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4-1 来客 [命の樹]

 浜名湖の周遊道路を1台のオートバイがゆっくりと走ってくる。何かを探すように、交差点で停まっては辺りを見回し、また走っては止まる、その繰り返しだった。
そのオートバイは、周遊道路から町へ入る交差点に差し掛かると、角にある須藤自転車屋の手前に停まった。そして、ヘルメットのフードを上げて、小さな看板を見つめた。
それから、小さく頷くと、目的の場所を見つけたように、急スピードで角を曲がり、町の通りを一気に走りぬけた。そして、神社の脇に停まった。
周囲に何か目印を探しているようだったが、そのまま、神社の左に伸びる道に向かって走り出した。そして、何度かカーブを曲がると、ミカン畑の真ん中で道は行き止まりになった。
「やっぱりそうか・・・。」
バイクの青年は小さく呟いてから、バイクを回転させ、来た道を戻って行く。
再び、神社のところまで来ると、バイクを鳥居の下に止めて、周囲を注意深く辺りを見回した。
ようやく、≪命の樹≫の立て看板を見つけて、草が伸びた石段を見上げた。
青年は、ヘルメットをとり、革ジャンを脱ぐと、後部座席に縛り付けていた大きなバッグを持ち、ゆっくりと石段を上って行った。

その青年はドアを開けると少しおどおどした様子で声を発した。
「すみません・・あの・・。」
「いらっしゃいませ。」
出迎えたのは、スリムで背の高い娘だった。若草色のエプロンをつけている。
「あの・・こちら、喫茶店じゃないんですか?」
「ええ・・以前は、喫茶店もしていたんですけど・・今はベーカリーショップです。」
「そうですか・・。」
青年はちょっと戸惑った表情を見せた。
それを見てすぐに娘が答えた。
「あの・・コーヒーとサンドイッチくらいの食事ならお出しできますよ。・・ここのパンを買っていただいても良いですし・・よろしければどうぞ。」
そう言われてもまだ青年は戸惑っている。
「あの・・健さんにここを教えてもらって来たんです。」
その青年が言うと、出迎えた娘はなんの事だかわからない表情をした。
「健さん?」
怪訝そうな表情の娘に青年はさらに説明するしかなかった。
「昔、若いころに、放浪の旅をしているとき、台風にあって怪我をして、ここのマスターに助けてもらったって、それで、その後も、ここでバイトをしていたって聞いたんです。・・それから・・この町で、バイクの修理を教えてもらったって。」
そこまで聞いて、その娘が急に微笑んだ。
「ああ・・健ちゃん・・そうなの・・健ちゃんの知り合いなのね。」
出迎えたのは、千波だった。
「ちょっと待ってね、今、母を呼んできます。」
千波はそう言うと、階段を上がって行った。
青年は、店内を見回した。
喫茶店だと聞いていたが、客席らしいテーブルは3つしかない。
入口はベーカリーショップになっているし、その奥の小部屋には、見たこともないような飾り物や缶詰、菓子、雑貨類が棚に並んでいた。健に聞いた話とはずいぶん違っている。
だが、先ほどの女の子の反応は、間違いなくここがあの《命の樹》だと証明していた。
しばらくすると、階段から足音が響いてきた。
そして、千波と一緒に顔を見せたのは、加奈だった。
「初めまして。僕は・・谷原 翔って言います。バイク屋の健さんから、この店を教えてもらったんです。・・ああ、そうだ。」
翔はヘルメットと皮ジャンを無造作に床に置き、右手に持っていた大きなバッグも床に置いて、中から白い箱を取り出した。
「これ、健さんが奥さんに持っていくと良いからって言ってたんで・・。」
差し出したのは、箱に入ったドーナッツだった。

4-2 理由 [命の樹]

2. 理由
「まあ・・ありがとう・・・。翔君ね。健ちゃんは元気?」
加奈は嬉しそうにその箱を受け取る。
「ええ・・腕の良いバイク屋で、随分とお世話になっています。」
「そう、バイクの修理、やってるのね。良かった。」
加奈が笑顔で頷いた。
「実は、・・以前に、修理をしてもらった時、ここへ行ってみろって教えてもらったんです。」
「そう・・。そんな遠くから来てもらうようなお店じゃないのにねえ・・・。」
加奈は、翔が持ってきた大きな荷物を見て、何か気づいたようだった。
「まあ、いいわ。座ってお話ししましょう。健君の様子を教えてちょうだい。千波、コーヒーお願い。」
加奈に促されて、翔はテーブルについた。

千波は、コーヒーを運んでくると、加奈の隣に座った。
「さあ、どうぞ。」
「はい・・。」
祥は差し出されたコーヒーに口をつけた。
「そうなの・・健君、元気なのね。良かったわ。ここへ来たばかりの頃は、なんだか、生きる意味を見失っていたようだったからね・・・。」
加奈は、昔を懐かしむように言う。
「バイクの修理屋を始めたのね?」
「ええ・・もう3年くらい前でしょうか。小さなガレージで・・儲かっているのかどうかは知りませんけど・・具合の悪いところをすぐに見つけて、安く修理してもらえるんです。」
「そう・・。」
「それに・・昼も夜も・・時間、関係なしに、いつでもやってもらえるんで本当に助かります。・・ただ、ちょっと理屈っぽいっていうか・・説教好きっていうか・・。」
「説教?あの・・健君が?へえ、そうなの。」
意外な言葉に加奈は驚いて見せた。
「いや…うまく言えませんけど、とにかく、悩んでいたり、やる気がなかったり・・そういうのが気に入らないみたいで、修理しながら説教するんですよ。それに、バイクを大事にしていない奴のは、なかなか修理してくれないんです。・・ちょっと偏屈なんです。・・親父みたいというか、兄貴というべきか・・」
翔の口ぶりは、それが健を慕う理由にも聞こえた。
≪命の樹≫に来たばかりの、健とは別人のようで、どこか、哲夫みたいであり、須藤自転車の親父のようにも聞こえて、加奈は嬉しかった。

「・・あの・・もう、喫茶店はやってないんですか?」
翔が訊いた。
加奈は少し寂しそうな表情を浮かべてから、答えた。
「そうね・・やっていないわけじゃないんだけどね・・・昔みたいにたくさんのお客様を迎えるのはもう無理なのよ。・・でも、パンを買っていただいた方にここで召し上がってもらえるくらいにしてるのよ。」
翔はそう聞いて改めて店内を見回した。
「あれは?」
パンの陳列台の横、日当りの良いテラス越しの小さなスペースを見て訊いた。
「あれは、私のお店なの。」
千波が答える。
「フェアトレードって知ってる?」
「フェア?」
翔は初めて聞いた言葉のように訊きかえした。
「フェアトレード。公平な取引っていうこと。アフリカやアジアの厳しい暮らしをしている人達の作った物を売っているの。値段も現地の方々の暮らしが成り立つようになってるの。・・ようやく、何とかなりそうなところよ。」
翔は、千波の弁舌を聞いていたが、今一つピンと来なかった。普通の雑貨屋とどう違うのか、それほど魅力のあるものでも無さそうだし、何より、こんな場所では商売にならないんじゃないかと感じていた。
「あの・・・マスター・・は?」
翔の問いにちょっと加奈はちょっと戸惑ったような表情を浮かべる。(10/2)

4-3 2年前の出来事 [命の樹]

3. 2年前の出来事
加奈が戸惑った表情をしたまま、答えないのを見て、千波が言った。
「父は、2年ほど前に他界しました。」
今度は、祥が驚いた表情を浮かべた。
「この店を開いた時から・・あの人、病気だったの。末期の癌だったのよ。・・・。」
加奈が少し淋しそうに言った。

話は、2年前の春に遡る。

哲夫は、加奈と二人で、テラスの前のバラの手入れをし終わったところで、強い発作を起こした。急変に気づいたヒカルがすぐに処置をしたが、容体は思わしくなかった。連絡を受けて結が駆けつけて、カンフル剤や新薬を投与し、出来る限りの処置をしたが、哲夫の意識は戻らなかった。ただ、呼吸と脈拍、血圧は安定していて、静かに眠っているようだった。
「哲夫さんは・・。」
憔悴し切った表情で、哲夫のベッドの脇に座る加奈が結に尋ねる。
「脳内の腫瘍のせいでしょう。バイタルが安定していますから・・一時的なものじゃないかと・・。」
「大丈夫なのね?」
祈る思いで加奈が訊く。
「今すぐどうという事はないと思います。でも・・」
「でも?」
「このまま意識が長い間戻らなければ、体力が心配です。当分は、点滴で栄養を補給できますけど・・やはり、徐々に体力が落ちるはずです。そうなれば・・・・」
結はそこまで言って、口を噤んだ。医者としての答えは明白だった。だが、それを口にする事は出来なかった。自らの無力さを・・いや、何よりも哲夫の死を自分自身受け入れる事が出来なかったのだった。
「とにかく、おじさんの意識が戻るのを信じるしかありません。」
結の言葉に、加奈は哲夫の手を強く握って、自分の頬に当て、祈った。
「哲夫さん・・目を覚まして・・・。」
その日は、一晩中、加奈は哲夫のベッドから離れようとはせず、じっと手を握り、哲夫に同じ言葉を繰り返すばかりだった。
ヒカルと結も、点滴の様子を見たり、バイタルチェックをしたり、一晩中、交替で看護をした。

夜遅くに、美里が車を飛ばして戻ってきた。
勤務先からそのまま向かったのだろう、美里は福祉施設の制服のままだった。美里は、すぐに結から、哲夫の状態を聞き、落ち着いた様子で加奈のところへ行った。
意外に冷静だった。静かに眠っているような哲夫の様子をみると、「大丈夫よ。きっと。」と言って、加奈に寄り添うようにしてベッドの脇に座った。

明け方になって、吉彦がパンを焼く仕事のために店に現れた。
「昨日、マスターの容態が急変したの・・・。」
ヒカルが厨房で、やっと聞こえるほど、小さな声で言う。
「えっ?」
吉彦は驚いて、そっと哲夫が横になっているベッドの方を見た。そこには、祈るような表情で傍に居る加奈の姿があった。
「今は安定してるんだけど・・あのまま目を覚まさない事も・・・・。」
ヒカルは看護師だった。病院勤務の時、末期癌の患者を何人も見送ってきた。食事ができなくなれば、一気に体力が落ち、そのまま命を落とす患者を見ている。だからこそ、今の状態がどれほど危険かをわかっているのだった。
「当分、お店は臨時休業にするしかないわ。パンを焼くのも当分は無理よ。」
ヒカルに言われなくても、今がどういう状態かくらい吉彦にも判っていた。
「加奈さんはずっとあの様子なのかい?」
「ええ・・一晩中、あのまま。手を握ったきり、傍を離れようとは・・・」
「君は大丈夫かい?」
「ええ・・結先生と交代して看護してるから・・・。」
「そうか・・。」(10/3)

4-4 夜明け [命の樹]

4. 夜明け
しばらくして、吉彦は店を出た。
白み始めた空。今日はパンは焼かない。ここに居ても自分にできることはないと考えたのだった。
裏の戸口から出ると、遠くに、漁船の灯りが見えた。おそらく、源治の船だろう。
それを見て、哲夫の急変を、源治に知らせるべきかどうか、吉彦は悩んでしまい、しばらく動けずに、パン焼き窯のベンチに座っていた。

そこへ、与志が顔を見せた。
「おや・・今日、パンは焼かないんだね。」
与志はそう言うと、吉彦の隣に座った。
「てっちゃんに・・・何かあったね・・。」
与志は静かな口調で言った。
吉彦は何も答えられない。
「夕べからずっと、店の明かりが点いたままだったね。それに真夜中に車が来た。たぶん、美里ちゃんだろう・・てっちゃんの具合が悪いんだろ・・・。」
吉彦は頷くしかなかった。
「やっぱり・・そうか・・・」
与志もそう言ったきり、押し黙った。

暫く、二人は遣る瀬無い思いで遠くを見つめた。

源治の船がそろそろ港に着く時間だった。源治は気付いているだろうか。
「一度、家に戻ります。」
与志は吉彦の言葉に頷いた。与志も立ちあがり、ミカン畑へ降りて行った。
吉彦は、石段を降り、家までの道でずっとどうすべきか考えていた。だが、答えはなかなか出なかった。

ついに夜が明けた。春らしいぼんやりとした朝日が野山を照らし始める。
穏やかな日だった。

千波が戻ってきた。
哲夫の急変を聞いたのは、ゼミの卒業旅行で、東北へ旅をしている最中だった。
すぐに旅行は切り上げたものの、東京まで戻ったものの、最終の新幹線が出てしまっていた。朝まで待つ気持ちにはなれず、新宿からの夜行バスで戻ってきたのだった。

「お父さん!」
千波は玄関から入るや否や、鞄を放り出して、哲夫に縋り付いた。
「目を覚ましてよ!ねえ、お父さん!」
千波は、美里とは打って変わって、取り乱していた。
日頃は至って沈着冷静に見えていたが、相当動揺しているようだった。そんな千波の様子を見かねて、ヒカルがそっと声を掛けた。
「大丈夫よ。今は安定しているから・・・大丈夫。」
ヒカルは千波の背中をさすりながら、宥めるように言う。

少し落ち着いた千波が、今度は加奈を見て泣き出してしまった。
加奈は一晩中哲夫の脇でじっと手を繋いでいたのだが、その表情は随分と窶れて見えたのだった。
実年齢よりも随分と若く見られるほど、日ごろの加奈はイキイキとしていた。だが、哲夫が急変したことで、精神的にも肉体的にも張りを失ってしまったのだろう。そんな加奈を見て、余りのショックに千波が泣き出してしまったのだった。
「おかあさん・・・。」
それ以上言葉が出なかった。千波は幼子のように加奈に縋り付いて泣いた。そんな様子を見て、加奈に寄り添っていた美里も泣いた。加奈と美里と千波は、互いを抱くようにして泣いた。
これほど泣いたのは、哲夫の病気が見つかった日以来だった。(10/4)


4-11 美里の思い [命の樹]

11. 美里の思い
次の日には、源治たちに加えて、竜司たちの若い漁師仲間も顔を見せた。
最初は、眠ったように横になっている哲夫を不思議そうに見ていたが、次第に、世間話をするようになった。そして、いつの間にか、哲夫のベッドサイドには、いつも町の人が居て、哲夫と世間話をしているような光景に変わっていた。

3日ほどが過ぎた夕暮れ時、2階の部屋で休んでいた美里が、仕事に戻ると言い出した。
「お姉ちゃん、どうして?こんなお父さんを置いて仕事に戻るって、どういう事なの?」
千波は信じられないと言わんばかりに美里に食って掛かった。
「じゃあ、千波、このままずっとお父さんが回復するまでここに居れば、それで良いの?そんな事、お父さん、喜ぶと思う?」
「喜ぶとかじゃなくて・・・このまま、目を覚まさなくて・・。」
千波がそこまで言って噤んだ。
「このまま死んじゃうって言いたいの?そんなわけないでしょ。結ちゃんも回復するだろうって言ってくれてるし・・何より、お父さんは、全てを辞めて、ここでじっと待っているのは喜ばないわ。」
「そんなことない!傍に居て欲しいはずよ!」
「違う。私はそうは思わない。・・・覚えてない?お正月に、結婚するって言って、彼にも来てもらった時の事。お父さん、病気だからって結婚を早めるようなことはするなって言ったでしょ。自分の人生をちゃんと生きろって言ったの。」
「だからって・・仕事に戻るなんて・・。」
「私の仕事は介護士なのよ。グループホームには、私の帰りを待ってる人がたくさんいるの。お父さんもきっと判ってくれるはず。」
「そんな・・・。」
「良いの。千波がどう言っても私は決めたの。週末にはまた戻ってくるから。きっと、その頃にはお父さんも目を覚ましているはずよ。」
姉妹の言い合いはここで終わった。加奈が、美里の言い分に理解したからだった。
「美里、千波、きっとお父さんは大丈夫よ。元気になるわ。でも、きっと、それはいつになるかは誰にも判らない。それまでじっと今のまま待ち続けるのは、きっと哲夫さんは喜ばない。もともと、仕事人間だったんだから。・・ほら、ほんの少し前にも、無理を押して、栗田製作所へ行ったじゃないの。美里がちゃんと仕事を頑張るって言うなら、きっと哲夫さんも応援するはずよ。千波も、今のままじゃ駄目よ。」
まだ、千波は納得していない様子だったが、美里は「お母さん、ありがとう。」と言って、帰り支度を始めたのだった。

1階では、町の人が数人、ベッドサイドの椅子に腰かけて、哲夫に話しかけていた。支度を終えて、美里が降りてくると、一足先に1階に降りていた加奈が、美里を見送りに玄関まで出てきた。
「お母さん、ごめんなさい。でも、きっとお父さん、判ってくれるよね?」
「ええ、大丈夫。また、週末に戻ってきてね。」
そう言って、美里と一緒に石段を降りかけた時、美里が言った。
「ここで良いわ。お母さん、千波の事、お願いします。」
そう言って、足早に石段を降りて行き、自分の車に乗り込むと一気に走りだしたのだった。
美里の茶色の軽自動車は、町の通りを勢いよく駆け抜けていく。石段の上から遠くを見ると、木々の隙間から走り去っていく美里の軽自動車がとぎれとぎれに見えた。湖岸道路のカーブで見えなくなるまで、加奈は美里を見送った。

湖岸道路を走り、高速道路のインターチェンジに向かう軽自動車の中で、美里は目に涙をいっぱい溜めていた。カーブを曲がったところで、いよいよ視界が涙で遮られ、美里は道路わきに車を停めた。
千波にはあれほど強い事を言った美里だったが、心の隅っこの方で、哲夫の死が近いのではないかと思っていた。そしておそらく今生の別れになるだろうと覚悟を決めていた。
哲夫が末期癌に犯され、余命わずかと宣告されても、命を使い切ろうとしている姿を見てきたからこそ、自分もしっかり生きねばならない、父の生き様を見習わなければならない、そう決めていた。しかし、今、どうしようもない悔しさと寂しさと悲しみが一気に胸にこみ上げてくるのだった。
後悔ではない。命を使い切ろうとしている父に、自分はこれまでどんな親孝行が出来たのか、もっともっと時間が欲しい、それが正直な気持ちだった。
美里は、車を停めたまま、声を上げて泣いた。
周囲が闇に包まれる頃、美里の車はようやく動き出し、インターチェンジに消えた。

4-5 見舞い [命の樹]

5. 見舞い
吉彦が源治の家に戻ると、ちょうど源治も戻ってきたところだった。
「おい、吉彦。どうした?」
吉彦が浮かぬ顔をしているのに源治はすぐ気付いた。
「いえ・・」
「てっちゃんに何かあったのか?」
「え・・どうして・・。」
「沖からあの店の灯りが見えたんだ。いつもなら、屋根の上のライトだけしか見えないはずなんだが、夕べはずっと明かりが点いていたんだ。夜通し明かりが点いてるなんて、今までなかったことだ。一体、何があった!」
源治の口調は厳しかった。
「哲夫さん、昨日、意識を失ってこん睡状態らしいんです。」
「なんだって?・・そんな、そんな事って・・・。」
源治は持っていたバケツを落とした。バケツの中には,獲ってきた魚が入っていて、辺りに跳びはねた。
「それで・・危ない・・の・・かい?」
源治は、眉間の深い皺をさらに深くして、確かめるような口調で言う。
「いえ・・今は安定しているようです。意識がない状態ですけど・・・。」
吉彦の答えに源治は少し安堵した様子を見せた。
「そうかい・・そうか・・じゃあ、きっと大丈夫だ。てっちゃんはそんな簡単にはくたばらないさ。」
そう言うと、辺りに散らばった魚をバケツに集め始める。
「そうか・・そうだよ、大丈夫さ。」
源治は小さく呟くように言いながら、魚を集める。
目には大粒の涙が光っていた。
源治は魚を集め終わると、涙を拭い、顔を上げて吉彦にきっぱりと言った。
「いいか、吉彦。とりあえず、お前はすぐに店に戻れ。」
「でも・・もう今日は、店は開けないし・・パンだって焼かないって・・。」
「それでもいいんだよ。」
「でも・・・」
「きっと、加奈さんも力を落としてる。崖っぷちに立ってる思いに違いない。もちろん、ヒカルも傍にいるだろうが、こういう時には、男手も必要なんだ。何でもいいから、お前のできる事やってこい。こういう時に恩返しするんだよ。良いな。俺も、着替えたらすぐに行くから。」
源治はそう言うとバケツを抱えて、家に戻った。
「ばあさん!ばあさん!帰ったぞ。」
バタバタと源治の足音が家の中から響いていた。
吉彦は源治に言われた通り、すぐに来た道を戻って行く。途中で、竜司に会った。吉彦は、竜司に哲夫の事を伝えた。竜司は一通り話を聞くと、頷いて言った。
「わかった。町の人には俺が伝えてこよう。あまり大騒ぎにならないように伝えるさ。・・いや、このところ、みんなも心配してたんだ。玉木商店の親父なんか、人の顔を見るたびに尋ねてくるしな・・大丈夫さ。きっとてっちゃんは元気になるさ。吉彦、頼むぞ。ヒカルちゃんも気丈に見えるが、きっと心細いに違いない。お前が傍に居ればきっと安心する。」
竜司は笑顔で言った。

陽が昇り、部屋の中に朝日が差し込み始める。
哲夫の様子は変わらず、唯、静かに眠っているように見えた。
そこへ与志が顔を出した。
「加奈さん・・これ・・。朝早く採ってきたんだ。」
与志は籠に春野菜をたくさん入れて持ってきた。
一晩中、ベッドの脇でじっと哲夫の手を握っていた加奈が、ふっと顔を上げ、厨房の奥から心配そうな顔を出した与志を見た。
「与志さん・・・。」
与志は何も言わず、加奈を見つめて、うんうんというように頷いた。
加奈はそんな与志を見てぽろぽろと涙を溢す。
与志は、静かに加奈の隣に行くと、そっと肩を抱く。
「大丈夫、大丈夫。信じなきゃ。」
与志の言葉は加奈に胸深くに沁みた。(10/5)

4-6 良い夢 [命の樹]

6. 良い夢
「加奈さん、少し休んだ方が良いわ。」
点滴の様子を見乍ら、結が声を掛ける。
「大丈夫。安定してるから…このままじゃ、加奈さんの方が体を壊してしまうわ。」
結がさらに続けた。
「そうですよ。加奈さん、少し休みましょう。そこのソファで横になった方が良いです。」
ヒカルも言う。
それでも、加奈は哲夫の傍を離れようとはしなかった。
「お母さん、私たちが傍に居るから・・ね、少し休んで。」
美里が加奈の代わりに哲夫の手を握る。そして、千波が加奈をソファまで連れて行った。
加奈はソファで横になった。昨夜からベッドの脇の椅子に座りずっと同じ姿勢だったせいか、体の節々が痛くなっていた。
「加奈さん、点滴しましょう。」
横になった加奈のところへ、結が来て、ぶどう糖の点滴を打った。少し安定剤も入っていたのか、加奈はしばらくすると眠りにおちた。
千波と美里が哲夫のベッドの両サイドに座って、様子を見ている。
「お父さん、どんな夢、見てるのかしら?」
不意に美里が言った。
千波は少し驚いた表情を浮かべた。
「どんな夢って・・・お父さん、眠ってるんじゃないわよ。」
千波は少し苛立ったような言い方をする。
「そう?・・何だか、眠ってるみたいじゃない。苦しそうじゃないし・・。」
美里はそう思い込もうとしている。癌のせいで苦しく辛い思いをしているとは考えたくなかった。
「そうかな・・。」
「きっと、良い夢見てるのよ。だから、目を覚ましたくないんじゃない?」
「ええ?じゃあ、耳元で怖い話をして、嫌な夢に変えたら目を覚ますんじゃない?」
「そんな、かわいそうじゃない。」
「みんなを心配させて、自分だけ良い夢、見てるなんて、ダメよ。」
他愛のない会話だった。だが、気持ちが少し楽になったように感じられた。
「ねえ、お姉ちゃん、覚えてる?まだ、私が幼稚園の頃だと思うけど、家族でキャンプに行ったじゃない?」
「うん。・・あの頃、毎年夏にはキャンプだったよね。川で泳いでバーベキューして、スイカを食べて・・。」
「お姉ちゃんは、楽しかった?」
「ええ、今でもまた行きたいなあって思うけど・・。」
「そう・・・私ね、本当は行きたくなかった。」
「どうして?楽しかったじゃない。千波だって、随分はしゃいでいたと思うけど・・。」
「昼間はね、良いのよ。お母さんも、キャンプの時はのんびりして、多少の事は怒らなかったから。」
「じゃあ、いいじゃない。」
千波は美里の答えにがっかりした表情を浮かべてから言った。
「でもさ、夜がね。」
「え?テントで寝るの、嫌いだった?」
「そうじゃないの。夜、目が覚めちゃうのが嫌だったの。こうやって、お父さんを挟んで寝てたでしょ?お父さんっていびきが酷かったじゃない。」
「そうそう・・地鳴りっていうか、大きなカエルの鳴き声って言うか・・怪獣かもね。」
美里が懐かしむように笑顔になって哲夫を見て言った。
「だから、一度目が覚めると、五月蠅くて、五月蠅くて、もう眠れなくなっちゃうのよ。それに、外は真っ暗なのに、時々、変な音が聞こえるし・・おまけに、トイレに行きたくなっても、真っ暗で怖くて怖くて・・お父さんを起こそうとしても、ちっとも起きてくれなくてさ・・。」
「そうそう、そうだったわね。いつも、私が起こされたのよね。お母さんを起こすと怒られるって・・。」
「そうなのよ。お父さんって一度眠っちゃうとなかなか起きなくてさ・・。」
「本当ね。・・・やっぱり、お父さん、きっといい夢見てるのよ。」
美里は、そう言うと、静かに息をしている哲夫の顔に触れた。
その瞬間、美里は、ハッとした。意識の無いはずの哲夫の瞳から一筋涙が流れていたのだった。
「ねえ。千波。お父さんの瞳・・・」
千波も、哲夫の瞳を見て、びっくりした。
千波は立ち上がって、結の姿を探した。結は、店の隅の椅子に座ってうとうととしていた。

4-7 脳波計 [命の樹]

7. 脳波計
結は、千波に聞いて驚いて立ち上がった。ヒカルもすぐにベッド脇に来た。
バイタルモニターは、安定した値を示している。
だが、千波が言うように、哲夫の瞳には確かに涙が流れた跡があった。
結は、哲夫の瞼を開けて、瞳孔を確認した。だが、反応はない。次に、頭全体を手で触って温度の違いがどんなふうに起きているか探ろうとする。後頭部や首筋辺りまで丹念に調べていく。
結は腕組みをして、じっと考え込んでいる。
「意識はないままなのは間違いないのだけど・・。」
「どういうこと?意識がなくても涙が流れるっていうことはあるの?」
千波が結に尋ねる。
「お父さん、意識はあるんじゃないの?」
美里も矢継ぎ早に訊く。
結は二人の質問には答えられなかった。
「やっぱりここでは・・限界ね。もっと、詳しく調べてみないと良く判らないわ。・・でも、今、おじさんを動かすと違う発作が起きるかもしれないし・・。」
「結先生、病院から脳波計を持って来れませんか?・・とりあえず、脳波計があれば、今よりは詳しい状態が判るかもしれません。」
ヒカルが言った。
「そうね・・でも・・。」
結は躊躇した。それほど簡単な事ではない。
「僕が行ってきます。病院の方で、どなたか判る方が居れば・・・。」
吉彦が申し出た。結は少し考えてから答えた。
「そう?じゃあ、すぐに連絡しますから・・くれぐれも慎重に運んでください。お願いします。」
吉彦はすぐに店を出て、加奈の車を借りて、水上医院に向かった。

「二人はいつ気付いたの?」
哲夫のベッドの脇に3人は座って話している。
「二人で、昔の思い出話をしていたの。ふと見たら、涙が・・・。」
「そう・・。」
「ねえ、お父さん、話し声が聞こえているって事ないかしら?」
美里が言う。
「眠っているときでも・・ほら・・眠りが浅い時って近くのもの音とか聞こえるでしょ?そういう事・・」
「おじさんは眠ってるわけじゃないのよ。」
結が言う。
「じゃあ、どういう状態なの?」
千波が訊く。
「どういう状態って・・・」
結は答えに困った。確かに意識がない状態というのはどういう状態なのだろう。明快な答えは持ちえない。
「私たちの話を聞いていて涙を流したに決まってるわ。きっとお父さん、目が覚めているはずよ。」
美里は、そう信じたいと願っていた。

しばらくして、吉彦が幸一と一緒に脳波計を運んできた。
すぐにセットされ、哲夫の脳波を計測しはじめた。モニター画面とグラフシートがゆっくりと動き始める。
結はグラフとモニターを交互に見ながら、しばらくして驚いた表情を浮かべた。そして、幸一を見た。
「不思議だ・・こんなことってあるのか?」
先に口を開いたのは幸一だった。
「ええ・・でも、こんな状態なら・・・。」
「ああ、そうだね。どうして目を覚まさないんだろう。」
幸一はそう言うと、センサーを違う場所に移して、再び、モニター画面を見入る。
「間違いないようね。」
今度は結が言う。
「意識がないんじゃない・・・反応できない・・・いや・・。」
「腫瘍によって、神経が圧迫されているのよね。意識はあるけど、反応できない。そういう状態なんじゃないかしら。」

4-8 一縷の望み [命の樹]

8. 一縷の望み
ソファで横なっている加奈も目を覚ましたようだった。
「お母さん、お父さんね、涙を流したのよ。」
千波が嬉しそうに加奈に言う。
「涙?」
加奈は驚いて訊きなおした。
「ええ、一筋、涙が流れたの。お父さん、きっと・・起きてる・・間違いないわ・・。」
美里が言う。
加奈は、ぱっと立ち上がって、哲夫のベッドに急いだ。
そして、二人が言うように、一筋の涙の跡を確認する。そして、哲夫に、まるで頬ずりするように顔をくっつけて、そっと耳元で囁いた。
「哲夫さん・・ねえ・・起きてるの?」
哲夫はこれまでと同じく反応しない。
「本当なの?意識が戻ったの?」
加奈は、ようやく一筋の光が見えたようで、祈るような気持ちで結に訊ねた。
「いえ・・意識が戻ったわけじゃ・・・。」
結は困った表情で答えてから、幸一を見た。
幸一は結の気持ちを察して、少し優しい声で答えた。
「正確に言うと、意識が回復したのではないんです。もともと、哲夫さんは意識を保ったままのようなんです。ただ・・反応できないという状態に陥っているという方が良い。」
「どういう事か良く判らないんだけど・・。」
加奈が訊く。
「確かめるすべはありません。ただ、脳波計の結果を見る限り、哲夫さんの脳波は正常に出ています。脳は起きている状態に近いんです。でも、体は全く反応しないんです。」
「そんな事・・。」
「ええ・・驚いています。おそらく、脳の中で腫瘍が反応に関係する神経を圧迫していて、こういう状態になったとしか考えられません。開頭手術で、腫瘍を取り除ければ良いんですが、もうこの状態では体力的に無理です。」
「そんな・・・意識はあるけど動けない状態なんて・・・。」
一通り説明を聞いて、加奈は泣き崩れた。
「何か・・別の方法は・・・」
千波が訊く。幸一は首を横に振った。そして、哲夫のベッドから離れた。

結と幸一は、テーブル席に座り、自分たちの無力さを痛感していた。そして、脳波計が吐き出したグラフをぼんやりと見つめていた。
幸一が、ふと不思議な事に気づいた。
「ねえ、結。ちょっと、ここを見てくれないか?」
「どれ?」
幸一は何本も記録された脳波グラフの一カ所を指で示した。
「これは、どういう事だろう?」
うなだれた表情を浮かべていた結がぼんやりと示されたグラフを見つめ、はっと見入った。
「初めてみるわ・・・こんな事ってあるのかしら?」
「僕も初めてだよ。ここにこんなサインが出るはずはないんだが・・運んでくる途中で故障したのか?」
「いえ・・故障じゃないはずよ。ちゃんと波形を示してるし。」
そう言うと、幸一とともに、哲夫のベッドに行き、取り付けられたままの脳波計モニターを覗きこんだ。
「ほら、今でも同じように反応してる。ひょっとしたら、腫瘍とは別に何か・・。」
二人は一点に集中している。
そして、いろいろな仮説を頭の中に広げているようだった。
「失われた部分を補うような変化かもしれない。・・・。」
「確か、腫瘍の場所はここよね。そこはもう機能していないようね。でも、ここは・・・。」
「そこは機能しているんだ。」
「ええ、きっとそうね。」
医者同士の会話は、加奈も、千波も、美里も理解できなかった。

4-9 回復の兆し [命の樹]

9. 回復の兆し
「ちょっといいかしら。」
結がそう言って、哲夫の頭部をもう一度触った。
ガシガシと言う感じで少し強めに触れているのが判った。
「やっぱりそうね。幸一さん、きっとあなたの予想通りよ。・・。」
二人の様子を見ていた千波が訊いた。
「結先生、どういう事なのか説明して。」
「ごめんなさい。・・ちょっと整理するから・・・。」
結と幸一は一旦ベッドから離れて、テーブル席に戻り、小声で仮説を検証し始めた。
その間、千波と美里は加奈を支えるようにして座り、じっと哲夫の顔を見ている。
しばらくして、結と幸一の話はまとまった様子だった。
二人はゆっくりと三人の前にやってきた。
「CTやMRIで検査をしたわけじゃないから・・あくまで仮説として聞いてください。」
幸一はもう一度結を見て、頷いてから話し始めた。
「今の哲夫さんの状態は、意識はあるが反応できない状態に間違いないでしょう。反応できないのは、脳内の腫瘍が肥大し、主要な神経を圧迫、あるいは神経組織自体に腫瘍が広がってしまって、その機能を失ったのだと考えられます。」
幸一は、先ほどまでの話をひとまとめに整理して言った。
「ええ・・それは判ったわ・・。」
千波が答えた。
「通常なら、そのままさらに進行して、心臓や肺を止めてしまうはずなんです。これが死ぬという事です。でも、哲夫さんの脳波計では、本来、脳波の出ない場所から反応が出ているんです。」
「どういうこと?」
美里が訊く。
「人間の脳は100%使っているわけじゃないんです。大部分は動いていないという説もあるんです。事故とか病気で脳の損傷が起きても、ある程度機能回復できるケースはたくさんあります。そういうケースでは、本来動いていない場所が失われた機能を補うように動き始めるケースなんです。」
「まさか・・それが・・」
加奈が訊く。
「ええ。哲夫さんの脳の中で、今、そういう変化が始まっているようなんです。確証はありません。でも可能性はある。回復している部分が、身体反応に関係する部分であるなら、いずれ、目を覚ます可能性もあるという事なんです。」
幸一の言葉は加奈や美里、千波にはもはや回復できるという風に聞こえていた。
「本当なの?」
加奈が結に確認するように訊いた。
「ええ・・全くのゼロではない。可能性はあるという事です。そして・・今、こうして話している事もきっとおじさんには聞こえているはずです。」
結の言葉に、加奈も千波も美里も、哲夫の顔を見た。再び、哲夫の瞳から一筋の涙が流れたように見えた。
「うん・・聞こえてるわ。そうよね、お父さん!」
美里が哲夫に縋り付いた。その時だった。加奈が繋いでいた哲夫の手がピクリと反応した。
「あ・・今・・哲夫さんの手が・・。」
加奈はそう言うと哲夫の手を強く握り返し、哲夫の腕に顔をうずめた。
「そうやって、刺激を与える事で・・ひょっとしたら意識の回復が早くなるかもしれません。外からの刺激で徐々に反応できるようになれば・・・。」
幸一が言う。
「お父さん!目を覚まして!」
千波が哲夫の顔を触り、耳元で話しかける。親子3人は必死で哲夫に声を掛け始めた。
そこへ、源治が顔を見せた。
「おい・・吉彦・・・一体、こりゃあどうしたことだい?」
吉彦が、これまでの経緯を一通り説明すると、源治は言った。
「そうさ・・てっちゃんは、そう簡単にくたばりゃしないさ。そうか、そうか。良かった。」
源治の目には涙が浮かんでいる。
「出直してくるよ。」
源治はそう言うと家に戻っていった。

4-10 語り掛け [命の樹]

10. 語り掛け
「僕は一度大学病院へ行ってくるよ。」
親子三人が交代で話しかける光景を見ながら、幸一が言う。
「こんな症例がないか・・回復までの記録も探してみるよ。」
「そう・・判ったわ。私も一度病院へ戻ります。薬剤や栄養剤なんかも補充しておきます。何かわかったら連絡してね。」
結は幸一を見送った後、しばらく、哲夫の容態を見てから、ヒカルに言った。
「ヒカルさん、今は容態が安定しているようだけど、注意してね。変化があったらすぐに連絡して。」
結は病院へ戻って行った。
入れ違うように、与志が再び顔を見せた。
朝方は、加奈も気が動転していて動くことも出来ず、与志の顔をちらりと見るくらいだったが、今回は落ち着いて与志を迎えることができた。
「回復しそうだって?」
与志は源治に話を聞いていたようだった。
「ええ・・刺激を与えることが必要だろうって・・。」
「そうかい。」
与志はそう言うと、哲夫のベッドの脇に立った。
「与志さん、どうぞ。お父さんに何か話しかけてあげて・・。」
千波が椅子を立ち、場所を開けた。

与志は、ベッドの脇の椅子にちょこんと座った。
加奈たちは与志をベッドサイドに残してその場を離れた。
与志は暫く、哲夫の手をさすりながらじっと哲夫の顔を見つめている。
何度か溜息をついて、ようやく口を開いた。
「てっちゃん・・・辛くないかい・・・。」
与志は、自分の夫の事を思い出していた。
亡くなる前夜までごく普通に、元気だったが、朝には既に息を引き取っていて、別れの挨拶もないままだったのだ。あまりに突然の事で、与志は当分、夫の死を受け入れることができなかった。ぽっかりと穴が開いてしまったようで、時も止まったままだった。哲夫と加奈が越してきてようやく少しずつ、穴が小さくなっていくように感じていた。しかし、また、あの時と同じように、心の中に大きな穴が開いてしまうようで、怖かった。
「てっちゃん・・・目を開けておくれよ・・・。」
与志はそう言うのが精いっぱいだった。悔しさなのか寂しさなのか、何とも表現できない気持ちでそれ以上の言葉が見つからず、はらはらと涙を溢している。
加奈が与志の様子を気にして、ベッドのところへやってきた。はらはらと涙を流す与志を見ると、加奈は与志の小さい肩を強く抱いた。そして、二人でしばらく声を殺して涙を流した。
ベッドに横たわる哲夫の目からも一筋の涙が流れた。

夕方近くになって、源治が、玉木商店の主人や須藤自転車の親父たちとともに顔を見せた。
源治は、大皿を持っていた。
「こういう時は、看病する人間が元気じゃなきゃ。さあ、旨いもの、喰らって、元気出さなきゃな。」
そう言って、刺身が盛り付けられた大皿をテーブルに置いた。
「てっちゃん、早く目を覚ませよ!旨い刺身があるぞ。」
玉木商店の主人は、コーヒー豆の袋を持参していた。
「特別な豆だぞ。これで、また、旨いコーヒー飲ませてくれよ。」
そう言うと、ベッドサイドの椅子に座る。
須藤自転車の親父は、小難しい顔をしたまま、じっと哲夫の顔を見ていたが、口を開いた。
「俺も病気を克服して、今じゃ、バイクを乗り回せるくらいになったんだ。お前は俺より若いんだから、まだまだこれからだろうが!さあ、目を覚ませ。そしたら、俺のバイクでツーリングしよう。」
それを聞いて源治が飛び上がった。
「やめてくれよ!お前の運転じゃ、生きた心地がしないぜ!」
「馬鹿言え!サイドカー付のバイクだぞ!なんてことないさ!」
須藤自転車の親父はむっとした顔で言った。
「俺は止めとくよ。」
玉木商店の主人は小声で言った。

4-12 医師の心 [命の樹]

12. 医師の心
結と幸一は、水上医院の診察室に居た。
大学病院でいくつもの症例を調べて戻った幸一は、深刻な表情を浮かべていた。
結は、幸一が持ち帰った症例の資料に目を通しながら、憂鬱な表情を浮かべている。
一通り資料に目を通した後、幸一が言った。
「やっぱり、厳しいだろう。」
「ええ・・。」
「奇跡を信じたいんだが・・・。」
お互いにその答えがどのようなものかは判っていた。
「徐々に神経組織の機能が回復しているのは事実でしょう?時間は掛かるでしょうけど、きっと回復するはずよね。」
「ああ・・だが・・。」
幸一はそれ以上の言葉を口にできなかった。
「でも、そこまで体力が持つかどうかということでしょう?」
「ああ、脳の機能が回復するには相当なエネルギーが必要なはずだ。回復した症例は、事故で欠損したようなケースに限られている。末期癌というのは、それだけでリスクが高い。」
「そうね・・健康体であることが条件みたいね。それに、まだ年齢も若いケースばかり・・。」
「食事ができない状態なのが最大の問題なんた・・。」
資料を見つめる結に、幸一が落胆した表情のまま答える。

ふいに、結は、椅子を立ち、治療室の隣の薬品庫へ向かう。幸一もついていく。結は、棚に並んだいくつもの薬品のラベルを点検しながら呟いた。
「栄養剤、もっと高カロリーのものにしなければいけない・・・。」
そう言いながら、いくつもの栄養剤を棚から取り出し、比較しながら、辺りに置いて行く。最初は冷静に一つ一つ見ているようだったが、次第に、乱暴になっていく。
「これじゃダメ・・これも・・ダメ・・・。」
その様子を見て幸一が言う。
「栄養剤には限界はあるだろう。もう、癌は全身に広がっているんだ。余り高カロリーなものは拒絶反応を示すかもしれない。肝機能も低下しているんだ。癌も活性化する危険性だってあるんだ。結、もう無理だ。止めるんだ。」
結の異常行動を止めようと、幸一はつい声を荒げてしまった。
「わかってる。判ってるけど・・・どうにかできない?・・・おじさんは生きようとしてるのよ!」
結は、手にした栄養剤を床に投げつけ、泣き始めた。
医療の限界を突きつけられ、最愛の、いや、父と慕い、自らの命をささげても良いとまで考えている人の、死をただ待つだけという現実を受け入れる心の準備ができず、行き場のない思いが募るばかりだった。

「結、もっと冷静になろう。僕たちは医者なんだ。他の人にはできない事があるはずだ。もっと考えよう。」
幸一は結を慰めながらも、思いは結と同じだった。
幸一はそう言うと、結の肩を抱き、薬品庫を出た。

「大丈夫?」
物音がしたのを心配して、結の母が診察室で二人を待っていた。
「ええ・・大丈夫です。」
幸一は答えたが、真っ赤に泣きはらした目をしている結を見て、母も結に寄り添うようにした。
「辛いのは判るわ・・でも、きっと、加奈さんはもっと辛いはずよ。それでも傍にいてじっと回復を信じてるんでしょ?医者が取り乱したんじゃ、加奈さんたちはどうなるの?しっかりしなさい。」
結の母の言葉は、厳しかった。
「結、もう一度、資料を見返してみよう。何かきっとあるはずだから。」
結はようやく正気に戻ったように応えた。
「ええ・・ごめんなさい。そうね・・きっと何か治療法があるはずよね。」
その様子に結の母は少し微笑んだ。
「じゃあ、ご飯の支度をしましょうね。腹が減っては戦にならないっていうでしょ?」
結の母はそう言うと、母屋の方へ戻って行った。
再び、幸一と結は、大学病院から持ち替えた資料を最初から読み直し始めた。

4-13 見舞客 [命の樹]

13. 見舞い客
哲夫の様子を聞いて、様々な知り合いが見舞いに来た。
その中に、栗田製作所の開発部のメンバーも居た。
「倉木さん、もうすぐ、デモ機第1号が完成しますよ。」
ベッドサイドには、長年ともに仕事をしてきた、工藤が居た。岸谷の顔もあった。
「すみません、加奈さん。テレビ、見れませんか?」
工藤が加奈に聞いた。喫茶店の奥には、大型テレビがあった。開店当時から置かれていたが、日中はカーテンで隠してあった。加奈が静かにカーテンを開け、スイッチを入れる。
テレビはニュース番組を映した。
「倉木さん、音は聞こえているんですよね?」
「ええ・・きっと・・・。」
加奈が答えると、工藤はテレビのボリュームを上げる。
『次のニュースです。』
アナウンサーの言葉の後、画面には「エネルギー大革命」の文字が躍る。
『栗田製作所が、画期的な電池を開発しました。PUTと名付けられたものは、従来のものと比べて10倍以上の電力を生み出す装置で、エネルギー資源の乏しい我が国にとって、大油田発見と同じほどの価値のある発明と言えるでしょう。』
アナウンサーの解説に、岸谷が「ふん」とバカにしたような声を出した。
「やっぱり、報道っていうのは限界があるんでしょうね。大油田に例えるなんて馬鹿げてますよ。それに、あれは電池じゃない。・・」
そう言う岸谷の横で、工藤が言った。
「さあ、そろそろ、社長の会見があるぞ。」
画面には、川端社長と磯貝部長が並んで座る姿が映し出される。
「それでは、PUTの記者発表を始めます。・・栗田製作所、川端社長、お願いいたします。」
女性司会者らしき声が流れた後、川端が立ち上がって、カメラをぐっと睨みつける。
「PUTは、全世界を大きく変えてしまう画期的な代物です。おそらく、10年・・いや、5年後には実用化されます。・・これが普及すれば、石油を奪い合い紛争が起きる事も、制御できない原子力に頼る事もなくなります。」
川端は紅潮した表情で熱く語った。
「具体的にどういうものなんですか?」
記者からの質問が飛ぶ。磯貝が答える。
「たとえば、乾電池1本で、自動車が走れる・・そういう大きなエネルギーを生み出すものです。さながら、手のひらに乗る発電所というべきものでしょう。これに、簡易なソーラーパネル1枚の電力を供給すれば、1万世帯ほどの家庭電力を生み出すほどの能力を秘めています。まだ、試作段階ですが、今後、わが社はあらゆる分野のメーカーと協同し、普及モデルの開発を進めます。」
「開発は、あなたがされたんですか?」
再び記者の質問が飛ぶ。今度は、川端社長が答えた。
「これは、栗田製作所全員の力で開発したものです。始まりは、若き技術者の小さなアイデアでした。それは、途方もない雲をつかむような話で、私自身は、当時実現するとは思っていませんでした。ですが、今は亡き栗田会長は、その若い開発者を信じ、励まし、研究を命じました。残念ながら、その開発者は今、病床にありますが、ここに居る、磯貝を始め、多くの開発者が研究を引き継ぎました。もちろん、開発部門だけでなく、製造部門や営業部門・・その他、全ての部門が総力を挙げて完成を目指しました。しかし、やはりそう簡単ではありませんでした。どうにも越えられない壁に突き当たりました。その時、今は病床にある、倉木・・倉木哲夫君が、まさに命を削って完成させたものなのです。倉木、聞いてるか?遂に完成したぞ!」
川端は涙を流している。カメラマンのフラッシュが一斉に光る。同時に、記者たちの間から、「倉木哲夫」とつぶやく声が広がっていく。そして、何人かが会見場から飛び出していく。
「倉木!夢は未来を拓く力なんだぞ!」
再び川端がカメラに向かって叫んだ。その時だった。
哲夫の右手の指がピクリと動いた。
手を握っていた加奈は、「あっ」と小さな声を発した。
「倉木さん、どうです?遂にやりましたよ!」
そう言って振り返った工藤が今度は「あっ」と声を上げた。
哲夫の眼から涙が零れていた。一筋の涙ではなく、いく筋もの涙が確かに流れている。
確実に、哲夫の目覚める時が近づいていると感じられた。

4-14 ギター仲間 [命の樹]

14. ギター仲間
次の日には、泉谷が見舞いに来た。吉田や井上も一緒だった。この3人は、哲夫とともに、クリスマスのパーティで、セッションをした仲間だった。
「哲夫さんの容態を聞きまして・・・。」
泉谷は、小さな声で加奈に言う。泉谷は、あのパーティ以来、時々、≪命の樹≫へ来て、コーヒーとサンドイッチを注文し、他の客が居ない時には、ギターを取り出して哲夫とセッションするようになっていた。哲夫の容態が思わしくないと聞き、仲間たちとともに見舞いに来たのだった。
「哲夫さん、音は聞こえてるんだって?」
「ええ・・。」
加奈は、哲夫の顔を見乍ら、小さく頷いた。
「そいつは凄い。・・・じゃあ・・良いかな?音が聞こえてるんなら、哲夫さんの好きな曲を聞かせてやろうかなって・・ひょっとして、一緒にうたいたくなって目を覚ますんじゃないかな?」
泉谷は少し冗談交じりに言う。泉谷は、自ら肺ガンを克服した経験を持っている。だからこそ、哲夫の今の状態を悲観していないようだった。
「さあ、始めようか・・・。」
泉谷がそう言うと、吉田や井上もケースから楽器を取り出した。
「加奈さん、これ、ギブソンのJ-45。哲夫さんが欲しがってたギターです。見舞いの品に、もってきたんです。この音を聞いたら、きっと、哲夫さんも目を覚ますに違いないですよ。」
3人は、店の中を一回り見渡し、ちょっと考えてから、テラスに出て行った。
そして、テラスに白い椅子を並べて、座った。
加奈が、テラスの掃出し窓を開けると、ちょうどテラスがステージのように見えた。
加奈は哲夫の傍に座り、哲夫の左手を握っている。
千波とヒカル、それに結が、哲夫のベッドを挟んだ位置に、椅子を並べて座る。
「手慣らしに・・懐メロから・・。」
泉谷が言うと、ジャランとギターを鳴らす。

♪朝日が昇るから・目覚めるんじゃなくて・・♪

泉谷がそこまで歌うと、加奈がはっとした表情になった。それを見て、泉谷は一旦歌うのを止めた。
「どうしました?」
「今、哲夫さんが手を握り返してきたんです。やっぱり、聞こえてるんです。」
泉谷が笑顔で答える。
「そう・・じゃあ・・こうしましょう。」
泉谷は立ち上がり、自分が持っていたピックを哲夫の右手の親指と人差し指の間に差し込んだ。
「さあ、これでいい。きっと、今度は、右手が動くでしょう。」
再び歌を始める。

♪朝日が昇るから目覚めるんじゃなくて、目覚める時だから旅をする♪

僅かだが、哲夫の左手と右手がぴくぴくと動いているように見える。
「ねえ・・お母さん・・ほら・・お父さんの唇が・・・。」
千波が見つめる哲夫の顔はわずかに笑顔になっているようで、唇が時々ぴくぴくと動いている。
単なる反応なのかもしれない。だが、そこにいたものは皆、それは確かに、哲夫が一緒に歌っているのだと思いたかった。

哲夫を囲んで、賑やかなセッションは続いた。
畑に居た与志も、賑やかな音に誘われるように、店に顔を出した。
「おや、随分と賑やかな見舞いだねえ。」
「あ、与志さん。・・与志さんもこちらにいらして下さい。」
そう声を掛けた加奈の表情は明るかった。哲夫が意識を失ってから、ひと時として気持ちが晴れる事はなかったが、こうして皆で歌を歌う事で随分と気持ちが楽になったのだった。それに、確かに哲夫の反応が日増しにはっきりとしている事を実感でき、もうすぐ、目を覚ますにちがいない、そう思えるようになっていたのだった。


4-15 パンを焼く

15. パンを焼く
 その日の夜、加奈が急に何か思いついたようにヒカルを呼んだ。
「ヒカル・・すぐに、吉彦君を呼んでちょうだい。」
吉彦は、一旦、源治の家に戻っていたが、慌ててやってきた。
「何かあったんですか?」
ベッドの周りに、皆座っている。吉彦はその様子に最悪の事態を予想した。
「あの・・ヒカルちゃん?・・まさか・・哲夫さんが・・。」
吉彦が、恐るおそる尋ねると、加奈が明るい声で言った。
「ねえ、吉彦君。パンを焼きましょう。」
「パンを?」
「ええ・・哲夫さん、パンが大好きだった。好きだからパンを焼き始めたの。きっと美味しい香りで目覚めるに違いないわ。ねえ、吉彦君、たくさん焼いて。」
加奈はそう言って、哲夫を見る。
「そうね・お父さん、パンが大好きだったから、きっと目を覚ますわ。」
千波も言う。それを聞いて、吉彦が答える。
「そうですよね・・・ここのパンは・・命のパンですから。たくさん焼きましょう。すぐに用意します。」
吉彦はすぐに厨房に入る。
「私たちも手伝うわ。」
千波もヒカルも厨房に入る。加奈は哲夫の脇でじっと手を握っている。
夜遅くまで、パン生地の仕込みが続く。みんな、哲夫が目覚めることを信じて汗を流した。
仕込みが終わり、一眠りした。

夜明け前には起きだして、パン焼き窯に火を入れた。
煙突から立ち昇る煙に、朝日が当たる。
「おや、久しぶりにパンを焼いてるんだね?」
以前と同じように、与志が顔を見せた。
哲夫だけがそこにいない。
「与志さん、ちょっと待っていてください。今、紅茶を煎れてきますから・・。」
そう言うと、ヒカルが厨房に戻る。
与志は、以前と同様にベンチに座って、湖を眺める。
遠くに、漁船が戻ってくるのが見える。
「与志さんは、パン焼きの時は必ず顔を見せて下さっていたんですよね。」
ベンチに座っている与志に、千波が尋ねた。
「ああ・・良い香りに誘われてねえ。それに、美味しい紅茶もご馳走になれるからね。」
千波は躊躇いがちに訊く。
「お父さん、ここで幸せだったんですよね?」
いきなりの質問に、与志は千波の顔を見た。そして、笑顔を浮かべて言った。
「千波ちゃんはどう思うんだい?」
「・・病気が見つかって、突然仕事を辞めてしまって・・どうなっちゃうんだろうって心配だったんです。でも、ここへ戻るたび、お父さん、本当に病気なのっで思うほど元気だったし、お母さんも、前より忙しそうに働いているし…ずっと幸せなんだろうって思っていたんです。でも・・やっぱり、病気は進んでいて・・・こんなにも早く悪くなるなんて思わなかったから・・・ごめんなさい。何言ってるのか・・・。」
千波は今までずっと抑えてきた思いが溢れだすように話し、それが何の意味があるのかと思い返し、途中で話すのをやめた。
「千波ちゃんはお父さんの事が大好きなんだねえ。」
千波は頷いた。
「きっとそれだけで、てっちゃんは、充分幸せなんじゃないかねえ。」
ヒカルが紅茶を運んできた。与志は紅茶を一口飲んだ。
「そろそろ焼き上がりです。」
じっと火の傍に居た吉彦が少し不安げな表情で言う。
窯を開け、中からパンを取り出していく。辺りに、香ばしいパンの香りが広がっていく。
「うん、旨そうだ。」
与志がそう言って、吉彦の顔を見た。
吉彦は嬉しそうな顔で、焼きあがったばかりのパンを皿に並べていく。

4-16 奇跡の回復 [命の樹]

16. 奇跡の回復
吉彦は、朝一番に最初の焼き上がりから、休む間もなく、次々とパンを焼いた。
その間中、パン焼き窯からは煙が上がる。
立ち上る煙を、源治たち漁師仲間や、玉木商店の店主も見つけた。
吉彦と千波、ヒカルは、焼きあがったパンを店内のテーブルに次々に並べていく。
店の中が香ばしいパンの香りで充満している。
「これで良いわ・・きっと、哲夫さん、目を覚ますはずよ。」
加奈が満足そうな表情で言った。

9時を少し回った頃から、煙を見つけた人たちが、店にやってきた。
「おい、吉彦、今日は、パンを売るのかい?」
ひょいと顔を見せた源治が尋ねる。
店の中のテーブルにはたくさんのパンが並んでいる。
「おはようございます。・・いえ・・売る為じゃなくて・・パンの香りを嗅いで、哲夫さんが目を覚ますんじゃないかって加奈さんが・・・。」
「ああ・・そうかい。」
源治はそう聞いて、すぐに店を出ようとした。
「あっ、源治さん、たくさん焼いたから、後で、お分けしますよ。」
加奈が言う。
「え・・良いのかい?・・そうかい。」
源治は、石段を降りて行く。
石段の下には、たくさんの人が集まっている。源治が加奈の言葉を伝えると、集まっていた人たちは石段を上がっていく。
ひとり、またひとりと店の前に顔を見せる。いつの間にか、店の前に広がる庭にたくさんの人が集まってきていた。
「さあ、哲夫さん、あなたの大好きなパンが焼けたわよ。」
加奈が、お皿に乗せたパンをベッドサイドまで持ってくる。そして、哲夫の胸のところで置いた。
すると、哲夫の顔が少し変わったように見えた。
「さあ、美味しそうよ。」
加奈が、目を覚ましてと祈るように、パンを一つ摘まみ上げて、哲夫の鼻先辺りに持っていく。
しかし、哲夫はそれ以上反応しない。
加奈が一旦パンを皿に戻した。そして、哲夫の手を強く握り、自分の額を握った手に付け、祈るような姿勢を取る。外の集まっている人は少し残念な様子を見せた。
暫く、静かな時間が流れた。

「加奈・・美味しそうなパンの香りだね。」
不意に声がした。
ハッと顔を上げた加奈は、空耳ではなかったかと確かめるように哲夫を見る。
哲夫は目を閉じている。やはり、空耳だったのかと思った時だった。
「腹が減ったよ・・。」
今度ははっきりと哲夫の声だと判った。哲夫は目を開いて、加奈を見ていた。
「目が覚めたの・・そうなのね・・・。」
「ああ・・。」
加奈は哲夫の胸に顔を埋め、泣いた。
すぐに結が、バイタルチェックをする。血圧も脈拍も正常のようだった。
「お父さん!」
「マスター!」
皆、哲夫のベッドに駆け寄って、驚きと喜びに、涙を流した。
「おい、どうしたんだ!」
外に居た源治が、店の中の様子が気になって吉彦に訊く。
「源治さん!・・哲夫さんが・・目を覚ましたんです。」
吉彦の言葉に源治は飛び上がって喜んだ。そして、庭に居た人達に叫んだ。
「てっちゃんが、目を開けたんだってよ!」
皆が歓声を上げた。
「やっぱり。ここのパンは命のパンだぞ!」
誰かが叫んだ。一斉に拍手が湧く。

4-17 束の間の幸せ [命の樹]

17. 束の間の幸せ
「加奈、パンをくれないか?」
加奈は結の顔を見た。結が一通り哲夫の体調を診たあと、少し幸一と何か会話をした後、小さく頷いた。
「その前に、水を飲んでください。長く何も口にしていなかったんですから、急にパンを食べると呑み込めないかもしれませんから。」
すぐに、ヒカルがグラスに入った水とコーヒーを運んできた。
哲夫がゆっくりとグラスのミスを飲み干した。それから、皿にのせたパンを何個か、哲夫の前に出された。
「これが良いな。」
哲夫が手にしたのは、小さなパンだった。半分に割ると少しオレンジがかっている。
「みかんパンだよね・・。」
「ええ。」
哲夫はゆっくりと口を開けると小さなパンを、さらに小さめにちぎって、口に入れた。
ゆっくりと味わうように何度も何度も噛む。そして、ゴクリと呑み込んだ。
「うん・・やっぱり、旨い。与志さんの・・みかんジャム、変わらず美味しいね。」
それを聞いて、様子を見に来ていた与志が声を殺して涙を流している。
それから、哲夫はコーヒーを口にした。
「・・ああ・・随分、美味しくなったね。ヒカル、もう一人前だね。」
ヒカルもそれを聞いて、再び、涙を流した。
「随分、たくさんの人が来てくれたんだねえ。・・」
「ええ・・皆さん、哲夫さんの事を心配して・・・。」
「そうか・・じゃあ、お礼をしなくちゃな。たくさんパンが焼きあがってるみたいだから、みなさんに召し上がって貰おう。・・ヒカル、コーヒーも入れてくれないか。皆さんにお出しして・・。」
こうして、たくさん焼いたパンは、集まった人に振舞われた。

「さあ、どうぞ。今日はいくつでも、召し上がってください。たくさんありますから・・」
吉彦が店先で、町の人達へパンを渡していく。
町の人達はパンを受け取りながら、哲夫に声を掛けていく。
「頑張ったな!」
「もう大丈夫だよ!」
「早く元気になってね。」
幾つもいくつも、励ます声が響く。哲夫と加奈は、一人一人に笑顔を返した。
須藤自転車の奥さんの顔が見えた。
「すみません・・暫く、パンをお届けできなくて・・。」
哲夫が謝ると、奥さんは涙を流して言った。
「そんなこと・・・、いつまでも待ってますから・・今は、まず自身の事を一番にね。うちの主人も哲夫さんのおかげで元気になったんですから・・きっと、哲夫さんも大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。」
源治は、孫の奈美と裕を連れてきていた。
「てっちゃん、やっぱり、ここのパンは命のパンだね。」
そう言ったのは、姉の奈美だった。その後ろから、裕が言った。
「てっちゃん・・ほいくえんの、おともだちも、みんな、まってるから・・・。また、かなさんといっしょにきてね。」
「ああ・・行けるように頑張るよ。」
哲夫は笑顔で答えた。
源治はも何も言えないほど喜んで涙を流している。こんな奇跡があるのだろうかと、神や仏など信じない様な男が、この時だけは、神や仏に感謝した。
サチエとユキエも顔を見せた。
最初に出会った頃とは随分と雰囲気が違っている。毎日、怯えるように生きていた姉妹が、新しい父を迎え、母の幸せな姿を見乍ら暮らすようになった事がどれほど大きなことだったか判った。
「元気になってね・・。」
姉妹は、パンを大事そうに抱えながら、哲夫の手を握った。
哲夫は、二人の頭を撫でた。

そんなふうに、多くの人と会話を交わしながら、穏やかな時間が過ぎて行った。

4-18 夫婦の会話 [命の樹]

18. 夫婦の会話
町の人々は、哲夫の回復した様子に安堵して、ひとりまたひとりと、帰っていくと、ようやく落ちついて、哲夫と加奈の二人の時間を迎えた。
加奈は哲夫のベッドの脇の椅子で、哲夫の顔を眺めながら言った。
「随分、長い間、目を覚まさなかったのよ。」
「そうか・・・でも、ずっと、みんなの話は聞いていた様に、思うんだよ。」
「やっぱりそうだったのね。」
「とても不思議な感じだった。・・ちゃんと聞こえてるんじゃないんだ・・・はっきり聞こえる事もあれば・・ぼんやりだったり・・まったく判らなかったり・・・そうだ、、歌が聞こえてた。懐かしい・・学生時代に戻ったような…一緒にギターを弾いていたんだ。随分、長い時間、弾いていたようだった。」
哲夫は、やはり皆が信じていた通り、音は聞こえていたのだった。
「良かった・・本当に良かった・・・あのままずっと目を覚まさないんじゃないかって・・。」
加奈はそこまで言って、不安だった時間を思い出して目を潤ました。
「すまなかったね・・」
加奈は首を横に振り、哲夫の手を握り締めた。

日差しが傾き始めた。
店の隅には、千波やヒカル、結、幸一、吉彦たちがいて、遠くから、夫婦の様子を見守っていた。
「なんだか・・嘘みたい・・。」
千波が呟いた。
「また、昔みたいに、暮らせるの?」
千波が結に尋ねる。結は少し顔を曇らせたまま、黙っている。幸一が口を開く。
「長く、意識がなく、動けない状態だったんです。食事が取れず、体力は相当落ちてるはずなんです。・・なのに、あんなふうに話が出来るなんて・・もはや、奇跡としか言い様がない状態なんですよ。」
「それじゃあ・・。」
千波はそう言うと二人を見る。

「加奈、テラスの赤い薔薇が咲いたんだね・・。」
不意に哲夫が言う。
「あら・・ほんと・・気づかなかったわ・・。」
ずっと看病の毎日で、外の様子など気に留める余裕もなかった。哲夫に言われ、庭を見ると、テラスの柱を使って育ててきた赤い薔薇がたくさんの花をつけている。
「春の薔薇は大きくて香りも良いからね・・・なんとなく、薔薇の香りは感じていたんだ。」
哲夫は顔を少し横に向けて、テラス全体を見渡した。
「加奈、薔薇を一輪切ってくれないか。」
哲夫に言われ、加奈はテラスに出て、一番大きな薔薇を切った。そして、棘を綺麗に切り落としてから、哲夫のベッドに持ってきた。
哲夫は花を受け取り、そっと香りを嗅いだ。
「ああ・・良い香りだ。」
「ええ・・。」
「やはり、苗を貰って来て良かったね。」
哲夫は加奈から、鋏を受け取り、花枝を短く切った。
「加奈、ちょっと来てごらん。」
加奈が哲夫に顔を寄せると、哲夫が真っ赤な薔薇を加奈の紙に指した。
「ウン・・綺麗だよ。」
「やめてよ・・もう、若い娘じゃないんだから・・。」
加奈は照れた。
「いや・・君は、幾つになったって綺麗だよ。」
「もう・・変よ。今までそんな事、言った事ないじゃない。」
哲夫は今までで、一番の優しい笑顔を浮かべて加奈を見ている。
そして、ゆっくりとした口調で言った。
「加奈・・・ありがとう。・・君と・・一緒に・・生きてきて、本当に幸せだった。・・ありがとう。」
哲夫はそう言い終えると、静かに目を閉じた。
「哲夫さん?・・」
脈拍計の波形がフラットになり、アラーム音が店の中に響き続けていた。


4-19 エピローグ [命の樹]

19. エピローグ
話は今に戻る。

一通り、哲夫が亡くなるまでの様子を訊き終わると、翔が言った。
「すぐに健さんに知らせなくちゃ・・。」
「良いのよ、知らせなくても。もう随分と前のことなんだから。」
加奈が優しく答える。
「いや・・でも・・健さんが知らないなんて・・。」
翔が言うと、千波が少し苛立つような言い方で言った。
「知らせてどうするの?健ちゃんが知っていたら、何か変わるの?」
「それは・・・。」
翔は答えに困った。確かに言われる通り、知ったからといってどうするわけもないのだ。それでも、大事な恩人が亡くなったことを知らないままというのはどうかと考え、翔は言う。
「でも・・マスターが亡くなったことを健さんが知らないというのは・・・せめて・・知らせて・・随分、お世話になったって言ってましたし・・僕、すぐ連絡します。」
翔は立ち上がろうとした。
「良いのよ。知らせないでおいて。・・知らない方が良いのよ。だって、健君の中ではまだ、哲夫さんは生きてるんですもの。だから、こうやって、あなたがここへ来てくれた。きっと、哲夫さんも喜んでるはずよ。」
加奈が静かに言った。その様子に、翔は椅子に再び座った。
加奈が少し思い出すようにしながら口を開く。
「哲夫さんが亡くなったあと、お葬式も済ませてから・・私、暫くは何も出来なかったの。何だか、生きてる実感が無くなってしまったみたいでね。」
加奈がコーヒーを一口飲み話を続けた。
「でもね、吉彦君がパンを焼きましょうって言い出して、千波もその方が良いってね。私も、哲夫さんが遺してくれたものを大事にしなくちゃって思えるようになってね。それに、与志さんも、源治さんも、毎日顔を出してくださって・・町の方たちも、何かを気にしてくださってね。それで、店を開けたら、町の皆さんがパンを買いに来られてね・・・なんだか、哲夫さんが生きていた頃と何も変わらない毎日が戻ってきたの。」
加奈はそう言って、壁に掛かっている哲夫の写真を見た。
「病気になってここへ来て、哲夫さん、昔と違って・・随分たくさんの人と関わるようになったの。会社勤めの頃は、研究に没頭していて余り人付き合いが良い方ではなかったの。今、思い返すと、きっと自分が死んだ後、私が寂しくないようにって考えて、たくさんの人と知り合いになろうってしてたんじゃないかって思うの。」
「そうですか・・。」
翔も哲夫の写真を見る。薔薇に囲まれるように笑顔の哲夫が写っている。
「それにね・・これは亡くなった後に、結ちゃんから聞いたんだけど・・・哲夫さん、もう水さえも飲めるような状態じゃなかったみたいなの。なのに、パンを食べ、コーヒーを飲み、たくさんの人に笑顔を見せてくれてね・・吉彦君やヒカルちゃん、それに町の人たちに、自分の最後の命を振り絞って、お礼をしたんじゃないのかって思ったのよ。」
加奈が言い終わると、千波が付け加えた。
「お父さんって、お母さんの事を心から愛してたのよ。私たちのことも最後まで心配してたみたい。だからって・・お父さん、自分を犠牲にして生きたわけじゃないし…今でもとても不思議なのよ。」
しばらく沈黙が続いた。突然、加奈が口を開いた。
「ねえ、翔君。暫く家に居る?」
翔は驚いた。願ってもないことだが、突然の問いに素直に答えられなかった。
「あんな大きなカバン、うちに居候するつもりだったんでしょ?」
脇から千波が言う。さらに翔は返事に困った。
「ここに暫くいて、自分の道を見つけられないかなんて、考えてるんじゃないでしょうね?」
さらに、千波は意地悪そうに言う。どうにも、千波は以前と変わらず、甘えた考え方を持っている者には厳しく当たる癖がある。
「千波、いい加減にしなさいよ。」
加奈が少し千波をたしなめるように言うと、翔をまっすぐに見て言った。
「実は、健さんに話を聞いて・・ここに来ればって思っていました。」
「そうなのね。・・・良いのよ。ここはそういう人が集まるみたいなんだから。哲夫さんが、店の名前を命の樹にしようって言ったのも、きっとそう言う意味を込めたんだと思うわ。ねえ、哲夫さん。」
加奈は、少し不思議な言い方をした。

お礼の言葉 [命の樹]

長いお話におつきあいくださり、ありがとうございました。

最初は、毎日の中でほっとするようなお話にしたいと書き始めたのですが、どうも、そう言う文才はないようで、結局、取り止めのないお話になってしまいました。

病に苦しんでおられる方には、少し辛いお話だったかもしれませんし、突拍子もない作り事も入ってしまって、読み返してみるととても恥ずかしい内容になってしまいました。

ただ、途中から、哲夫さんは独り歩きを始めてくれました。
病を抱え、随分と悩みながら、苦しみと闘いながら、その日を迎えようとしている事に気付きましたが、それを敢えて言葉にしないでほしいと私に話しかけてくるのです。
加奈さんも、心の深いところに、いずれ訪れる別れを受け入れ乍ら、やはり、毎日を幸せに生きていきたいと話しかけてくるようになりました。
おそらく、ふたりの中にある深い悲しみとか寂しさとか、そう言うものは、当の本人にしかわからないのではないかと悟り、ただ淡々と、日々の出来事を綴るようなお話になってしまいました。

最後まで、お付き合いくださった方、本当にありがとうございました。

これで、何作目かになりましたが、相変わらず、拙い文章で、とても人を感動させるような美文が浮かばず、もうこれきりにしようと思いながらも、なぜか、性懲りもなく書き始めてしまうことの繰り返しです。

とりあえず、これで一旦、「命の樹」は終了となりました。
次にどんなものを描くか、今は全くの白紙状態になりました。
再び、お目にかかる日が来るかどうかわかりませんので、これまで長年にわたって、読み続けて下さった方々に、心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。


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