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21 ヘルメットの男 [命の樹]

21 ヘルメットの男
若い漁師が去ってから、いきなり、当たりが出始め、ハゼやコチの小さなものが結構釣れた。
その日は、煮魚が夕食のメニューとなった。
次の日、加奈が休みだったので、哲夫は加奈に頼んで、車で30分ほどのところにあるホームセンターへ連れて行ってもらった。哲夫も運転免許は持っているのだが、病気が判ってから、他人を事故に巻き込むかもしれないからと運転はやめたのだった。加奈も、哲夫と一緒に出かける事で安心できる。

哲夫はホームセンターへ着くと、野外設備の売り場へ行った。
「一体、何を買うの?」
「ああ・・これこれ。」
哲夫が手にしたのは、屋外用の回転灯だった。
「そんなもの、どうするの?お店の看板でも出すつもり?」
「いや、看板につけるんじゃないよ。これを屋根に付けるんだ。」
哲夫が何をやりたいのか、加奈にもすぐにわかった。
「それじゃ、小さいでしょ。もっと大きいのが良いわ。」
「そうかい?・・・」
うろうろしていると、店員がやってきた。事情を説明すると、店員が倉庫へ行き、大型のライトを持ってきた。
「これならかなり目立ちますよ。最新のLEDですから、簡単に壊れたりしませんし、電気もあまり使わないから便利ですよ。」
哲夫は、納得して、店員の持ってきた大型ライトと配線キット、それとちょっと高価だったがミニソーラーパネルと電池一式を購入した。
ホームセンターからの帰り道、加奈は憮然としていた。無駄使いに怒っているのではなかった。この後の仕事を考えていたのだった。一旦は同調したものの、やはり、それを自分で取り付けるなんて大変な作業だと思い当たったのだった。ただ、若い頃から、哲夫はいろんなものを器用に作る。マンションに住んでいた頃には、ドアやサッシを修理したし、トイレも自分で改装した。子どもの自転車などは簡単に修理した。
『親父から教わったんだよ。』
事あるごとに、哲夫は口にしたのだった。哲夫の父は、旋盤や電気配線、エンジン修理、溶接、いろんな資格を持っていて、なんでも器用にやってのける人だった。哲夫は幼い頃から父の傍で仕事を見ていて、自然に覚えたのだった。
自宅に戻ると、買ってきた物を一旦家まで運んだ。随分、重いものばかりだった。
「ねえ、これを屋根の上に取り付けるの?」
「ああ・・。」
「ねえ、誰かに手伝ってもらいましょう?あなた一人じゃ無理よ。また、体を壊すわ。」
かなの心配は、尤もな事だった。
「それに、ほら、天気も悪くなってきたし・・・。」
加奈の言うとおり、朝からはっきりしない天候だったが、昼を過ぎると随分雲が厚くなり、今にも雨が降り出しそうだった。
「そうだなあ・・。」
「ね、天気がよくなってからで良いじゃない。」
夕方から風雨が強くなってきた。台風ではなかったが、発達した低気圧のせいで、土砂降りの雨となった。哲夫たちがここへ来て初めて経験する豪雨だった。
「ちょっと、与志さんのところへ行ってみるよ。」
与志さんの家は、哲夫たちの家から畑を一つはさんだ、下の斜面に建っていた。一人暮らしで、家も古く、きっと不安に思っていると感じたのだった。
「気をつけてよ。」
「ああ、すぐだから大丈夫さ。」
パン焼き釜のある裏口から、畑を抜けてすぐのところだった。降り続く雨で足元はぬかるんでいる。懐中電灯を手に与志さんの家に着くと、与志さんは居間に一人でいた。
「与志さん、大丈夫?どこか雨漏りとかしていない?」
「いや・・今のところは大丈夫みたいだな。だけど、雨音が酷くて・・」
与志さんは、不安げな様子だった。
「与志さん、うちへ行こうよ。うちなら安心だから。」
哲夫の言葉に与志はすぐに立ち上がった。与志さん尾家を出て、来た道を戻ろうとしたが、斜面をしぶきを上げて流れる雨水を見て危ないと感じて、平坦な道へ迂回して神社から家へ戻ることにした。
合羽を着ているが、雨が弾ける音で普通に会話が出来ないほどになっていた。懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと神社までの平坦な道を進んだ。
途中、雨で地盤が緩んで不安定だった場所に立っていった樹が道を塞ぐように倒れていた。なんとかその樹を越えたところで、与志さんが哲夫を引き止めた。
「おい、てっちゃん!あれ!」
与志さんが指差す先に、人影が見える。普段、この道を使うのは与志さんか、ここらにみかん畑を持っている人くらいだった。近づいてみると、バイクのヘルメットを被って、力なく座っているようだった。
「どうした?」
哲夫が尋ねると、その人影がふっと顔を上げた。そして、哲夫の足にすがりついた。
「事故のようだね。ほら、あれ。」
与志さんは、樹の下を指差した。大型バイクが倒木に一部挟まった状態になっていた。
「歩けるか?」
哲夫が尋ねると、ヘルメットを被った人が頷いた。
「うちへ行こう。」
結局、哲夫は、与志さんとそのバイクの人を連れて、家に戻った。

家では、加奈が心配顔で待っていた。
「帰ったよ。」
加奈は、バスタオルを何枚も持ってきて、ずぶ濡れになっている与志さんの体を拭いた。
「私は良いから、あの人を。」
玄関口に、全身ずぶ濡れのヘルメットを被った人が座り込んでいた。
「さあ、中へ。」
ヘルメットを取ると、まだ20代の青年だった。ポロシャツとジーンズはずぶ濡れになっていた。
すっかり憔悴した表情をしている。

22 嵐の夜 [命の樹]

22 嵐の夜
すぐに、加奈が2階の部屋に行き、哲夫と与志、そして青年のために、着替えを持ってきた。
着替えが終わったところで、青年と与志さんは、テーブル席に着いた。
「ああ、ほっとした。こんなに降るなんてねえ。長い間生きてきたが初めてだね。てっちゃん、ほんとに、ありがとうね。」
「いえ・・いつもお世話になってるんですから・・。それより寒くないですか?」
哲夫はそう言いながら、ホットミルクを運んできた。
「ええっと・・君は・・ミルクでいいかな?」
青年はまだボーっとしていた。
「おい!青年、しっかりしな!」
与志さんの言葉に、青年は我に返った。
「ああ、済みません。ありがとうございます。助かりました。」
「そうか、良かった。僕は倉木哲夫、妻の加奈。ここで喫茶店をやってるんだ。それと、与志さん。」
「僕は、伊藤 健です。バイクでぶらぶらと旅をしてて・・なんだか、急な雨で、どこかで雨宿りさせてもらおうとあの先に明かりが見えたんで・・向かってたんです。」
「それで、あそこで・・」
「ええ、目の前に、突然、樹が倒れてきて・・。」
「そうなの・・でも良かったわ。怪我がなくて。」
加奈は、皆が脱いだ衣服を集めながら言った。
「まあ、今日はどうしようもないから、明日、晴れたらバイクを見に行こう。それより、腹減ったな。」
「そうね、夕飯にしましょう。与志さんもまだでしょう?・・健さんは?」
健は少し戸惑った表情ながら、「まだです」と返事をした。
「パスタでいいかしら?」
「おや、君が作ってくれるのかい?」
「ええ。今日は私が作るわ。」
加奈はそう言うと厨房に入っていった。
「バイクでぶらぶら旅なんて羨ましいなあ。・・君、仕事は?」
哲夫が訊いた。
「・・今は・・無職です。少し前までは、会社勤めをしていたんですが・・・。」
「ふーん。嫌になったかい?」
与志さんが言った。
「嫌と言うか・・何だか、よく判らなくなって・・何のために仕事してるんだろうって。」
「良いねえ、お気楽で。何のためって、そりゃ、生きるためだろ?金を稼がなくちゃ、生きていけないだろ?それ以外に何があるんだよ。」
与志さんは少し口調がきつかった。
「お金はもちろんそうですけど・・それだけじゃあ・・」
その会話を聞いていて哲夫もふと考え込んでしまった。
病気が見つかるまでは、仕事に邁進するのが当たり前、それこそ自分が生きている意味だと信じていた。だが、病気が見つかった時、一体、何のために仕事に邁進していたのか、急に疑問が湧いてきた。あっさりと辞める決断が出来た事も、今になってみると不思議な感じがしていた。

「さあ、出来たわよ。運んで!」
厨房から加奈が哲夫を呼んだ。
大皿に山盛りのパスタ、そして、小さめの器に、ミートソースとホワイトソースとジェノバ風ソース(加奈の命名)の3種、それぞれに小さな取り皿が配られた。
「久しぶりだね、こういうの。」
「そうでしょ?せっかく人数も多いから、こういうのが良いかなって。さあ、自分で食べたいだけ取って、お好みのソースを絡めて召し上がって!」
「昔、娘たちが居た頃、パスタパーティって言って、よくやったんだ。これなら、一度にいろんな味が楽しめるから、娘たちには好評だったんだよ。さあ、どうぞ。」
哲夫はそう言うと、真っ先にパスタを皿に取り、ミートソースをかけ、大きく口を開けて食べた。
与志さんもそれを見て、「こりゃいいよ」と言ってパスタを取った。健も続いた。
健はそうとう空腹だったのか、取り皿いっぱいにパスタを取った。
「一度にそんなに・・いろんなソースがあるから、少しずつ食べてみてよ。」
加奈が言うと、健は恐縮した表情を見せ、取ったパスタを戻そうとした。
「良いんだよ。好きに取れば・・足りなければ、まだゆでれば良いんだから。」

外は相変わらず激しい雨が降っていた。
ひとしきり、楽しい夕食の時間を過ごした。食器を片付けながら加奈が言った。
「2階に部屋が空いているから、今日は泊まっていってね。お風呂も入れるから。」
健と与志は加奈に案内されるまま、それぞれ、部屋に入り、順番に風呂も済ませた。

健が風呂を済ませて、1階に顔を見せた時、哲夫はソファで横になって眠っていた。
加奈は、哲夫の横で、寝顔を見ながらコーヒーを飲んでいた。
「ありがとうございました。」
健が言うと、加奈は立ち上がって、厨房からコーヒーを運んできた。
「ご主人、寝ちゃったんですね。」
「ええ、早寝早起きなの。パンを焼く日には、9時過ぎには寝てるわ。与志さんも畑仕事を朝早くからやっているからもう寝ちゃったんじゃないかしら。」
「そうか・・みんな、仕事されてるんですよね。」
「私も仕事してるわ。近くの専門学校の先生よ。」
「へえ、そうなんですか。」
「ねえ、健さん。しばらく、うちで仕事してみない?」
「え?仕事ですか・・・。」
むくりと哲夫が起き上がり、二人を見て言った。
「そうだ。それが良い。どうせ、バイクの修理もしなくちゃならないだろ。その間だけでもどうだい?」
「なに、起きてたの?・・もう、しょうがない人なんだから。・・そうね、部屋は空いているし、給料を払うなんて無理だけど、食事は用意できるから。」
健は少し迷っていたが、哲夫の言うとおりバイクの修理は相当時間が掛かるだろうし、どうせ行く当てもないのだ。少し、ここで世話になるのも悪くないかもと考えた。
「じゃあ、お願いします。」

23 嵐の去った後 [命の樹]

23 嵐の去った後
翌日は晴天だった。
加奈を仕事に送り出してから、哲夫は、まず与志さんの家を見に行った。
壊れた場所はなかったが、畑から土砂が庭先に流れ込んでいて、物置の戸が壊れていた。
哲夫は早速修理に取り掛かった。健には土砂を取り除くように言って、自分は、まず蝶番を外して戸の歪みを直して取り付けなおした。その頃には、健もすっかり土砂を取り除いていた。
「これで大丈夫。」
「ありがとうね。」
哲夫と健は、与志さんと別れて、倒木の下敷きになっているバイクを見に行った。
昨日は、夕暮れで薄暗い中、どれほどの状態か判らなかった。行ってみると、倒木はかなりの大きさだった。そのままではバイクは引き出せそうになかった。
「小さく切らなきゃ、駄目かな。与志さんもこの道が通れないと困るだろうし・・。」
哲夫と健は、一旦、自宅に戻ると、物置小屋に入った。
「確か、小さなチェーンソーがあったはずだが・・・。」
健は小屋の中を見て驚いた。ちょっとした工房のようだったのだ。
「ああ・・あった。使えるかな。」
哲夫はところどころにマシン油を指して、エンジンをかけた。ブーンと特有の音を立ててチェーンが回った。
「大丈夫だな。」
そう言うと、石段を降りて、神社の脇を通り先ほどの場所へ戻った。
1時間ほどかけて、倒木を小さく切り分け、道路の脇へ積み上げると、ようやくバイクが姿を現した。
健はすぐにバイクを起こしてみた。エンジンスイッチを入れてみたが、セルの回る音だけだった。
ハンドルとマフラーが歪んでいる。タイヤのスポークも3本ほど折れてしまっていた。
「こりゃあ、修理するのは手が掛かりそうだな。」
「どこか、バイク屋はないでしょうか?」
「バイク屋か・・・この町にはないなあ。浜松辺りならあると思うけど・・。とりあえず、うちの駐車場まで持っていこう。」
夏の終わり、日差しは強かったが、森の中の道は涼しかった。
健はバイクを引きながら哲夫の後をついていき、神社の脇の駐車場にバイクを停めた。

哲夫は、一旦、家に戻った。急に疲れが出た。少し息が上がっているのが自分でもわかる。
「悪いが、少し横になるよ。何だか、慣れない仕事で疲れたみたいだ。・・ああ、昼食は、そこにパンがある。冷蔵庫から何でも適当に出して、サンドイッチでも作ると良い。・・上にいるから、誰か来たら起こしてくれ。」
哲夫は健にそう言うと、階段を上っていった。
健は厨房の棚にあるパンを見つけ、冷蔵庫からジュースを取り出して、昼食にした。それから、電話帳を探し出して、バイク修理の店を探した。
何軒かの店は見つけたが、電話をすると、「出張修理は難しい、店に持ち込んでくれれば出来る」という返答ばかりだった。場所を確認すると相当遠いところばかりだった。そこまでどうやってバイクを運ぶか、まさか引いていくには無理がある。誰かに軽トラックでも借りなきゃ難しいぞ。しかし、この辺りには知り合いも居ないし、哲夫さんなら誰か当てはないかと考えた。
哲夫が2階に上がってから、3時間近く経とうとしていた。お客は一人も来なかった。そのうちに、健も、ソファに座って、うとうとと、し始めた。
「あなた、誰?」
目の前に若い女性が立っている。スリムな体系、短いスカート、大きなバッグを持っている。
健はぼんやりした頭で、お客と思って、反射的に答えた。
「いらっしゃいませ・・。」
「いらっしゃいませって・・ねえ、あなた、誰?バイト?そんな必要ないでしょ、この店に。」
その女性はそう言うと、健に大きなバッグを投げつけ、スタスタと2階へ上っていった。
「ねえ、お父さん!お父さん!・・どこ?ねえ、変な人がいるわよ!」
その女性は、下の娘、千波だった。
その直後、血相を変えて、ばたばたと階段を下りてきた。
店の中を見回し、何かを探しているようだったが、いきなり、健からバッグを取り上げて、携帯電話を取り出した。
「もしもし、結さん?・・お父さんが・・・・ええ、待ってます。ねえ、どうしたらいいの、・・・ええ・・わかりました。」
携帯電話を握り締めて、再び、2階へ駆け上がった。健も心配になってそっと2階へ上がってみた。
2階には部屋が三つあった。いずれも傾斜天井で、屋根裏部屋の形状となっていた。
昨夜、与志と健が泊まった、6畳ほどの客室が東側に二つ。風呂と洗面台をはさんで、西側に10畳ほどの大きな部屋があった。そこにはベッドと机などが置かれていて、夫婦の寝室らしかった。
寝室のドアが少し開いていた。健が中を覗くと、千波が哲夫に何かを着けている。千波の陰でよくわからない。ドアをもう少し開けようとした時、千波が振り返った。
「出て行って!」
そう言って、バタンとドアを締めてしまった。
30分ほどすると、石段を駆け上がってくる足音が響いた。慌ててやってきたというのが足音だけで充分判った。今度は30代の女性だった。
「あなた、誰?」
「あ・・いや・・その・・」
健が答えるまもなく、
「おじさんは?」
健が、恐る恐る2階を指差すと、靴を脱ぎ散らかして、その女性が階段を駆け上がっていった。
「千波ちゃん!おじさんはどう?」
その声だけは聞き取れた。しかし、その後は静かになった。
そのうちに陽が傾いてきた。健は、突然の事にその場から動けず、ぼーっとして外を眺めていた。
小さく、車の停まる音がした。
「哲夫さん!」
今度は加奈が戻ってきたのだった。
今、目の前で起きていることは尋常な事でない、哲夫の身に何かあったんだと、健は思っていた。何が出来るわけでもないが、結果が判るまで健は落ち着かなかった。

24 女たちの相談 [命の樹]

24 女たちの相談
日がすっかり暮れた頃、千波と結、加奈が階段を下りてきた。健は緊張した表情で立ち上がった。
しかし、下りてきた3人は、予想外に穏やかな表情をしていた。
「まったく、千波は大げさなんだから・・。」
加奈が笑いながら言った。
「だって・・。」
千波は口をとがらせて不満そうに答える。
「まあ、でも安心したわ。まさか、ぐっすり眠りこんでいただけなんてね・・。ほんと、千波のおっちょこちょいは誰に似たのかしらね?」
加奈が言うと、結が少しからかうように言った。
「え?千波ちゃんはお母さん似じゃないんですか?」
「まさか、哲夫さんよ。・・いや、でも、あの人の場合、おっちょこちょい、じゃなくてせっかちね。」
「じゃあ、やっぱり、加奈さんに似たんでしょ?」
「嫌なこと言うわねえ。」
三人は、そこに健が居ることを忘れたかのように、和やかに会話しながらテーブルに着いた。
「あ・・あの・・」
どう会話に入っていいかわからず、健が小さく呟くように言った。
「あら、健さん、ごめんなさいね。・・・ええっと、こっちは次女の千波、大学生。そして、こちらは、水上結さん。まあ、私の妹みたいなものかしらね。」
「あ、僕は、伊藤 健、フリーターです。」
健はちょこんと頭を下げた。
「フリーター?・・何それ?・・無職ってことでしょ?」
千波は、健を品定めするようにじろじろと見ながら言った。
「千波ちゃん、相変わらずね。どうして、そんなに男の子には厳しいの?」
結が言うと、千波は何食わぬ顔で続けた。
「厳しいんじゃないわ。周りに、情けない男が多すぎるだけ。」
仕方ないわねという顔をしながら、加奈は、厨房に行くと、コーヒーを運んできながら言った。
「それにしても、千波、一体どうしたってわけ?こんな時期に。帰るなら前もって連絡しなさいっていつも言ってるでしょう?」
「ごめん。昨日、イタリアから戻ったばかりなの。夏休みに一ヶ月ほど、ヨーロッパあたりを旅行をしてたもんだから・・ついでに帰省しようかなって・・。」
千波はコーヒーを口にしながら、ちょっと視線を外して答えた。
「嘘でしょ?」
加奈もコーヒーを飲みながら言った。
「実はさあ・・ちょっと予定より滞在が伸びてしまって・・ピンチなのよね。」
「やっぱりね。今度は幾ら?」
千波は、アルバイトで貯めたお金でふらっと海外旅行に行くのが趣味だった。ただ、無計画なために、時々、生活費に困ることがあった。
「ごめん。いくらでもいいの。」
千波の答えも大体同じだった。こう言うと、加奈が5万円くらいを都合していたのだった。
「仕方ないわねえ・・。」
健は、哲夫に何かあったのではないかと大いに心配していたのだが、三人の会話は何事もなかったように他愛のない様子で、大したことではないのだろうと思い、そのまま訊かずにいた。数日前に偶然世話になっただけである。余りに立ち入った事を訊くのも気が引けたのだった。
「結ちゃん、今日、泊まっていけるんでしょう?」
加奈が訊いた。
「・・そうですね。特に予定もないし・・。」
「そう?良かった。じゃあ、夕食にしようか。」
加奈はそう言って立ち上がった。
「ねえ、部屋は?」
千波が、大きな荷物を抱えて、加奈に訊いた。
「ああ、そうか。・・2階の小さい部屋、一つは、健さんが使ってるから隣を使って。結ちゃんも千波と一緒で良いでしょ?布団は押入れにあるから。」
加奈が言い終わらぬうちに、千波は階段を上っていった。後を、結がついて上った。
「健さん、ちょっと手伝ってもらって良いかしら?」
加奈は健に夕食の準備の手伝いを頼んだ。
夕食の支度が出来て、テーブルに、加奈と千波と結が着いた。
「健さんもどうぞ。・・ねえ、せっかくだから、ワインを開けましょう。ほら、哲夫さんは下戸でしょ?いつも、私一人で飲んでてつまんないのよ。今日は楽しみましょう。」
「やったあ!」
千波が喜んだ。夕食は、千波がヨーロッパ旅行で撮ってきた写真を見ながらの土産話で終始した。

午後9時を回った頃には、健はかなり酔ってしまって、正体を失くし、ソファで寝てしまっていた。
それを確認して、加奈が結に訊いた。
「哲夫さんの具合はどうなの?」
加奈も千波も結も、相当ワインを飲んでいたはずだったが、少しも酔っていなかった。
「少し無理をしたみたいですね。でも、千波さんがすぐに酸素ボンベを着けてくれたから、大事に至らず良かったです。今、点滴もしていますから、明日にはもう普段どおりに動けるでしょう。」
「そう・・・彼が来て、哲夫さんも少し張り切っていたみたいね。・・」
加奈が不ソファで眠っている健をチラリと見た。
「これからは、もっと、こういうことが起きると思います。」
「そんなに悪くなってるの?」
千波が不安げに訊いた。
「ええ・・こうして普通に暮らしている事自体、奇跡だなんです。痛みが出ていないのが不思議です。」
「でも、いつもこんなふうに、哲夫さんの傍に居られるわけじゃないし・・。」
加奈も不安げに訊いた。
「その為に、良いものを持ってきました。携帯用酸素ボンベです。」
結は席を立って厨房の脇に置いた箱を開けて、ちょうどPETボトルほどのものを持ってきた。
「これから、哲夫さんにはこれをいつも持ち歩いてもらうようにしてください。」
「それがあれば、少しは・・。」
「ええ、苦しくなったらすぐに使うことで、楽になります。とにかく、呼吸を確保することです。」
3人は、それ以外にも注意する事を夜遅くまで話し合った。

なんだか・・いいんでしょうか? [苦楽賢人のつぶやき]

今回、少し、のんびりしたお話にしたせいか・・あまり面白くないのでしょうかねえ。まあ、作家ではないので、とにかく、自分の書きたいものを書くだけですが・・。

いやあ、ほんとに呟いてしまいました。

25 結と哲夫 [命の樹]

25 結と哲夫
明け方になって、哲夫は目を覚ました。
すでに酸素マスクも点滴も片付けられていて、哲夫は、自分の身に起きた事を知らないまま、むくりを起き上がった。全身がだるかった。カーテンを通して朝日が差し込み始めていて、部屋の中はぼんやりと明るくなっていた。隣のベッドで加奈が静かに寝息を立てていた。
昼前に戻ってきたが、余りに疲れてしまっていて、少し眠るつもりでベッドに入ったところまでは覚えている。その後、誰かが呼ぶ声がしたような記憶がぼんやりと残っている。パジャマに着替えているところをみると、眠っている間に、着替えをしてもらったに違いない。
哲夫はベッドから起き上がり、静かにドアを開けて階下へ降りて行った。
階段下に、見慣れないヒールが二つ並んでいた。一つは、おそらく千波。もう一つは長女の美里ではなさそうだった。美里はヒールのある靴を履かない主義だったからだ。
厨房を見ると、夕食の片付けが中途半端な状態で残っていて、ワインの瓶とグラス、それに小皿が何枚か、流しに置かれていた。
勝手口から外へ出た。既に朝日が差していた。
椅子に座り、ぼんやりと景色を眺めていると、がたがたと音がして、勝手口が開いた。
「おじさん・・・」
顔を見せたのは、結だった。
哲夫は振り返って、やはり・・という顔をした。
「昨日は、大変だったのかな・・。」
「ええ・・でも、千波ちゃんが気付いて、すぐに酸素マスクを・・。」
「そうか・・すまなかったね。迷惑をかけたようだ・・。」
「迷惑なんて・・いつでも、おじさんのためなら駆けつけます。・・でも、おじさん、無茶なことはしないでください。普通じゃないんですよ。」
「ああ・・判っているんだが・・なんだか、病気の事、忘れそうなくらい、毎日が楽しくてね。ここへ来て本当に良かったよ。なんだか、自分がみんなに生かされているって、本当にありがたい気持ちで毎日暮らせるんだ。」
「だからって・・。」
「いや、すまない。これからは気を付けるよ。」
「本当に・・おじさんが居なくなるなんて・・考えたくないんです。医師のくせに・・いや、医師だからこそ、一日でも長く普通に暮らしていてもらいたいんです。」
「すまなかった、本当にすまなかった。」
「わたし・・いつまでも・・おじさんのお傍に居たいんです。・・」
結はそう言うと、哲夫に縋って泣いた。
結の言葉には、一人の女性として哲夫を愛していると言えない、一線を超えられない、精一杯の想いが詰まっていた。
しばらく哲夫は結の肩を抱いていた。

湖の方から、漁船のエンジン音が響いていた。一隻の船がライトを点滅させているのが見えた。
哲夫は結の肩を抱いた手を放し、立ち上がって、手を振った。
「きっと、源治さんの船だ。」
結も湖のほうを見た。朝日に照らされて湖面がきらきらと輝いている。
「浜の漁師の方がね、この家は灯台みたいに目印なんだってさ。うちの明かりが見えるとホッとするらしいんだ。・・ね、いいだろう。そんなふうに、ちょっと、みんなの役に立てるなんてさ。」
結は黙って哲夫の姿を見ていた。
「結ちゃん、昨日のお詫びに、パンを焼こうと思うんだが・・良いかな?」
「無理しないでください。・・」
「君も手伝ってくれないかい?」
「はい、手伝います。」
結はそういうと一旦、家の中に戻って行った。しばらくすると、着替えを済ませてやってきた。白いTシャツにジーンズ、小さなエプロンを着けていた。哲夫は、厨房にいて、冷凍してあったパン生地を取り出して、解凍していた。
「どんなパンを焼くんです?」
「手の込んだものは、今からじゃ、無理だから食パンにしよう。朝食のサンドイッチ用にするんだ。・・生地が解けるまで、窯の火を準備しよう。」
そう言うと、勝手口から結と一緒に外へ出た。窯の横に積み上げてある薪を取り出して小さく割り、釜口へ入れて火をつける。
「釜全体を暖めて、炭火になってから成型した生地を入れるんだ。」
結は、初めて哲夫の手伝いをした。
窯の火加減を見ながら、厨房で解凍したパン生地を食パン型に入れ、少し発酵させてから窯に入れる。医者になってから、哲夫の家に足を運んだことは数えるほどになっていて、ここへ転居してからは今度が二度目だった。
昔の会社員だった哲夫とは別人のように、体を動かし、いきいきしているように見えた。確かに、病人であることを忘れてしまってもおかしくないと結も感じていた。そしてこんな姿をすぐ傍で見ていたいと願っていた。
哲夫は、出会った時の17歳だった結は、まだ少女の面影を残していて、自分の子どもように見ていたのだが、今、こうして傍にいる結は、すでに立派な女性となっていて、娘として扱いことはどこか違うようで、戸惑っていた。
パンの焼きあがるのを待つ間に、哲夫はコーヒーを煎れてきた。
「はい。どうぞ。」
結は哲夫からコーヒーカップを受け取った。
「昨日の事は、あの・・健さんには知らせていませんから。」
「そう・・ありがとう。それでいい。・・余計な気を使わせちゃうからね・・。」
「ええ。」
「おじさん、私の病院がもうすぐ開院するんです。そしたら、週に1回、検査に来て下さい。」
「ああ、判った。・・そうだ・・保育園にパンを届けるから、その後に行く事にするよ。検査で行くなんてみんなが聞いたら驚くだろうから、パンの注文を届けるという事でいいかな?」
「ええ・・私もおじさんのパン、毎週1回食べられるのは楽しみ。ぜひ、そうしてください。・・でも、無理してパン作りしないでくださいよ。」
「ああ・・判ってるよ。・・そろそろ、焼きあがるから、みんなを起こしてきてくれないか?」
「はい。」
結は勝手口から家の中へ戻って行った。

26 朝食 [命の樹]

26 朝食
みんなが、朝食のテーブルについたのは、もうすっかり朝日が昇ってしまっている時間だった。
「千波、昨日はすまなかったな。」
朝食のサンドイッチを配りながら、哲夫が千波に言うと、「びっくりさせないでね。」と答えた。
「それは私のセリフよ!」
加奈が千波と哲夫の両方に言った。
「それに、結さんまで呼んでしまうんだもの。」
結はにこにこしながら、みんなの会話を聞いている。健は、やはり会話に入れず、変なつくり笑顔を見せている。
「いけない!もうこんな時間。今日は朝から実習なの。早めに行って準備しなきゃ。」
加奈がさらに残ったサンドイッチを一気に口に入れ、コーヒーで流し込むと、バタバタと2階へあがって行き、カバンをもって降りてきた。
「結ちゃん、ありがとうね。またいつでも来てね。じゃあ。」
加奈はそう言うと、バタンとドアを開けて出て行った。しばらくして、クラクションが1回鳴った。
「じゃあ、私もそろそろ帰ります。病院の準備しなくちゃ。おじさん、来月には開院するんです。時々顔を見せてくださいね。ごちそうさま。」
結も荷物をもって帰って行った。
哲夫は二人の皿とカップを片付けながら、千波に訊いた。
「お前、いつまでいるんだ?」
「え?・・ああ、そうね。明後日くらいには戻るわ。そろそろ、バイトもしなきゃいけないし・・。」
「そうか。まあ、無理するなよ。」
「お父さんもね。」
それだけの会話だったが、親子で互いに気遣う姿が、健には何だか妙に新鮮に感じて、ぼんやりと二人を見ていた。
「ねえ、健君ってバイトじゃないの?」
千波が少しきつい声で言った。「健君」と言われて少しびっくりした。確か自分より年下だと思うが、どうして「君」付けなのだろう、そう思ったが、こらえた。
「いや・・バイトというか・・」
「だって、バイト代の代わりに3食付なんでしょ?だったら、仕事しなさいよ。」
千波はそう言うと、千波は、哲夫が皿を洗っているのを見た。健に皿洗いしろと暗に言っている。
「ああ・・・わかりました。・・哲夫さん、皿洗いしますよ。」
「哲夫さんじゃないでしょ?マスターって呼べば?」
千波は小姑のごとく厳しい口調で健に言った。
「いやあ、マスターは勘弁してくれよ。ほとんど客の来ない店なんだぞ。」
泡立てたスポンジで皿を洗いながら哲夫が言った。
「それより・・健君、バイクの修理の件だが・・一つ心当たり・・というか考えたことがあるんだ。後で、一緒に。」
「ええ、お願いします。」
健は厨房に入って、哲夫の洗う皿を布巾で拭きながら言った。
「その代り、一つ手伝ってもらいたいことがあるんだ。」
「ええ。・・良いですよ。僕でできる事ならやりますよ。」
洗い物が終わると、哲夫は健を連れて物置小屋へ行き、先日ホームセンターで買ってきたライトとソーラーパネルのセットを出してきた。
「これをあそこに取り付けたいんだ。一人じゃちょっと難しそうなんでね。」
哲夫は屋根の上を指さした。赤い屋根の上には風見鶏が乗っている。その脇に取り付けることにした。
「ねえ、お父さん、無理しないでね。」
千波が下から見守る中、哲夫と健は2階のベランダから梯子を使って屋根に上った。風もなく穏やかな天候だった。空にはそろそろ、絹雲のかけらが見える頃になっていた。
ライトとソーラーセット、それから大工道具を一通り運び上げた。哲夫は健にライトの取り付ける場所やソーラーパネルとバッテリーの固定の仕方などを教えた。結局、2時間ほどかけて完成した。
「センサーが付いているから、暗くなると光りだすはずだ。」
作業を終えて庭に降りてきた哲夫が、ライトを見上げながら、満足そうに言った。
「あんなの付けてどうするつもり?お客さんでも呼べるの?」
千波は不思議そうに見上げた。
「少し前に港で漁師の人がね、うちの明かりが湖から見ると灯台みたいで、安心するんだって教えてくれたんだ。だけど、お父さんが早朝に起きた時だけしか明かりは点かないだろ?こうしておけば、一晩中、屋根の上に明かりが点いていることになる。安心の明かりが届けられるじゃないか。」
「ふーん・・そうなんだ。我が家が灯台ってことなのね。」
「そうさ、良いだろ?」
「うん・・良いね。・・・きっと、漁師さんだけじゃないわよ。遠くからもこの赤い屋根見えるから、周囲の人もきっと喜ぶでしょ。・・そして、お客さんが増えればもっと良いじゃない?」
「そんなにうまくいくかな?」
健は二人の会話を聞きながら、のんきな親子だなと思ったのだった。
「ねえ、お父さん、もうお昼ちかくよ。私、お腹空いちゃった。」
昼は三人でインスタントラーメンを作って食べた。
「バイクの修理の事だけどね。とにかくここらには修理できる店がない。結局、浜松辺りまで運ぶしかないだろう。そのために、どこかで軽トラックを借りたらどうかって・・それで、以前に知り合った源治さんっていう人がいるんだ。その人に相談すれば、だれか紹介してくれるんじゃないかと思うんだ。後で一緒に、源治さんのところへ行ってみよう。」
片づけをしながら哲夫が健に言った。それを聞いて千波が言った。
「それなら私が行くわ。お父さんは、お店があるでしょ?」
健は少し妙な感じがした。権がここへ来て数日、客の姿を見たことが無かったからだった。
「ああ・そうか・・じゃあ、頼む。港に行って誰かに尋ねれば、すぐに判るだろう。」
「ええ・・。じゃあ、支度してくるから・・。」
千波はそう言うと2階へ上がっていき、しばらくして、ジーンズにTシャツ姿で降りて来た。
「お母さんの靴、借りるね。・・じゃあ、健君、行くわよ。」
そう言って二人で店を出て行った。
哲夫は二人を見送ったあと、厨房に戻った。厨房の隅に黒い見慣れないカバンを見つけた。カバンには、「おじさんへ」と書かれた手紙が張り付いていた。
中を見ると、銀色の細いボトルのようなものがたくさん入っていた。手紙には、「胸が苦しくなったら使ってください。楽になります。それからすぐに私を呼んでください。」と書かれていた。
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27 千波の告白 [命の樹]

27 千波の告白
千波と健は、店を出ると、通りまで行き、港へ繋がる道を探した。千波は、両親が転居して何度かこの町を訪れてはいるが、外出する事は少なく、町の事は、ほとんど知らなかった。
通りを北へ進むと、町の中ほどに用水路が流れていて、用水路沿いに車一台ほど通れる道があった。二人はとりあえず、その道を歩いていった。ほどなく、港が見えてきた。漁船が幾隻も係留されている。ざっと港を見回ってみたが、誰も居なかった。
「どうする?」
千波が少し苛立った様子で言った。
「どこかの、このあたりの家に行って訊ねてみるかな・・。」
健はそう言うと、人が居そうな家はないか、港の防潮堤に上って、辺りを見回した。しかし、どの家がいいのか全く判らない。
「しばらく、ここで誰か来るの待ってましょう。」
千波はそう言うと、防潮堤の上に座った。気持ちのいい海風が吹いている。
「ねえ、健君はどこから来たの?」
千波は遠くの湖面に視線をやりながら呟くように言った。
「ああ・・東京から。なんとなく西へ向ってみようと思ってね。」
「東京?私もよ。・・・歳からすると、就職したけど行き詰って、会社を辞めたって処でしょ?」
千波が行った事は当っていた。
「まあ・・そんなところかな。自分には向いてなかったんだよ。」
健は少しはぐらかすように答えた。
「この就職氷河期に、就職できただけでもラッキーなのに・・向いていないなんて・・。」
「でもさ、いやいや仕事をしているって不幸だろ。もっと自分にあった場所があると思うんだ。」
「・・甘えてるわ!・・仕事に行き詰ったって?・・どうせ、自分はもっとできるはずだ、なのに重要な仕事をさせてもらえない、上司が理解してくれない、周りが認めてくれない、なんてところでしょ。それで、自分はこんなはずじゃ無かった。・・何様のつもりよ!」
「そんな・・俺はただ、自分は何者か、どんな形で役に立てるのか・・そう思って・・。」
「自分が何者かって?そんなの、ふらふら旅をしていて見つかるわけないじゃない!」
千波の言葉はいちいち当たっていた。東京を出てからあちこちを旅してきたが、何も見つかっていないし、自分が何者かなんて、次第に考えなくなっていたのも事実だった。
しかし、他人に言われると無性に頭にくる。何だか、途轍もなく、お気楽な人間だと言われているようだった。だが、健は反論できなかった。

しばらくの沈黙のあと、千波が思い切ったように口を開いた。
「親には内緒だけど・・私、イタリア旅行の前にね・・インドに居たの。」
「インド?」
健には、千波が想像もできない世界にいるように見えた。
「国際ボランティア団体の斡旋があって、インドの病院のボランティアに行ったの。・・貧困の中で満足に医療を受けることができない人を無償で受け入れる病院があって、そこで、ボランティアをね・・。」
千波の口から、ボランティアという言葉は何だか不似合いだなと健は感じた。
「インドは著しい発展をしているわ。でもね、貧富の差が大きいの。首都は東京に負けないほどの高層ビルが建ってるのに・・少し、離れたところでは、水道も電気も充分に使えない、医師もいない、教育も満足に受けられない、そういうスラムもたくさんあるのよ。」
「知らなかったな・・。」
「そんな貧しい人へ何か出来る事があるんじゃないかって思ったの。学生だからこそ、時間があるうちにできることをやろうって決めたの。」
千波は表情をこわばらせて話し続けた。
「でもね、思い上がっていたのね。目の前にある現実はそんなに甘くなかった。日本では何気なく暮らせているでしょ。でもね、そんな環境じゃあ、他人の世話なんてできわけがない。自分が生きていくだけでも大変。日本なら当たり前のことがそこでは通用しない。ボランティアなんて無理。私、2週間で逃げ出したのよ。・・」
千波の思わぬ告白に健は何と言えばいいのか言葉を失くしていた。
「イタリアへ行ったのは、そのまま日本に帰れない・・帰れば、そのまま何もできなくなるんじゃないかって怖かった。イタリアではとにかく、インドの事は忘れようって毎日観光地を回っていたの。・・でも結局、忘れられなかった。・思い上がっていた自分の姿を思い出してしまって・・情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて・・とにかく、一度、家に戻ろうって・・。」
「帰ってきてどうだった?」
「・・・」
千波は答えなかった。

千波が健に厳しく当たっていたのは、自分自身への苛立ちの裏返しだったのだ。健を見ていると、思い上がっていた自分を思い出してしまう。そういう自分自身もまだ強く生きる決心も出来ていない。そういう混ざり合った感情が健へ向かっていたのだった。

「そんなところは特別だろ?そんなところからは誰でも逃げ出すに決まってるさ。無理する必要なんかないんじゃないか。日本にいれば、自分にあった・・居心地のいい場所があるに決まってる。」
健の、場当たり的な言葉に千波は苛立ちを隠せなかった。
「それが許せないの!結局、そうなのよ。自分にあった場所?何処にあるの、そんなところ。こんなぬるま湯みたいな日本にいるから・・そんなこと言って、自分探しなんて、おかしな余裕見せて、ふらふらできるのよ!」
「ふらふらって・・・・」
「もっと毎日真剣に生きてみなさいよ!」
「真剣にって・・・やりたいことをやって生きていくのが一番の幸せじゃないのか!・・ほら・・哲夫さんだって、毎日のんびり暮らしてる。あんな風に、悠悠自適に生きていられるっていいよな。」
それを聞いて、千波はさらに怒りを見せた。
「・・・お父さんは・・・お父さんも、お母さんも・・毎日、真剣に戦ってるの!・・・・何にも知らないくせに!」
千波はそういうと防潮堤から飛び降りた。
そこへ、漁師らしき男が、大きな網の塊を担いでやってきて、防潮堤の上にどさっと置いた。
「あ・・確か・・」
千波はそう呟くと、その人のところへ駆け寄っていった。

28 竜司と源治 [命の樹]

28 竜司と源治
「こんにちは・・竜司さん。昨日はありがとうございました。送ってもらって助かりました。」
その言葉に、その男は振り返って、陽に焼けた額の汗を拭いながら答える。
「ああ、千波ちゃんか・・・良いんだよ。俺も家に戻るところだったから・・。で、今日は?」
「源治さんって言う人を探してるんです。」
「源治さん?・・ああ、俺の師匠だよ。ここの漁師なら誰でも世話になってる。そのうち、顔を見せるんじゃないかな。そろそろ、漁に出る支度を始める時間だから。」
「これから、漁に出るんですか?」
「ああ、夏場は夜のほうが獲れるからね。・・俺もこれから支度だよ。」
「へえそうなんですか。」
「で?・・そっちは?」
竜司は、ちょっと睨むような目つきで健を見た。
「ああ・・うちの店のバイト・・健君です。・・お客さんなんか居ないんだから、バイトなんて要らないんですけどね。お父さんも物好きなんだから・・。」
妙な紹介をされてしまって、健は申しわけなさそうに小さく頭を下げた。
「ねえ・・竜司さんもお父さんのお店、来てくださいよ。・・たいしたものはないけど・・。お父さんにはサービスするように言っておくから・・」
「喫茶店だったよね。・・ああ、今度、漁の無い日にでも顔出してみるよ。」
そこへ、源治が現れた。
「おや?珍しい。若い娘が居るじゃないか。なんだい、竜司の彼女か?」
挨拶代わりに、源治は、竜司を冷やかすように言った。
「何言ってるんだ!ほら、あの赤い屋根の喫茶店の娘さん。千波ちゃんだよ。」
竜司は、大きく網を広げながら言った。
「ああ・・そうかい・・てっちゃんの娘さんかい。ほう・・そう言えば、てっちゃんに似てるなあ。」
千波は少しむっとした表情を浮かべた。
「源さんに用事があるんだってさ。」
竜司が、再び仕事をしながら言った。
「ほう、こんな可愛い娘が俺に何の用かな?・・てっちゃんの娘なら、何でもきいてやるよ。」
源治の言葉に千波はにこりと笑って、健の方を見た。
「さあ・・健君。」
健は緊張した表情で進み出て言った。
「すみません・・伊藤・・健と言います。・・あの・・バイクが故障してしまって、修理をしたいんですが・・この近くには修理できるところがないみたいで・・・それで、浜松まで運びたいんです。どなたか、トラックを持っている方を教えていただきたいんです。」
源治は少し怪訝な表情を浮かべながら、健の話を聞いていた。
「ふーん・・そうか、オートバイが故障か・・そりゃ困ったな。・・」
「ねえ、源治さん、トラックを貸してくれそうな方、ご存じないですか?」
千波も訊いた。源治は頭を掻き乍ら、少し考えてから言った。
「トラックか・・・昔はみんな、魚を運ぶのに持っていたんだがな・・近頃じゃ、魚は浜松の港まで直接、この船で運び込むことが出来るようになったんで、トラックは持たなくなっちまったんだ。俺も、今は持ってないしな・・。」
「そうですか・・。」
健はがっかりした表情を浮かべた。
「だがな・・」
源治は続けた。
「オートバイの修理ならできるかもしれないぞ。」
健も千波も、えっという表情を浮かべた。
「通りの端っこ、信号から2軒目に、須藤自転車って店がある。」
「自転車屋さんじゃ・・無理でしょう?」
千波は健を見ながら言った。
「いや・・元々は、自転車屋だったんだが、若い頃からオートバイが大好きでなあ。趣味が高じて商売になっちまったんだ。機械いじりは昔っから好きだったから、時々、船のエンジンも修理してくれたこともある。めっぽう腕は良いはずだ。」
源治がそう言うと、仕事をしていた竜司が手を止めて言った。
「いや・・だめだ。あそこの親父、病気になっちまって、店を閉めたんだ。」
源治はそうだったと思い出したような表情を浮かべた。
「ああ・・そうだったな。だが、何か相談くらいには乗ってくれるんじゃないか。知り合いのバイク屋とか、ひょっとしたら、直し方を教えてくれるかもしれない。道具もきっとそのままだろうから・・。」
「どうかな・・体が動かないって聞いたし、それに、病気になってから、家に閉じこもって人に会いたがらないらしい、一度も顔を見たこともないじゃないか。」
竜司は仕事の手を止めず、言った。
「ああ・・そうかもしれないが・・。」
「訊ねて行っても追い返されるだけかもしれないぞ。」
「だがよ・・あの歳で引きこもってるなんてなあ・・奥さんも気の毒だ。・・すまないなあ、あまり役に立てなくて・・」
源治は、千波と健に、申しわけなさそうに言った。
「いえ・・いいんです。とにかく、その須藤自転車店へ行ってみます。ありがとうございました。」

千波と健は、源治の話に一縷の望みを託して、行ってみることにした。
通りまで戻って、源治に教えられた通りに行くと、店の場所はすぐに判った。
だが、古びた建物のシャッターは閉まったまま、「しばらく休業します」の古い貼紙があって、声を掛けたが返答は無かった。
「やっぱり無理みたいだな。」
健はあっさり諦めようとした。しかし、千波は諦めきれない。いや、引きこもっているという話を聞いて、バイクの修理よりも、自転車屋の主人の事が気になっていたのだった。
千波は、店の脇にある路地を見つけた。
そこから、少し奥へ入ると、ちょうど店の裏側に地続きで家屋があった。
門の表札に「須藤」とあった。


29 須藤自転車店 [命の樹]

29 須藤自転車店
「こんにちは・・すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
千波は、門から少し身を乗り出して声を掛けたが、返答がない。仕方なく、門扉を開けて中に入った。先ほどの店の裏口からの通路が伸びていて、玄関に繋がっている。
「失礼します。」
千波は少し緊張しながら中へ足を踏み入れた。
健も千波の後に続いた。数歩、歩いたところで、野太い声が響いた。
「誰だ!」
声はすぐ傍で聞こえたが所在が判らない。
辺りを見回すと、玄関の隣、広縁に置かれた椅子に白髪の老人が座って、千波たちを睨んでいた。

「突然に、すみません。」
千波はそういうと深々と頭を下げた。ゆくりと顔を起してその老人を見ると微動だにせず二人を睨んだままだった。
「初めまして・・私、倉木千波といいます。・・岬のところで父が喫茶店をやっているんですが・・あの・・漁師の源治さんに教えていただいて・・伺ったんです。」
老人の表情は一向に変わらない。いや、ますます険しい表情になったように感じた。
「何の用だ!」
老人の言葉に、千波は健を見た。健は千波の後ろに立っていたはずだが、知らぬ間に門の処まで後ずさりしていて、老人には見えない場所に身を隠した状態になっていた。
千波は健を睨みつけ、少し不機嫌な表情を浮かべた。
「あの・・バイクの・・バイクの修理をしていただけないでしょうか?」
千波は健に代わって言った。
「バイクの修理?・・ふん、馬鹿馬鹿しい。・・・帰れ!」
老人はそう言うと、眼を閉じた。取り付く島もない。
そんなやり取りを聞きつけたのか、玄関が開いて、老人の奥さんらしき人が顔を見せた。奥さんは慌てて千波に駆け寄ってきて、手を引っ張って門の外へ連れ出した。そこには権がばつの悪そうな顔をして身を潜めていた。

「ごめんなさいね。」
奥さんはいきなり二人に謝った。
「いえ・・そんな・・。」
「あの人、病気をしてからあんなふうになっちゃってね。・・誰が来ても追い返すのよ。」
「いえ、突然お邪魔してしまって、こちらこそ申しわけありませんでした。源治さんから、こちらならバイクの修理ができるかもってうかがったものですから・・」
「そう・・源治さんから・・・確かに、昔は腕も良くて、結構遠くからも修理の仕事を貰っていたんだけどね。・・あの人、2年ほど前に、脳梗塞を患ってしまってね。体が不自由になったのよ。もう、昔みたいにはできないの。」
「あの・・見てもらうだけでも・・修理はできなくても・・どこが壊れているか・・どうしたら直るかとか教えてくださらないでしょうか?」
奥さんは困った顔をしている。
「なら・・どこか、近くでバイクの修理をしていただけそうな方を紹介してもらえませんか?」
更に奥さんは困った顔をして言った。
「御免なさいね。せっかく、来て貰ったのに。・・あの人、もう誰とも逢おうとしないし、バイクの事は考えたくもないらしいのよ。・・」
竜司が言っていた事は本当だった。

やむなく二人は店に戻ることにした。
千波たちが、店に戻ったのは夕方だった。千波は、これまでの経緯を哲夫に話した。
「残念だったな・・まあ、バイクの修理はまだ何か手があるだろう。・・健君、別に急ぐ旅じゃなかったんだよね。じっくり考えようか。・・・ああ、千波、明日には帰るんだろ?」
「ええ。朝、お母さんに駅まで送ってもらうつもり。」
「そうか・・東京に戻ればまた大変だろうから、とりあえず、のんびりしなさい。」
哲夫はそういうと、厨房で明日の仕込みを始めた。

翌日は、いつもの保育園へパンを届ける日だった。
哲夫は朝早く起きてパンを焼いていた。千波もそれを知って早朝から哲夫を手伝った。パンが焼きあがったころに、与志さんが顔を見せた。
「おや、千波ちゃん、久しぶりじゃないか。元気だったかい?」
いつもの席に与志さんは座って、紅茶を飲みながらそう言った。
「ええ、いつも父がお世話になっています。」
「いやいや、こっちが世話になってるんだよ。こないだも、家の修理もしてもらったし、大雨の日にはここで避難もさせてもらったんだ。近くに住んでもらって助かってるんだよ。」
「そう・・。これからもよろしくお願いします。」
こくりと頭を下げて、千波は焼きあがったパンをもって厨房へ入っていった。
「すっかり大人だねえ。前にあった時はまだ子どもみたいだったけど・・。」
「ええ・・何だか、妻に似てきてるみたいです。」
与志さんは紅茶を飲み、焼きあがったばかりのパンを食べ終わると、畑に戻って行った。

朝食を終えると、加奈は出勤のついでに千波を駅まで送っていった。
「お父さん、体、大事にしてよね。今度はお正月くらいには戻れると思うけど・・。」
玄関先で、千波は振り返って哲夫に言った。少し心配そうな表情なのに健は気づいた。
「ああ・・お正月だな・・待ってるよ。」
哲夫の返事に千波は少し涙ぐんでいるように見えた。
「さあ、行きなさい。電車に遅れるよ。」
哲夫は玄関で千波を見送った。健は、加奈の車まで荷物を運んで行った。
「健君、ここにいる間はしっかり働きなさいよ!」
千波はそう言い残して加奈の車に乗り込んだ。

30 ぶどうパン [命の樹]

30 ぶどうパン
千波を送り出してから、哲夫は保育園へパンを届ける支度をした。
健は、店の掃除と庭の草取りをしていた。
「健君、ちょっと手伝ってもらえないかな。今日は、保育園にパンを届けるんだが、ちょっといつもより多くなったんだ。運んでもらえると助かるんだが・・。」
哲夫は健にそう頼むと、いつもよりたくさんのパンを積み込んだ自転車を、健に引かせて、保育園に向かった。
「てっちゃんだ!」
いつもの沢山の小さな笑顔が出迎えてくれた。
「今日のパンはぶどうパンです。・・干しぶどうが入ったパンですよ。」
哲夫を囲む園児たちを見ながら、哲夫は言った。哲夫は箱からパンの袋を取り出して見せた、園児たちは興味津々で、パンを見つめている。
「この中で、干しぶどうが大好きなお友達がいると思うんだけど・・誰かな?」
園児たちは顔を見合わせている。すると、誰かが大きな声で言った。
「まさる君!」
名を言われて、真っ赤な顔をしたまさるが、皆に押さえるようにして、少し前に出てきた。園服の胸のところには「たまき まさる」と書かれていた。
「そうか、まさる君、干しぶどうが好きなんだね?」
まさるは小さく頷いた。
「今日のパンに入っている干しぶどうは、まさる君のおじいちゃんから貰ったんだよ。・・まさる君が大好きなんだって言って、保育園へ届けるパンに使ってくれってね。」
哲夫がそう言うと、まさるの周りにいた園児たちが「いいなあ」とまさるを羨ましがった。まさるは少しだけ得意げな表情を浮かべていた。
「まさる君のおじいちゃんは、まさる君の事が大好きなんだね。まさる君も好きかい?」
まさるは、大きく頷いた。
「じゃあ、その気持ちをおじいちゃんに伝えようね。・・そうだ、みんなもパンを食べて、美味しかったら、まさる君にありがとうって言ってあげてね。・・まさる君は、みんなの気持ちをおじいちゃんに伝えてね。」
哲夫はそういうと、保母さんにパンの箱を渡した。園児たちは、綺麗に列を作って順番にパンを受け取った。哲夫はしばらくその様子を眺めていた。
一緒に行った健は目の前で起こっている事が、何か別世界のように感じて、しばらく声も出なかった。
「健君、申し訳ないが、もう少し付き合ってくれ。」
哲夫はそう言って、保育園を後にして、周遊道路沿いを町の方へ戻って行く。途中で、町とは反対側の山手へ上って行った。
「あら・・おじさん。」
坂道の上から、結が声を掛けた。
「やあ、もう準備は終わったかい?」
「いえ・・まだまだ、もうじき開院なのに、何だかいろいろ足りないものがあるんですよ。」
「大変だね・・・あ、これ、差し入れ・・というか。。陣中見舞ってところかな?」
自転車の後ろに積んでいた、パン箱の中から、園児に配ったのと同じパンの袋を取り出して見せた。
「ありがとう・・お昼、まだだったから、助かったわ。・・ねえ、お母さん!おじさんがみえたわ。」
結が、家の中へ声を掛けた。中から、エプロン姿の結の母が出てきた。
「倉木さん、お久しぶりです。いつも、結がお世話になって・・。」
「いえ、世話をしてもらってるのは僕の方ですから。それより、お母さんもこちらで看護師として働かれるって聞きましたけど・・。」
「ええ・・こんな私が役に立てるのかどうか・・。」
「信頼し会える関係なんて・・医師にとっては一番のパートナーでしょう。」
「まあ・・そうでしょうか?・・それならいいんですけど。」
結の母は、笑顔で答えると、哲夫はパンの袋を手渡した。
「ご一緒に、お昼いかがですか?」
結が玄関まで出てきて、哲夫と健を迎えた。病院とは別の隣の建物が住まいのようだった。
「じゃあ、少し、お邪魔します。」
四人で昼食を摂り乍ら、結が開院に至るまでの苦労話を結の母から聞いた。
「ここは、私の親戚の家だったんです。病院を作りたいって言い出して、実家に相談したら、すぐに良いお話だって決まったんですけど・・・結がなかなか大学病院が辞められないって・・いったん白紙になりかけたんです。お金も掛かるし、だいたい、こんなところで成功するかもわからないって・・周りが結構心配していたんですよ。」
「もう・・お母さん、いいじゃない。もうすぐ開院できるんだから・・。」
「そんなこと言ったって・・誰かに苦労話を聞いてもらわなくちゃ・・。」
「もう・・判りました。お母さんには苦労を掛けました。本当にごめんなさい。・・それと・・今日までありがとう。これからもお願いします。」
親子の会話を、哲夫は微笑んで聞いていた。
「でも、本当にお礼を言わなくちゃいけないのは、倉木さんでしょ?」
結の母は、結の言葉に少し涙ぐみながら言った。実は、結が医大へ通っている間、哲夫は加奈と相談して、少しばかりの資金援助をしていたのだった。
入学金や授業料、通学費用などかなり高額なのは想像がついた。結の母は看護師として市民病院で働いていたが、とてもその収入だけでは賄えるものではなかった。結の母が頼みこんできたのではなかった。結自身が哲夫と加奈に相談したのだ。
医師になって必ず返すからという約束で、月々の通学費用を渡していた。哲夫もそれほど余裕があるほうではなかったが、母の事を考え、恥じも覚悟の、切実な頼みを断りきれなかったのだった。

「いえ・・僕は何も・・本当に、結ちゃんはよく頑張ったよ。おめでとう。良かったね。」
「おじさんには随分応援してもらいました。本当にありがとうございました。」
和やかな時間を過ごした。
店に戻る途中、哲夫は、須藤自転車店の前で立ち止まった。
「ここです。昨日ここへ来たんです。」
健は、自転車店の脇の路地をチラリと見た。哲夫は降りたままのシャッターの前に立ち、貼紙をしばらく見つめてから、言った。
「健君、帰り道にもう一軒、寄りたいところがあるんだ。」

31 玉木商店の話 [命の樹]

31 玉木商店の話
須藤自転車店から、5,6軒となりには、玉木商店があった。
「こんにちは・・ご主人、いらっしゃいますか?」
哲夫が声を掛けると、店の奥から、店主が顔を見せた。
「おや、てっちゃん。・・あれ?何か注文品があったっけ?」
「いえ・・ちょっと、コーヒー豆が少なくなったんで注文しておこうかと思って。」
「そうかい。・・ああ、それなら丁度良い。何日か前に、売込みがあったんだ。何でも、新しい豆を試してもらいたいってさ。ちょっと待ってて。」
店主はそういうとまた店の奥へ入ってしばらくして、包みを一つ抱えてきた。
「味を見て欲しいそうだ。で、良かったら使ってくれって。俺にはコーヒーの味なんかわからないからどうしようかと思ってたんだ。てっちゃん、店で使ってみてくれないか。で、良ければ、次から注文してくれよ。」
そう言われても、店にはほとんど客は来ない。まあ自分で試してみるのが精一杯というのが正直なところだった。だが、店主の頼みを断る理由もない。
「ええ・・良いですよ。御代は?」
「いや、サンプルだからってさ。」
「ありがとうございます。」
哲夫はその包みを受け取りながら、店主に尋ねた。
「あの・・そこの須藤自転車屋さんの事で少し伺いたいんですが・・。」
そう言うと。店主はチラッとそちらの方角を見て、大きな溜息をついた。
「ああ・・徳さんか・・残念だよ。病気になっちまって・・店を閉めちまってさ。」
「徳さんって言うんですか・・。どんな方なんです?」
「徳さんは俺の同級生で、小さい頃からあいつは頭が良くて、優しくて、何でも誰よりも上手くやって、みんなの人気者だったんだ。」
健は店主の話を聞いてとても同じ人物とは思えなかった。
「だが、親父を早くに亡くして、高校を出ると、すぐに自転車屋を継いだんだ。徳さんなら、大学にもいけただろうし、もっと夢もあったに違いないんだが・・まあ、おふくろさんの事もあって、自分で決めたんだけどな・・」
「バイクの修理をしていたって聞いたんですが・・。」
「ああそうだよ。奥さんと知り合ったのもバイクが縁だった。いや、奥さんと知り合ってから、バイク修理の勉強を始めたんだ。元々器用でさ、すぐにこの辺りじゃ腕のいい修理屋だって評判になってなあ。結構、お客も多かったよ。」
「病気って?」
「ああ、この歳になればさあ・・ほら・・確か、脳梗塞だったかな。今じゃ、半身不随だそうだ。病気の後、一歩も家から出ていないらしい。会いに行っても帰れって怒るらしい。まあ、みっともない姿を曝したくないっていう気持ちも判らないでもないがなあ。」
「そうですか・・・。」
「だがな、不憫なのは奥さんだ。四六時中、一緒にいるんだ。大変だろうよ。」
「そうでしょうね。」
哲夫は、加奈の顔を思い浮かべていた。自分もそのうちに動けなくなるだろう。そうなった時、加奈はどんな気持ちになるだろうか。いや、自分が死んだ後はどうだろうかと考えていた。
「昔は、奥さんと二人で、この辺りをバイクで走り回っていたんだぜ。大きなバイクが二つ並んで走る姿は格好良かったなあ。あの頃、奥さんも幸せそうだったなあ。・・それが今じゃ・・。いや、何とかしてやりたいが、こればかりはなあ・・。」
「ご子息は?」
「ああ、一人息子がいた。親に似て頭が良かった。大学も医学部に行ったんだ。今、確か、大学病院で医者をしてるって、奥さんから聞いたことがあるな。ただ、最近は見てないな。おそらく、親父が病気になったことも知らせてないんじゃないかな。知ってれば、すぐにも戻ってくるに決まってる。」
「どうしてですか?」
「徳さん、子どもが産まれてから、バイクにサイドカーってのを付けたんだ。息子が幼い頃はサイドカーに乗せて、あちこち走り回っていたんだ。中学校くらいまでは、バイクの修理も一緒にやってたんだ。あいつは親父が大好きだったし、徳さんも随分かわいがってたんだよ。」
「じゃあ、何故、知らせていないんでしょう?心配掛けたくないってことでしょうか?」
「いや、そうじゃないだろ。カッコいい親父でいたいんじゃないかなあ。何でも知っていて、何でもできる、スーパーマンみたいな親父のままでいたいんじゃないかな?」
「でも・・」
「ああ、そうさ、。徳さんは昔からそういうところがあった。いや、周囲がそうしたのかもしれない。優等生で何でもできる格好いい徳さん、みんなそんなふうに見ていたから。だから、引きこもって出てこなくなったんだろ。」
哲夫はそこまで聞いて、健に言った。
「健君、今からバイクを取りに行ってくれないか。もう一度、徳さんに頼んでみよう。」
「でも・・昨日の様子じゃ、無理ですよ。」
「まあ、駄目で元々さ。さあ、急いで。」
哲夫に言われて、渋々、健はバイクを取りに行った。その間に、哲夫は再び、結の病院へ行った。

「結ちゃん、すまない、一つ頼み事があるんだ。」
哲夫は病院に着くや否やそう切り出した。結は、ほぼ出来上がった診察室の中で、診察の器材の点検をしていた。
「どうしたんですか?」
「君の働いていた大学病院に、須藤っていう名の先生はいなかったかい?」
「須藤?・・須藤・・どこかで聞いたことあるけど・・・。」
「忙しいところで申し訳ないんだが、ちょっと調べてみてもらえないかな。・・おそらく、そこにある自転車屋の息子さんだと思うんだ。知らせたいことがあってね。」
「そう、・・・判りました。ひょっとしたら、すぐにわかるかもしれません。」
「じゃあ、頼んだよ。須藤自転車店の息子さんなら、連絡を取ってくれないかな。すぐにも会って話したいことがあるから。」
「はい。・・あ、おじさん・・あの・・。」
結の問いかけに、哲夫はポケットに手を入れて、銀色の酸素ボンベを取り出して見せた。
「ありがとう。」
哲夫は、結の病院を後にして、哲夫は須藤自転車屋へ向った。通りを健が重そうにバイクを押してくるのが見えた。4/15

32 徳さんと奥さん [命の樹]

32 .徳さんと奥さん 健の案内で、脇道から玄関へ回った。 「すみません。須藤さん、いらっしゃいませんか?」 今日は、広縁には主人の姿は見えなかった。しばらくして、玄関が開き、奥さんが顔を見せた。 「お待たせしました。・・どちらさんでしょうか?」 哲夫は深々と頭を下げ、挨拶した。 「その先の岬の上で、命の樹という喫茶店をやっている、倉木哲夫と申します。昨日、娘が不躾なお願いに参り、お詫びに伺いました。申しわけありませんでした。」 「ああ、あのお嬢さんの・・いえ、こちらこそ・・主人が無碍にお断りしてしまって・・。」 「いえ、こちらこそ、事情も知らずに無遠慮なことを申して、本当に申しわけありませんでした。これはお詫びの品といってはなんですが・・・今日、私が焼いたパンなんです。週に一度、保育園に届けていまして、意外と評判がいいんです。」 哲夫はそう言うと、紙袋を奥さんに手渡した。そこへ「何の用だ!」と野太い声が響いた。広縁の椅子に、ご主人が座って睨んでいた。 「お騒がせしてすみません。お詫びに伺ったんです。」 「ふん、別に詫びなどいらん。帰れ。」 ご主人はそういうと哲夫を睨み付けた。 「いえ・・お詫びもなんですが・・実は、お願いがありまして・・。」 「修理なら無理だぞ!知ってるだろう、もう帰れ!」 「ええ・・修理していただくのは無理なのは判っています。ですから、修理のための工具をお借りできないかと思いまして。」 御主人は眉間しわを寄せて答えた。 「なんだ、自分たちで修理しようってのか。・・馬鹿馬鹿しい・・素人には無理だ。」 「そうかもしれません。でもやってみなくちゃ判りません。」 「そう簡単にできるわけがない。」 ご主人は、じっと目を閉じ、吐き捨てるように言った。 哲夫は一息おいてから言った。 「私の父は修理工でした。独学で旋盤や溶接も覚えたそうです。子どもの頃、いつも父は自分が建てた小屋で、壊れたバイクやエンジンを修理してました。とにかく、スパナを握って、機械に触れて、油に塗れて、そうして一つ一つ修理して・・とても、幸せそうでした。」 「親父さんは今は?」 御主人は目を閉じたまま尋ねた。 「還暦を前に他界しました。病気でした。」 「そうか。」 「末期のがんで、もう安静にしなければいけないのに、いくら止めても、毎日、小屋に行って修理の仕事をしてました。できなくなるなら死んだ方がましだなんて言って、お袋を困らせました。そんな父は小屋でスチールブラシを握ったまま息絶えていたんです。」 「・・・」 御主人は、何か、思うことがあるのか、小さくため息をついた。 「・・・そんな父から、私も、修理の手ほどきを受けました。子どもの頃の事ですから、どこまで覚えているかはわかりませんが、もう一度、思い出してやってみようと思うんです。」 哲夫の言葉を聞いて、ご主人はしばらく考えているようだった。 「おい、修理場を開けてやれ!・・どっちみち、捨ててしまうんだ。好きに使えばいいさ。」 御主人はそう言うと、再び目を閉じてしまった。奥さんは少し微笑んだように見えた。 「さあ、どうぞ。主人の樹が変わらないうちにね。」 奥さんはそういうとまっすぐに修理場の裏口を開けた。 「健君、バイクを!」 健は走って表に出た。哲夫は、奥さんに続いて修理場へ入る。ガラス戸を引き開けて、シャッターを上げた。2年近く使っていないにもかかわらず、シャッターは静かに開いた。 外から光が差し込むと、修理場の中が明るくなった。哲夫は明るくなった修理場を見て驚いた。ご主人はそうと几帳面な性格なのか、工具がきれいに壁や棚に置かれている。そして、一つ一つがきれいに磨かれていた。哲夫は気付いた。 「これは・・奥さんですね?」 奥さんはこくりと頷くと、 「ええ・・若い頃から工具の始末は私の仕事でしたから。欲しいものがすぐに出せるようにこうやってきれいに並べて・・・。」 「今でも、工具を磨いているんでしょう?」 「ええ・・もう、使うことはないと判っていても、習慣なのよ。こうして工具を磨いていると落ち着くのね。」 その言葉は、もう一度、御主人がバイク修理をする日が来るのではないかと僅かな望みを捨てきれないでいる事が滲んでいた。 「思うように使ってください。きっと工具たちも使ってもらえれば喜ぶはずですから。」 そう言うと、奥さんは近くにあったスパナを持つとじっと見つめたのだった。 「哲夫さん!あれ!」 健が修理場の奥を指さした。そこには、大型バイクが置かれていた。サイドカーが付いていた。 「あれは?」 「ああ・・あれは、私たちの宝物です。もうかなり古いものですけど、いろんな思い出が詰まっています。・・実は私、若い頃、じゃじゃ馬でね。親が止めるのも訊かず、女だてらに免許を取って、全国をバイク旅していたんです。」 奥さんは少しほほをお赤らめていて、おそらく、青春時代の記憶を辿っているようだった。 「ちょうど、そこの周遊道路の交差点で、スリップ事故を起こしてしまって、バイクが故障したんです。困っていると、あの人、自転車屋から出てきて、とりあえず、うちへ運ぼうっていってくれたんです。」 何だか、今のご主人からは想像がつかないと健は感じていた。 「まだ、自転車屋を継いだばかりだったようでした。困っている私を見て、あの人、自分が修理してやるって言ったんです。」 「修理してくれたんですか?」 哲夫が訊いた。 「・・とりあえず3日くれ、その間、うちに居ればいいからって、私も別に行くところもないし、バイクが修理できなければどうしようもないしね、そのまま居る羽目になりました。」4/16

33 健の修行 [命の樹]

33、健の修行
「それで、そのまま、結婚?」
健がとんでもない質問をした。
「まさか、あの人、いろんな本を集めて勉強して2週間で修理してくれました。その後、一度、私は長野の実家へ戻ったんです。・・で、それからちょくちょく遊びに来るようになって・・そしたら、哲夫さんもバイクの免許を取っていて、ある日、あのバイクで長野の実家まで来たんです。嫁にきてくれってね。」
奥さんは、そういうと修理場の奥にある大型バイクを懐かしそうな目でみつめた。
「もう40年近く前の話です。その後、二人でツーリングしました。子どもができてからはなかなか行けませんでしたが、ある日、サイドカーをつけたんです。それに息子を乗せてね。」
「なんだかすごいですね。バイクはお二人の絆なんですね。」
哲夫が言うと、奥さんは急に涙ぐんでしまった。
「すみません。何だか急に昔の事を思い出してしまって・・・。」
奥さんは、御主人がもう一度この修理場で元気に仕事をすることを願っている。何とか、ならないものかと哲夫は考えた。しかし、妙案があるわけではなかった。

哲夫は、健に言った。
「さあ、健君、バイクを。」
健はバイクを中に入れた。センタースタンドを立てたが、不安定なほど車体が傷んでいた。

「まずは、どこが壊れているかをはっきりさせよう。とりあえず、少しでも走れて、浜松まで行ければ、あとは本格的な修理をしてもらえばいいからね。」
哲夫がしゃがみこんでバイクを覗こうとした時、パッと四方からライトが照らした。
まるで、手術台のように明るく、エンジンもマフラーも影ひとつないほどに明るく照らされた。
奥さんが、ライトのスイッチを入れてくれたのだった。奥さんはにこりと笑って出て行った。

「スポークが何本か折れてるようだ。それとハンドルも曲がってる。マフラーも凹んでしまってるなあ。まあ、こいつらはなんとかなるだろう。それより、エンジンがかかるかどうかだ。健君、セルを回してみて。」
健はキーを回し、セルスターターのスイッチを押した。
キュルキュルキュルとセルモーターが回る音がした。その後、ゴトゴトと何かがぶつかるような音がして、少し焦げ臭いにおいが立ち込めた。エンジンはかからなかった。
「もう一度。」
哲夫の声に、健がセルスターターのスイッチに手をかけた時だった。
「止めとけ!」
御主人の声が響いた。
出口のところに、車いすに座った御主人が居た。奥さんがゆっくりと車椅子を押して修理場へ入ってきた。
「駄目だ、それ以上セルを回すと修理もできないくらいになっちまう。」
御主人はバイクに近づくとマフラーに顔を近づけ、匂いを嗅いでいる。
「やっぱりな・・おい、健といったか。お前、バイクの手入れはしていたのか?」
健はびっくりして答えられなかった。
「乗りっぱなしか!まったく、近ごろの若い奴は・・こいつはオイル切れでエンジンが焼け付く寸前だぞ。・・こんなになるまでほっておいて、修理もくそもないだろ。」
「いや・・壊れたのは大雨で倒れた樹に潰されたからで・・。」
「そりゃ偶然だな。天気が良くて、スピードを出して走っていたなら、おそらく突然エンジンが止まって転倒して放り出されていたはずだ。そうなりゃ、即死だな。・・いや、待てよ。おまえ、どんなふうに倒れた?」
健はその時の事を思い出しながら話した。
「周遊道路を走っていたら、急に大雨が降ってきて、どこかに雨宿りしようと、通りに入ってみたものの、どこに行っていいかわからず、そのまま、岬の砂利道に入り込んだんです。」
「それから?」
「・・ああ、そうだ、神社の前を過ぎた時、がくんとスピードが出なくなって、・・それから・・スロットルをグイってひねったら、急にコントロールが利かなくなって倒れたんです。勢いで、道脇の草むらに放り出されて、バイクが横倒しになって、そしたら、上から樹が倒れてきたんです。」
「そうだろ?じゃあ、お前はバイクに救われたんだな。直前で不調になっていなければ、倒れてきた樹にお前が下敷きになっていたはずだ。」
御主人はそう言いながら、まだ動く右手で、傷ついたバイクを労わるようにさすっている。
「なあ、倉木さん。こいつを儂に預けてもらえないか?」
御主人の言葉に哲夫も健も驚いた。ご主人は返事も聞かずにつづけた。
「このバイクは、こいつの命恩人だ。丁寧に直してやらなくちゃ申し訳ない。浜松まで運んだって、そんなにきれいに直しちゃくれないさ。ここでじっくり時間をかけて修理してやろう。だが、儂は手が不自由だ。だから、こいつに教え込んで、直させようと思うんだが・・。」
「ええ・・私は構いません。ただ、健君自陣がどうか。」
健は哲夫の顔を見た。そして、御主人の顔も見た。これは大変な状態になったなとは思ったが、逃げられる状況でもなかった。
「ええ・・良いです。先を急ぐわけじゃありませんから・・。」
何だか、他人事のような返事をした。
「おい、お前、覚悟はあるのか?儂が教えるんだ。中途半端な事じゃ許さない。逃げ出すこともゆるさんぞ。良いんだな。」
御主人の言葉はかなり重かった。健もその意味を十分分かったような気がした。
「はい!よろしくお願いします。」
健は神妙に答えた。
「よし、引き受けた。・・和さん。今日から若い従業員が一人、住み込みで働くことになったから、世話は頼む。食事と布団は用意してやってくれ。給料は、バイクの修理代と差引でチャラだな。」
「はい。」
車椅子の後ろで、奥さんは嬉し涙を流しながら返事をした。
「じゃあ、、健!まずは、着替えだ。油塗れになるんだからな。そこに、作業着があるから着替えて来い!和さん、出してやってくれ。・・儂も着替えるぞ。」
哲夫は「それじゃあよろしくお願いします。」と言って須藤自転車を後にした。4/17

34 巡り合い [命の樹]

34.巡り合い
夕方、加奈が仕事から戻ると、健が須藤自転車で修行することになったいきさつを話した。
「それじゃあ、また、寂しくなるかしら?」
加奈は少し意地悪気味に尋ねた。
「なんてことないさ、もともと、一人でやってきたんだからな。」
哲夫は少し強がるように答えた。

翌日からはまた普段の暮らしになった。朝、加奈は、コーヒーとサンドイッチを食べると、バタバタと支度をして、車のクラクションを1回鳴らして出かけていく。
一度、昼間に、健が油まみれの作業着でやってきて、置いてあった荷物鞄を持って行った。
「もうひどいんですよ。すぐ怒るし、何かとぶつぶつ言うんですよ。」
口をとがらせているものの、何だかとても嬉しそうな口ぶりだった事に、哲夫は安心した。

1週間が過ぎて、再び、保育園にパンを届ける日が来た。同時に、結の病院がオープンする日だった。哲夫は、早朝からパンを焼き、保育園の分と結のお祝いの分とを袋に入れる作業をしていた。今日は、加奈も仕事を休んで、哲夫を手伝った。
今日は少し早くに保育園にパンを届けた。加奈は初めて訪れる。てっちゃんと呼ばれるのを見て、加奈も嬉しくなって、しばらく、園児たちと一緒に遊んだ。
「あなた、ずるいわ。こんなに楽しい事、独り占めしていたなんて。」
加奈は保育園を後にするとき、そう呟いた。
「また、来れると良いね。」
哲夫は答えた。それから、結の病院のオープニングセレモニーに列席した。病院のオープンは、スーパーや飲食店とは違って、客を呼び込むなどなく、地元の自治会長や老人会の会長、大学病院の同僚や、設計士、建築士などが来賓となり、親族も並んだ。何人かの挨拶があり、結が最後にお礼の挨拶をした。
「本日はお忙しい中、ありがとうございます。この地で皆様のお役に立てるよう頑張ります。ささやかですが、この後、パーティもご用意させていただいておりますので、ごゆっくりお寛ぎください。」

パーティには、哲夫が朝焼いたパンも並んだ。
「このパンは、岬の喫茶店、命の樹のオーナー、倉木様がご用意してくださいました。私共、水上医院にとって、御恩のある方で、私の命の恩人でもある方なんです。ぜひ、みなさんも足をお運びください。」
結は、パーティの出席者に心を込めて紹介してくれた。哲夫は少し面はゆい心地だった。
「おめでとう。いよいよだね。」
「ええ・・おじさん、約束ですよ。週1回はここへ来て診察を受けてくださいね。」
「ああ、そうするよ。・・少しでも長く生きていたいからね。こんなに幸せな時間を少しでも長く楽しみたいって心から思っているんだ。」
加奈は、哲夫の言葉に何か不安を感じた。もしかして、体調が良くないのではないか、いや、取り越し苦労だろう、加奈は自分にそう言い聞かせていた。

帰り際に、須藤自転車に寄ってみた。修理場の中から、「そうじゃないだろ!もう一度やってみろ!」と主人の声が響いた。そっと中を覗くと、健がオイル容器の中に手を入れて何かを磨いているようだった。ぶつぶつと何か言っているようだが、聞こえなかった。
後ろからそっと声が聞こえた。
「倉木さん・・。」
須藤自転車の奥さんだった。
「奥さん、すみません。ちょっと様子をと思ったんですが・・あ、こっちは妻の加奈です。」
加奈は頭を下げた。
「倉木さん、あなたにはお礼を言わなくちゃって思っていたんです。」
「お礼?」
「ええ・・あの人、健ちゃんが来てから昔みたいに元気になって、最近は、リハビリも始めたんです。完全には戻らないでしょうけど、やる気というか気力が出てきたみたいで・・何よりも、毎日、とても幸せそうで・・・。本当にありがとうございました。」
「いやあ・・しかし、御主人のあの怒り方は半端じゃないですね。」
「ええ・・でも、健ちゃんは、どんなに怒られても、逃げない、まっすぐ向かっていくんです。教え買いがあるって言ってます。・・まあ、お店の後をついではくれないでしょうけど、しばらくはこうやっていられるだけで幸せです。本当に良い人を連れてきてくださいました。」
「いや、そんな。・・健君が困っていたから・・何とかならないかって思っただけですから・・。」
加奈が言う。
「きっと巡り合わせですよ。・・健ちゃんも偶然ここへ来た、そして事故にあった時、哲夫さんが通りかかった。・・人ってそういう巡り合わせで生かされているんですよね。」
「そうそう、源治さんや玉木屋のご主人も、須藤さんの事を心配してました。昔から、徳さんは皆の憧れみたいだったそうです。元気な顔を見せてほしいって・・。」
「ええ、きっとそのうちに。」
奥さんは1週間前にあった時とは別人のように、柔らかく幸せな表情を浮かべていた。
「あ、これ。ご主人と健君にも食べてもらって下さい。今日は保育園と水上医院開院祝いで、ずいぶんたくさん焼いたんです。」
そう言って、哲夫は紙袋を渡した。
「会って行かないんですか?」
「今日は止めておきます。何だか、熱がこもった修行中みたいですから。」
哲夫と加奈は、健が元気にやっていることを確認できて、安心して店に戻ることにした。

夕食のとき、加奈が思い出したように言った。
「ねえ、お客さん、増えるかしら?」
「どうして?」
「結ちゃんも宣伝してくれてるし、知り合いも増えたじゃない。あなた一人で大丈夫かしら?」
「そんなに世の中甘くないだろ?だいたい、こんな目立たないところに喫茶店があるなんて変だよ。」
「何言ってるの、自分で決めたんでしょ。ここは見晴らしが良いし、客もきっと来てくれるって・・。」
「そうだっけ?」4/18


35 漁師仲間 [命の樹]

35 漁師仲間
翌日は、少しゆっくりした朝だった。昨日、たくさんのパンを焼いたので多少疲れもあった。「無理しないでね」と加奈は出勤前の一言を残して出かけていった。
片付けを終えて、テラスの椅子でコーヒーを飲みながらのんびりしていると、足音と声が徐々に近づいてくるのに気づいた。
「やあ、今日は客としてきたよ。」
源治だった。漁師仲間を何人か引き連れている。後ろの方には見た顔もあった。哲夫は慌てて立ち上がって、皆を出迎えた。
「いらっしゃいませ。」
源治はひとしきり店の中を見回してから言った。
「加奈さんは?」
「ああ、もう仕事に出かけました。」
「なんだい、皆を加奈さんに引き合わせようと思ったんだが・・てっちゃんの奥さん、そりゃあ、綺麗なんだよって話してたんだが・・残念だなあ。」
「そりゃ、すいません。こんなむさくるしい出迎えで・・。」
源治と同じ歳くらいの男が二人、それと随分若い男が二人。ひとりは、亮太だった。
哲夫はグラスを運びながら、挨拶した。
「今朝、漁から戻って浜でひとしきりこの店の事が話しに出たんだ。・・てっちゃん、屋根に大きなライトつけたんだな。」
「ええ・・そう、見えましたか?」
「ああ、今までよりも随分はっきり見えるようになった。夜中、点いてるんだな。」
「亮太君が教えてくれたんです。この店の明かりは灯台みたいだって。でも、朝早くパンを焼く日しかなかったでしょう。だから、屋根の上に大きな明かりを一年中つけようと思ったんですよ。」
「おい、亮太、おまえか。・・灯台ねえ・・」
源治に言われて、少し気弱な亮太はどぎまぎしていた。
「いつもは家に戻って朝飯だが、たまには、ここでと話がまとまったんだ。・・何ができるんだい?」
源治に問われ、哲夫はちょっと戸惑った。今まで、ほとんど客らしい客は来ていなかった。それに、漁師が5人。腹も減ってるだろうし、満足できるものなど出来るわけもない。
「一応、メニューはあるんですけど・・。」
哲夫はテーブルの上のメニューを見せた。メニューには、コーヒー・ジュース・ミルク、それと「お任せサンドイッチ」「きまぐれパン」とだけ書かれていた。
源治はメニューを見て首をかしげた。
「なんだい、こりゃあ。」
「すみません。喫茶店って言ってもまあ気まぐれでやってるようなものなんで・・。加奈が居れば、それなりの料理は作れるんですが・・」
哲夫はそこまで言ってひらめいた。
「そうだ、源治さん。源治さんに是非食べてもらいたいものがあったんです。ちょっと時間かかりますけど・・良いですか?」
「ああ、構わないさ。」
「じゃあ、少し待っててください。ああ、そうだ、飲み物は?」
「コーヒーで良いよ。なあ?」
源治が言うと皆が頷いた。
哲夫は、急いでコーヒーを煎れて、朝少し焼いたパンを籠に持ってテーブルに運んだ。
男たちは、コーヒーを飲み、籠のパンを思い思いにつまんでいる。
哲夫は厨房に入って、冷凍庫から食材を取り出して調理を始めた。15分ほどで出来上がった。
「さあ、お待たせしました。」
大皿に、幾つものサンドイッチが並んでいた。
「これ、以前に源治さんにいただいた魚を使ったんです。どうぞ。」
最初に源治が手にとってぱくりと口に入れた。
「ほう・・いけるな。さあ、みんなも食べてみろ。」
次々に手を伸ばして食べた。
亮太が言った。
「これ、キスですか?」
「ええ、キスのフライをサンドイッチにしたんです。いただいた時は刺身と天婦羅にしたんですが、加奈がサンドイッチにも使えるんじゃないっていうので、衣を着けて冷凍しておいたんです。」
「美味しいです。」
「良かった。せっかくたくさんいただいたんで、何とか美味しく食べたくてね。」
他の男たちも、大皿のサンドイッチをつまんで満足そうに食べた。
もう一人の若い漁師が、少しそわそわしている様子で、源治に突付かれた。若い漁師は、竜司だった。
「あの・・千波さんは?」
「おや、千波の事、知ってるんですか?・・ああ、そう、君か、千波をうちまで送ってくれたのは、ありがとう。千波も感謝していたよ。・・千波は東京へ戻ったんだ。」
竜司はがっかりした顔をした。
「残念だったな、竜司。愛しの君は居ないってさ。」
源治が冷やかすように言った。
「何言ってるんだよ、源さん。そんなんじゃないさ。それに、こんな漁師と大学でのお嬢様じゃ釣りあわないし、嫁になんか来てくれっこないじゃないか。」
「なんだい、嫁に欲しいってのか?相手にもされないに決まってらあ!」
一層、源治は竜司を冷やかした。だが、哲夫は言った。
「いや・・どうかな。千波は強い男が好きみたいだよ。周りに居る男は頼りなくて駄目だっていうんだが・・一生懸命生きている人が良いらしい。命をかけて何かに打ち込んでいる・・そういう人が隙だって言ってたよ。・・・だから、竜司君だって・・。」
「そ・・そうですか?・・」
「おい、てっちゃん。そしたら、こんな奴がお前の息子って事になるんだぜ?良いのかい?」
哲夫は腕組みをしてじっと竜司を見た。
「うん、良いじゃないですか?強くて逞しくて優しそうだし・・だが・・漁の腕はどうなんです?」
それを訊いて、竜司が頭を抱えた。
「おい、竜司、てっちゃんに認めてもらえるように、もうちょっと頑張んないとな。」
店の中は笑い声で溢れていた。
その日を境に、毎日のように、漁師仲間が入れ替わりやってくるようになり、町の人もパンを目当てにやってきた。次第に、<命の樹>は喫茶店らしくなっていた。4/21

36 健と徳さん [命の樹]

36 健と徳さん
秋の気配を感じられるようになった頃、哲夫がいつものように保育園にパンを届けて店に戻ろうと通りを自転車で走っていると、後ろからバイクの音が響いてきた。
振り返ると、サイドカーを付けた大型バイクを、健が運転し、サイドカーには須藤自転車の主人が座っているのが見えた。
「哲夫さん!今、帰りですか?」
健が元気な声で呼びかけた。
「後で、店に行っても良いですか?」
「ああ、今、戻るところだから。どこか行くんですか?」
哲夫はサイドカーに座っているご主人に訊いた。
「ああ、足りない部品があるんで、ちょっと浜松まで行ってくる。こいつを連れて行かないと勉強にならないからな。」
「何言ってるんですか!俺がいなきゃ、外出できないでしょう。俺が連れて行くんでしょう?」
「うるさい!さあ、行くぞ!」
ご主人は杖で健を小突いた。
「あ・・ひとつ、頼んでいいかな?」
哲夫は急に思いついたことがあった。
「浜松に行く途中にある、クリスピーっていうドーナッツ屋によってもらえないかな。そこでドーナッツを4つほど買ってきてもらいたいんだけど。」
「ええ・・いいですよ。知ってますよ、そこのドーナッツ、旨いんですよね。」
健が答えた。
「加奈の好物なんだ。次いでで甘えてしまって申し訳ない。」
「いえ、・・良いですよね、徳さん。」
「ああ、家の奴にも買ってきてやるかな。」
ご主人は少し微笑んでいるように見えた。
「じゃあ・・あとで。」
バイクはエンジン音を響かせて浜松へ向って走り去った。
夕方近くになって、バイクの音が聞こえ、健と須藤自転車の主人がやって来た。
「大丈夫ですか?」
玄関を開けて、健が主人の手を取るようにして入ってきた。
「・・いや・・あの階段はなかなか骨が折れる。地元の婆さんたちには堪えるだろうな・・・。」
歩けなかったはずのご主人が、杖を手にしっかりと歩いて入ってきた。
健は、主人を店の中央に置かれた真っ赤なソファに座らせてから、手にした箱を哲夫に渡した。
「これ、頼まれていたドーナツです。・・ああ、徳さん、コーヒーとサンドイッチでいいですか?」
健が主人に訊くと、「ああ」と主人は答えた。
「じゃあ・・哲夫さん、コーヒーとサンドイッチ2つ、お願いします。」
厨房から哲夫が「はい」と答え、すぐにサンドイッチを作り始めた。

「なかなか良い所じゃないか。静かでのんびりできる。」
須藤自転車の主人は庭を眺めながら言った。
哲夫が、コーヒーとサンドイッチを運んできて、二人の前に並べながら訊いた。
「ミックスサンドにしました。中のレタスとトマトは与志さんに分けていただいたものです。さあ、どうぞ。」
「いやあ、コリャ旨そうだ。」
健はサンドイッチを手に取るとぱくっと食べた。
「修理のほうはどうですか?」
哲夫が訊くと、コーヒーを飲みながら主人が嬉しそうに答えた。
「ああ、もう少しだな。今日買ってきた部品を取り付けたら、完成だ。前よりも良くなったはずだ。こいつも、何とか仕事を覚えたようだしな。」
「そうですか。健君、良かったな。」
健は、サンドイッチを口一杯に頬張っていて、それをコーヒーで流し込んでから返事をした。
「ええ・・助かりました。・・東京へ戻ったら、バイク修理の仕事をしようと決めました。せっかく覚えたんですから、役立てないと申し訳ないです。・・で、いつか自分の店を持とうと思います。」
「そう、良かった。」
「あの日、哲夫さんに助けてもらって本当に感謝してるんです。」
「いや、そうじゃない。一番感謝しなくちゃいけないのは、須藤さんだろ?熱心に教えてもらったんだから。それと奥さんにもね。」
「はい、感謝してます。きっと恩返しできるよう、一生懸命働きます。」
健は、最初に会った時と比べて、随分成長したようだった。
「ゆっくりしていってください。」
哲夫はそう言うと厨房に戻った。
二人はソファに座って、買ってきた部品の話を続けている。時々、ご主人が健の頭を小突いている。傍目には親子のように見えた。
1時間ほどして二人は帰っていった。
「また、寄らせてもらうよ。・・哲夫さん、あんたには本当に感謝しとるよ。あいつが来たお陰で、わしももう一度修理屋をやってみようと決心することができた。まだ身体は満足には動かないが、リハビリもやっとるし、まあ、出来る事からやっていけばいいだろ。ほんとにありがとう。」
帰り際に須藤自転車の主人はそういい残した。

それから、三日後の朝には、健が再び<命の樹>に顔を出し、これから東京へ戻ると挨拶をした。
朝早くやって来たのは、加奈が出勤する前にきちんと挨拶をしようと考えたからだった。
「頑張ってね。また、遊びに来てよね。」
加奈はそう言って別れを惜しんだ。
「浜にも顔を出して挨拶しておくと良い。源治さんにも世話になったし、きっと喜ぶだろう。」
哲夫はそう言って、焼きたてのパンを一袋手渡した。
丁度、与志さんも来ていて、畑で取れたみかんを一袋、土産にと健に渡した。
健は何度も何度も頭を下げ、玄関を出て行った。健のバイクの音が次第に遠ざかっていく。

それからしばらくは静かな日々だった。
口伝いで評判が広がったのか、毎日、数人の客が訪れるようになっていた。哲夫は喫茶店のマスターの姿がようやくしっくりするようになっていた。4/22

37 家出 [命の樹]

37 家出
10月に入り、日暮れが随分と早く感じられるようになった頃だった。
土曜日は、噂を聞いて遠方からも数人に昼食目当てに数人の客が訪れ、哲夫はようやく片付けを終えたところだった。加奈は哲夫の身体を気遣って、学校の休みの日に店を手伝うようにしていた。
もう、午後2時を回っていた。
「お客さん、増えたわね・・。」
加奈が赤いソファに座ってコーヒーを飲みながら言った。
「ああ・・今くらいが丁度いい。あんまり増えると体が持たない。」
哲夫は少し疲れた様子で言った。
「無理しないでね。」
「ああ・・。大丈夫だよ。・・このところ、毎週、結ちゃんに診て貰っているから・・。」
「そう。」
「ああ、そうだ。・・薔薇の花がね・・、咲きそうなんだ。今年は無理かと思ってたんだけど・・。」
「そう。」
哲夫が何か無理に明るい話題を持ち出そうとしているように感じ、それが身体の不調を隠そうとしているように尾越えて、加奈は、哲夫の言葉の中身が入ってこなかった。
カランカランと音がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃいませ。」
見ると、サチエが大きな鞄を抱え、ユキエの手を握って立っていた。表情は固い。
「どうしたの、サチエちゃん?」
加奈が訊ねると、サチエはじっと加奈を見つめて言った。
「ここにいさせてください。」
何か強い覚悟を感じさせるような言葉だった。
「ここにって・・お母さんは?」
「もう、お母さんと一緒に居たくないんです。」
サチエはそう言うとぽろぽろと涙を零し始めた。妹のユキエも、サチエが泣くのを見て釣られて泣き始めてしまった。
「まあ・・何があったかは判らないけど・・とにかく、中に入りなさい。さあ・・」
加奈はそう言うと、サチエから大きな鞄を取り、二人を抱きしめるようにして店の中へ入れた。二人はソファにちょこんと座った。
「さあ、これ、飲みなさい・・落ち着くから。」
哲夫は厨房からホットミルクを二人には運んできた。
「お昼は済ませたの?」
加奈の問いに、サチエがこくりと頷いた。
「ここに居てくれるには、おばさんも嬉しいけど・・お母さんが寂しがるでしょ?」
サチエは首を横に振って言った。
「いいの。お母さんなんか、知らない・・。」
加奈と哲夫は顔を見合わせた。そこへ、厨房のドアが開いて与志さんが姿を見せた。
「早生のみかんが取れたから、もってきたよ。」
与志さんは、籠いっぱいのみかんを哲夫に手渡した。
「与志さん、ありがとうございます。・・紅茶、飲んでいきますよね。」
哲夫はそう言うと、店の中にいるサチエとユキエのほうに目配せした。与志さんは、二人の姿を見て、これはただ事ではなさそうだと直感して言った。
「おや、珍しいお客さんがいるじゃないか。・・どうした、二人して。母さんは?」
サチエは口を噤んでいたが、ユキエは素直に答えた。
「新しいお父さんと買い物。・・ケーキを買ってくるって。」
「新しいお父さん?」
与志さんが訊き直すと、サチエが怒ったように言った。
「お父さんじゃない!」
与志さんは、加奈の顔を見て、ゆっくりと席を立ち、厨房へ行った。
「紅茶、できたかい。」
そういうのは口実で、カウンターの前に立つと、加奈と哲夫に囁くような声で言った。
「あの子達のお母さんのところへ行って、事情を聞いておいで。私が相手をしておくから。」
加奈は小さく頷くと、そっと厨房のドアから出て行った。
与志さんは、哲夫から紅茶を受け取り、さっき持ってきたみかんを二つ握って席へ戻った。
「ほら、ばあちゃんが作ったみかんだ。旨いぞ。」
サチエはさっと手を出して、与志からみかんを受け取ってむき始めた。サチエはテーブルに置かれたみかんをじっと見つめたまま、手を出そうとしなかった。
「家を出てきたのかい?」
サチエは小さく頷いた。
「そうかい。そりゃあ、勇気が要っただろうね。妹も連れてきて・・ここまで歩いてきたのかい?」
再び、サチエは小さく頷く。
「サチエちゃんは怒ってるんだね。・・新しいお父さんは嫌な人なのかい?」
「違う・・・嫌いなんじゃない・・・お母さんが・・・。」
「お母さんが何か言ったのかい?」
「ううん・・そうじゃない。お母さん、また、怖い目にあう。きっとまたたくさん血を流して・・。」
サチエは、1年近く前に目の前で起きた事が忘れられないのだった。母が男と一緒にいる姿自体が、サチエに、あの時の恐怖を思い出させているに違いなかった。そう簡単に忘れられるはずも無かった。
「そうかい・・そうかい。」
与志はサチエの頭をなでてやった。僅かな言葉だが、サチエの思いは良く判った。
「でもなあ・・サチエちゃんが家を出てきてもどうしようもないんじゃないのかい?ずっとお母さんの傍に居て、その男の人をお母さんから遠ざけないと駄目だろ?」
「だって、お母さん、大丈夫だって。この人はそんな事は決してしないって言うの。」
「じゃあ、しないんだろ?」
「ううん、判らない。お父さんも私が小さかった頃は優しかったって言ってたし・・ユキエが生まれてから、仕事がうまくいかなくって・・殴ったりするのはお父さんが悪いんじゃないって言ってた。でも、いつもお母さんは泣いてたの。今度もきっとそうなる。きっと・・。」
僅か7歳の幼子ながら、母の身を案じているのが痛いほど判った。確かに、この後、何事もない保証は誰にも出来ないはずであった。
「じゃあ、ばあちゃんが、その男を見てやろうじゃないか。伊達に長く生きちゃいないさ。悪い奴はすぐに判る。お母さんにも説教してやろうじゃないか、なあ、サチエちゃん。」
与志の言葉にサチエは少し安心したようだった。4/23

38 与志さんの説教 [命の樹]

38 与志さんの説教
加奈は車を出してすぐに、サチエたちのアパートへ向った。アパートの階段の下に、サチエの母とその「新しいお父さん」が立っていた。買い物から戻ってみると、部屋には二人の子どもの姿がなく、探している様子だった。
「郁子さん、倉木です。」
車から降りると、すぐに加奈が声を掛けた。
「ああ・・加奈さん・・サチエたちを見ませんでしたか?」
相当うろたえているようだった。
「二人は、今、うちに居ます。大きな鞄を抱えてきて、しばらく置いてほしいって言って。」
「どうして・・そんな・・ご迷惑をおかけして本当にすみません。すぐに迎えに行きます。」
「いえ、迷惑なんて・・・でも、サチエちゃん、相当の覚悟みたいですよ。一体、何があったんです?」
「それ・・僕のせいなんです。」
郁子の隣に建っていた男が済まなそうに言った。
「加奈さん、こちらは、私が働いている工場の専務さん。金原誠一さんです。・・誠一さん、こちらは、前にお話しした喫茶店の奥様で加奈さんです。」
加奈は小さく会釈して話をつづける。
「とにかく、このまま預かるってわけにもいかないでしょ。すぐにウチヘ行きましょう。」
三人は、《命の樹》へ向かった。

「あ・・加奈が戻ってきたみたいです。」
哲夫は、外の様子を見に行き、三人が階段を上ってくるのを確認すると、すぐに店に戻った。
「じゃあ、サチエちゃん、この与志さんに任せてくれるね?良い子だから、2階へあがっておとなしく待ってるんだよ。とっちめてやったら、呼ぶから。」
サチエはユキエと手をつないで、階段を上って行った。
玄関が開き、加奈が、郁子と金原を連れて入ってきた。
「サチエ!ユキエ!」
郁子が少しヒステリックな声で二人の名を呼んだ。
「まあ、落ち着きなさい。二人は上に居る。まあ、少し、事情を聞かせてくれないかい。」
与志さんが、郁子に言う。
郁子と金原は先程までサチエたちが座っていたテーブル席に着いた。哲夫は、コーヒーを煎れて二人の前に置いた。
「さあ、どこから話そうかね。・・まず、あんただ。何者だい?」
そう問われて、金原は、習慣で儒ケットのポケットから名刺入れを取り出し、1枚の名刺を差し出してから、深々と頭を下げて言った。
「金原工業の金原誠一です。」
与志さんは名刺をつまむとじっと見つめた。
「ほう・・これは随分と偉いお方のようだが・・どういう関係・・ってみりゃ判るね。」
郁子が話し始めた。
「私が働いている工場の専務さんです。何とか就職でき、仕事も覚えました。体の事もあって、事務の仕事に代えていただいて、何かと専務さんとご相談することも多くて・・。」
「いや、郁子さんが入社されてからすぐに事務が足りなくなったので、配置転換したんです。簿記ができるって聞きましたので、助かってます。テキパキと仕事をこなせるし、頭もいいし、・・・」
「まあ、そんな馴れ初めみたいな話はいいさ。で、結婚するって覚悟なのかい?」
与志さんは敢えて、覚悟という言葉を使った。
「いや・・覚悟というか、僕から申し込んだんです。」
金原が答えた。
「金原工業の専務となれば、相当の資産もある。その気になれば結婚相手に不自由しないだろう。・・それが何で、子持ち女にプロポーズなんだ?見たところ、歳もそれなりだろう?」
与志の言う通り、金原誠一は、もう40歳は過ぎているようだった。ところどころに白髪も見える。
「実は、若い頃、結婚していました。ですが、なかなか、子どもに恵まれなくて、会長・・いや、父と母が随分と気を揉みまして、妻に厳しく当たるようになってしまって、妻は精神的に不安定になって、離婚せざるを得なくなったんです。」
「そんな男がプロポーズ?冗談だろ・・女を一人不幸にした男が、また同じことを繰り返そうって。」
与志さんは少しキツイ口調で言った。
「ですから、それ以来、結婚なんかしないと決心していました。」
「それがどうして?・・会社の跡継ぎがほしいってのなら、養子でも貰えばいいだろ?」
「跡継ぎとか・・そういうんじゃないんです。彼女と親しくなって、子ども達の話を聞いたり、写真を見たりしているうちに、家庭を・・いや、親になりたいって思うようになったんです。」
「なら、なおさら、だろ?」
与志の問いかけに、金原は少し考えてから答えた。
「私には子どもをつくる能力がないんです。結婚して子どもができなかったので、随分、病院にも通いました。子どもの時の病気のせいだとわかったんです。・・ですから、自分の子どもを持つことは諦めていました。でも、あの子達の笑顔を見てから・・どうしても、あの子たちの親になりたいという願望が強くなって・・私のエゴだという事は重々承知しています。」
他人に話したく無い事に違いなかった。
育子が金原の背中を優しく摩りながら言った。
「金原さんのエゴなんかじゃありません。・・私だって、子どもたちにもっと楽なくらしをさせてやりたい、お父さんを作ってやりたい・・そう思ったんです。それで、今日、子どもたちに会わせたんです。・・でも・・・。」
「あんたたちの考えは良く判ったよ。互いに真剣に考えての結論だという事も判った。だが、結果はどうだい?サチエちゃんは妹を連れて、ここへ逃げ込んだ。あの顔は尋常じゃない。あんたたち以上の覚悟だろう。幼い子どもが、心を痛めて・・どうしようもなく、ここへ逃げてきた。郁子さん、どうだい?」
郁子は困惑した表情を浮かべていた。
「そんなに・・金原さんを嫌っているのでしょうか?今日初めて会ったんですよ。お昼は楽しく食べてました。・・ユキエなんかは、金原さんの膝に乗って遊んでいました。・・サチエは余り近づきませんでしたが・・、どうしてそんなに嫌うんでしょう。」
「お母さんが判らないなら、どうしようもないねえ。」
「どうしたらいいんでしょう?」
郁子は涙ぐんでいる。4/24


39 約束 [命の樹]

39 約束
「サチエちゃんはね、私にこう言ったんだ。・・嫌いなんじゃない、お母さんがまた怖い目にあうってね。わかるかい?あの子はあんたの事を心底心配しているんだ。」
「怖い目にあうって・・まさか?」
「そうだよ。あの事件の事があの子の心の中に深い傷を作ってるんだろう。恐ろしい光景を見ているんだ、自分じゃ気づかないくらいに、大きな棘が刺さったまんまなんじゃないかな。」
「そんな・・。」
「それだけじゃない。あんたは、暴力を受けるたびに、サチエに言ったそうじゃないか。お父さんが暴力を振るうのはお父さんのせいじゃないって、本当は優しい人なんだって。」
「そんな時もあったかも・・。」
「それが傷を深くしたんだ。・・優しくみえる人だって、いつ、あの男のように暴力を振るうようになるか判らない。あんたが、金原さんの事を優しい人だとか決して暴力は振るわないとか・・そんなふうに言えば言うほど、また、お母さんは怖い目にあうんだと思い込む。たぶん、今日、あんたが金原さんと子どもたちを遭わせた時もそう言ったんじゃないかい?」
育子はその時の様子を思い出して、深くうな垂れた。
「あの子には、あんたが男の人と一緒に居るだけで恐怖心が湧いて来るんだ。優しい人だからって言葉に一層恐怖が高まったんだろ。」
与志は天井を見上げながら、吐き出すように言った。
「じゃあ・・サチエの傷が癒えるまでは・・。」
「ああ・・。・・金原さんは、あの事件の事は知ってるのかい?」
与志が金原に尋ねた。
「ええ、郁子さんから、前のご主人の事は聞きました。刺されて瀕死の重傷だった事も・・。そのためにも、郁子さんも子どもたちにも幸せになってもらいたい。自分に出来る事があるならと・・。しかし、私が居る事でサチエちゃんが傷ついているなんて考えもしなかった。・・」
「そりゃ、無理もないだろう。人の心の中なんて、そうそう判るもんじゃない。きっと、本人も気づいていないだろう。」
じっと三人の話を聞いていた加奈が言った。
「与志さん・・どうしたらいいんでしょう?このまま、サチエちゃんは心の傷を抱えたまま大人になるしかないの?それじゃあ、あんまりよ。何とか、できないかしら。」
与志さんは、加奈と哲夫の顔を見た。
「あの子は、どうしてここに来たんだろうね?」
「ここしか行く当てがなかったって事じゃないんですか?ここにしばらく居ましたから。」
哲夫が答えた。
「・・そうか・・そうだね・・ここに来たんだ。・・なあ、てっちゃん、子どもたちをすぐに呼んで来ておくれ。」
与志に言われて、哲夫は2階へ上がっていった。サチエとユキエは、哲夫に連れられてゆっくりと顔を見せた。
「サチエちゃん、ユキエちゃん、ここにお座り。」
与志さんが手招きをして、二人を横に座らせた。
サチエは、育子の顔も、金原の顔も見ようとはせず、じっと俯いたままだった。ユキエはきょとんとした表情をしている。
「さあて・・サチエちゃん。今まで、じっくり話をしてたんだがね・・・ばあちゃん、すっかり困っちゃったよ。」
サチエが与志の顔を見た。
「ばあちゃんは、悪い奴かどうかすぐに判る。じっくり、この人を見たんだが、どうにも悪いところが見つからないんだ。見つかったらとっちめてやって、お母さんに近づくなって言ってやろうと思ってたんだが・・どうにも、見つからないんだよ。」
与志の言葉にサチエが困惑した表情を浮かべている。
「悪いところが見つからなかったのは、今まで二人だけだったんだよ。一人は死んだじいちゃん、そしてもう一人は、てっちゃんだったんだが・・この人も見つからないんだ。」
「てっちゃんと同じってこと?」
「ああ、そうさ。この人はてっちゃんと一緒さ。でもね、判らない事もある。もしかしたら、ばあちゃんの目が曇ってるかもしれない。だからね、ばあちゃんはサチエちゃんと約束をしようと思うんだ。」
「約束?」
「ああ、約束。・・これから、もし、この人がちょっとでもお母さんやサチエちゃんたちに悪い事をしたら、すぐにばあちゃんに知らせて欲しいんだ。そしたらすぐにばあちゃんが助けに行く。見抜けなかったばあちゃんの責任だ。絶対、あんたたちを守ってあげる。そう約束したいんだ。」
それを聞いて、哲夫も言った。
「サチエちゃん、てっちゃんも約束する。いつでもここへ来ればいい。きっと守ってあげるよ。」
加奈も言った。
「わたしも守ってあげるからね。」
「さあ、どうかな?約束してくれるかな?」
サチエは少し戸惑っているようだが、こくりと頷いた。
「良い子だ。じゃあ、もう一つ約束しよう。この人はね、お母さんもサチエちゃんもユキエちゃんもみんなを大事にしたい、幸せにしたいって言ってくれてるんだ。だからね、サチエちゃんもこの人をちゃんと見てあげて欲しいんだ。この人は、あんたたちのお父さんになって幸せになりたいって心の中から願ってるんだ。それを信じてあげて欲しいんだ。できるかな?」
サチエは、少し不安な表情を浮かべて、厨房に居る哲夫の方を見た。哲夫は微笑んで頷いた。
「・・約束・・だよね・・。」
「ああ、約束だ。ここに居るみんなの約束だ。」
「うん・・約束する。」
サチエの返事に、与志さんはサチエの手を握った。郁子は涙を零しながら、サチエとユキエを抱きしめた。その後ろから、金原が育子の肩を抱いた。哲夫と加奈もつられて涙ぐんでいた。
「ああ、そうだ。もうひとつあった。」
「?」
「ケーキ。せっかく金原さんが買ってきてくれたんだ。仲良く食べなさい。」
テーブルの上には箱に入ったケーキが置かれていた。蓋を開けると、サチエの大好物のモンブランと、ユキエの好物のイチゴのショートケーキが入っていた。
「じゃあ、苦いコーヒー二つと、てっちゃんのスペシャルジュース二つ、与志さんには、ゴールデンティにしましょうかね?」
哲夫が少しおどけて言った。4/25

40 心の形 [命の樹]

40 心の形
.四人は、ケーキを食べ終わると、哲夫や加奈、与志に深々と頭を下げて、アパートへ戻って行った。
「与志さん、ありがとうございました。」
四人を見送りながら、加奈が言うと、与志は満面の笑顔で答えた。
「いや、礼を言うのは私の方だよ。こんな偏屈婆さんが、ちょっとでも、人様の役に立てるって思わせてくれたんだ。」
「そんな、偏屈なんて・・。」
「こんな岬のはずれに独り暮らししてるんだ、偏屈じゃなのは当然だろ?」
「うまくいくでしょうか?」
「サチエちゃん次第だろうが・・あの子は利口な子だ。きっとうまくいくだろう。」
与志はそう信じたいと心から思っていた。加奈も同様だった。
「まだまだ頑張らないとねえ。サチエと約束したんだ。あの子たちが幸せになるまで見守ってるってな。まだ、まだ、くたばるわけにはいかないね。なんだか、まだ、生きてても良いって神様に許してもらったようだね。」
与志の言葉を聞いて、哲夫は、サチエとの約束をいつまで守れるのだろうかと考えていた。
「てっちゃんも、約束したんだからな!」
与志の言葉には、何か、特別な意味があるように哲夫は感じた。
「ええ・・そうですね。頑張らないと・・。」
哲夫はそう答えるのが精いっぱいだった。
「ねえ、与志さん、今日は夕ご飯、ご一緒しませんか?」
加奈は夕食に与志を誘った。与志は少し考えてから答えた。
「いや、やめとくよ。こんな良い事があったんだ。早く、爺さんにも話してやりたいんだ。普段は、写真を見てもあまり話すこともないんだけどね、今日は楽しい話ができそうだ。じゃあ、帰るよ。」
与志はそう言って、《命の樹》を後にした。
哲夫は、与志さんの後ろ姿を見ながら、自分が死んだあと、加奈はあんなふうに強く生きてくれるのだろうかと考えていた。病気が判ってから、自分が死んだ後のことについてじっくり話し合ったことがなかった。いや、その話題を避けてきた。しかし、その日は着実に近づいている。

夕飯のとき、加奈がふと口にした。
「ねえ、心ってどんな形だと思う?」
加奈の唐突な質問はいつもの事だが、さすがにこれには驚いた。
「こころ?・・心って・・やっぱりハート型なんじゃないの?」
「何、言ってるの。それじゃあ、そのまんまじゃないの。あのね、心ってね、生まれた時は、まんまるでね、マシュマロみたいにとっても柔らかいんだって。」
どこで仕入れたのか、時々、加奈は面白い事を教えてくれる。若い時からそうだった。だが、大抵、どこか足りない処があって、つじつまが合わなくなるのだった。だが、下手に突っ込むと機嫌が悪くなるので、大抵の場合、気になる事はあっても哲夫は気にしないようにしていた。
「その柔らかいまん丸なこころはね、傷ついたり、凹んだり、壊れたりするのよ。」
確かに、凹むとか傷つくとか壊れるとか、そういうふうに表現する、と哲夫は関心して聞いていた。
「でもね、それを修復する力もあるんだって。」
「また、下のように丸くなるってことかい?」
「いいえ・・単純じゃないの。丸くなろうとするんだけど・・大きな傷や凹みは元に戻らない。それでも何とかしようとして、その部分が固くなるんだって・・・。でね・・たくさんそういう事があると心が固くなってしまうんだって。」
「じゃあ、悲しいことや悔しいことがたくさん会った人の心は固くなってしまうって事?それじゃあ、あんまりだろ?」
哲夫は少し呆れて訊き返した。加奈は答えに窮した様だった。
「固くなるんじゃなくて、表面は少し厚くなるじゃないのかな・・。ほら、怪我をして直った時、表面が少し暑くなってるように・・・。だから、小さな傷なら表面は少し厚くなって強くなる。辛い事があっても簡単には削れたり凹んだりしなくなるんじゃないかな。」
「そうね・・。」
「でも、サチエちゃんのようにあんまり深い傷だと簡単には埋まらない。そのまま傷口が開いたままになっちゃう事もある。そんな時は、誰かがそっと塞いであげなくちゃいけない。そのままだと、心が壊れちゃうからね。」
「きっと、お母さんや金原さんが塞いでくれるわよね。」
「ああ、きっと。」
哲夫はそう答えながら考えた。自分が死んだ時、きっと加奈の心には深い傷が付くだろう。その傷は誰がふさいでくれるんだろう。深すぎて、加奈の心が壊れてしまったりしないだろうかと思っていた。

それから、2週間ほど過ぎた日、郁子が金原と一緒に、《命の樹》にやってきた。
「その節はありがとうございました。」
金原が頭を下げた。
「いえ・・私は何も・・お礼なら与志さんに・・。」
哲夫が言うと、郁子が答えた。
「先程、与志さんのお宅にはご挨拶に伺いました。・・実は、引っ越すことにしたんです。」
「引っ越す?」
「ええ・・あれから、サチエも次第に誠一さんと話すようになってくれて・・毎晩、夕食を一緒に過ごすようになったんです。でも、夜には自宅へ戻って・・。そしたら、ユキエが誠一さんの後を追うようになってしまって・・もうすっかり、お父さんと思ってくれているみたいで・・・。」
「そんなに・・。」
「ええ、私も驚いています。それを見ていて、サチエが言ってくれたんです。一緒に住んだ方が良いって・・毎晩帰るのは寂しいでしょうって・・それで、彼の家に住むことにしたんです。」
「そうですか・・良かった。でも、寂しくなるな。」
哲夫が言うと育子が微笑みながら言った。
「大丈夫です。引越先はすぐ近くです。・・先日できた水上医院の隣なんですよ。もともと、あそこに金原さんの実家があって、少し改装して住めるようにしてくださったんです。あそこなら、サチエも転校しなくて済みますし、ユキエも保育園に通えます。そう、倉木さんのパンもいただけます。」
「そう・・それなら、時々、お邪魔しようかな。僕も、サチエちゃんやユキエちゃんの顔が見れるのは嬉しいですから。」
「是非、いらしてください。」
二人は幸せそうな様子で帰っていった。4/28

41 息子 [命の樹]

41 息子
<命の樹>を取り巻くように立っている木の葉が赤く色づきはじめる季節になった。
「木曜日は学校の講義がなくなったから、これからはお休みにして、あなたを手伝うわね。」
加奈がそう言って、初めての木曜日が来た。保育園へパンを届ける日である。
哲夫は朝早くから起きだして、パンを焼き、小袋に詰める作業をしていた。加奈もいつもよりも早く起きて哲夫を手伝った。木曜日は<命の樹>は定休日になっていた。
「じゃあ、行こうか。」
「ねえ、私の車で行く?そんなにたくさんの荷物があるんだし、寒くなってきたし・・。」
「いや・・保育園の前は車が停められないし・・自転車を押していけば大したことないさ。運動も必要だろ?・・ああ、そうだ。帰りには水上医院へ行くんだ。パンを届けるついでに診察も・・・」
哲夫がそういうので、加奈も哲夫の引く自転車を後ろから押しながら歩いてついて行った。
「わあ・・てっちゃんだ!パンが来たよ!」
いつもの笑顔が迎えてくれた。
「あなた、ずるいわ。こんな楽しい事、今まで独り占めしていたのね。」
加奈は、子どもたちに囲まれ、何とも幸せそうな哲夫を見て、そう言った。
「独り占めって・・べつに・・そういうわけじゃあ。」
「嘘よ!これから、私も一緒に来るわね。」
加奈はそういうと、パンの入った箱を抱えて、子ども達の輪の中に入って行った。
「ええ・・今日のパンは、くるみとみかんのパンです。」
哲夫は子どもたちを前に少し得意げに言った。
「それと、今日のパンは、ここにいる加奈さんが手伝ってくれたんです。加奈さんは僕の奥さんです。これから毎週、一緒にパンを運んでくれます。仲良くしてください。」
哲夫は子どものような口調で、楽しそうに話した。子どもたちは無邪気に「はーい」と答える。
「それとね・・パンに入っているみかんは、あの岬に住んでる、与志さんという人が育ててくれたんです。」
哲夫が言うと、一人の子どもが答える。
「ぼく、よしさん知ってるよ。」
「ぼくも!」
そこにいた園児たちはつられるように皆が、与志さんを知っていると答えたのだった。
哲夫が意外な顔をしていると、保母さんが横から言った。
「与志さんは、最近、みかんを届けてくださるようになったんです。子どもたちもすっかり慣れて、与志さんがいらっしゃると、哲夫さんの時みたいに大騒ぎになるですよ。」

しばらく、子ども達の楽しく時間を過ごした後、哲夫と加奈は保育園を後にした。
「これから、水上医院に行って診察を受けるけど・・どうする?」
哲夫が訊くと、加奈は少し考えてから「私は先に戻ってるわ。」と言った。
「じゃあ、これを須藤自転車に届けてくれないかな。毎週、保育園の帰りに届けてるんだ。奥さんが気に入ってくださってるんだ。」
「ええ、良いわ。」
哲夫は周遊道路から山手に上がる坂道を自転車を押しながら進んだ。加奈は、後姿を見送った後、町の通りへ向かった。
加奈は、「須藤自転車店」に着くと、店先から声を掛けた。
中から、30代の男性が顔を見せた。
「あの・・倉木と申しますが・・パンをお届けに参りました。あの・・奥様は?」
加奈が訊くと、その男性が笑顔で答えた。
「倉木さん・・ああ・・哲夫さんの奥様ですね。その節はお世話になりました。息子の幸一と申します。・・結ちゃん・・あ・・いや、水上先生から連絡があって、ご主人から親父の話を聞きました。驚いて戻ってきたんですよ。・・本当にありがとうございました。」
出てきたのは、須藤自転車の一人息子の幸一だった。
幸一は、結と同じ医大の出身で、しばらく僻地医療で遠方に行っていた。最近になって、大学病院に戻ってきて、結からの連絡を受けたようだった。
「親父が病気で倒れた事は全く知らなかったんです。まあ、あんまり連絡してなかった僕が悪いんですが・・親父も僕にはみっともない姿を見せたくなかったんでしょう。お袋にも連絡するなといっていたようです。・・哲夫さんから様子を聞いて・・なんでも健君がバイク修理の修行をしているから、それが終わったら顔を見せて欲しいって言われていたんです。」
「そうなんですか・・。」
加奈は哲夫がそんな事をしていたのは全く知らなかった。
「戻ってきた時、親父はかなり回復していました。本当にありがとうございました。」
「いえ・・私は何も知りませんでした。でも元気になられて良かったです。」
「それで・・こっちへ戻ってこようと決めたんです。ここからなら、何とか、大学病院にも通えますし、親父のリハビリにも連れて行くことができますから・・。いずれは、自分の病院も持ちたいので・・。」
「そう・・それはお父さんたちも心強いでしょうね。」
「本当は、バイク屋を継ぐべきなんでしょうが、どうにも、苦手なんですよ。小さい頃は手伝っていたはずなんですけどねえ。」
そんな話をしていると、奥さんが出てきた。
「あら・・加奈さん、その節はお世話になりました。」
奥さんは、以前にも増して幸せそうな笑顔で挨拶をした。
「いえ・こちらこそ。・・ああ、これ、哲夫さんから・・。」
そう言って加奈がパンの包みを差し出すと、奥さんは両手でありがたそうに受け取った。
少し遅れて、ご主人が顔を見せた。
「おや、珍しいね。今日は加奈さんが配達かい?・・こいつ、息子の幸一だ。戻ってくるんだそうだ。」
リハビリも進んでいるようで、一見すると病気だったこともわからないほどに回復しているようだった。ご主人も以前よりも柔らかな表情で話した。
「ええ・・木曜日が仕事休みになったんで、一緒に配達なんです。哲夫さんは今、水上医院へ。」
「やっぱり、どこか、悪いのかい?」
「いえ・・パンを届けに行ってます。」
加奈は戸惑いながら答えた。
「そうかい?それなら良いんだがな・・・。」
ご主人は少し心配そうな表情で呟いた。4/29

42 三輪自転車 [命の樹]

42 三輪車
「何か気になる事があったんですか?」
加奈は心配そうな顔で訊いた。
「いや・・先週だったかな・・そこで、てっちゃんが座り込んでいたんだ。配達でくたびれたって言ってさ。顔色も良くなかったんで、心配だったんだが・・。」
哲夫は加奈にそんな事は一言も言っていなかった。今日も特にそんな様子は感じられなかった。
「それでな・・ずいぶん世話になったお礼もと思って、ちょっと良いものを用意してみたんだ・・気に入って貰えるといいんだが・・。」
御主人はそう言って、作業場の奥へ引っ込むと、すぐに、1台の自転車を押して出てきた。
「俺んとこはもともと自転車屋だからな。あれだけ大きな荷物を運ぶんじゃ、大変だろう。どうだい、三輪の電動自転車だ。こいつなら、後ろに大きな荷物も積めるし、楽に運転できる。哲夫さんも喜ぶと思うんだがな・・。」
随分高価な自転車のようだった。サドルも大きめで皮シートのようだった。サドルの後ろには大きな荷台もついていて、パン箱をたくさん積めそうだった。
自転車屋のご主人が言う通り、これなら哲夫の体の負担も小さくて済むに違いなかった。
「ええ・・何だか、良さそうですね。お幾らなんですか?」
「いや代金は要らないさ。礼のつもりだからよ。」
「いえ、そんなわけにはいきませんよ。」
そんな遣り取りをしていると、隣で奥さんが言った。
「じゃあ、パンの代金ということでどう?毎週、おいしいパンを届けてもらっているのに、今まで一度もお代を受け取ってもらっていないのよ。・・自転車はパンのお代。いえ・・自転車のお代をパンで・・まあ、いいでしょう?どっちでも。こんなに主人が動けるようになって、昔みたいに働けるようになったのも、全て、哲夫さんと加奈さんのおかげなのよ。ねえ、ぜひ、受け取って下さい。」
奥さんは笑顔でそう言った。
加奈はありがたく受け取ることにした。少しでも哲夫の負担が減るのであれば、いくら高くても良かったのだが、自転車屋の夫婦の好意に甘えることにした。
自転車屋の夫婦に、深く礼をすると、さっそく、加奈は乗ってみた。
サドルが大きくてすっかり座れる。軽い力ですっと進む。良い具合だった。
加奈は、一旦、店の方へ戻りかけたが、せっかくなので、水上医院へ向かうことにした。すいすいと進む自転車は、水上医院に向う坂道も楽に登れた。これなら哲夫の身体への負担も少なくて済みそうだと思いながら、

水上医院の前に着くと、隣の家の前に郁子が居た。
「あら・・加奈さん・・。」
郁子は娘たちとともに、金原の家に引っ越したのだった。引越の片付けをしていたようだった。
「郁子さん、お元気?もう新しい暮らしには慣れた?」
「ええ、子どもたちもすっかり元気で、誠一さんも優しくしてくれています。」
心から幸せを噛みしめている様な笑顔で郁子は答えた。
「加奈さんはどうしてここへ?・・どこか具合が悪いんですか?」
「いえ・・哲夫さんが・・」
そこまで口に出したが慌てて言い返した。
「いいえ・・元気よ。哲夫さんが保育園へパンを届けた後、ここにもパンを届けに来ているのよ。私も今日は学校もお休みになったんで、ちょっとお散歩のつもりでね。」
「いいですねえ。・・ねえ、加奈さん、是非、一度、お二人で遊びに来てください。サチエもユキエも哲夫さんの事が大好きですから、それに、誠一さんもぜひお礼がしたいって言ってましたから。」
「ええ、ありがとう。でも、それなら、与志さんを誘ってあげて・・一番、お礼をしなくちゃいけないのは、与志さんじゃないかしら?」
「ええ・・与志さんにも、お話はしたんですけど・・」
「そう。与志さんはそういうのは余り好きじゃないかもね。まあ、私も一度話しておくわね。皆で楽しくできればいいものね。」
そんな会話をしていると、哲夫が水上医院の玄関に立って、外に出ようとしているのを見つけた。
手には、薬の入った大きな袋を持っていて、少し、浮かぬ顔をしていた。
加奈は、哲夫の病気を知って郁子が気遣うのを気にして、哲夫が出てくる前に、水上医院へ行くことにした。
「じゃあ。」
加奈は、足早に自転車を押して、水上医院の玄関にたどり着き、すぐに玄関に入った。
「迎えに来たわ。」
待合室には誰も居なかった。
結に挨拶をしようとも思ったが、哲夫の表情を見ると余り良い話が聞けそうにないことは想像できた。
「どうしたんだ?」
哲夫は驚いた表情で加奈を見た。加奈は須藤自転車店での事を哲夫に話した。
「そうか・・じゃあ、ありがたく使わせていただきますかね。」
哲夫はそう言うと、玄関を開けて表に出た。すでに郁子の姿は無かった。
哲夫はしばらく三輪自転車を眺めた後、ひょいと跨ってみた。
「うん、良い感じだ。これなら、パンを運ぶのに苦労しない。じゃあ、戻ろうか。」
哲夫は早速三輪自転車に乗って、水上医院から周遊道路まで出た。後ろを加奈が古い自転車で追いかけるように走った。
「少し、回り道しようか。」
哲夫はそう言うと、周遊道路沿いに整備されているサイクリングロードに入った。
11月になり、朝夕は冷え込む日も多くなっていたが、日中はまだ暖かかった。頬をくすぐる風も気持ち良かった。
加奈は、水上医院での診察結果や最近の体調について気になってはいたが、哲夫が気持ち良く走る姿を見ていると、今は訊かない方が良いと決めた。
湖岸のサイクリングロードは、平日とあって誰の姿も無く、静かだった。
しばらく走って、海岸が大きく回り込んだところで、視界に岬が入ってきて、中腹には、赤い屋根の家が見えた。近くからではなかなか姿は見えないが、こうして少し離れると、かなり目立って建っている。
哲夫は自転車を停め、遠くに見える我が家を感慨深そうに眺めていた。
「ねえ、そろそろ帰りましょう。日暮れになると寒くなるから。」
「ああ、そうしよう。」
二人はゆっくりと家路についた。4/30