚めると、どこか店内の様子が変わったことに気付いた。だが、何が変わったのかすぐには判らなかった。 「これ、見てください。」 厨房の脇に、ヒカルが嬉しそうな顔をして立っている。透かし段になっている階段の下、そこにテラスで使っていたロッキングチェアが置かれていた。 「ここで、マスターに休んでもらえるようにしました。」 「あら良いじゃない。そこなら、お店の中も見えるし、厨房もすぐに行けるじゃない。」 加奈が喜んで答えた。 「そこは・・確か・・。」 「ええ、小さな本棚がありましたけど・・ちょっと移動させました。」 ヒカルはそう言って指差した。 階段下にあった、雑誌や絵本を収める小さな本棚は、テラスの出入り口の脇に移動され、その前には、絨毯とクッションが置かれて、ちょっとした子どもの遊ぶスペースに変わっていた。 「どうですか?」 ヒカルの問いかけに、哲夫は立ち上がって、まずロッキングチェアに座ってみた。すっかり店の中の様子が違って見える。意外に、店内全体を見渡すことができて、ここで休んでいても問題ないようだった。それから、テラスの出入り口にある本棚の前に行き、子どもが遊ぶ姿を想像した。 「うん、良いね。これは、思いつかなかったよ。ありがとう。これで、サチエちゃんやユキエちゃんたちも遊びに来てくれるようになるかもしれないね。きっと店の雰囲気も変わるだろう。」 そう言って加奈を見た。加奈は微笑んで答えた。 哲夫はふたたび、ロッキングチェアに座り、満足そうな顔を見せた。 「さあ、ご飯にしましょう。・・あなたが眠ってる間に、ヒカルが作ってくれたのよ。」 「へえ・・ヒカルちゃんは働き者だね。さて、お味の方はどうでしょう。」 哲夫は笑顔で立ち上がって、夕飯の用意を手伝った。

3-38 源治たち再び [命の樹]

38. 源治たち 再び
それから、しばらく、ヒカルは哲夫と同じように朝早く起床し、パン焼きを手伝い、接客も落ち着いてできていた。コーヒーを入れる手順も覚え、哲夫は、階段下のロッキングチェアで休める時間もでき、体調も心配ない状態になった。
1週間ほど経った朝、源治が仲間の漁師を連れて、再び現れた。ヒカルは一瞬身構えたが、哲夫が源治たちに事情を話していることを知り、平静に対応できるように勤めた。
「いらっしゃいませ。」
ヒカルが、水とおしぼりを運んでいくと、源治は、ごく普通に「いつもの頼むよ」と言った。「はい。」とヒカルが答えると、ロッキングチェアから哲夫が立ちあがる。
「おや、てっちゃん、良い場所、作ったな。」
源治が言うと、
「ヒカルちゃんの思いやりスペースなんです。具合が良いんですよ。なんだか、優雅に毎日過ごしてるみたいで、ちょっとこそばゆいんですけどね。」
「いよ!マスター!」
源治が少しからかい気味に言った。
サンドイッチが出来上がると、大皿に並べて、テーブルに運んだ。ヒカルは、まだ真正面でみんなの顔を見ることができなかった。
「おや?今日は竜司君や吉彦君の姿が見えないみたいですけど・・。」
哲夫が尋ねた。
「ああ・・ちょっと忙しいみたいで・・あとで・・、顔を出したい・・とは言ってたんだが・・。」
源治はちょっと返事に困ったような言い方をした。
「おや、こっちは模様替えしたんだな。」
「ええ・・そこもヒカルちゃんがやったんです。そうだ、奈美ちゃんや裕君も遊びに来させてください。昼間、預かっても良いですよ。」
「そうかい、ヒカルちゃんはなかなかやるじゃないか。てっちゃんには思いつかないことだね。」
源治が笑顔でヒカルに話しかけた。
「ありがとうございます。」
ヒカルはようやく笑顔を見せて答えることができた。
「良い笑顔だ。別嬪さんは、そういう笑顔を見せてくれなくちゃなあ。これだ、また、ここへ来る楽しみが増えたよ。」
「是非、毎日でもいらしてください。」
ヒカルは、ごく自然に答えることができた。
「ありがとうね。・・あ、そうそう、娘のやつ、無事に戻ってきてね。まだ満足には動けないから一時退院だったんだが、奈美や裕も嬉しそうだったよ。春にはきっと家に戻って来れるだろうって・・そしたら、三人でここへ遊びに来させるさ。」
「ええ、そうしてください。」
その後、源治たちは、ひとしきり、漁の反省会をした後、早々に引き揚げて行った。
みんなを見送って、ヒカルは、なぜか涙が零れた。普通に話ができたことがこれほど嬉しいものだとは思ったことがなかった。ここへ来て良かったと強く感じていた。

3-39 吉彦と竜司 [命の樹]

39. 吉彦と竜司
その頃、竜司と吉彦は、港の隅にいた。
「なあ、このままずっと行かないつもりか?」
さっきから、何度も、竜司は問いかけているが、吉彦は下を向いたまま、網の手入れをしている。
そこへ、源治たちが戻ってきた。
「なんだ、お前たち、てっちゃんの店、行かないのか?」
「吉彦のやつ、この前の事でどうにも動かないつもりみたいなんだ。」
源治は竜司の顔を見て、情けない表情を浮かべる。
「ヒカルちゃん、元気そうだったぞ。店の模様替えもしたようだし・・もう、大丈夫じゃないか?」
源治が言っても吉彦は動こうとはしない。
「お前がそんなんじゃ、どうしようもないな。てっちゃんが言ってたろ?ヒカルちゃんを元気にできるのはお前しかないって・・聞いてなかったのか?」
源治は少し強い口調で言った。
「そうだよ、吉彦。お前だって、源さんに助けられたんだろ?今度はお前の番だぞ!」
竜司も、吉彦に言った。
「てっちゃんの言葉を信じてみるんだ。今まで、てっちゃんの言葉に嘘はなかった。きっとうまく行くさ。さあ、こんなところでうじうじしてても仕方ないだろ!」
叱りつけるような源治の言葉に、吉彦はようやく立ち上がった。
「竜司!お前もついて行ってやれ。大丈夫、てっちゃんを信じてみるんだ。」
二人はようやく店に向かった。

吉彦は店に上る石段の前で、一旦、立ち止まった。そして、深呼吸をした。
店の玄関の前に、哲夫が出て、販売用のパンを机の上に並べているところだった。
「おや、来たね。」
哲夫は笑顔で迎えた。
「大丈夫。ちゃんとヒカルちゃんには話しておいたから。普通に入って行けばいい。さあ。」
哲夫はそう言うと玄関を開ける。ドアが開いたのに気付いて、店の中から「いらっしゃいませ」というヒカルの声が響いた。
先に、竜司が店内に入った。そして、いつもの源治たちの席とは別の、できるだけ店の奥の方の席に座ろうとした。吉彦も竜司に続いて店内に入り、できるだけ、竜司の陰になるように歩いて、席に着こうとした。
厨房の前に立っていたヒカルは、一瞬、身が硬くなるのを感じていた。頭では判っている、だが、心が言うことを聞かない。深い水の底に沈んでいるような日々をつい思い出してしまう。心が次第にしぼんでいくような感覚が広がり始めていた。
遅れて、店に入ってきた哲夫が、小さく声を掛ける。
「ヒカルちゃん?」
その声にヒカルは我に返った。そして、一つ深呼吸をする。そして、ヒカルの視線に入らない様な、店の隅の薄暗い席に着こうとする二人を見て、ヒカルは思い切って言った。
「そんなところじゃ、寒いでしょう。こっちの陽の当たる席へどうぞ。」
ヒカルは、自分でも不思議なくらい、明るい声で言ったのだった。
二人は、ヒカルの言う通りに席を移った。


3-40 吉彦の気持ち [命の樹]

40. 吉彦の気持ち
「サンドイッチにコーヒーで良いかしら?」
明るくと話すヒカルに、二人は面食らったようで、「ああ」とだけ返事をした。
哲夫は、すぐに厨房に入って、サンドイッチを作り始める。
「吉彦さん、この前はごめんなさい。気持ちの準備ができていくて・・どうして良いかわからなくて、本当にごめんなさい。」
ヒカルはそう言うと深々と頭を下げた。
「いや・・僕の方こそ、事情も知らずに・・声を掛けてしまって・・。」
吉彦は予想外のヒカルの言葉に、どぎまぎしながら答えた。
「いえ、良いんです。」
そう言うと、厨房に行き、出来上がったサンドイッチとコーヒーを運ぶ。哲夫は厨房の中から、じっと二人のやり取りを聞くことにした。
「早く元気にならなきゃって思ってるんです。そのために、ここに来たんですから。過去の取りもどしようのない事に心を病んでしまって、どうしようもなくて・・生きていることさえ辛かったんです。でも、ここへ来て気づいたんです。本当に大事なのは、今を大事に生きることだって。」
ヒカルはそう言うと、ちらりと哲夫を見た。明日の保証もない哲夫の身の上を思い、ヒカルは心の底からそう思っていた。
「僕もそうでした。怪我をして、事故が起こって、仕事を首になって追い出されて・・僕の人生、これで終わりかなって思っていたんです。死にたいとは思いませんでしたが・・未来に希望なんてないしがない人生を送るんだろうって。でも、ここへ来て、源治さんや竜司さんと会って、自分でも何かの役に立てるかもしれないって感じられるようになったんです。」
「吉彦さんも辛かったんですね・・。」
「でも・・よく考えてみたら・・もっと前に本当なら僕の人生は終わっていたかもしれない。あの日、怪我をして救急で運ばれた時、ヒカルさんが小さな異変に気付いてくれなかったら、きっと僕は死んでいたでしょう。だから、ヒカルさんは命の恩人なんです。だから、元気になってもらいたいんです。そのためなら、何でもやります。」
吉彦は今まで心の中でぐるぐると回っていた思いを一気に吐き出すように言った。
「そんな・・命の恩人なんて・・。」
「いえ、本当にそう思います。一生、守っていきますから。」
吉彦は少し興奮気味に言った。
隣で二人のやり取りをじっと聞いていた竜司が、急に吹き出してしまった。
「おい、吉彦!それじゃ、まるでプロポーズだぞ!」
それを聞いて、吉彦は顔を真っ赤にした。
「いや・・そういう事じゃないんです・・そういう事じゃ。」
吉彦は、目の前のサンドイッチを掴むと、大きな口を開けて噛みついた。その拍子に、サンドイッチの中身が、喉に詰まってむせた。
「おい、吉彦、落ち着け。なあ、冗談だよ!」
竜司はそう言いながら、少し冷めてしまったコーヒーを吉彦に差し出した。吉彦はコーヒーを一気に飲み干した。
「ありがとう、吉彦さん。今、コーヒーのお替り、持ってくるわ。」
ヒカルは少し顔を赤らめたまま、厨房に戻ってきた。

3-41 与志のミカン [命の樹]

41. 与志のミカン
厨房に戻ったヒカルは、コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぎながら、急に何かを思いついたようで、厨房の隅に置いてあった紙袋から、ミカンを取り出した。それをコーヒーと一緒に二人のところへ持って行った。
「与志さんから、私は、朝霜ミカンなんだって教わったんですよ。」
ヒカルは、コーヒーをテーブルに置きながら明るい声で言った。
「朝霜ミカン?」
吉彦が不思議な顔で訊いた。隣の竜司は、目の前のサンドイッチに手を伸ばしながら、にんまりとしている。
「あら?竜司さん、朝霜ミカン、御存じなの?」
ちょうどサンドイッチに噛みついたところで、急に問われて、今度は、竜司は喉を詰まらせた。
「う・・うん・・・・ああ・・ちょっと・・待って。」
竜司は目の前のグラスの水をごくごく飲んで一息ついてから答えた。
「朝、霜にあたって皮がしなしなになったミカンの事だろ?俺も昔、与志さんに言われたことがあるんだよ。・・何もかもがうまく行かなくて、それを叱りつけるような親父の言葉に反発して、喧嘩して、家を飛び出して、この先にある岬で蹲ってた時に、与志さんが声を掛けてくれてね。朝霜ミカンは美味しいって、傷ができるくらい厳しく育った方が美味しいみかんになるってさ。」
「まあ・・そうなんだ。」
「吉彦なんか、与志さんにかかったら、朝霜ミカンの中でも最高級って言うかもしれないね。」
「そう?」
結局、吉彦には朝霜ミカンの意味は分からないままで、ポカンとした顔をして二人の会話を聞いているようだった。
「これよ。」
ヒカルはそう言うと、テーブルの上に、与志さんがくれた朝霜みかんを置いた。
「ちょっと日が経ってるけど、美味しいわよ。さあ。」
そう言って、吉彦に勧めた。確かに見てくれは悪く、とても美味しそうには見えなかった。吉彦はそっと皮を剥いてひと房食べた。濃厚な甘さと強い香りが口の中に広がる。今まで食べたことのない味がした。
「どう?美味しいでしょう?霜にあたって皮が傷んでるけど、その分、味が濃くなるの。人も同じだって。悲しい事や苦しい事を経験すればその分、心が深くなるんだって。私も、吉彦さんも、竜司さんもきっと同じ、朝霜ミカンなのよ。」
吉彦は、ヒカルの抱える事情を知り、何とか勇気づけてあげたい。だが、自分の存在がヒカルを傷つけてしまうのではないか、両方の気持ちで、遣る瀬無く、どうにも動けなかった自分が、急に恥ずかしくなった。逆に、ヒカルに勇気づけられている。
「ヒカルさん、ありがとうございます。何だか、勇気が出てきました。」
「良かった。じゃあ、ごゆっくり。私、玄関でパンを売らなきゃいけないから。」
そう言って、ヒカルは出て行った。厨房の奥で、哲夫は安堵していた。
ヒカルは昔の悲しい記憶と闘いながら、精いっぱい、元気に振舞っていたに違いない。だが、きっとこれで、二人の間の蟠りはゆっくりとほぐれていく。
哲夫はそう確信していた。

3-42 竜司の戸惑い [命の樹]

42. 竜司の戸惑い
サンドイッチを食べ終わり、代金を支払う時になって、急に哲夫が思い出した。
「そう言えば、竜司君。千波がね、春には戻ってくることになったんだよ。」
心の準備ができていなかった竜司は、いきなり千波の名前を出されてびっくりして釣銭を落としてしまった。竜司は。転がった百円玉を拾いながら、どういう事だと繰り返していた。
ようやく拾い終わって立ち上がり、視線は天井を見たまま、「それはどういう事なんでしょう?」ととぼけた質問で返した。
「いや・・正月に戻ってきた時、そういう事に決まったんだ。大学を卒業して、東京で就職すると思っていたんだが・・戻ってくることになったんだよ。」
哲夫はわざと遠回し遠まわしに話をする。
「ええっと・・仕事とかは・・住まいとか・・。」
竜司はどこまで聞くべきか探りながら質問をする。
「なんでも、事業を始めるそうだ。フェアトレードって聞いたことあるかい?」
哲夫は半ば竜司を苛めている。
「ふぇあとれー・・?」
頓珍漢な表情の竜司に変わって、今度は、吉彦が言った。
「公平な取引・・発展途上の国の貧困にあえぐ人を救うため、現地で作ったものを適正な価格で販売するっていうのですよね。」
吉彦は以前勤めていた会社で、そう言う勉強をしたことがあったのだった。
「何だか、難しそうだが・・良い事をするんだって言うのは判ります。」
竜司も言った。
「ああ、そうなんだ。大学を出たばかりですぐにできるような事じゃない。まあ、最初は上手くはいかないだろうし、苦労も多いはずだ。竜司君、吉彦君、千波の相談相手になってくれないかな?」
哲夫は真剣な表情で言った。
「ええ、そりゃ、できることがあるなら、相談なんかじゃなくて、何でも手伝いますよ。」
竜司はきっぱりと言った。
「千波は加奈に似てちょっときつい性格だし、このあたりに知り合いも少ないはずなんだ。事業をやるなら、地元のコネも必要だろうし、まあ、愚痴を聞いてやるだけでもいいんだ。・・どうやら、千波は、竜司君とは普通に話ができるみたいだったからね。」
「はい!」
竜司は上機嫌で店を出た。
外では、ヒカルが焼き立てパンの販売をしていた。数人の列ができていて、ヒカルは必死に応対していたが、店を出て行く二人を見て笑顔を送った。
吉彦は、ヒカルに「頑張って!」と握りこぶしを見せて励ました。

石段を下りながら、吉彦は竜司に尋ねた。
「あの・・千波さんって誰です?」
「ああ、哲夫さんの次女、東京の女子大生さ。哲夫さんにちょっと似てるけどね、ヒカルちゃんに負けないほど綺麗さ。」
竜司は、今まで見たことのないような笑顔でそう言った。

3-43 スーツ姿の客 [命の樹]

43. スーツ姿の客
2月に入り、寒さもひとしおとなったある日、ランチの客が終わり、哲夫とヒカルが、一休みする時間帯に、スーツ姿の男性が、大きなバッグを抱えて入ってきた。
ロッキングチェアに体を預けたばかりの哲夫は、こんな時間だから、恐らくコーヒーの注文くらいだろうと、客の対応をヒカルに任せるつもりで、静かに目を閉じていた。
その男性客は、大きなバッグを床に置くと、店内を見回し、何かを探しているようだった。
「いらっしゃいませ、どうぞ。」
ヒカルが入り口に立っている男性に声を掛けると、男性はちょっとけげんな表情を浮かべて言った。
「あの・・こちらは・・倉木さん・・倉木哲夫さんのお宅じゃないでしょうか?」
「ええ・・倉木哲夫は・・この店のマスターですけど・・。」
ヒカルが慎重に答えると、その男性客は、少し安堵した表情を浮かべたが、もう一度尋ねた。
「以前に、名古屋の機械メーカーにお勤めされていた、倉木さんですよね?」
そう問われて、ヒカルは答えに困った。哲夫の過去のことなど訊いたことがなかったからだった。
「あの・・ちょっと訊いてきますので・・どこか、席にどうぞ。」
その男性は少し迷った表情を浮かべたものの、喫茶店に入った以上、何か注文しなければいけないと考え、「じゃあ、コーヒーを下さい。」と言って、入り口にいちばん近い席に座った。その場所からでは、哲夫のロッキングチェアは見えなかった。
「あの・・マスター・・・。」
ヒカルはちらちらと男性客の様子を見ながら、ロッキングチェアの哲夫に声を掛けた。哲夫はうっすら目を空けて応えた。
「なんだい?食事かい?」
「いえ・・あちらの男性の方が・・昔、機械メーカーに勤めていた倉木哲夫さんのお宅かって尋ねられたんですけど・・。」
ヒカルの問いに、少し哲夫は考えた。新しい生き方を選ぼうと、昔の職場に自分の所在は知らせていなかった、それに、昔の知り合いなら、そんな回りくどい訊き方はしないはずだった。
「どんな人だい?」
ヒカルはちらりと男性客を見た。
「30代でしょうか、上品なスーツを着て、大きなバッグを持っていらっしゃいます。ちょっと神経質な感じはしますが・・会社員でしょう。・・営業マンとも違うような・・・。悪い人ではなさそうですけど・・。」
ヒカルの説明は要領を得なかった。これ以上、ヒカルに任せておかない方が良さそうだと判断して、哲夫は、ロッキングチェアから身を起こした。
「ヒカルちゃん、注文は?」
「コーヒーです。」
「じゃあ、ヒカルちゃん、煎れてくれるかい?もう覚えたろう?」
「はい。」
哲夫は、ゆっくりと階段下から出て、いったん厨房に入り、客の様子を見た。
横顔を見る限り、昔の知り合いではなさそうだった。それに、スーツは随分しゃれたもので高価そうだった。若いが、それなりの役職に就いているのだろうと思えた。

3-44 開発部マネジャー [命の樹]

44. 開発部マネジャー
「いらっしゃいませ。私が倉木ですが・・。」
哲夫はそう言って、その男の席の横に立った。そう言われて、その男は咄嗟に立ち上がって、哲夫を見て、慌てて、スーツから名刺入れを取り出して、1枚、哲夫に差し出した。
「突然、すみません。私、栗田製作所の、磯貝と申します。」
哲夫は差し出された名刺を手にして、一目する。懐かしいロゴが印刷されていた。それは、以前に哲夫が勤務していた会社だった。男の肩書は、開発部マネジャーだった。
「あの・・以前、わが社の開発部長だった・・倉木哲夫さんですよね?」
磯貝は改めて倉木に尋ねた。
「ええ・・そうです。」
哲夫の答えに、磯貝はほっとした表情を浮かべたが、すぐに思い出したように慌てて言った。
「あ・・すみません・・ちょっと・・いや、少しお待ちください。」
磯貝はそう言うと、慌てた様子で店を飛び出して言った。ちょうど、ヒカルがコーヒーを運んできた。
「いったい、どうしたんでしょう?」
ヒカルは出ていく磯貝を目で追いながら、ゆっくりとコーヒーをテーブルに置いた。
しばらくすると、磯貝は、石段の途中で立ち止まり、下を見下ろすようにして、何か言っている。誰かを連れて戻ってきたようだった。
玄関のドアが開くと、もう一人、紳士が立っていた。磯貝よりも随分年上で、明らかに、磯貝の上司以上の存在と思われた。哲夫はその紳士を見た途端、それがだれかすぐにわかった。
「ようやく、見つけたよ。」
紳士はそう言いながらゆっくりと店の中に入ってきた。哲夫は少し硬い表情を浮かべている。紳士はそれ以上言わず、先ほど磯貝が座っていた席に座った。
「ヒカルちゃん、コーヒーを頼む。」
哲夫はそう言うと、その紳士の向かいの席に座った。少し遅れて、磯貝が紳士の隣に座った。
「久しぶりだな、倉木。・・・居場所が分からず、随分探したんだ。」
「何の用だ?川端・・」
哲夫は少し不機嫌な言い方をした。
「旧友に会いに来るのに、用事がなきゃだめなのか?」
「旧友?・・・まあ、確かに、そうかもしれないが・・もう、会社とは縁のない男だ。君ともそれほど深い関係があったわけじゃない。」
「そう邪険にするなよ。お前が辞めてからいろいろ大変だったんだ。」
「それは、お前の始末のせいだろ?俺はやるべきことはきちんと済ませて退職したんだ。どうせ、次の人事でごたごたしたんだろ?昔から、お前は作詞だったからな。営業部長の後、今は何してるんだ?専務くらいになったか?」
ひきつった顔で二人のやり取りを聞いていた磯貝が口を挟んだ。
「今は、栗田製作所の代表取締役社長です。」
川端は、磯貝が口を挟んだのが気に障ったように厳しい顔で磯貝を見た。
「お前が、社長か・・それは、大変だな。磯貝君も苦労してるだろう。」
「ふん・・こいつは、若手の中では一番見込みがある。今、開発部の総責任者をさせてるんだ。まあ、お前には敵わないがね・・。そこそこの開発はできるようになったんだが・・あと一歩、詰めが足りない。おかげで、かなり遅れをとってるんだ。」

3-45 会社の事情 [命の樹]

45. 会社の事情
「おや、元来、楽天家のお前が、それほど厳しい評価をするとなると、会社はかなり難しい状況のようだな。正直、行き詰っているってところか?」
川端は、哲夫の言葉に、ため息をついた。
「正直に言おう。お前が辞めてしばらくは良かった。だが、技術開発は日々の努力の積み上げだ。わが社の技術はお前が辞めてから正直、進歩していないんだ。・・いや。それなりに開発はしている。だが、他社と比べて圧倒的な差別化ができる水準じゃない。今までは、営業部の努力で何とか補ってきたが、いよいよ瀬戸際まで来てしまったんだ。やはり、お前の力は大きかった。・・」
「そんなことはないだろ・・開発部にはもっと多くの人材がいたじゃないか・・。工藤はどうした?佐々木もいる。みんなにはそれぞれの得意分野があったじゃないか・・一体、どうなったんだ?」
哲夫は、川端の弱音に驚いて訊いた。
「お前が去った後・・吉川前社長が開発部長に他社から引き抜いてきた川木田という男を迎えたんだ。お前の抜けた穴を埋めるつもりだったんだろう。だが、こいつが曲者で、お前が育ててきた奴らを全て排除して、自分の意に適う奴を重用するようになったんだ。結局、佐々木も工藤も辞めた。経営も傾き始めて・・ついに、社長が解任され、川木田一派も会社を追われた。俺は尻拭いみたいなもんだった。それでも、わずかに残った人材でここまでやってきたんだ。」
予想以上の変化に哲夫は驚きを隠せなかった。
「そんなことがあったのか・・。そうだ、会長、栗田会長はどうした?」
「お前が辞めてすぐだった。亡くなったよ。今は、その息子が会長職だが、関心があるのは、儲かってるかどうかだけさ。会社の中の事は全く関心がない。俺も、そんなに楽天家じゃいられないってわけさ。」
「そうか・・。」
ヒカルがコーヒーを運んできたので、哲夫は二人にコーヒーを勧めた。
「この店がお前のやりたかったことなのか?」
川端がポツリと訊いた。川端は、哲夫がなぜ会社を辞めたのか、真相は知らなかった。突然、退職願いを出し、会長や社長が慰留を求めたのも聞き入れず、姿を消した事だけが川端の知るところだった。
「・・まあ・・そうかな・・・。」
川端は店の中を見回してから、コーヒーを飲んだ。
「俺には理解できないな・・お前があのまま会社に居たら、お前こそが社長になるべきだった。栗田製作所は、開発力が全てだった。そして、お前はその柱だったんだ。」
「今になってそう褒めるのも変だぞ。営業部長の頃、お前は開発部は銭くい虫の集団だって言ってたじゃないか。営業こそ、会社の力、利益を生み出すのは営業部だと豪語していただろ。」
哲夫の言葉に急に川端の目が厳しく変わった。
「いや・・それは今も変わっていない。・・いや・・そうじゃない。そうじゃないんだ・・。営業と開発は会社の両輪だ。お前が作った技術を俺が金に換える。それこそ理想の姿だった。だが、開発部は俺たちの都合などお構いなしに・・完成期限が遅れるし、一旦できたものも不満足だと引き下げてしまう・・少しは、俺たちの都合も考えてもらいたかった。・・銭くい虫と言ったのは、そうでも言わないと、奮起してくれなかった・・そう思っていたんだ。」
哲夫は川端の言葉を聞きながら、少し、懐かしい気持ちになっていた。
「まあ、良いさ。今じゃ、こんな詩がない喫茶店のマスターで納まってるんだ。お前のいう事がきっと正しいんだろう。・・過ぎたことだ。・・。まあ・・ゆっくりして言ってくれ・・。」
哲夫がそう言って立ち上がろうとした時、川端が哲夫の腕を掴んだ。

3-46 依頼 [命の樹]

46. 依頼
「なあ・・もう一度、戻って来てくれないか。者を立て直すにはお前の力が必要なんだ。」
川端は、無理を承知で哲夫に言った。
「無理だ。今の俺にはそんな力はない。」
哲夫はそう言って、川端の手を振りほどき、厨房に入って行った。
「社長、そろそろ戻りましょう。ここに居ても仕方ありません。」
磯貝は少し苛立ち気味に言った。しかし、川端は聞き入れなかった。
「磯貝君、データは持ってきているんだろうな?」
「ええ・・一通りは揃っていますが・・。」
「よし。」
川端はそう言って立ち上がり、磯貝からデータが詰め込まれたバッグを受け取った。そして、厨房の前のカウンターに立って、哲夫に向かって言った。
「お前を連れ戻すことは諦めた。だが、一つだけ頼みたいことがある。ここに今開発を進めている製品のすべてのデータがある。こいつを見てくれないか。」
それを聞いて、磯貝が驚いて言った。
「社長、それは機密資料です。そんな、社外の人に見せるなどありえません。やめてください。」
そう言いながら、社長からバッグを取り返し、両脇に抱えた。
「馬鹿者!社外だと?・・そもそも、この製品の基礎研究は彼がやってきたものだ。ほとんどの部分は、彼に頭の中にあるはずだ。お前たちはそれを完成させる事さえ、できないじゃないか!」
川端は、そういうと磯貝から再びバッグを取り上げようとした。しかし、磯貝は手放そうとはしない。二人は揉みあったまま、カウンターにぶつかった。その拍子に、カウンターの上に置かれていたグラスがいくつか転がり、割れた。
「やめてください!」
傍に居たヒカルが止めに入ったが、二人はバッグを引き合い離れない。
「社長に向かって、どういうつもりだ!」
「社長と言えども、機密情報の漏えいは許されません!」
「まだ言うか!」
二人は止めに入ったヒカルを突き飛ばした。
「きゃあ!」
ヒカルは運悪く、落ちて割れたガラスの上に倒れこんでしまった。左腕が切れ、真っ赤な血が噴き出した。すぐに哲夫が厨房から飛び出し、ヒカルを起こした。
「大丈夫か!」
「ええ・・大したことはありません・・。ちょっと手当してきます。」
ヒカルはそう言って、急いで2階へ上がって行った。
ようやく二人は冷静になった。
「いい加減にしてください!彼女に怪我までさせて!さあ、お代は結構ですから、お帰りください。」
哲夫は怒りをあらわにしていた。
「いや・・すまない・・こんなつもりじゃなかったんだ。すまない。・・ただ・・会社のためにどうしてもこれを完成させたいんだ。倉木君、君の力を貸してほしいんだ!私はどうなっても良い。だが、栗田製作所をこのままつぶすわけにはいかないんだ。これさえできれば、窮地を脱する事ができるんだ。判ってくれ。頼む。」
川端は、バッグを開けて、中からファイルを一つ取り出して、縋り付くように頼んだ。

3-47 瀬戸際 [命の樹]

47. 瀬戸際
川端が取り出したファイルには見覚えがあった。哲夫が会社を辞める直前まで手掛けていた、自動車のハイブリットシステムに関する研究ファイルだった。大手自動車メーカーが長年開発を進めているハイブリッドシステムだが、そのエネルギー変換効率を飛躍的に高めるシステムの一部だった。完成し、大手メーカーで採用されれば、特許技術料だけで、栗田製作所には莫大な利益がもたらされるものだった。だが、哲夫は、すでに開発されたものだと思っていた。
「ほぼプロトモデルまではできているんだ。だが、実証実験でどうしても理論値に達しない。何か、欠陥があるはずなんだが、特定できず、行き詰っているんだ。」
川端の言葉に、磯貝は自分たちの限界を突き付けられたようで、口を閉ざした。
「頼む。どうにかこれを世に出したい。お前にとっても夢だったんじゃないのか!」
川端は哲夫に迫った。
「しかし・・・」
哲夫の心は揺れていた。確かに、病気が見つかっていなければ、あのまま、この研究開発に没頭していたはずだった。完成できれば、世の中を大きく変えるかもしれなかった。自分の名誉とか出世とかそういう欲ではなく、純粋に技術者として達成したかった夢だった。だが、きっぱりと諦め、別の人生を選んだ。今更、何ができるだろう。
目の前に差し出されたファイルの隅に、小さなメモが入っているのが見えた。
「これは?」
哲夫はファイルからそのメモを取り出した。そこには、今は亡き栗田会長の手書きの文字があった。
〈夢は未来を拓く力〉
それを見て、哲夫は会長に初めて自分のアイデアを提案した時の事を思い出していた。
栗田会長は、戦後すぐに小さな修理工場を開き、苦労を重ねて、今日の栗田製作所を作り上げた人物だった。驚くべきアイデア力を持って新しい技術を開発し続け、哲夫はその会長に一から仕事を教え込まれたと言っても過言ではなかった。温厚だが頑固で、陳腐なアイデアなど一蹴する厳しさがある。また、開発が行き詰まり安易な方法へ逃げようとするのを許さなかった。
その会長が、哲夫のアイデアを見た時、しばらく絶句した。それは余りにも突飛で実現などできるものではないと思えたからだった。だが、一方で、そこに栗田製作所の未来があることも確信したのだった。そして、栗田会長は、このメモを哲夫のファイルに挟み込んだのだった。その日から、哲夫の頭の中には、このアイデアを実現する事が焼きつけられたのだった。
ふと、足元に置かれたバッグを見ると、膨大なデータの束が入っている。そして、それは半分ほどは自分がまとめたものだと判った。
「理論値に達しないのは、そもそもの設計があり得ないという事じゃないのか?」
哲夫が川端に尋ねる。
「お前が残した設計図面を検証し、修正できるところは全てやったはずだ。なあ、磯貝。」
「ええ・・最初はあり得ない設計だと思いましたが・・実によくできていました。製作部でも驚いていました。少しばかり修正はしましたが・・。」
「修正?」
「ええ・・量産モデルにするための修正です。性能上では、影響の出ないところです。」
磯貝はきっぱりと答える。
「なあ、頼む。ここにあるデータを見てもらいたい。持ち出し禁止のものも持ってきている。俺お覚悟を決めてきたんだ。頼む。お前なら、きっと欠陥を見つけられるはずだ。」
川端は、もはや後戻りできない事を哲夫に告げた。


3-48 承諾 [命の樹]

48. 承諾
「判った・・やってみよう。だが・・ブランクもある。期待に添える保証はないぞ。」
哲夫は決断した。
「お前が無理なら、もはや諦めるしかない。覚悟はできている。」
川端は哲夫の手を握った。その時、哲夫の手があまりにもやせ細っている事に気づいた。
「お前・・まさか・・。」
川端が言いかけた時、ヒカルが2階から降りてきた。腕には包帯が巻かれている。
「先程は、すまなかったね・・。大丈夫かい?」
川端が言うと、ヒカルは小さく「ええ、大丈夫です」と短く答え。厨房に入った。
川端は、ヒカルが厨房に入るのを見届けてから、改めて、哲夫を見た。先ほど一瞬感じた不安を口に出すべきかどうか迷ったが、それを確かめてどうにかできることではないし、今は、目の前の問題を解決する事が何よりも大事だった。
「じゃあ、頼む。・・ああ、磯貝は近くのホテルを取らせているから、もしできるなら、そこでデータの解析を頼みたい。お前の能力をこいつに叩き込んでやってほしい。頼む。」
哲夫はちらりと磯貝を見た。磯貝はやや戸惑った表情を浮かべていた。
「まあ、やれることはやってみよう。だが、昼間は店がある。ここを空けるわけにはいかない。昼間はこっちへ来てもらって、店が終わったら、磯貝さんのところで続きをやるというのでどうかな。それなら、機密データの漏えいにはならないだろう?」
哲夫の申し出は磯貝を納得させることができた。
話が纏まって、二人が店を出て行った。

「あの・・マスター・・難しいお仕事のようですけど・・・。」
厨房にいたヒカルが心配そうな表情を受かべて哲夫に尋ねた。
「ああ・・それより・・加奈がどう言うかな・・」
哲夫はヒカルに答えを求めたわけではなく、ただ、寸暇を惜しんで仕事に没頭していた頃を思い出して、加奈が反対するのではないかと懸念したのだった。

夕刻になって、加奈が戻ってきた。哲夫はすぐに仕事の依頼の件を話した。加奈は迷った。
「昔とは違うのよ。体力だって落ちてるんだし、ブランクもあるんだから、できなくて当たり前なのよ。それに・・会社とはもう縁を切ったんだし・・新しい生き方をするために全てを捨てたって言ったでしょ?・・会社が傾いたのだって、あなたの責任じゃないわ。・・川端さんが確かに縁の深い人だけど・・」
口にする言葉が纏まらない。
命を縮めても何にもならないのだと言いたいのだが、うまく表現できない。まどろっこしい気持ちが募るばかりだった。反対したい気持ちの方が勝っているのだが、一方で、あの頃の哲夫の生き生きとしていた姿も見てみたい気持ちもあった。
「判ったわ・・でも、無理はしないでよ。」
その日は、夕食の後、哲夫は、磯貝が置いて行ったバッグを開いてみた。中には、哲夫がはるか昔に作成した基礎研究のデータから、最終製品の設計図や実験データがきれいにファイルされていた。
最終実験データを取り出して見た。細かい数字がびっしりと並んでいる。
「おや・・これは・・・。」
わずかな時間だったが、哲夫はそこに並んだ数字に違和感を感じたのだった。

3-49 黒い社用車 [命の樹]

49. 黒い社用車
翌朝はいつものようにパンを焼き、朝食の支度も終え、加奈が降りてくるのを哲夫は待っていた。
「おはよう。調子はどう?」
加奈がいつもの挨拶をした。
「ああ・・大丈夫さ。あのさ・・話があるんだ・・。」
哲夫は、テーブルに着こうとする加奈を追いかけるように哲夫はテーブルに着く。ヒカルは、パンとサラダとコーヒーを運びながら、哲夫が何を言い出すのか、不安な表情で聞いていた。
「仕事の話?」
加奈は不機嫌な表情で言った。
「ああ・・夕べ、少しデータを見たんだが・・本格的に調べてみないといけないようなんだ。」
「本格的にって?」
「ここじゃ無理かなって・・会社に行って目の前で実験してみないと・・。」
「じゃあ、お店はどうするのよ?」
「ああ・・少し休んで・・いや、そんなに時間はかからないと思うんだが・・。」
「何日くらい?」
「そうだな・・三日・・くらいかな・・。」
加奈はため息をついた。
昨日、哲夫が仕事の依頼を受けた時から、こうなるだろうとは想像していたが、改めてそう言われると、不安が増してくる。
「三日なんて無理でしょ?」
加奈にはよくわかっていた。昔も一旦開発の仕事が始まると、数日は戻ってこなかった。電話をすると、三日くらいと言いながらも1週間以上戻ってこないなんてのも当たり前だったからだ。おそらく、今回はそれ以上かもしれない。
「そうね・・とりあえず、週末まで、お店を休みにしましょう。それで会社に行って納得いくように仕事をしてください。でも、週末には必ず戻って来てください。ちゃんと体を休めないと・・ここへ戻れば、休めるでしょ?ああ、それとヒカルも、会社へ連れて行ってください。」
「ああ・そうだな・・・そうするよ。」
哲夫も、加奈の気持ちは十分に判っている。
「ヒカル、お願いよ。無理しないよう見張っていてね。」
「はい。」
ヒカルは二人の気持ちを受け止め、返事をした。
その日の夕方、哲夫は、川端に連絡を取った。川端は二つ返事で了解した。

翌朝には、磯貝が黒い高級社用車で、店まで迎えに来た。
「彼女も一緒に行くよ。僕の身の回りの世話をしてもらうから。」
ヒカルは、大きなスーツケースと黒い鞄を大事そうに持っていた。
「気を付けてね。」
加奈が玄関まで見送りに出てきた。
「お願いね。ちゃんと見張っていてよ。」
加奈はヒカルの手を握った。ヒカルは強く頷いた。
磯貝は、その様子に少し違和感をおぼえながらも、後部座席に二人を乗せ、会社へ向かった。

3-50 違和感 [命の樹]

50. 違和感
会社に向かう車中で、哲夫は後部座席に座って、データに再び目を通していた。
「磯貝君、この実験データなんだが・・何か違和感があるんだ。」
哲夫が言うと、ハンドルを握りながら磯貝が答える。
「違和感・・ですか。」
「ああ、そうなんだ。出力数値で3か所ほど、どうにも違和感を感じるんだ。理論値に達しないって君は言っていたけど、その前の数値変化は、どう感じてる?」
磯貝は、哲夫の質問にこそ、違和感を感じていた。
「いや・・感じるとかそういう感覚で数値を見たことがなかったので・・異常値になるのは最高出力理論値になる0.02秒前でした。その値は異常と判定しましたが、それ以外は正常の範囲内だったはずです。問題ないと思いますが・・・。」
「そう・・。」
バックミラーで哲夫の顔をちらりと確認すると、哲夫は窓の外を見ながら、落胆した表情をしている。
「あの・・倉木さんのいう・・・、違和感・・というのは異常値という事なんでしょうか?」
磯貝の質問に、哲夫は少し考えてから答えた。
「いや、異常値じゃない。正常の範囲内だが、数値が綺麗じゃない。乱れてるというか・・あるべきものとは違う、そこでそんな数値は出ないんじゃないかっていうくらいのものだ・・まあ、わずかな信号・・いや、瞬きみたいな感じかな・・・。」
磯貝はそれを聞いて、余りに非科学的な発想に、どう受け止めればいいかわからず、黙ってしまった。おそらく、開発部の誰に聞いても、こんな発想を理解できる者はないだろうと思った。乱数表のように並んだ実験データを、ざっと目で見た範囲で、違和感を感じるなんて、理解できなかった。数値をグラフに落とし込んでみて、時間変化を加え、再評価し、理論値と比較するまでやって、初めて異常値は判定できるはずだ。それくらい、微妙な数値の変化である。そこに違和感と言われてもわかるはずもなかった。
しばらく沈黙があったあと、哲夫が口を開いた。
「磯貝君は以前はどこに居たんですか?」
磯貝はちらりとバックミラーに視線を遣って答えた。
「製造部の設計課でした。」
「そうか・・設計課か・・・ならば、開発部が送るプロトモデルから、製造モデルへ転換する為の設計をやっていたんだね?」
「ええ・・開発部のプロトモデルは製造部に言わせれば、50%の完成度ですからね。材料もコスト計算していないし、製造プロセスの事などお構いなしです。アイデアだけは使えますが、結局、一から設計し直しなんて日常茶飯事の事でした。」
磯貝は少し憤慨気味に言った。
「それはすまなかったね・・。確かに、開発部じゃあ、コストなんて二の次だったからね。川端にもよく言われたよ。売れるものは価格も大事だってね。」
「まあ、価格っていうのも資材費だけじゃなくて、製造の人件費も重要ですから。製造にかかる手間も織り込んだ設計というのは結構大変なんですよ。」
「川端社長にはその腕を見込まれたっていう事なんだね。」
車窓から見える景色は、次第に市街地に変わっていく。


3-51 栗田製作所本社 [命の樹]

51. 栗田製作所本社
高速道路を走り、2時間弱で、名古屋にある栗田製作所に到着した。
栗田製作所は変わっていなかった。玄関に社用車が到着すると、ロビーで待ち構えていた川端社長が飛び出してきた。
「よく来てくれた。」
川端はそう言って、哲夫の肩を強く握った。その瞬間、ハッとして手を放した。哲夫の肩は異常なほどに細く、筋肉ではなく骨を掴んだように感じたからだった。
「週末には戻らなければいけないんだ。時間がない。すぐに、研究室へ行こう。」
哲夫に言われ、川端はそれ以上の言葉をかける事は止めた。磯貝が案内し、エレベーターで開発部の研究室へ向かう。
栗田製作所の本社は5階建ての小さなビルだった。製造部門は、隣地にあり、本社には、1階が営業部、2階が人事総務部、3階が経理や財務部門、4階は社長室と会長室、開発部は、機密情報の保護のために、最もセキュリティの高い最上階にあった。
哲夫には、案内不要の場所だった。エレベーターには、川端社長も乗り込んできた。
「滞在期間中は、社長室の隣の部屋を使ってくれ。宿泊できるようになっているから。あと、必要なものがあれば、磯貝君に何でも言ってくれ。すぐに揃えるようにする。・・部屋に荷物を置いてくると良い。私が案内しよう。」
川端社長はそう言うと、4階でエレベーターを停め、ヒカルと一緒に降りた。

「この部屋を使ってもらいたい。・・私が、社に泊まり込む時のために作ったものだから。」
川端は、ヒカルを社長室の隣室に案内した。
部屋の中には、上等な机とソファ、大きなベッドが置かれていた。
「奥にももう一部屋あるから、倉木と君とで使いたい方を使ってもらって構わない。・・ああ、一番奥にはバスルームとトイレもある。食事は、秘書室に連絡してもらえばいつでも手配できるようになっているから。」
「ありがとうございます。」
ヒカルは早速、荷物を開いて、哲夫の洋服などをクローゼットにしまい込み始めた。
「ああ・・何か欲しいものがあれば、秘書室に言ってくれ。・・それと・・君は開発室にいるのが嫌なら、1階のロビーにでも出てくると良い。」
川端は、ヒカルの動きを目で追いながら言った。
「はい・・でも、マスターのお傍に居るようにします・・。」
「マスター・・か。」
ぼんやりと返事をした川端が、思い切ってヒカルに尋ねた。
「なあ・・倉木の奴、病気じゃないのか?」
その問いに、ヒカルは一瞬手を止めた。どう返事をしたものか、答えに困った。
「あいつ、随分、痩せてたんだ。さっき、肩に手を置いた時・・驚いたんだ。ただ、痩せてるんじゃなくて・・骨と筋が掴めるほど・・何か、重い病気なんじゃないのか?・・それが会社を辞めた原因じゃないのか?君が傍に居るというのも・・尋常じゃないだろう。」
ヒカルはいよいよ答えに困った。
「私からはお話しできません。・・マスター・・いえ、倉木さんにお聞き下さい。」
「そうか・・・。」
川端はそういうと部屋を出て行った。

3-52 人間センサー [命の樹]

52. 人間センサー
最上階に着いてエレベーターのドアが開くと、開発部のメンバー10名ほどが哲夫たちを待っていた。
ほとんどのメンバーは哲夫には新顔だった。年齢も若いようだった。しかし、デスクや実験機材は当時とほとんど変わっていなかった。
「倉木です。引退した身ですから、どこまでお役に立てるか判りませんが、よろしくお願いします。」
哲夫がそう挨拶すると、メンバーの後ろに隠れるようにしていた男が声を掛けた。
「倉木部長、お元気でしたか?」
そこに居たのは、工藤だった。川端社長からは辞めたと聞いていた。
「工藤君、君は確か辞めたって聞いていたんだが・・。」
「ええ、昨日、呼び戻されたんです。倉木部長が戻るから手伝ってくれないかって・・僕は、ここを辞めて、実家の仕事を手伝っていたんで・・すぐに来れました。・・ああ、佐々木は戻ってこれないみたいです。ここを辞めて、アメリカへ行って、わが社と同じような製造メーカーに再就職したようなんです。」
「そうか・・。・・ああ、そうだ、工藤君はデータは見たかい?」
「ええ、さっき目を通したところです。・・どうにもしっくりこないんですよ。」
「やっぱりそうか。」
「ええ・・どうにも、違和感があるんです。」
「そうなんだ。」
「倉木さんもそう感じましたか?」
「ああ・・3か所違和感を感じるんだが・・。」
「3か所ですか・・まだまだ僕は駄目ですね。2か所しか感じられなかった・・。」
工藤は悔しそうな表情を浮かべた。
二人のやり取りを聞いて、ほかのメンバーはその意味合いがほとんど理解できない表情をしていた。
「まあいいさ。実験をすればすぐにわかるだろう。・・磯貝君、このデータを取り出した実験をやってもらえないかな?」
さっそく、実験が始まった。
「これが実験用のプロトモデルです。」
そう言って、磯貝は、10㎝四方の四角いボックスを取り出した。
「ほとんど完成型です。すぐに製造ラインにも乗せられる図面もあります。量産タイプ比較で90%程度の完成度でしょう。」
磯貝は、少し得意げな表情で倉木と工藤にプロトモデルを見せた。しかし、倉木も工藤も、その本体をちらりと見ただけで、詳しく触れようとはしなかった。
「さあ、実験を始めてくれないか?」
倉木は、モニターに視線を向けた。
数人がプロトモデルを実験機にセットする。開発を進めているのは、リチウムイオン電池からモーターへの接続部分に取り付けるエネルギー変換装置で、従来品の2倍近い変換効率を生み出すことを想定したものであった。これが完成すれば、自動車の燃費効率が飛躍的に上がる。さらに、同様の仕組みを持つ電化製品にも汎用できる。単純に、電気エネルギーが2倍に増えるという代物であった。
セットして、スイッチが入れられた。
徐々に出力が上がっていく。変換数値がモニターに次々に映し出される。脇にあるパソコン画面には、変化がいくつものグラフで表示されていく。


3-53 想定外 [命の樹]

53. 想定外
「最初はここだ。」
哲夫が声を出す。わずかに数値がぶれる。グラフ上ではほとんど区別できないレベルだった。
「その後がここ。」
先ほどと同様に、一見しても変化は判らない程度。
「最後は、最高点の0.01秒前ですね?」
今度は、工藤が言った。
先ほどと同じように、グラフが一瞬ぶれるように見える程度の変化だった。
一旦スイッチが切られた。
「やはり、3か所で予想外の変化が起きているようだ。・・君たちはどう思う?」
倉木が、磯貝たち開発チームのメンバーに尋ねる。
「確かに、わずかに変換値にぶれが生じているようですね。・・でも・・通常使用には支障はないレベルじゃないでしょうか?」
磯貝が、わずかな変化は意に介さないような返答をした。
「いやそうじゃないんだ。通常使用とか・・そういうんじゃなくて・・このブレがどういう原因かと訊いているんだ。」
哲夫の口調がやや厳しくなった。
「原因と言われても・・出力側のイオン電池の問題もあるでしょうし・・実験機の接続とか・・。」
磯貝の答えは哲夫の質問には答えていない。それを聞いていた開発チームの若い担当者がボソッと言った。
「プロトモデルの中で何か予想外の変化が起きているという事でしょうか?」
哲夫はようやく満足の行く意見が出て、満足した表情を見せる。
「君は?」
「すみません。・・触媒の研究をしてきた、岸谷です。エネルギー変換過程で何か想定外の変化が起きた・・・いや、その予兆みたいなものじゃないでしょうか?」
「そうなんだ。理論的には、出力に比例した綺麗な曲線で変換値が表れるはずだが・・この3か所で特異な変化が起きている。・・その要因はなんだろうか?」
哲夫は岸谷に語りかけるように言った。
「判りません。・・でも、もしそんなことが起きたのなら、こいつはとんでもない大きな発見です。」
「ああ、そうなんだ。君らが作ったものは、僕がイメージしたものをはるかに凌ぐものになったかもしれないんだ。」
哲夫の言葉に、岸谷は目を輝かせた。周りのメンバーにもどよめきが起きた。
「触媒の中で特殊な変化が起きている?・・じゃあ、変換値だけじゃなく、ほかにも・・電磁波とか、熱とか、音とか・・もっと他のセンサーを付けて変化を見つけていくべきじゃないでしょうか?」
工藤が口を開く。
岸谷たちが磯貝の顔を見る。磯貝は予想外の展開に戸惑いの表情を浮かべている。
「迷ってる場合じゃありません。ひょっとしたら、すごい開発になるかもしれません。」
岸谷は、磯貝の決断を促すように言った。
「よし・・わかった.すぐに、実験機にセンサーを取り付けてくれ。想定できるものすべて・・とにかく、触媒の中の変化を解明するんだ。」
磯貝の決断ですぐに開発チーム全員が動き出した。


3-54 爆発 [命の樹]

54. 爆発
メンバーたちは、軽く昼食を摂った後、喧々諤々、意見を戦わせながら、準備をし、再度実験がはじめられた。
「さあ、始めよう。」
徐々に電池からの出力を上げていく。
最初の変化で、電磁場に変化が出た。さらに二度目の変化点では、熱量が急激に上がった。そして、到達すべき変換値の直前で、急激にグラフの数値が落ち込んでいく。
「ここからは一緒だな。やはり、最高値でも1.5倍程度・・」
落胆した声で、磯貝が言う。
そんな磯貝の言葉を無視するように、哲夫が言う。
「もう少し、出力を上げてみてくれないか?」
担当が磯貝の顔を見る。担当者は戸惑う表情で磯貝を見る。
磯貝があきれた表情で哲夫に言った。
「いや・・これ以上の数値は出ません。そういう設計ですし、不要な領域です。このまま出力を上げても意味はありません。プロトモデルを壊してしまうだけですよ。」
「いや、そうじゃない。ここからが重要なんだ。さあ、やってくれ!」
哲夫は強い口調で言った。
「モデルを壊すつもりですか?」
「プロトモデルはそういうものじゃないか!」
「しかし・・もう量産モデルと差はないものなんです。簡単に壊すわけには・・。」
「どうせ、このままじゃ、製品にはできない不良品なんじゃないのか?」
「しかし・・。」
二人のやり取りを聞いていた、岸谷が口を挟んだ。
「磯貝さん、倉木さんの言う通りです。こいつはまだ不良品です。壊れたっていいじゃないですか。また、作り直せばいいんです。」
岸谷の進言で、磯貝は戸惑いながらも、出力コントローラーに座った担当に指示した。
ぐんと出力が引き上げられた。
すると、変換値を示すグラフモニターが急激に跳ね上がった。
「えっ?これは?一体、何が起きたんだ?」
驚いたのは、磯貝たちだった。
理論上はこれ以上の数値になるはずはなかった。だが、それはあり得ない数値で、当初の目標数値をはるかに凌ぐものだった。
「判った。もういい。すぐに切ってくれ!」
哲夫が強い口調で言うと、今度は磯貝が手をかざして担当を止めた。
「いや、このまま、もう少し引き上げるんだ!」
グラフはさらに高い数値を示し、計測限界まで上昇した。
「凄い!こんな事が!」
誰かが叫んだ。
突然、プロトモデルからギュウーンという悲鳴のような音が響いた。
「止めるんだ、危ないぞ!」
哲夫が担当を止めようとしたと同時だった。小さな火花が飛び散ったと思うと、轟音がしてプロトモデルが粉々に爆発した。開発室の中に、破片が飛び散り、黒煙が上がった。


3-55 大発見 [命の樹]

55. 大発見
「怪我はないか?」
黒煙は収まると、哲夫が周囲に声を掛けた。部屋に居た全員無事のようだった。
「いったい、どうしたっていうんです?」
磯貝が立ち上がりながら哲夫に訊いた。
哲夫は、磯貝の問いには答えず、砕け散ったプロトモデルの様子を見入っている。
工藤も、哲夫の横で、飛び散った破片を集めながら、一つ一つ手に取って食い入るように見ている。
「倉木さん、想像以上でしたね。」
「ああ・・そうだな。」
二人の言葉を追いかけるように、岸谷が言った。
「驚きました。こんなことがあるんですね。」
岸谷は、別人のような明るい顔で、何か、とんでもない発見をした表情を浮かべていた。

爆発音は階下まで聞こえ、川端部長とヒカルが驚いて開発部にやってきた。
「どうした?何があった?」
部屋に入るなり、川端社長は皆の顔を見た。一同は、実験台の脇に立つ哲夫と工藤へ視線を送った。
「倉木、何があったんだ?」
再び、川端が哲夫に訊いた。
「川端、やったぞ。予想以上のものが出来たんだ。とんでもないものを栗田製作所は開発したんだ。」
哲夫は晴れやかな表情で川端を見た。だが、手には砕け散ったプロトモデルしかない。
「何言ってるんだ。モデルは破壊されてるじゃないか!爆発したんだろ?じゃあ失敗だろ?」
哲夫は工藤の顔を見た。
「いえ、社長。・・確かに、こいつは駄目になりましたが、原因は判っていますから・・壊れるべくして壊れただけです。・・開発部のみんなはすごいものを作り出しましたよ。」
工藤はそういうと、脇に居た岸谷を見た。
「ええ・・社長、これは画期的な開発です。間違いありません。」
岸谷は自信に満ちた表情を浮かべて応える。
「磯貝、どういう事なんだ?」
磯貝はまだ戸惑っていた。
ヒカルが傍によって、椅子を動かし、哲夫を座らせた。その様子を見て、ほかのメンバーも椅子に腰かけた。
「どうやら、磯貝君には事の次第がまだ理解できていないようだね。」
哲夫の言葉に、磯貝は仕方なく頷いた。
「すみません・・恥ずかしながら、全く理解できていません。教えてください。」
磯貝が頭を下げる。
「そうか・・それでは初めから説明しよう。」
哲夫は、一番古いファイルを取り出して、開発の初期モデルを説明した。
「これが原型だった。その後、いくつか実験モデルは作ったが、理論値にははるかに及ばない結果ばかりだった。君らが行き詰ったところと全く同じさ。だが、君らが作ったモデルは、実は、同じじゃなかった。理論値をはるかに超えた数値をたたき出した。これは、原型の理論が正しかった事を証明し、なおかつ、その上に新しい発見を作りだした。」
そこまで言うと、「続きは私が」と岸谷が一歩前に出た。

3-56 再生 [命の樹]

56. 再生
「倉木さんたちが示された違和感のあるところ、そうです、低レベルのここの数値に秘密があったんです。一旦、エネルギー転換したイオン粒子自身が一定の領域を超えると2次変換を起こすことを示していたんです。僕たちはこの小さな変化に気付かなかった。」
岸谷がそこまで説明すると、一同がモニター画面を見入った。わずかな変化だった。
「違和感というのは、2次変換が実際に起きたとは思えなかったからさ。」
補足するように、工藤が言った。
「僕は最高値のところで2次変換が起きたのだろうと思っていました。でも、それでは、その後の変化は想定できない。倉木部長は、3か所違和感があったと言われた。そう思って今回の実験を見ていたら確かに、3回起きている。という事は、エネルギー変換が3段階に発生した事になる。」
「それで、倉木さんは出力をさらに上げるように言われたんです。爆発的な変換段階が起きると想像できたからでしょう。」
ようやく磯貝が理解したようだった。
「ああ、そうなんだ。3段階目に入ると、それは加速度的に大きくなり、触媒自体を破壊するほどの大きなエネルギーが生まれるだろうと・・」
哲夫は磯貝に笑顔で言った。
「そうだったんですか・・・それで・・・。」
磯貝は、モニターのデータの爆発直前の部分を再度見直している。
「なあ・・素人にもわかるように説明してもらえないか?」
川端が再び訊いた。哲夫と工藤、そして磯貝がお互いに笑顔で見合った。
「社長、今までのリチウムイオンバッテリーの出力電圧が・・5倍・・いや、10倍以上に高まるとしたら、どうなると思いますか?」と、磯貝が謎かけのような質問で返した。
「それなら、電池を思い切り小さくできるだろ。・・それか、消費量が小さくなる。あるいは、超高速でモーターが回るという事だろ。」
「そうでしょう?そんなものが開発できれば・・世の中は一変します。」
「・・・そうか・・そんなものが出来れば・・ハイブリッドなんて不要だ。電池・・それも小型の電池で普通に走れる車ができるじゃないか。・・10倍となれば・・1回の充電で1000㎞いやそれ以上走れる。エネルギー革命がおきるだろう。・・それができたのか?」
川端が驚いた表情で哲夫に確かめるように言った。
「なあ、倉木、本当か?」
「ああ・・ほぼ、出来ている。ここにいるみんなの頭の中ではね。」
「・・だが爆発してはいかん。」
「それは大丈夫だろう。爆発した原因が判っているんだ。それに耐えうる材質・資材を使えばいい。」
「そうか!・・じゃあ、すぐに着手してくれ。・・こいつが完成すれば、わが社は大きく転換ができる。経営も持ち直す。いや・・世界企業に生まれ変われる・・そうだろ。」
川端は、哲夫に言った。哲夫は笑顔で答えた。
「なあ、いつだ?いつできる?」
川端の問いに磯貝が言った。
「社長、大丈夫です。近々、きっと完成しますよ。任せてください。でも、発表はまだですよ。きちんと検証し、裏付けを取って、確実に作動する事を確認して・・」
「そうか・・わかった・だが・・そんなに時間はないぞ。・・1週間、それが目途だ。その段階で発表できるものでないと、わが社は倒産することになる。良いか、1週間だ。」

3-57 限界 [命の樹]

57. 限界
川端社長が引き上げてから、哲夫と工藤、磯貝、開発部の全員が、破壊されたプロトモデルを真ん中のテーブルに置いて車座になって座った。ヒカルはそのまま部屋に残った。
「さあ・・どこから手を付けるかだな。」
「倉木さん、私は岸谷君と、触媒の中の変化を突き止めましょう。それは私の専門分野ですから。」
工藤が言った。岸谷も頷いた。
すぐに磯貝が言う。
「私は、モデル全体の設計を一からやり直しますよ。電磁波と熱量を見る限り、この素材じゃ無理です。もっと放熱性の高い素材で電磁波の遮断も必要でしょう。多少大きくても、電池が小さくできるなら実用性は確保できるはずです。」
「そうか・・」
哲夫が答えると、さらに磯貝が言った。
「川端社長からは1週間が期限だと言われたんです。すぐにも着手しないと・・。」
開発チームは二手に分かれて、動く事になった。
「マスター?大丈夫ですか?」
ヒカルが哲夫の耳元で囁くように訊く。先ほどの会話の途中から、哲夫の声が少し小さく呼吸が乱れているような感覚をおぼえたからだった。
「少し、休ませてもらおうか・・。」
哲夫は、皆が動き始めたのを確認して、一旦部屋に戻ってきた。

もう夕方になっていた。
部屋に入るや否や、哲夫はその場に座り込んでしまった。
「しっかりしてください!」
ヒカルが哲夫をベッドまで何とか運び、すぐに黒い鞄を開いて、酸素ボンベをセットし、バイタルチェックをし乍ら、ヒカルは哲夫の様子を見る。随分と顔色が悪かった。心音も少し弱く血圧も下がっている。すぐに、結に連絡をした。
様子を伝えると結は幾つかの指示をした。すぐに、ヒカルはカバンの中から幾つかのアンプルを取り出して、点滴注射した。
「ちょっと・・無理を・・した・・みたいだ・・。」
とぎれとぎれに哲夫が呟く。
「少し安静にしていれば大丈夫です。・・それより、痛みは出ていませんか?」
「ああ・・」
部屋のドアがノックされた。すぐにヒカルが立ちあがり、ドアの前に立ち、僅かに開いた。
「何か・・。」とヒカルが言うと、ドアの隙間から川端が部屋の様子を見る仕草をしながら言った。
「ああ、倉木が戻っているなら、夕食でもどうかと思ってね・・。」
ヒカルは哲夫の方へ振り返る。哲夫はまだ苦しそうな表情をした。
「すみません・・部屋に戻られて、少し横になると言われ、お休みになられました。」
「そうか・・久しぶりの仕事で疲れたか・・・判った。・・目が覚めたら、教えてくれ。」
川端はそう言うとドアを離れた。足音が遠ざかっていくのを確認して、ヒカルはふたたび哲夫のベッドの脇へ座った。薬が効いてきたのか、哲夫の表情が少し和らいでいた。


3-58 夕食 [命の樹]

58. 夕食
哲夫が部屋に戻った後も、工藤や磯貝、岸谷たちは、そのまま作業を続けていた。
工藤と岸谷のグループは、実験データを何度も何度も見直し、エネルギー変換の構造を分析している。磯貝たちのグループは、破壊されたプロトモデルの破片を一つ一つ丹念に調べて、爆発の経時変化を突き止めていた。
「みんな、少し休憩してくれ!」
川端が、秘書を連れて開発部にやってきて、夕食を運んできた。皆一旦手を止めて、社長が運んできた夕食を摂った。川端もその中に入って食事をしながら、作業の様子を聞いた。食事を採り乍らも、皆は、難しい表情を浮かべている。
「工藤さん、倉木さんはいったいどんな方なんですか?」
岸谷が工藤に尋ねる。
「・・そうだな・・とにかく、熱心だった。そして、決して妥協はしない。だが、厳しいばかりじゃなく、発想は柔軟だった。どんな若手でも、気軽に質問できたし、小さな発見でもちゃんと聞いてくれて・・活かそうと考える。・・・自分には厳しかったが、部下には本当に頼れる上司だった。」
隣で聞いていた磯貝がさらに尋ねる。
「違和感という感覚は・・その・・倉木さんたちには当たり前だったんでしょうか?」
「ああ、私も最初は理解できなかった。緻密な計算を積み上げて製品開発をしている現場には似つかわしくない言葉だった。でも、倉木さんと一緒に仕事をしていると、その言葉が一番しっくりくることが判ったんだよ。・・緻密な計算の積み上げだからこそ、出てくる数値結果は美しい。そこに小さな狂いを見つけるということだと思うんだが・・。」
「私はそんな感覚、感じたことはありませんでした。まだ理解できません。」
「それは、君が正直だという証拠だろう。きっと、倉木さんはそう言う君の言葉を嬉しく感じるはずだよ。」
「そうでしょうか?」
「ああ、自分とは違う感覚、理論、考え方、そう言うのが倉木さんは一番好きだからね。」
その会話を聞いていた川端社長も少し驚いていた。
「あいつ、そうだったか?俺には結構厳しかったぞ。」
「社長、それは、社長が開発部を目の敵にしてたからでしょう。・・倉木さんが開発部長だった頃、よくみんなに言ってましたよ。営業部があるから俺たちは研究に没頭できる。製造部があるから思い切った開発ができる。倉木さんは、川端部長の事をかなり認めてましたし、製造部にも何度も頭を下げていましたからね。」
工藤の発言は、川端も磯貝も驚かせた。
「さあ、そろそろ、再開するか!倉木さんが戻って来られるまでに少しでも前進させよう。」
磯貝が立ちあがると、皆も社長に食事の礼を言ってそれぞれの現場に戻った。
川端は暫く皆の作業の様子を見守った後、再び、哲夫が休んでいる部屋に行くことにした。
その頃、哲夫も目を覚ましていた。薬が効いたのか随分顔色も良くなっていた。
ドアがノックされた。
ヒカルがドアを開けて、川端を迎えた。
「なんだ、久しぶりに仕事をしたんで疲れたか?お前らしくないな。」
川端は冗談気味にそう言って部屋に入り、ソファに座った。


3-59 哲夫の秘密 [命の樹]

59. 哲夫の秘密
「ああ、すまない。ずっと田舎町でのんびり過ごしてたんで、疲れたみたいだ。」
哲夫もベッドを離れ、川端に向かい合うようにソファに座った。ヒカルは少し離れたところに置かれた椅子に座った。
「開発部の皆、久しぶりに生き生きした顔で仕事をしてるよ。お前のおかげだ、ありがとう。」
「いや・・あそこまでよく開発を続けてくれていた。私の方こそ感謝したい。あれの開発はお前の指示だったのか?」
「いや・・会長だ。病床で会長から頼まれたんだ。あのファイルを手渡されてね。これがわが社を救うはずだと言われたんだ。半信半疑ながら、磯貝に頼んだんだが・・・。」
「そうか・・。」
哲夫は、会長の手書きのメモを見つけた時、この仕事を引き受ける決心をした。川端も同様であったことを知り少し驚いた。
「なあ、夕食は?」
川端が訊いた。しかし哲夫の食欲は無かった。点滴薬の影響もあったが、何より疲労感が消えていなかったからだった。余り良い反応がない事を察知した川端が言った。
「まあ、開発部のやつらもおにぎり程度だったからな・・あとで、持って来させようか。」
「ああ、そうしてくれるか。」
「ああ・・。」
川端は、ふと窓の外に視線を遣った。
もうすっかり日も落ち、窓の外には暗闇が広がっていた。
「会長は、この部屋で亡くなったんだ。・・最後まで会社の事ばかりだった・・それと・・お前の事だったんだ。お前が見せたあのアイディアを、会長はずっと持っていらしたんだ。お守りみたいにな。これは栗田製作所の未来なんだと・・。」
「そうか・・。」
「だから、俺は賭けたんだ。これが出来れば必ずわが社は必ず復活できると・・。」
「そうか・・・。」
「なあ、倉木。お前、なぜ会社を辞めたんだ?お前なら、あのアイディアをもっと早く形に出来たんじゃないか?・・いまだに判らないんだ・・会長も随分心配されていたんだ。本当の事を教えてくれ。」
哲夫は川端の質問にどう答えるべきか悩んだ。しかし、会長を思い浮かべるとこれ以上秘密している事は不義理になると決心した。
「川端、お前にだけは話す事にする。だが、皆には絶対に秘密にしてほしい。」
「判った。」
「会社を辞めたのは、病気のせいだ。肺ガンが見つかったんだ。もう手術できないほど進行していた。重要な研究を進める責任が果たせない。そう考えたから、身を引いたんだ。」
「やはりそうか・・・。」
「のんびり余生を過ごすつもりで、田舎町に引っ込んだんだ。暫くは何もせずぼんやりしていたんだが・・やはり、命は使い切りたいって欲が出てきて・・喫茶店を始めた。いろいろ、町の人の世話になりながら何とか今日まで生きてきたんだよ。」
「命を使い切りたいんなら・・ここへ戻ってくればいいじゃないか。ここの仕事こそ、本当にやりたい事じゃないのか?」
「いや・・無理だ。」
哲夫は首を横に振った。

3-60 残りの命 [命の樹]

60. 残りの命
ヒカルは哲夫の様子が気になっていた。薬が効いているはずなのに、どうにも息が苦しそうだった。
「大丈夫ですか?」
ヒカルが席を立ち、哲夫の横で小さく言った。
「ああ・・・。」
「横になりますか?」
哲夫はちらりと川端を見た。
「苦しいのか?医者を呼ぶか?」
川端は立ち上がって訊く。
「いや、大丈夫だ。ヒカルは優秀な看護士だ。さっきも投薬をしてもらった。ただ、今日はやはり疲れすぎたみたいだ。済まないが、川端、開発部の皆にはうまく言っておいてくれないか?」
「ああ、判ったから、早く横になれ。」
ヒカルと川端は哲夫を抱えるようにしてベッドに運んだ。
すぐに、酸素マスクを着け、哲夫は横になった。暫く、様子を見て、川端が部屋を出て行こうとしたところで、ヒカルが言った。
「川端さん・・マスター・・いえ、倉木さんは、肺ガンから、脳への転移が見つかってしまって・・もういつ急変してもおかしくない状態なんです。奥様も心配されていて・・一刻も早く、ご自宅へ戻れるようにしていただけませんか?」
「そんなに悪いのか?」
ヒカルは返事をせず涙を浮かべている。川端が大きなため息をついた。
「そんな状態と知っていれば・・・・。」
「川端さんから、もう帰っていいとおっしゃっていただけないでしょうか?」
「言うのは簡単だが・・」
川端はベッドで休んでいる哲夫を見た。
「あいつは、きっと、目途が立つまではここを離れないだろう。あと一歩まで来ているのは判っているんだ。あいつの研究心に火をつけてしまった。無理だろう。」
川端は俯いたまま、静かに部屋を出て、社長室に戻った。
「君、夕食を二人分、隣の部屋に届けてくれないか。」
社長室の入り口には秘書の女性が社長が戻るのを待っていて、川端の指示ですぐに立ち上がり、準備に入った。
「ああ・・少し、消化の良い、精の付くものを用意してくれないか。」
秘書は、はいと小さく返事をして、部屋を出て行った。
川端は、革張りの大きな社長のイスに座るとくるりと向きを変えて、外を見た。
哲夫が退職を申し出た時、営業部長として連日忙しくしていて、満足に哲夫を会話をしていなかった。もっと時間を取って話をし、何が何でも哲夫の退職を思いとどまらせるべきだったと、川端は強く後悔していた。いや、もっと早く、哲夫の居場所を見つけていれば・・とも考えた。
この数年間、あいつはどんなふうに生きてきたのか、そして、それは満足なものだったのか、あの店の様子を見る限り、まったく別の人生を過ごしていて満足の行く日々だったかどうか推し量れないものだった。残り少ない命と知って、どれほどの悲しみと苦しみを味わったのだろう。そう考えるうちに、自分はどうなのかと考え始めていた。しかし、自分に置き換えて考える事は容易いものではなかった。夜は深まっていく。

3-61 食堂の志津さん [命の樹]

61. 食堂の志津さん
翌朝、目覚めた哲夫は、ヒカルから車椅子を使う事を提案された。
「腰を痛めたからという理由で良いでしょう。・・どうしても立ち仕事が多いようですけど、体力が落ちているんです。夕方まで研究を続けたいなら、そうしてください。」
哲夫は、渋々、受け入れ、ヒカルに車椅子を押されて、部屋を出た。
「開発部へ行く前に、行きたいところがあるんだ。」
哲夫はそう言うと、1階にある社員食堂に向かった。食堂には、たくさんのテーブルとイスが整然と並んでいたが、まだ出勤前という事もあって社員はだれ一人いなかった。食堂の一番奥に、カウンターがあり、奥が厨房になっている。
「おや・・あんた、倉木さんじゃないか!」
厨房の中から、エプロンに帽子とマスクをつけた少し太った女性が出てきた。
「お久しぶりです。」
その女性は、マスクと帽子を取ると、カウンタの前に出てきた。
「お久しぶりもないよ・・・突然、辞めてしまって、びっくりしたよ。」
そう言うと、カウンターの前にあった丸椅子にドカンと座った。
「今日は、こんな朝っぱらから、どうしたんだい?それに車椅子なんか・・。」
その女性は、そう言うと、車椅子を押しているヒカルを見た。
「この子は、あんたの娘さんじゃないね・・美里ちゃんと千波ちゃんの顔くらいは判るからね。」
「ええ・・付き添いをしてもらってるヒカルさんです。ちょっと体調が良くないんですよ。」
「ふうん・・。」
志津はふたたびヒカルを見た。
「ああ、ヒカルちゃん、この人は志津さん。ここにいた頃、ずいぶん世話になったんだ。本当は、昼時間しか営業しないことになってるんだけど、開発部は徹夜も珍しくないからね。志津さんだけは、朝早くから夜まで僕たちに付き合ってくれて、夜食なんかも作ってもらっていたんだよ。体調管理なんかもばっちりで、若い社員で二日酔いなんか見つかると、志津スペシャルっていう苦いジュースを突きつけられるんだ。罰ゲームみたいなもんなんだが、これを飲むと本当にすっきりするんだ。」
志津は少し嬉しそうな表情を浮かべた。
「そうなんだよ。あのころは、ほとんど、ここで寝泊まりしていたねえ。一日4食作る事もあったし、栄養ドリンクだけ飲ませないってのが私の信条でね。ちゃんと食事を採れば大丈夫なんだからね。」
志津の言葉には料理人としてのプライドを感じさせた。
「でも、倉木さんだけは特別だったね。この人は、研究に入ると食事をすっかり忘れてしまうんだ。私が食事を運んで行って目もくれず集中してるだろ?だから、目の前で食べ終わるまで監視してないといけなかったくらいさ。まあ、会長の頼みじゃなきゃ、割に合わない仕事だよ。」
「今でも続いてるんですか?」
倉木が訊くと、志津がちょっと寂しそうな顔で答えた。
「いいや・・最近はほとんどそう言うことはなくなったね。不景気もあって、この社員食堂もすっかり淋しくなったさ。私も今月で引退の予定さ。だけど、急に、昨日、社長から呼び出されてねえ。やっと理由が判ったよ。倉木さん、あんたが来てたんだね。」
哲夫は少し苦笑いを浮かべていた。


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