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1-1 真夏の巡り逢い [スパイラル第1部記憶]

「お昼のニュースです。はじめは、先日のボート火災事故の続報です。伊勢湾で火災を起こしたボートは、上総CS所有と判明し、遺体で発見されたのは上総CS社長、上総英一氏と特定されました。警察関係者の話では、自宅に遺書が残されていた事から自殺と見て裏付け捜査を進めているとの事です。・・では、次のニュースです。・・・」

「さあ、そろそろ、行くか。」
4トントラックの後部簡易ベッドからむくっと起き上がった男は、もぞもぞと運転席に移るとカーラジオのスイッチを切った。そして、助手席に置かれていた運行表を取り上げ、しばらく見つめ、エンジンキーを回した。そして、ゆっくりとドライブインの駐車場から発車した。

トラックの運転手が、この話の主人公。小林純一、35歳、独身。

純一は、三河市の臨海地区工業団地にある「鮫島運送」で運転手として働いていた。幼い時に母を亡くし、児童養護施設で育った彼は、中学を卒業すると、鮫島運送で作業員として働いた。社長の好意で、定時制高校に通うことが出来、通新制大学も卒業していた。中学を出てから、もう20年、鮫島運送で働いていることになる。
「ただいま戻りました。」
純一はトラックを倉庫に着けると、運行表と伝票を持って、事務所に戻った。
「おや、早かったのね。」
そう言って、彼を出迎えたのは鮫島運送の社長の奥さんだった。事務机が小さく見えるほどの巨体だった。奥さんはそう言うとすぐに立ち上がり、事務所の奥の休憩所に行き、冷たい麦茶を一杯持ってきた。
「これ、運行表と伝票です。千賀水産は、荷が準備できないからと断られました。」
純一がそういうと、ソファで黙って新聞を読んでいた社長が慌てて立ち上がった。
「何だ、またか。よし、社長をとっちめてやらなきゃな。」
そう言うと、そそくさと事務所を出て行った。
「また、あんな事言って、どうせ、飲みに行くつもりでしょう?」
奥さんは、社長が出て行く姿をあきれた風に見送っている。
「もう上がっていいわよ。」
「ケンは?」
「そうねえ・・30分ほど前に上がったわ。このところ、近距離ばかりだからね。・・そうそう、明日から、三日ほどの長距離をお願いしたいんだけど、良いわよね?」
純一は、少し考えたが、特に予定も無かった。
「良いですけど・・・どこです?」
「青森までの配送。その先で1日、そこの配送の応援もお願いしたいのよ。」
「わかりました。」
「じゃあ、今日はゆっくり休んでね。」
純一は、奥の休憩室で着替えを済ますと、裏手の駐車場に出た。時間は6時を少し回ったところだった。今は、7月末、太陽は西に傾いていたが、まだ煌々と輝いている。
駐車場に停めた自分の車に乗り込むと、コンビニへ向かった。
青い看板を掲げたコンビニは、仕事帰りに必ず寄る事にしていて、店員とも顔見知りになっていて、自動ドアが開くと、すぐに店員から声を掛けてきた。
「今日は少し早いんですね。・・ああ、いつもの本、入ってますよ。」
「ああ、ありがとう。」
純一は、小さく返事をして、窓際にある雑誌のコーナーに足を運んだ。雑誌の棚を一通り見てから、一冊の雑誌を手に取った。中をぱらぱらと見てから、手に持ったまま、弁当売り場で、日替わりの幕の内弁当を取った。レジに向かうと、先ほどの店員がちょうど奥へ引っ込んでしまって、最近入ったばかりの新人の女の子がにこやかに微笑んで、バーコードをスキャンした。
「温めますか?」
「ああ・・。」
レジの脇で、ホット飲料のコーナーから緑茶を取り出して、レジに出し、精算し、弁当が温まるまでレジの脇でぼーとしていた。夕方なのに、客は少ない。
「ありがとうございました。」
若い頃は、一人夕飯を作って食べることもあったし、ファミレスで食べる事もあった。だが、最近は、一人で食事をするのが何だか侘しく感じるようになって、誰も居ない場所でさっと済ましてしまった方が気楽に感じるようになっていて、最近はほとんどコンビニで弁当を買い、お気に入りの場所で食べるようになっていた。
コンビニから海へ向かう産業道路を走り、最近出来た体育館の中通路を抜け、松林のでこぼこ道から海岸に出る。ほとんどの海岸が高い防波堤が作られているが、この場所だけは自然の海岸が残っていて、車を停めるとすぐ前に、小石がごろごろしている、波打ち際が見えた。
海岸に着いた頃には、夕日が沈みかけていて、辺りはオレンジ色に染まっていた。
純一は、さっきの弁当と緑茶を取り出し、ぼんやりと海を眺めながら食べた。特に何の感情もなく、機械的に食事をしているようだった。食べ終わると、眠気が襲ってきて、シートを倒して目を閉じた。
1時間ほど眠っただろうか、目を覚ますと辺りは真っ暗になっていた。時計を見ると9時近くになっていた。純一はため息を一つ着いて、シートを起こした。
エンジンキーを回し、車のヘッドライトを点けた。ぼんやりと海の方へ視線をやると、車から10メートルほど先に、何か白い塊がライトに照らされて浮かび上がっている。
「何だ?あれ。」
純一は、目を凝らしてその白い塊を見た。ちょうど、人くらいの大きさだった。さらにじっと見つめると、やはりそれは人のようだった。
「土座衛門?」
何か妙に古い言葉を思いついてしまった。
溺死体なのか?見なかったことにして立ち去ろうかとも考えたが、何か、このまま立ち去るのは憚られるようで、仕方なく覚悟を決めて車のドアを開けた。ゆっくりと、ライトが照らす先へ足を進める。二歩三歩近づいてみると、白い塊の端に、足のようなものが見える。
「やはり溺死体みたいだな・・・」
純一は心の中で呟き、すぐに警察に通報するのが正しい選択だ心に決め、もう少し近づいてちゃんと確かめようと考えた。そして、さらに足を進める。
もうすぐ手が届く位置まで近づいた時、足が動いたように見えた。

1-2 救急 [スパイラル第1部記憶]

「生きてるのか?」
どうやら、女性のようだった。
細い足が伸びている。白く見えたのはパーカーを羽織っているからだった。だが、全身ずぶぬれだった。辺りを見回してみたが、周囲に他に人影はないようだった。もう少し近づくと、「うう・・」と何か苦しそうな声を出したように聞こえた。

純一は咄嗟に近づき、「おい、大丈夫か?」と声を掛けた。だが、返事はしない。
白いパーカーが上半身を隠していて表情が見えない。
純一は手を伸ばし、顔に掛かっているパーカーを外した。長い黒髪、端正な目鼻立ち、色白で美しい若い女性だった。そっと、顔を近づけ域をしているか確認すると、僅かながら息遣いを感じた。
頭の中が混乱した。
なぜこんなところに若い女性が倒れているのか?どこから来たのか?生きているようだがどうしたらよいのか?こういう状況なら、心臓マッサージか?人工呼吸か?一辺に色んな疑問が噴出していた。「落ち着け!」純一はひとつ深呼吸をした。
そして、携帯電話を取り出して、119番通報した。
「消防ですか?救急ですか?」
返答がやけに事務的で少しむっとしたが、純一は状況をゆっくりと説明すると、「すぐに救急車を回します。それまでそこに居てください。苦しそうなら救命術を施してください。」
そう言われて、咄嗟に「はい」と答えてしまった。
情けなかった。救命術と言われてもどうしてよいのかわからなかった。
とりあえず、女性の脇にしゃがみこんで、表情を見た。特に苦しそうな表情ではなさそうだったが、息遣いはさらに弱くなっているように思えた。
「おい、しっかりしろ、すぐに救急車がくるからな。おい、しっかりしろ!」
そう言って励ますのが精一杯だった。ものの数分でサイレンが聞こえてきた。松原に赤色灯の光がちらちらと見えた。

純一は立ち上がると、「おおい!こっちだ!」と手を振って合図した。
救急車は純一の車の脇に停まって、救急隊員が担架を抱えて走ってきた。
救急隊員は、すぐに女性を仰向けに寝かせる。そして、体を覆っていたパーカーを広げた。下は真っ白なワンピースの水着姿だった。水に濡れてなまめかしく光った体が目に飛び込んできた。救急隊員は、特に動じる事も無く、手際よく、脈を取り、呼吸を確かめ、すぐに担架に載せ、救急車に運んだ。
同時に、パトカーがやってきた。パトカーから二人刑事と思しき人物が降りてきて、二言三言、救急隊員と言葉を交わした。救急車は後ろのハッチを閉めて、すぐに走り去った。その間、純一はずっと波打ち際でその光景を見ていた。
すると、先ほど刑事らしき男が純一の立っているところへ向かって歩いてくる。一人はかなり年配のようだった。もう一人はまだ若い刑事のようだ。
年配の刑事が、周囲を見回しながら純一に近づいてきた。そして開口一番に言ったのは、「お前が第一発見者か?」だった。
なんともぶっきらぼうで、その言葉は、お前が犯人じゃないかと聞こえるほどだった。純一は不快に感じ、年配の刑事以上にぶっきらぼうに「はい」と答えた。
「ふーん?」
年配の刑事はそういうと純一を足元から頭の先まで怪しい目つきで舐めるように見る。
「こんな時間、こんなところで何してた?」
「それが何か?」
純一は眉間に皺を寄せて答えた。
「ほう・・言えないような事をしていたのか?・・正直に答えろ!あの女性に何をした?」
年配の男の言葉は、まさに犯人扱いだった。
「私があの人に何かしたと言うんですか?・・・私はたまたま見つけ、人命救助と思って通報したんですよ。感謝されてもおかしくない。何ですか!犯人扱いですか!」
純一は食って掛かるように言った。
「じゃあ、ここで何をしていたんだ?」
「何って・・・コンビニで弁当を買って食べてから・・車の中で少し眠っていただけですよ。目が覚めたら、そこに女性が倒れて・・」
純一が話し終わらないうちに、年配の警官は遮るように言った。
「だいたい、犯人はなあ・・第一発見者を装うもんなんだよ。よおく、考えてみろ。こんな人気のない場所で、水着の女性が全身ずぶぬれで行きも絶え絶えになってるなんて、変だろ。」
確かに、年配の警官が言うとおり、こんな辺鄙な場所に女性が一人倒れている状況はあり背ない事だった。
「誰かにここに連れてこられたしか考えようが無いじゃないか。そしてここに居るのはお前だけ。お前がどこからか連れてきて、変な事をしようとして抵抗されたから溺死にでも見せかけようとしたが、良心が咎めて、通報した。そんなとこじゃないのか?」
純一は、答えるのも馬鹿馬鹿しかった。
「本当にそうなら、通報した後すぐに逃げますよ。そんな間抜けな犯人がいるんですかね。」
純一は少し小馬鹿にしたように言った。年配の警官はわざと懐中電灯の光を純一の顔に向けて照らして厭らしく言った。
「そうやって嘯くのも犯人の常套手段さ。・・よし、詳しい話を聞くから署に来い!」
年配の男はそういうと純一の腕を掴んだ。
「何するんですか!」
純一は思い切り振りほどいた。
その勢いで年配の男が足元がふらついて転んだ。いや、わざと転んだようだった。ゆっくり起き上がると、
「あーあ・・公務執行妨害だな・・いや、傷害罪の現行犯か・・さあ、大人しく来るんだ。さもないと、逃亡罪までくっつくぞ!」
年配の男はにやりといやらしい笑みを浮かべて言った。
そのやり取りを見ていた若い男が、懐中電灯を手に二人の傍にやってきた。

1-3 悪い夢 [スパイラル第1部記憶]

「あれ?純一さん?純一さんじゃないですか。僕です、ほら、港交番に居た・・。」
その若い男は、春まで港地区の交番勤務だった古畑という刑事だった。
「どうしたんです?こんなところで。・・・ああ、結城警部、この人は港の鮫島運送の従業員、小林純一さんです。交番勤務の時、随分世話になりました。この人はおかしな事をする人じゃありません。」
古畑は、純一を年配の刑事にそう説明した。
結城警部と呼ばれた年配の刑事は、「ふん」と言ったきり、その場に座り込んだ。
「状況を説明してください。」
古畑は改めて純一に聞いた。
純一は、鮫島運送を出てここで女性を発見するまでの経過を出来る限り正確に話した。

「あの女性とは面識はないんですね?」
古畑は、純一の話をメモを取りながら聞いてから、改めて尋ねた。
「ああ、初めて見た顔だった。ここに来た時、海岸には誰も居なかったと思うし、目を覚ましたらそこに居たんだ。不思議だった。」
純一はそう答えた。
「そうですか・・・判りました。・・申し訳ありませんが、一応、お聞きした内容の裏取りはさせてもらいます。・・それと、明日、もう少しお話を伺う事になるかもしれませんので、携帯電話の番号を教えてください。」
「わかった。それが警察の仕事だからな・・。」
「済みません。犯人の疑いを持っているわけではありませんから・・・。」
そう言うと、敬礼をして、結城警部とともにパトカーへ乗り込むと、サイレンを鳴らしながら、戻って行った。

遠ざかるサイレンの響きを聞きながら、純一は、ぼんやりと思い出していた。
弁当を食べたところまではいつもどおりだった。
少し眠って目が覚めてから、経験した事のない事続きだった。
足元の波打ち際、ライトに照らされた女性のなまめかしい肌の色が急に浮かんできた。あの警官が言ったとおり、この暗い海に若い女性が一人倒れているのは尋常な事ではない。誰かに連れてこられたか、海を泳いでここまで辿り着いたのか、いずれにしても、これ以上、関わりたくないものだと感じながらも、あの女性の顔が頭から離れない。

ふと足元にキラリと光るものがみえた。
そっと手を伸ばし拾い上げてみると、ペンダントのようだった。銀色でやや太い鎖、そしてペンダントヘッドには1センチほどの透明の玉が着いている。先ほどの女性のものだろうか?明日にでも、あの警官にでも渡せば良いだろうと考え、そっとポケットの中に入れた。

それから、純一は車に戻り、自分のアパートに戻った。
純一のアパートは、港地区からは車で20分ほどのところにあった。就職したばかりの頃、社長の家の離れに住まわせてもらっていた。その後、社長の家の周囲が一気に開発されて住宅地になった。社長はもともとこの辺りの資産家で田畑をたくさん持っていて、住宅開発の波に乗って、地所にいくつかのアパートを建てた。純一もその一つに住んでいた。
アパートの駐車場に車を入れていると、社長の奥さんが庭に出ていた。純一のアパートは社長の家の隣に立っていた。
「あら?遅かったわねえ。・・そう言えば、海岸辺りにパトカーが居たようだったけど何かあったのかしら。物騒な事じゃなければ良いけど・・・。」
奥さんは、ゴミ箱の蓋を閉めながら独り言のように呟いた。
純一はその当事者だったが、説明するとまた一騒動起きそうで、何も言わずアパートの階段に向かった。
純一の部屋は、3階建てのアパートの最上階の南東側の一番良い部屋だった。
最初は、1階の小さな部屋に居たのだが、最上階の部屋が空いたので社長が住むように勧めてくれた。賃貸アパートにしては大きく贅沢な作りで、家賃も高かった。いや、家賃が高くて誰も住まないから、純一を居れたというのが本当だろう。
4LDKで日当たりも最高で広い。独身の純一にはもったいないが、社長の事情もわかったので、二つ返事で転居した。
部屋のベランダからは、遠く海岸の松原も見える。周囲に余り高層の建物が無いため、見晴らしは抜群だった。意外に純一はこの部屋を気に入っていた。
部屋に入ると、純一はすぐにシャワーを浴びた。何だか妙に体がだるい。いつもなら、玄関脇の小さな部屋に篭るのだが、今日はそんな気になれず、髪を乾かすと早々ににベッドに入った。

夢を見た。
海岸で見つけた女性が、玄関に立っていて、じっと中を見ている。全身ずぶぬれで、手をそっと肘で曲げて何か恨みを持った目をしている。それはまるで幽霊のようた。
はっと目が覚めた。
「そうか・・・彼女、自殺をしようとしたんだ。」
ベッドに座って、再びあの光景を思い出していた。
「しかし、自殺をしようとするのに、あの水着は変だよな・・・。泳いでいる時溺れてしまったか?・・それも妙だな。パーカーを着たまま泳ぐなんてしないだろう。・・・沖の船から落ちたとか?・・・・」
まるで推理小説を読んでいるような感覚だった。
ふと時計を見ると朝の5時を回ったところだ。窓からすでに白み始めた空が見えている。
純一は、もうひと寝入りしようと、再びベッドに横たわり眼を閉じた。
浅い眠りの中で、純一は再びあの女性の夢を見た。
今度は、恨めしそうな表情ではなく、ぽつりと浜辺に座っている。純一が近づくと、僅かな微笑を浮かべて純一を見た。その表情がどこか懐かしく感じられた。

1-4 古畑刑事の訪問 [スパイラル第1部記憶]

翌日から、純一は、青森までの長距離配送の仕事に就いた。長距離の仕事は最近めっきり減っていて、久しぶりだった。長い道中、時折、純一の脳裏にあの女性の姿が浮かんでいた。無事に命は取りとめただろうか、もう逢う事もないだろうな等とハンドルを握りながら考えていた。
予定より早く仕事が片付いて、三日目の午前中には、会社に戻ることが出来た。
「ご苦労様・・明日から二日ほどお休みにしてちょうだい。・そうそう、留守の間に、警察の人が何度か来たわよ。・・人助けしたらしいわね・・その件で何か話したいことがあるって行ってたけど・・。」
奥さんが事務所で純一に伝えた。
「そうですか・・・」
純一はそう答えて、帰り支度をしアパートに戻った。長距離運転は思いのほか疲れる。純一はアパートに戻ると、ベッドに横たわって少しうとうとした。そして、あの女性の夢を見ていた。暗い海にあの女性が立っている。海岸で見つけた時と同じ、白い水着にパーカーを羽織って、遠くを見つめている。それを純一はぼーっと見ているのだった。

突然、インターホンの呼び出し音に目が覚めた。
『一体、誰だ?』
滅多に訪れる人のいない純一のアパートに訪問者など、きっと何かの勧誘だろうと思いながら、インターホンを取ると、モニター画面には、昨夜の刑事、古畑が玄関前に立っているのが写っていた。少し頭がぼんやりしている。
純一が玄関ドアを開けると、古畑は手帳を片手に妙な笑顔を浮かべている。
「何の用ですか?」
純一は少し不機嫌に訊いた。古畑は一層の笑みを浮かべて言った。
「小林さんの疑いは晴れました。コンビニの防犯カメラ、体育館の通路のカメラの映像で、小林さんが一人であの海岸に来られた事が確認できました。コンビニの店員からも証言がありました。」
「それを伝えに?・・それなら、電話でも済む事でしょう?」
「いえ・・先日は、結城警部が大変失礼な事を言いましたので、お詫びも含めてご報告に参りました。」
「そう・・わかりました。じゃあ・・。」
純一がそう言ってドアを閉めようとすると、古畑が、
「ちょっと待ってください。実は・・あの女性の事でひとつお願いがありまして・・。」
とドアの中に身を入れて純一を引き止める。
警察からの頼みごとなど厄介な事に決まっている。しかし、昨夜の女性の事と言われ、純一も少し気になった。
「ああ・・そういえば、昨夜の女性は助かったのですか?」
純一は古畑に訊いた。
「ええ・・担当医の話では、随分と衰弱しているので、暫くは入院が必要だが命には別状ないそうです。」
「そうか・・無事だったか・・・それで、頼みごとって何ですか?」
純一は、彼女が無事と聞いて少しほっとして、つい訊いてしまった。
「詳しくはここでは・・一緒に市民病院に来ていただけませんか?」
「あの女性の事で何か?・・」
「一緒に来ていただければ判ります。さあ、お願いします。」
古畑は、純一の腕を取ると少し強引に部屋から引っ張り出そうとした。
「ちょっと・・待ってくれ・・。着替えもしていないし・・・。」
そういう純一を更に強引に引っ張る。
「判った!判ったから・・行くから・・そうだ、30分ほど待ってくれ。」
純一の言葉に、古畑は手を離し、敬礼をした。
「ありがとうございます。では、下でお待ちしています。」
そういうと、古畑はカンカンと靴音を響かせて階下に降りて行った。
純一は、彼女に再び会えるのかと思うとどこかドキドキとする自分に気付いていた。すぐに、顔を洗い髭をそり、着替えをした。

階下に降りていくと、アパートの入口にはパトカーが停まっていて、古畑が脇に立っている。古畑は、階段を下りてくる純一を見つけると、足早に階段を上ってきた。
「さあ、行きましょう。」
そう言って純一の腕を掴む。そのまま、まるで何かの事件の容疑者のようにパトカーの後部座席に押し込められた。
「まさか、サイレンは鳴らさないだろうな・・。」
純一が考えると同時に、頭上の赤色灯が回り始め、けたたましい音を立ててサイレンが響いた。
「おい!サイレンはないだろ!これじゃあ、容疑者の護送みたいじゃないか!」
純一の声も聞こえないのか、古畑はタイヤを鳴らすほどの勢いで急発進した。

病院の玄関に着くと、古畑は「救急の入口から入ってください。私は車を置いてきます。」と言って純一を玄関前で降ろした。純一は、ひとり救急センターの入口へ回った。
入り口あたりで行き場を失ってうろうろしていると、
「小林・・純一さんですね?」
「ええ・・」
振り向くと、紺のタイトスカートに白いブラウス、そしてグレーのカーディガンを着た若い女性が、そう言って近づいてきた。
「この病院のケースワーカーをしている吉崎恭子と申します。」
女性は小さな名刺を取り出して渡した。純一はそれを受け取ると、そのまま、女性の後について救急センターの奥にあるカウンセリングルームに入った。
暫く待っていると、古畑と、白衣を着た若い医師、そして先ほどの女性が部屋に入ってきた。
先ほどの女性が口を開いた。
「こちらは、心療内科の谷口先生です。」
そう言うと、谷口医師が椅子に座った。手には、カルテのファイルを持っていた。
「では早速、女性の容態をご説明いたしましょう。」
谷口医師は、そう言うとカルテを開いて説明しようとした。

1-5 病院の相談 [スパイラル第1部記憶]

1-5 病院の相談
「ちょっと待ってください。何故、私が女性の容態を知る必要があるんです?だいたい、あの女性とは何のかかわりもありませんし、見ず知らずの他人です。偶然、見つけただけですから・・。」
谷口医師は少し困惑した顔で、ケースワーカーの吉崎を見た。吉崎は、古畑を見た。
「すみません。・・まだ、小林さんには何の事情も説明していません。とりあえず、ここへおいでいただいて先生の話を聞いてからと思いまして・・・。」
古畑は慌てていい訳じみた事を言った。
「事情って何ですか?・・私と彼女が何か関係でもあると?・・私は彼女に何もしていませんし・・偶然見つけただけです。」
「いえ、そうではないんです。確かに、発見されただけの事なんですが・・・。」
ケースワーカーの吉崎は困惑しながら答えた。そして、
「一つ、貴方にお願いしたいことがあるのです。でも、それには、彼女の状況をきちんと知っていただく必要がありまして・・ですから、先生にも容態をお話ししていただく必要があるのです。・・・小林さんの疑問は良く判ります。ですが・・一通りご説明を聞いていただきたいのです。」
純一は、不承不承、話を聞く事にした。

再び、谷口医師がカルテを開いて話し始めた。
「ここへ搬送された時、かなりの衰弱状態にあり、すぐに処置をしました。精密検査を行ないましたが、幸い、大きな外傷はありませんでした。」
「衰弱状態って?やっぱり海を泳いで来たと言う事でしょうか?」
純一が思わず質問してしまった。
「いえ・・そういうのではないでしょう。数日間、食事を取っていなかったのが原因でしょう。」
「食事を取っていない?」
そこまで聞いて、古畑刑事が付け加えるように言った。
「それと、腕と足首に縛られたような跡もありました。どこかに監禁されていたとも推察できます。そこから逃げ出したか、解放されたか、今、その線でも捜査をしています。」
純一はそれを聞いて更に疑問が生まれた。
「・・彼女は意識が戻っていないのですか?・・」
「いえ・・二日ほど昏睡状態でしたが、昨日には回復しました。今朝には食事も取りましたから、数日で退院できるほどになるでしょう。」
医師は冷静に答えた。
「なら、彼女に訊いてみればすべてわかるじゃないですか・・どこに監禁され、どうやって逃げたのか、そして、何故あの海岸にいたのか・・私が何もここに呼ばれることもないでしょう?」
純一の言葉を受けて、ケースワーカーの吉崎がようやく重要な事を告げようと立ち上がった。
「じつは・・彼女は、記憶を失くしているのです。」
「記憶喪失ということですか?」
「ええ・・自分の名前も年も、何処にいたのか、まったく覚えていないようなのです。」
「ドラマでは聞いたことはありますが・・本当にそんな事があるのですか?」
純一は驚いて、谷口医師に訊いた。
「健亡という言葉はご存知ですか?」
「健亡?」
「ええ・・何らかの原因で記憶を喪失する事を言います。・・事故等で外傷を受けた時、前後の記憶が曖昧になったり、すっかり抜け落ちてしまうのを外傷性健亡と呼びます。ですが、彼女の場合、外傷は見当たらないので、むしろ心因性健亡と考えられます。」
「心因性?」
「ええ・・何らかの精神的ストレス・・あるいはショックに近い強い記憶・・自分の心を守るためにそれまでの記憶を自ら消してしまおうとするような事もあるのです。」
「そんな事があるのですか?」
「人間の脳というものは、まだまだ判らない事が多いのです。記憶を封印すると言う事も充分にありうる事なのです。」

彼女は、何かとんでもない境遇にあったのだと純一は想像した。
監禁などとは尋常ではない、黒い服装に身を包んだ怪しげな集団とか、薬物の取引とか、抗争とか。とにかく堅気の人間とは無縁の世界の女性なのだろうと想像を膨らませていった。
「小林さん、そこでお願いがあるんです。」
純一は、あらぬ方向に想像を膨らませていたが、吉崎の言葉で我に返った。
「・・お願い?・・いや、その前に・・・彼女の記憶は戻るのですか?先生。」
谷口医師は困惑した表情で言った。
「今まで、これほどのケースは診た事がありません。失われた記憶がすぐに戻ることもありますが・・・なんともいえませんね。いや、むしろ記憶を取り戻さないほうが良いかもしれませんね。かなりの精神的ショックを受けている可能性がありますから、記憶を取り戻す事で心が壊れるかもしれません。」
「そんな・・・」
純一は他人事ながら彼女に同情した。
「そこで、小林さんにお願いがあるのです。」
再び、ケースワーカーの吉崎が言った。
「彼女の身元引受人になっていただけませんか?」
「身元引受人?」
純一は吉崎の顔を見た。吉崎は、懇願するような表情を浮かべている。古畑刑事も同様であった。
「何故?僕が見ず知らずの記憶を失くした女性の身元引受人にならなくちゃいけないんです!こういう時こそ、・・警察が・・いや・・どこかの機関で保護するべきでしょう?」
純一の言葉には、古畑刑事が答えた。
「ええ・・確かに、こうしたケースでは施設で一時的に保護する事になるんですが・・余り快適な施設ではないのです。・・・若い女性を保護するような事は考えていませんから・・・。」

1-6 病室での再会 [スパイラル第1部記憶]

1-6 病室での再会
古畑刑事の説明では、こうしたケースでは、身元が特定できればすぐにも親族の下へ送り返し、保護されるようになるのだが、身元がわからない場合は、行政措置として第三者の身元引受人を置き、生活保護による生計の保障と、仮戸籍・住民票の発行、そして社会復帰へと動く事になるようだった。
「彼女はまだ若いんです。それに、これまでもきっと辛い目にあってきたはずなんです。この先、また厳しい暮らしをしなければならないと思うと・・ですから、小林さんに身元引受人になっていただいて・・彼女を助けていただけないかと考えたんです。」
ケースワーカーの吉崎は、必死の形相で純一に話しかけた。
「ちょっと待ってください。・・・たた偶然、見つけただけの関係でどうしてそこまで面倒を見なくちゃ行けないんです。それに、私はうだつの上がらない独身の男です。あんな若い女性を保護するなんて、分不相応です。」
「いえ、あなたなら信用できます。だからこうしてお願いしているんです。」
吉崎は退かなかった。
「あなたは私の何を知っているんです?私はしがないトラック運転手で、もう40に手が届くむさくるしい男ですよ。聖人君子じゃないんだ。」
「いえ・・あなたならきっと彼女を守ってくださるはず。私は信じています。」
吉崎は妙な確信を持っていて、固辞しようとする純一にいっそう強く迫るのだった。
「じゃあ、あなただったらどうです?あなたが彼女だとして、私のような男の許で、暮らすなんて出来ますか?」
純一の問いに、吉崎は躊躇無く答えた。
「私なら是非にもお願いしたいですわ!小林さんとなら一緒に暮らせます!」
この返答に、純一だけではなく、古畑刑事も、谷口医師も驚いた。そして、そう言った吉崎本人が一番驚いて、真っ赤になってしまったのだった。
純一は、吉崎の言葉に呆れてしまって、もはや固辞する事が無意味に感じた。
「判りました。良いでしょう、身元引受人になっても良いでしょう。ただし一つ、条件があります。彼女自身が納得する事が前提です。当の本人が拒絶すれば、私自身も納得できません。それが条件です。」
純一の答えに、吉崎は大いに喜んで、
「ありがとうございます。」
そう言うと、純一の手を強く握り締めた。
「まだ決まったわけではありませんから・・・。」
純一の言葉に、吉崎は強く握った手を見て再び真っ赤になってしまった。
「では、彼女に遭わせて下さい。」

すぐに面会のために、吉崎と純一は病棟に向かった。
救急センターに隣接した病棟は東西二つの棟があり、彼女は東病棟の最上階の病室だった。エレベーターが開くと、ナースステーションの脇に廊下が二つ伸びていた。純一は吉崎の後について彼女の居る病室に向かった。
病室の入り口には、「小林<女>」と書かれていた。
「これは?」
純一が気になって吉崎に尋ねた。
「名前がわからないので、とりあえず、発見者の小林さんのお名前をお借りしました。」
吉崎はさらっと答えた。
「先に私から事情を説明しますので・・その後、お入り下さい。」
吉崎はドアを軽くノックして中に入っていった。ドアが閉まると中の会話は全く聞こえなかった。病棟の廊下は静かだった。
時折、看護師が病室に出入りする足音は響いていたが、それ以外に動くものはなかった。その間、純一は、彼女を浜辺で見つけたときの様子をぼんやりと思い浮かべていた。彼女の姿が脳裏に浮かぶと、何故か鼓動が高まるのを感じていた。
ドアが開いて、吉崎が顔を見せた。
「さあどうぞ。」
そう言われて、純一は一瞬躊躇った。どういう顔をして病室に入ればよいのか判らなかったのだ。
「さあ、どうぞ。」
吉崎に再び求められ仕方なく病室に入った。
彼女は、背を起こしたベッドに半ば座ったような格好で居た。病室着を着て、腕や胸元にはセンサーのビニール線が伸びていた。彼女は病室の窓のほうを向いていて、横顔しか見えなかった。
「小林と申します。」
おずおずと挨拶すると、彼女がこちらに視線を向けて軽く頭を下げたように見えた。
長く真っ直ぐな黒髪、色が透き通るほど白い肌、目鼻立ちのはっきりしていて、芯の強そうな女性だった。年はおそらく20代だろうと思われた。
「お話は出来ますか?」
純一は少し不思議な質問をした。
いや、彼女が記憶を失っている事は知っているが、それがどういう事か実際には判らなかったから、言葉もなくしているのではないかと考えたからだった。
彼女は、能面のような表情のまま、小さく「はい」とだけ答えた。
どうも上手く会話できない二人を見かねて、吉崎が口を出した。
「小林さんがあなたを海で見つけて救ってくださったんですよ。あのままだったらきっとあなたは亡くなっていたはずです。」
それを聞いて彼女が、再び小さな声で、「ありがとうございました」とだけ答えた。その言葉も、全く感情が入っていなかった。
きっと彼女にとって命を救われた事が良かったのかどうかさえも判断できないに違いない。記憶を失った事は生きている事すら無意味なものに感じられるのかもしれない、純一はそう受け止めていた。
「・・あの、体のほうはもう大丈夫なのですか?」
純一が訊くと、彼女は少し間をおいて、「ええ・・」と小さく答えるだけだった。
純一が想像したとおり、彼女にとって今病室にいる事さえも、現実とは思えなかった。自分は何者なのか、何処から来たのか、何故ここに居るのか、一切の記憶が消えているのだ。全てが幻のような感覚だった。この状況は夢の中ではないかとも考えていた。

1-7 名も知らぬ女 [スパイラル第1部記憶]

1-7 名も知らぬ女性
「吉崎さん、ちょっと良いですか?」
純一はそう言うと、吉崎を病室から連れ出した。

「身元引受人の件ですが・・・あれじゃあ、とても無理です。何の感情も無いような・・まるでロボットか人形のような・・・普通の暮らしが出来るとは思えない。彼女自身が納得するも何も・・とても私には無理です。」
純一は、廊下に出て、吉崎に思いの丈をぶつけた。
「・・大丈夫です。彼女は、まだ戸惑っているだけです。もう少し、お話すればきっと納得してくれるはずですから・・・。」
吉崎はまた妙に確信を持った返答をした。
どうやら、確信があるのではなく、単に大雑把なだけではないかと思うほどだった。
「さあもう一度・・。」
吉崎は、ドアを開けて純一を病室に戻した。そして、
「私が居ると話しづらいかもしれませんね。私は仕事がありますから席をはずします。しばらく、ゆっくり話してみてください。」
そう言うと、さっさと病室から出て行ってしまった。

純一は彼女と二人、病室に居た。彼女は再び窓の外を見ていた。純一は開き直った。
一つ大きなため息を着いてから切り出す。
「あなたは記憶を無くしたそうですね。どんな気分ですか?」
純一は少し口調が強かったかなと感じて、彼女を見た。
すると、彼女は窓を見つめたままの格好で、はらはらと涙を零していた。触れてはいけない事を訊いてしまったことが彼女を傷つけてしまった、純一は彼女の涙で大いに反省した。
「済みません・・・ちょっと戸惑っていまして、何を話したものかと・・済みません。」
純一が慌てて謝罪したところで、彼女が口を開いた。
「いえ・・良いんです・・・本当の事ですから・・・私自身戸惑っているんです。・・先生にも教えていただきましたし・・それに、私の場合、とても辛い目に遭ったことが原因だろうとお聞きしました。・・きっと私は酷い人間に違いないんです。・・・。」
「そんな・・いや、きっと酷い目にあったかもしれないけど、あなた自身が酷い人ではないはずです。」
「どうして?」
「いや・・酷い事が出来るような人には見えませんし・・きっと何か事故にあったとか・・誘拐されたとか・・・きっと何かの被害者に違いありません。」
「そうでしょうか?」
「きっとそうです。だから、そういう悲しい記憶は捨てちゃったんでしょう。・・いいじゃないですか、生まれ変わって生き直せば良い。厭なことは忘れたいのは誰も同じでしょう。それがちょっと多いだけでしょう。大丈夫ですよ、そんなに若くて美しいんだ、まだやり直すチャンスがたくさんあるはずです。」
純一は、とにかく彼女を慰めようと必死になってしまって、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
彼女の表情は少し柔らかくなったようだったが、再び曇ってしまった。
「これから先・・どうなるんでしょう?」
彼女はポツリと呟いた。確かに、全ての記憶を失い、自分が何者かもわからず、どういう人生を歩めばよいのか、真っ暗な海の中を漂う小船のようなものだった。
「大丈夫です。私が身元引受人になりますから。」
純一は思わず口にしてしまった。彼女はその言葉の意味が少し理解できない様子だった。純一はその表情を察して続けた。
「・・吉崎さん・・ああ、さっきのケースワーカーが話していませんか?あなたはもうしばらくで退院できるようです。でも、身元がわからないと施設に一時保護されたあと、生活保護を受けることになるそうなんです。・・でも、あなたのような若い女性には耐えられない厳しい暮らしになるだろうからと、私に身元引受人になってくれないかと頼まれたんです。」
少し事態が理解できたのか、彼女は戸惑いの表情を見せている。
「・・いや・・私は断ったんですよ。だってそうでしょう、あなたのような若い女性が、こんなオジサンと暮すことになるんですから。全く見ず知らずの男と暮らすなんてね。だから、条件を出したんです。あなたが承知するのならと・・・。」
彼女は少し考えているようだった。そして、「ご迷惑ですよね?」と言った。
彼女の言葉の真意がつかめないまま純一は答えた。
「いや・・迷惑だなんて・・淋しい一人暮らしですから・・幸い、部屋はありますし、迷惑という事はありませんよ。ただ、女性の扱いに離れていないので・・失礼な事もするのじゃないか・・いや、変な事はしませんよ。・・それだけは守ります。・・そういう下心なんてありませんから・・でも、あなたのほうが警戒されるでしょうし・・・もっと若くて・・そう・・イケメンなら良いんでしょうけど・・まあ、あなた次第ですから・・・。」
自分でも何を言っているのかわからなくなっている。承知しているのかしていないのか、ただ、このまま放っておくことは出来ないという気持ちだけだった。

「お願いします。・・・しばらくの間で良いですから・・よろしくお願いします。」
彼女ははっきりと言った。
「えっ?・・良いんですか?」
「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。きっと御恩はお返しいたします。」
彼女は純一の目を見てしっかりと答えたのだった。

タイミングよく、ケースワーカーの吉崎が姿を見せた。いや、吉崎はずっと前から廊下で二人の会話の一部始終を聞いていたのだった。
「話はまとまった様ですね。・・良かったわ。・・小林さんは、私の思っていた通りのお方でしたね。」
こうなる事を見抜いていたとは思えないのだが、どうやら吉崎の術中に嵌ってしまったようだった。
「じゃあ、私は身元引き受けの書類を揃えてきますから・・しばらく待っていて下さい。」
再び、吉崎は部屋を出て行った。

1-8 看護師 [スパイラル第1部記憶]

1-8 看護師
「本当に良いんですか?」
吉崎が出て行った後、純一はもう一度確認した。今度は彼女が微笑むように言った。
「ええ・・。きっと優しい方に違いありません。よろしくお願いします。」
彼女の笑顔を見て純一は何だかほっとして、ベッドの横に置かれた丸椅子に座り込んだ。
彼女は、再び窓の外に視線をやって、言った。
「一つお願いがあるんです。」
純一が顔を上げて彼女を見ると、彼女が微笑みながら言った。
「名前をつけていただけませんか?・・自分の名前が思い出せなくて・・でも、これから生きていくには名前が無いと・・貴方のお傍に居るわけですから・・貴方が好きな名前をつけてくださいませんか?」
彼女の言葉は妙な感じがした。
身元引受人になったが、お傍に居るなどと言われると、まるで恋人か妻を貰ったような気持ちになってしまう。更に、好きな名前をつけてなんて言われると、自分の所有物のような錯覚をおぼえてしまうのであった。
「・・・名前をつけるなんて・・・。」
「お願いします。」
純一は戸惑いを隠せず、彼女の顔を見た。
はっきりした目鼻立ち、色白で上品さを感じさせる。左目の下にホクロがあるのが印象的だった。
純一の頭に突然、一つの名前が浮かんだ。どこからそんな名前が出てきたのか説明できないが、何故か彼女の顔を見ていると浮かんだのだ。
「・・じゃあ・・ミホ・・でどうでしょう・・・。」
名前を口にして、純一はたいそう恥ずかしくなって真っ赤になってしまった。
「ミホ?」
「いや・・あまりに在り来たりかな・・別・・別のにしましょう・・ええっと・・。」
純一は慌てて自分が口にした名前を否定しようとした。
「いえ・・ミホ・・良いです。・・そうしてください。」
彼女はその名を聞いて何だか妙に自分に合っているというか、懐かしいという感覚が湧いてきて、小さく何度か、口にしたあと、ふいに純一に言った。
「呼んでみてくれませんか?」
「えっ!」
純一はどぎまぎした。
ただ、名前を呼ぶだけのことなのに、これほど緊張するとは思ってもいなかった。
「お願いします。」
彼女は真っ直ぐ純一を見ている。
純一は、恥ずかしさを隠すために、一呼吸してから目を閉じて名前を口にした。
「ミホさん。」
「はい。」
目を開けると彼女は涙を流していた。
どういう涙なのか、純一には理解できなかったが、彼女は涙を流し、微笑んでいる。
「何だか・・・生まれ変われたみたいです。・・ありがとうございます。ご迷惑をおかけしないようにします。宜しくお願いします。」
彼女はそう言いながら涙を流し、毛布に顔を埋めた。

病室のドアが静かに開いた。
「失礼します。検温の時間です。」
そう言って一人の若い看護士が入ってきた。純一はその看護士を見て目を見開いた。
「お前・・どうして・・。」
純一の言葉など無視するかのように、その看護士は純一の前を通り、さっさと彼女の前に進み、体温計を差し出した。そして、手早く、脈と血圧を測る。その間中、純一の存在をわざと無視するような態度をとった。
「どういうことなんだよ、唯。なぜ、ここにお前が居るんだ?」
その看護士は、一通りの作業を終えると、ようやく純一の問いかけに答えた。
「あら?私はこの病棟の担当看護士よ?巡回に来ただけ。」
何だかとぼけたように答えた。
その看護士は、純一が勤務する鮫島運送の娘なのだ。
確かに、市民病院の看護士をしている事は知っていたが、大きな病院だ。病棟もたくさんある。偶然にしては出来すぎている。ようやく、純一は、あの古畑刑事やケースワーカーの吉崎が自分に身元引受人を依頼した理由がわかった。
唯が、救急搬送された患者の話を聞きつけて、発見者が純一だと知って、ケースワーカーに勧めた違いなかった。
「お兄ちゃん、身元引受人になったんだって?」
唯は少し面白がるように訊いた。
「とぼけて、お前がそう仕向けたんだろ!」
純一が言うと、唯はぺろっと舌を出した。その二人のやり取りを「ミホ」はじっと見ていた。そして
「仲が良いんですね?ご兄妹なんですね。」
「ミホ」の問いに、純一が答えた。
「いえ・・兄妹ではないんです。・・こいつは、私が勤めている運送会社の社長の娘なんです。こいつがまだ三つの頃から知ってるんで・・いや、子守代わりだったんでね。」
「ミホさんって名前になったんですね?良かった。お兄ちゃん、無愛想だけど優しいのよ。大丈夫、きっと守ってくれるから。・・それに、私も隣に住んでるから、お兄ちゃんが変な事しようとしたら逃げてくればいいからね。」
「お前、聞いてたのか?」
「・・お兄ちゃん、緊張しすぎて声が裏返ってたわよ。」
何か全て知られてしまったようで、純一は妙なむなしさを感じていた。
「ミホさん、随分、体調も良くなったようだから、退院も早そうね。お兄ちゃん、頑張ってね。」
唯は妙な笑みを浮かべて、病室を出ていった。
「・・ちょっと・・出てきます。すぐに戻りますから・・。」
純一はそう言うと、唯の後を追うように病室を出て行った。

1-9 子どものような女 [スパイラル第1部記憶]

1-9 子どものような女性
「おい、唯・・ちょっと待てよ。」
ナースステーションへ戻ろうとしている唯に、純一は声を掛けた。
振り向いた唯は、うっすらと涙を浮かべているようだった。その様子に、純一は一瞬戸惑った。
「良かった・・ミホさん、きっとすごく辛い事があったはず・・お兄ちゃん、ちゃんとお世話してよね。・・」
唯は、担当の看護士として、ミホの状況を担当医から聞き、随分、同情しているようで、純一は身元引受人になってくれた事が嬉しかったようだった。
「ああ・・・」
純一は唯が見せた優しさに驚いたと同時に、小さい頃から見てきた唯が随分大人になったんだと元感じていた。
「お前に頼みがあるんだが・・。」
「何?」
「いや・・退院が近いって言ってただろ?・・で・・退院の準備を手伝って欲しいんだ。」
「良いけど・・お兄ちゃんがやれば良いじゃない?」
「いや・・俺じゃ無理な事もあるだろ・・ほら・・彼女、水着で海に居たんだ・・着替えとか何も無いじゃないか。女性の着替えって、俺には無理だよ。」
「良いじゃない。お兄ちゃんの好みの服を買ってあげれば?」
「・・洋服程度なら良いだろうけど・・ほら、・その・・下着とかもいるだろ?さすがに俺には無理だよ・・なあ、頼むよ。」
純一の困った顔を見て、唯は少し考えてから言った。
「わかったわ。ミホさんにサイズを訊いて買ってくるわ。・・じゃあ。」
唯はそう言うと、手のひらを純一の前に突き出した。
「後でやるから、立て替えといてくれよ。」
「えー?今月ピンチなんだから・・前金でちょうだい。」
「いくらいるんだ?」
唯はそのままの格好で少し考えてから、
「・・5万円くらいかな?」
「そんなに?」
「女性ものは高いのよ。それにちょっとはお駄賃もね?!いやなら良いのよ。お兄ちゃんが自分で下着屋さんに行けばいいんだし・・。」
唯はちゃっかりしている。
「判ったよ。」
純一は財布を取り出して、唯が言うとおりの金額を渡した。
「毎度あり!」
結いは変な返事をして、さっと純一の手からお金を受け取りさっさとナースステーションへ戻っていった。
純一は、改めて大変な事を引き受けてしまったと感じていた。

病室に戻ると、ミホはベッドを戻して横になっていた。
「あ・・そのままで良いですから。」
純一は、ベッドの脇にある丸椅子に再び座ると、退院の支度を唯に頼んだ事を伝えた。
「足りないものがあるようなら、退院してから買い揃えましょう。・・大丈夫です。・・一人身で、特に趣味もない男ですが、それなりに蓄えはありますから。少しくらいの出費なんてどうって事ありませんから。気にしないで下さい。・・それに、記憶が戻れば、あなただって普通の暮らしに戻れるはずです。僅かの間、私と暮らすだけになるでしょうから。」
「済みません・・ご迷惑をおかけします。きっとこのご恩はお返しいたしますから。」
「本当に、気にしないで下さい。あなたを浜辺で見つけたのもきっと何かの縁でしょうから。・・それより今は体をいたわってください。・・僕は帰ります。退院の日には迎えに来ますから・・」
純一はそういうと、立ち上がりかけた。
「あの・・・もう少し居ていただけませんか?」
「・・ええ・・それは構いませんが・・。お邪魔でしょう?」
「いえ・・一人になるのが怖いんです。」
ミホはまるで小さな子ども様な瞳で純一に言った。
「判りました。・・じゃあ、あなたが眠るまで傍にいますから。」
ミホはその言葉を聞き、安心したような表情をした。
「さあ、目を閉じて、眠ってください。」
純一は自分でも驚くほど優しい口調で彼女に言った。
「あの・・手を握ってもらって良いですか?」
ミホは布団の脇からそっと手を差し出した。白く細い指をしている。
一瞬、躊躇ったが、純一は、両手で包み込むように彼女の手をを握った。
彼女の手は随分冷たかった。
「ああ、温かい。」
彼女はそういうと、純一の温もりを全身で受け止めるような表情をして目を閉じた。

不思議な感覚だった。まったく見ず知らずの他人である。病室に入ってからまだ数時間しかたっていない。さらに、彼女は記憶を失くしていてどういう人間なのかまったくわからない。しかし、純一の心には、彼女を守りたいという想いが強く湧いてきていた。

一体、彼女はどんな世界で、どんな風に生きてきたのだろうか?どれほどの辛い目に遭って来たのだろうか。自分の過去を全て打ち消してしまいたいほどの衝撃とはどんなものなのだろうか。
純一は、目を閉じ眠ろうとしている彼女の顔をじっと見つめながら考えていた。
『記憶を取り戻さない方が良いかもしれません。取り戻すと心が壊れてしまうかもしれませんから』
ふと医師の言葉を思い出していた。
このまま記憶が戻らない場合、彼女はどうなるのだろう、一生、自分の傍に居ることになるのだろうか。
純一は想像し、何か、幸せな感情が湧いてくるのだった。

1-10 退院 [スパイラル第1部記憶]

1-10 退院
彼女、ミホの退院の日が決まった。
すでに、鮫島運送の社長や奥さんには事の経緯は、唯の口から報告されていて、奥さんもミホの受け入れのために何かと世話を焼いてくれていた。
純一も、部屋の掃除や模様替えし、一部屋をミホが使えるようにしていた。

純一が、ミホの病室に行くと、すでに彼女は着替えを済ましていた。
唯の趣味なのか、ミホは白いワンピースを着て、ベッドに腰掛けて、窓の外を見ていた。
「用意は出来ましたか?」
純一が声をかけると、ミホが「はい」と返事をして振り向いた。少し化粧もしているようだった。もともと目鼻立ちがはっきりしている彼女だが、化粧でさらに際立ち、まるでモデルのように美しい。純一は彼女の美しさに息を呑んでしばらく見とれていた。
「なんだか、恥ずかしいです。・・こんな可愛い洋服、似合ってるんでしょうか?」
純一は、返事に困った。心の中では「なんて奇麗なんだ」と感じていたのだが、素直にそういうことが恥ずかしい気持ちで、「似合ってますよ」と答えるのがやっとだった。

担当医やナースステーションに挨拶し、会計も済まして病院の外に出た。
病院の前に広がる街路樹からは、会話さえ聞こえなくなるほどの蝉時雨が響いていた。
「今年の夏は酷暑だそうです。体、大丈夫ですか?」
「ええ・・もうすっかり。」
ミホは、病院の玄関口に立ち、しばらく外の景色を見ていた。
行きかう人々、車、木々の緑、ようやく現実の社会に出たのだと実感し、記憶を失くした事も現実の事なのだと受け入れたようだった。
「アパートまではすぐですから。」
二人は、純一の車に乗り、アパートに戻った。

アパートの駐車場に車を停めると、すぐに階段を登った。
隣に立つ社長の家に挨拶に行くべきかとも考えたが、彼女の様子からもう少し後のほうが良いだろうと純一は考えた。
部屋のドアを開けて、彼女を中に入れた。
「しばらくここで暮らす事になりますから・・。」
純一はそう言いながら、ベランダの窓を全開にして、外の空気を入れた。アパートの周囲にはまだ少し田畑が残っていて、吹く風は意外に爽やかだった。
ミホはベランダに近づき、外を見た。
「意外と景色は良いでしょう?」
ミホはじっと窓の外の風景を見ていた。
「ああ・・あそこ、あの松原の向こうの海岸であなたを見つけたんです。」
ミホは返事もせず、じっと純一の示す方に視線をやっている。
「ああ、そうだ。ちょっとこっちへ来てください。・・この部屋、使ってください。片付けてありますから。」
純一は、ミホをリビングの隣の部屋に連れて行った。ドアを開けると、そこには小さなチェストが一つと布団が一組だけ置かれていた。
「まだ、何もありませんが、徐々に揃えていけば良いでしょう。」
ミホは少し戸惑っているようだった。
「すみません・・随分、気を遣っていただいて・・・本当にすみません。」
「もう気にしないで下さい。それに、すみませんという言葉は止めてください。僕があなたを守ると決めたんです。欲しいものはなんでも遠慮なく言ってください。」
「でも・・。」
「あなたを妹だと思う事にしたんです。妹なら、兄が面倒を見るのが当然でしょう。」
純一は思わず口にした。
自分の言葉ながらかなり理にかなっていると思った。
「部屋は三つです。僕は、玄関の脇の部屋を使います。真ん中の部屋は物置みたいになっているんで、開けないほうがいいですよ。」
ミホは、純一の後を付いていく。
「トイレはそこです。ちゃんと鍵はかかりますから。」
ガチャガチャとドアノブを回して改めて確かめる。
「風呂はそこ。ボタン一つで給湯されますから。温ければ、このボタンを押せば暑いお湯が出ます。」
説明しながら動作を確認する。部屋の照明もスイッチを入れて確かめた。
「洗面台はこれて良いでしょう?洗濯機はちょっと古いですが・・壊れていませんから・。洗剤は棚の上です。・・ああそうだ。この使い方判りますか?」
記憶をなくしている事がどういうことなのか良く判らず、ひょっとしたらこうした機械も使い方すら覚えていないのではないかと心配になって訊いた。
ミホは少し考えて答えた。
「ええ・・たぶん、使えると思います。」
純一が聞いた理由もミホにはすぐに判ったようだった。
「キッチンは、ほとんど料理をしたことが無いんで、綺麗なものです。」
純一は、最後にキッチンに入った。システムキッチンの扉を一つ一つ開いて入っているものを確認した。一人暮らしで、大半の棚は空っぽだった。冷蔵庫の中も、わずかにビールとつまみのようなものが入っているだけだった。
「あの・・・料理は出来ますか?」
純一は冷蔵庫を閉めてから、ミホに訊いた。
「たぶん・・できると思います。記憶はありませんけど・・・料理と言われてなんとなくどんな事か判りますから・・きっとできるんだと思います。」
「そうですか。」
記憶をなくすということは、日常の暮らしが出来ないのとは違うようだった。もう少し、確認しておきたいことはあったのだが、少し気がとがめてやめた。そして、
「買い物に行きましょう。ああ、体、大丈夫ですか?少し休んだ方がいいかな?」
「いえ、大丈夫です。私もお手伝いします。」
「じゃあ・・。」
「あの、ちょっと待ってもらっていいですか?」
「ええ・・。」

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