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3-1 新年の挨拶 [命の樹]

1. 新年の挨拶
元旦の朝。
おせち料理が並んだテーブルに、哲夫、加奈、美里、千波の顔があった。
「さあ、お屠蘇よ。」
加奈が大事そうにテーブルに運んできた。
「これ、これ、これがなくっちゃ。」
千波が言うと、美里も応えるように言った。
「じゃあ、お父さんから。」
毎年の正月の決まった会話である。
「じゃあ、みんな、おめでとう。こうやって新年が迎えられたのは、何よりの幸せだね。」
哲夫はそう言ってお屠蘇を飲む。
加奈、美里、千波の順に一回り。
これが倉木家の正月行事の始まりだった。
「いただきまあす。」
真っ先におせち料理に手を付けるのは決まって美里だった。
「あ、この黒豆、美味しい!」
「そう?今年はちょっと違うのよ。」
加奈が少し得意げに言った。
「まず、お豆。今年のは玉木商店のご主人がね、とびきり良い豆だよって下さったの。丹波産の大粒の黒大豆でね、問屋さんから分けてもらったんだって。」
「丹波ってどこ?」
美里は余りそういう事は知らなかった。
「丹波って・・たしか・・ええっと・・。」
実は加奈も、余り正しくは知らない様子だった。
「京都の北部よ。山間の静かなところだって。」
千波は、知識はあるが、そうしたものへのこだわりがない。だから、あまり興味の無さそうな言い方をして、黒豆を摘まんだ。
「それとね・・与志さんにちょっと相談したのよ。どうしても皺皺になりがちだったでしょ?何かコツがあるんじゃないかって思ってね。で、それをやってみたの。」
「え?どうやったの?」
美里は興味深そうに訊く。
「浸透圧の変化を使うんじゃないの?」
再び、千波が少し機械的な言い方をした。
それを聞いて、加奈は少しげんなりした表情を浮かべたが、美里が興味深そうな表情を浮かべていたので、美里にだけ教えるように言った。
「口で教えるのはちょっと難しいけど・・煮汁をちょっと工夫するの・・。」
それからひとしきり、おせち料理の話が続いた。
哲夫は、娘と母が料理の話をしている姿をみて、改めて、娘たちの成長を実感していた。


3-2 蒲鉾 [命の樹]

「ねえ、哲夫さん、この蒲鉾、どう?」
加奈がいきなり訊いてきた。
「どうって?まだ、食べてないよ。」
哲夫は、そう言うと、目の前の紅白の蒲鉾をひとつ摘まみ上げた。
「ん?」
箸先から感じる弾力が何だか少し違うように感じた。
「ねえ、食べてみて。」
「うん。」
哲夫は一切れ口に入れる。
「加奈・・・これって・・まさか?」
「判る?そう。山口名産の白銀かまぼこよ。ほら、去年のお正月、お姉さんから、せっかく小田原の高級な蒲鉾を貰ったのに、やっぱり白銀にはかなわないなって言ったじゃない?」
「ああ・・だけど・・白銀ってそこらでは売ってないだろ?・・確か、ネット通販でも手に入らないって言ったじゃないか。」
哲夫はそう言うと、もう一切れ口に入れて満足そうな表情を見せる。
「そうなのよ。でもね、教え子の中に、山口の子が居てね。雑談でそんな話をしたら、びっくりしたの。なんと、その子のお父さんがそこの工場にお勤めだったのよ。」
「へえ・・そんな・・偶然・・があるん・・だな。」
哲夫は二切れ目の蒲鉾を口の中に居れたまま言った。
「でね、わけてもらえないかってお願いしたら、たくさん送ってくださったの。・・・玉木商店や与志さんにも暮れのご挨拶に遣ったのよ。」
「何だか懐かしいなあ・・。」
哲夫はそう言いながら、ふるさとの味を再び確かめた。
とびきり美味しいものかどうか、それは判らない。おそらく、小田原名産の高級蒲鉾の方が世間的には美味しいのかもしれない。しかし、哲夫には、この味が格別なものなのだ。

故郷にいた頃、正月かお盆で一族が集まる様な機会でしか、口にできない代物であり、何より高価だった。貧しかった頃、ある種、憧れの食べ物であった。
哲夫が大学進学で故郷を離れる時、母が作ってくれた料理にも、この「白銀」が入っていた。まさに人生の節目の味とでもいうべきものだった。
加奈は、偶然のように蒲鉾を手に入れたような言い方をしたのだが、実は、かなり伝手を探していたはずだった。小さな工場ながらこだわりを持ち、どこでも手に入るような販売網を持っている会社ではない。手軽に土産物にするような価格でもないはずだった。
「ありがとう、加奈。」
哲夫は、胸が熱くなって、それ以上の言葉が出なかった。
加奈はにっこりとほほ笑んだ。そして、言った。

「さあ、そろそろお雑煮にしましょうよ。」
「ああ、そうだな。」

3-3 お雑煮 [命の樹]

哲夫はすぐに厨房に入り、雑煮の支度をした。

正月の雑煮の支度は、倉木家では、代々、主人の仕事と決まっていた。
哲夫の父も、正月のこの日だけは厨房に立ち、みんなのために毎年雑煮を作ってくれた。大した工夫もない、いたってシンプルな雑煮ではあった。だが、中身や味の問題ではない。父が家族のために、普段はやらない台所仕事をする。それ自体が、とても大事な儀式であった。
父が、厨房に立って、出来上がるまでの間、家族は静かに待っている。それは、祖父も祖母も同じだった。幼かった妹には、理解できるわけもなく、すぐに席を立とうとする。その度に、普段は優しい母が厳しく注意する。
それは、食べ始めてからも同じだった。万一、不味い事があっても、それを口にしてはならない。いや、旨いとか不味いとかだけでなく、とにかく、静かに、きれいに食べ切る事が求められるのだった。決して楽しい時間ではないはずだが、何か、家族で過ごす尊い時間を感じられるのだった。

今の倉木家にはそれほどの厳かな事は求められていない。それほど、家長の権威が落ちたのかもしれないが、一つの行事として、哲夫が作った、素朴な雑煮を食べなければ、正月を迎えた気分にならないのだった。

「ねえ、お父さん、今年のお雑煮のお餅って、この間、皆で搗いたのを使うんでしょ?」
千波が少し得意げに言った。
「ああ、そうだよ。きっと、今年のお雑煮は飛び切り美味しいぞ。」
「千波、ずるいわよ。餅つきするんなら知らせてくれれば良いのに。」
美里は少し不満そうだった。
「だって、お姉ちゃん、仕事だったんでしょ?」
「あ~あ・・学生って良いわねえ。」
「お姉ちゃん、仕事辞めて戻ってきたら?どうせ、結婚・・」
千波がそこまで言った時、美里がきっと睨みつけた。千波は慌てて口を噤んだ。

「さあ、できたぞ。」
哲夫が、お椀に入った雑煮を運んできた。
倉木家の雑煮はいたってシンプルだった。
丸餅に竹輪と白菜が入っているだけで、昆布だしと醤油の軽い味付けだった。
哲夫と加奈が結婚したばかりのころは、味噌仕立てのものや具材たっぷりのものも作ったことはあったが、結局、哲夫の故郷の雑煮に落ち着いたのだった。
千波も美里も、物心ついたころからこの味に親しんでいて、これを食べて始めお正月を迎えた気分になる。
「竹輪を入れるのが良いんだよ。」
哲夫は決まってそう言って、みんなの前にお椀を並べる。
こうして、いつもの年の初めと変わらぬ元旦を迎えたのだった。


3-4 千波の決意 [命の樹]

「ねえ、そろそろ、恒例のやつを始めましょう。」
加奈が唐突に言い出した。
「恒例のやつ?・・ああ、今年の目標か?」
「そう。」
加奈はなんだか楽しそうだった。毎年、それぞれが目標を口にするのは、いつからの習慣だったろう。哲夫は記憶を辿ってみた。確か、二人の娘が受験の年だったように思う。そうして二人とも念願の学校に無事入学した。以来、元旦に目標を発表すると叶うという習慣が生まれたのだった。
娘二人は少し躊躇しているようだった。
「どうしたの?目標はないの?・・じゃあ、私から・・。」
加奈が言いかけたところで、千波が制止するように立ち上がった。
「私から言うね。私、やりたいことが見つかったの。」
何か、切羽詰まったような言い方だった。
「千波は就職するのよね。仕事も決まったわけだし・・それを頑張るんじゃないの?」
加奈が尋ねる。千波は、厳しい就職戦線を乗り超え、昨年、一部上場の企業から内定をもらっていて、そのまま東京で就職する予定だった。
「ごめん。お母さん。私、就職はしない。自分で事業を始めるわ。」
「事業を始めるって・・そんな・・社会経験もないのにできるわけないじゃない!事業には資金だって必要だし、まともに収入もなくて、東京では暮らせないでしょ?いつまでも学生じゃないんだからね!もう仕送りはやめるからね。」
加奈は少しヒステリックな口調で捲し立てた。
さすがに千波も、加奈の厳しい口調に怖気づいたように、ため息をつくと、椅子に座った。
「そう、頭ごなしに駄目だって言わなくても・・一体、千波は何がやりたいんだい?」
哲夫が口をはさんだ。
「もう!哲夫さんは千波に甘いんだから!いつも、そう!」
加奈は哲夫の言葉に憤慨して言った。これ以上哲夫が何か言えば、さらに加奈は態度を硬化するのは判っていた。それを察して、美里が口を出した。
「千波、話の順番が違ってるよ。順番に話さなきゃダメよ。」
千波は、美里の言葉に頷いた。
「ねえ、フェアトレードって知ってる?」
千波は少し落ち着いた声で話し始めた。
「直訳すれば・・公正な取引って意味だけど?確か、ほら・・そうそう・・スターバックスでもフェアトレードコーヒーっていう日があったわよね?」
加奈が確かめるように言った。
「そう・・わざわざ、そう言う日を作ってるのは、普通の取引がアンフェアってことでしょ。アフリカや東南アジア、南アメリカの地域は、日本やアメリカやヨーロッパへ産物を輸出することで国を豊かにしようとしているんだけど・・それがフェアがないの。新興国の中でも、貧富の差があって、貧しい人達はますます貧しくなるばかりなのよ。」
千波は、海外へ何度も旅行している。そして、その眼でおそらく厳しい現実も見てきたのだろう。
「で?そのフェアトレードと千波とどういう関係になるの?」

3-5 フェアトレード [命の樹]

加奈は、千波の言いたい事の大方の予想はついていたが、敢えて尋ねた。
千波は、三人の顔を改めて見て言った。
「私、フェアトレードの仕事をしたいの。」
「そんな簡単にできるようなものじゃないでしょう?」
ようやく話が初めに戻った。
「去年、ヨーロッパを回った時に出来た友達の一人でね、ドイツの女の子が始めたの。アフリカの少数部族が作っている工芸品をネットで販売してるのよ。・・そしたら、オランダとイタリアの友達も、ネットを使って手伝い始めて・・千波も、日本人向けの窓口をやらないかって誘われてたんだ。でも、ちょうど就職も決まったところだったからその時は断ったの。」
千波の選択は至極まともだと加奈は納得して聞いていた。
「先月、メールが届いたの。それにはフォトファイルが添付されていて、開いたら、アフリカの部族の写真だったの。そして、メールには、『千波の財布には、今、幾らのお金が入っていますか?おそらく、そのお金で彼らは1年以上暮らせるはずです』と書かれていたの。」
そこまで聞いて、哲夫が口を開いた。
「確かに、きっと日本は豊かすぎるんだろうね。その中に生きてると自分たちが豊かだってことを忘れてしまう。もともと、資源も何もない国が、戦後、これほど豊かになったのは、もちろん、先人たちが弛まぬ努力をしてきたからだろうが・・一方で、新興国からの卑劣なほどの搾取もあったはずだ。いや、日本だけじゃない。先進国と言われている国々は、少なからず、新興国から富を収奪してきたはずなんだ。」
「だからって、それを千波がやらなければならない道理はないでしょ?」
加奈は、哲夫が余りにも評論家のような口調で話す姿に、苛立ったように言い返した。
「いや・・そうだが・・でも、千波の考えは間違っていない。フェアトレードって言うのは、慈善事業じゃない。一方的に施すわけじゃないんだ。生産と消費が対等な立場で取引を行う。当たり前の事業なんだよ。」
「じゃあ、もっと大きな企業が積極的にやるようにすべきじゃない。・・いや、少なくとも、個人がやる様な事じゃないでしょ?」
「・・確かに、大企業も最近は少しずつ広げてきているさ。でも、企業はやはり利益を求めるのさ。少しでも高品質なものをできるだけ安く買い入れて、高く売って利益を生む事が企業の本質さ。だから、本当の意味でのフェアトレードっていうのは、企業では難しいんだ。」
「そんな難しい事、千波にできるわけないじゃない!」
加奈は食って掛かるように言う。
「いや、そんなことないさ。きっとこれからは、千波たちみたいな若い世代が、新しい価値観で、思いもつかないことをやるはずさ。お父さんは千波のやろうとしていることには賛成だよ。」
哲夫の言葉に千波は笑顔になった。
「もう!・・・あなたはいつも千波に甘いんだから・・。ううん、無責任よ!」
「無責任ってことはないだろ?」
「いいえ、無責任なの。本当に千波の事を大切に考えるなら、もっと堅実な生き方を教えるべきよ!あなたがそんなだから、千波がこんな突拍子もない事を言い出すんでしょ?」
「突拍子もないって・・。」
哲夫と加奈が言い争う様子に、千波はテーブルをバンと叩いて立ちあがった。

3-6 加奈からの条件 [命の樹]

「そう・・判ってる。判ってるのよ。」
千波も、加奈の苛立ちが移ったように、きつい口調で言う。
「・・でも、心がね・・何かやらなくちゃって叫ぶの。」
千波はもう少しで涙を溢しそうな表情になっていた。
「小さなことしかできないかもしれない、でも、私にできることがあるなら、やるべきだって・・。」
千波の言葉は、震えていた。悩みぬいた上での結論に違いなかった。
加奈は千波を睨み付けたままだった。

「お母さん、実は、私、少し前に千波から相談されていたの。その時、私も強く反対したの。」
見かねた美里が、口を開いた。
「もっと現実を考えて、お父さんやお母さんの期待・・いいえ、少しでも安心させてあげてって・・ちゃんと就職して、自分の力で生きていけるって言うところを見せるのが、今は一番じゃないかって・・。」
美里は大学を卒業して、加奈と同じ福祉の道に進んだ。堅実な生き方を美里は選んでいた。加奈は、美里がそう言う道を選んだことを少し誇らしく思っていた。
「それで、千波も一度は考え直したみたいだったんだけど・・でも、やっぱり、自分に嘘をつくことができないって。随分悩んだみたいなのよ。」
「だからって・・」
加奈は眉間に皺を寄せて言った。
美里はさらに続けた。
「千波はいつもそう。自分で選んだことはとことんやる性格よね。話を聞いているうちに、千波にはそう言う生き方もあるんじゃないかって思えてきたのよ。・・ねえ、お母さん、きっと千波なら、ちゃんとやり遂げるわ。信じてあげて。」
加奈は、美里の言葉を聞きながらも、そのまま、千波を見つめていた。
「千波の頑固さは、加奈に似てるからね。きっと大丈夫だよ。」
哲夫も言う。
加奈は、哲夫と美里の顔を見た。表情は硬いままだった。

しばらく、加奈は考え込んだ。
そして、何か確信したように口を開いた。
「それは、東京じゃなきゃできないことなの?」
「え?」
「その仕事って、東京にいなきゃできないような事なの?」
加奈は、少し穏やかな口調に変わっていた。
「ううん・・・・たぶん・・ネットを通じて情報を得られれば、東京じゃなくてもできるとは思うけど・・。まあ、海外に行くこともあるとは思うけど・・・」
千波は、余り確信のある返答はできなかった。


3-7 千波の気遣い [命の樹]


加奈は、千波の返事を聞いてから、改めて、千波の方へ向き直って言った。
「わかったわ。千波の好きにしなさい。でも、一つだけ条件があるの。」
「条件?」
「そう。大学を卒業したら、東京暮らしは止めて、ここへ戻って来なさい。」
「ここ?」
「そう、この家にいれば、とりあえず収入がなくても生きていけるでしょ?家の仕事も手伝うという条件なら、あなたの好きな事をやればいいわ。」
加奈の思わぬ言葉に、千波と美里は驚いて顔を見合わせた。
「ほんとに?」
千波が確かめる。
「ええ・・東京にいたんじゃ、何かと心配だし・・もう、心配するのはたくさんよ。」

それを聞いて、美里が言った。
「お母さん、実は、私、家に戻ってくればいいじゃないって千波に言ったのよ。」

本当に美里と加奈はよく似ている。似ているからだろうか、美里が小さかった頃は、加奈は随分と美里を厳しく育てていた。大喧嘩も幾度もしていた。時には取っ組み合いの喧嘩にもなったことがある。それに比べて、千波はほとんどかなと言い争う事さえなかったと哲夫は記憶している。おそらく、千波は加奈が嫌悪感を覚えるようなことを先に察して避けるような生き方を選んできたのではないだろうか。
母と娘というのは不思議な関係だと哲夫は常々感じていた。今回も、美里の考えは結論的に加奈と同じだったのも、そう言う不思議なつながりではないかと感じられた。

「お父さんの体の事もあるし・・安心じゃないかって・・。まさか、お母さんが同じこと言うなんて・・。」
美里は驚いた表情のまま、加奈に確かめるように言った。
美里が、つい、哲夫の病気の事を口にしたのを加奈は咎めるように答える。
「お父さんの病気は関係ないでしょ?それに、お父さんは随分良くなってるの。心配しなくても良いくらいなんだから。」
美里は少しばつの悪そうな顔をした。

「まあ、千波が戻ってくれば、哲夫さんは一番安心でしょうけど・・。」
加奈はそう言って哲夫の顔を見た。
哲夫は苦笑いをした。
「ありがとう、お母さん・・。」
千波は、今まで溜めてきた思いが一気に噴き出すように、涙を溢していた。
「昔っから、千波は言い出したら聞かない子なんだから。」
毎年の正月の恒例行事が、今年は随分と重たいものとなった。
「もう・・千波の事で疲れちゃったわね・・続きは後にして、初詣に行きましょ。」
加奈が涙を拭いながら立ちあがった。


3-8 初詣 [命の樹]

4人は、店のすぐ下のある神社へ初詣に行くことにした。
石段を降りたところが、神社の境内へ続く参道となっている。小さな小さな村社で、この町の人くらいしかお詣りには来ない様なところである。
4人が鳥居をくぐり、境内に入ると、晴れ着を着た子どもの姿があった。
「あっ、てっちゃんだ!」
そう言って、駆けてきたのは、ユキエだった。
「ユキエちゃん、明けましておめでとう。」
哲夫が言うと、ユキエも同じように「あけましておめでとう」と挨拶を返した。
「やあ、これは倉木さん。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
金原が挨拶した。

サチエとユキエの姉妹は晴れ着を着ている。それを見て、美里が言った。
「ねえ、私たちの子どもの頃みたい。」
「ほんと、お姉ちゃんと私もこうやってお正月に晴れ着を着たことがあったよね。可愛い!」
「おめでとう。サチエちゃんとユキエちゃんよね?」
美里がしゃがみこんで挨拶する。
「お姉ちゃんたちは、てっちゃんの子ども?」
ユキエが訊く。
「うん、そう。美里と千波よ。よろしくね。」
サチエもユキエも笑顔で答える。
「あれ?郁子さんは?」
哲夫が訊くと、サチエが少し深刻そうな表情で答えた。
「ちょっと具合が悪いって、家でお休みしてます。おなかの赤ちゃんが悪戯してるみたいで、きっと、男の子だろうって、お母さんが言ってました。」
サチエの答えに驚いて、哲夫は金原を見た。金原は、苦笑いしながら答えた。
「いえ・・具合が悪いんじゃありませんよ。具合が悪くなるといけないから休んでおくように言ったんです。もう少し、安定期に入れば大丈夫ですから。」
「そうですか・・良かった。いや・・郁子さんの体調が悪いじゃなくて・・。」
「それにまだ、男とかどうかは判りませんから。弟が欲しいっていつも二人が言ってるから、郁子もそれに答えて話しただけですよ。まあ・・男の子だと私も嬉しいですけどね。」

哲夫たちは、金原を見送った後、社にお詣りした。柏手を叩き、拝礼をし、願を掛ける。
「ねえ、何をお願いした?」
加奈がみんなに訊いた。
「そういうお母さんは?」
美里が訊き返した。
「それは決まってるわ・・みんなの健康よ。」
「ふうん。私は、今年、チャレンジする事が絶対成功するようにお願いしたわ。」
千波が答える。

3-9 願掛け [命の樹]

「千波、願掛けってのは自分の得になるようなことは駄目なんだよ。神様はそういう個人的な事は聞いてくれないんだってさ。」
「それって、なんだか、前にも聞いたような気がするわね。」
加奈がからかうように言った。
「お父さん、良く聞いて。私がチャレンジするのは自分の得になることじゃないでしょ?だから、神様は願いを聞いて下さるに決まってるの。」
「ほう・・そうか・、そうか、・・そうでした。」
哲夫はちょっとおどけて答えた。
神社を後にして、家に戻る石段を登りながら、ふと、美里が哲夫に訊いた。
「ねえ、お父さん、男の子欲しかった?」
千波も言う。
「そうよね。きっと男の子も欲しかったよね?」
加奈がちらりと哲夫を見る。少し哲夫を試すような目つきだった。
「そうだなあ・・・どうだろうな?・・お前たちは弟とかお兄さんとか欲しかったかい?」
「そうね、私は可愛い可愛い弟が欲しかったわ。」
千波が言う。
「ええ?私は素敵なお兄さんが欲しかった。」
美里が言う。
「ふうん・・そうか。じゃあ、不細工なお兄さんとか、生意気な弟ならどうだったかな?」
美里も千波も少し答えに困ったようだった。
すると加奈が言った。
「いいえ、男の子だったらきっと、格好いい、利口で、素直なイケメンだったはずよ。私、そんなイケメンな息子と腕を組んで歩きたかったなあ。」
加奈は時々変な事を想像できる能力を持っているようだ。そんなイケメンな息子ができるはずなどないだろう。半分は俺の遺伝子を持ってるんだからと哲夫は自虐的な思いを浮かべてしまっていた。
「ねえ、お父さんはどうなの?やっぱり男の子が欲しかった?」
今度は千波が訊いた。
「いや、そんなふうに思ったことは一度もないよ。」
石段をゆっくり上りながら哲夫が言う。
「そんなことないでしょ?ほら、男の子が居れば、一緒に釣りしたり、キャッチボールしたりできたじゃない。」
「お前たちだって、釣りはやったじゃないか。千波はソフトボール部に入るからってグローブ買ってキャッチボールもしたしな。別に、男の子じゃなくてもできただろ?」
「何だか、お父さん、負け惜しみ言ってるみたいよ。」
美里が言う。
「負け惜しみって、言葉が間違ってるだろ?別に男の子が居ないからって、誰に負けるんだ?」
「そうよ。それを言うなら、やせ我慢っていうの。」
千波が言う。
「それもちょっと違うよ。別に我慢もしていないし、充分、お前たち二人で満足です。」
「ほんとかなあ?」
千波が哲夫に腕組みをして甘えるように言った。

3-10 哲夫の本心 [命の樹]

石段を登りきったところで、一息ついた。やはり、哲夫の体力は随分落ちているようだった。
「大丈夫?」
加奈が心配そうに訊いた。
「ああ、大丈夫さ。」
4人は部屋の中に入った。哲夫は赤いソファに少し身を横たえるようにして座った。
「はい、コーヒー。」
美里がコーヒーを運んできた。
「ああ、ありがとう。」
哲夫は一口啜ると、ようやく答えが見つかったかのように言った。
「男の子が欲しいって思わなかったのには、ちゃんとした理由があるんだよ。」
それを聞いて、美里と千波が哲夫を挟むようにして赤いソファに座った。加奈は厨房でそっと聞き耳を立てているようだった。
「ひとつは、自分に似た優柔不断で情けない男の子になるんじゃないかって思うと、ちょっと怖かったんだ。苦労するだろうしね。」
千波がちょっと笑って言った。
「優柔不断ってのは確かかもね・・でも、情けないことはないでしょ、きっと。」
隣で美里も頷いた。
「それともう一つ。」
哲夫はわざと勿体つけるような言い方をする。
「もう一つって、なに?」
千波がせっつくように聞いた。
「お前たちももう大人だ。そろそろ結婚する相手もできるだろ?」
「私はそれどころじゃないわ!」
千波が言う。美里は少し戸惑うような表情を見せる。
「ほら、よく考えてみな?お前たちの結婚相手は、お父さんにとっては息子ということになる。だから、お前たちが結婚すればおのずと息子が二人できるわけだ。それも、お前たちが選びに選んだ男ならきっと素敵な息子に違いない。・・イケメンかどうかは判らないがねえ。」
「そうかあ・・そういう考え方もあるよね。」
千波はまったく自分とは縁遠い話のように感じて気楽に答えた。
「じゃあさあ、お父さん。私が、外国の男の人を結婚相手に選んだらどうする?」
千波が言う。
「へえ、それも良いねえ。できれば、眼の青い背の高い外国人ってのが良いかな?きっと、毎日、驚きの連続だろうな。日本の風習とかもたくさん教えてさ。誰よりも日本人らしい外国人の夫です、なんて楽しそうだなあ。」
「座禅なんかも教えてさあ・・坊主頭にしちゃったりして・・。あははは。」
千波と哲夫は随分と馬鹿げた話をして笑っている。
だが、美里はさっきから急に表情がこわばっている。
「二人で馬鹿話してるんじゃないわよ。」
加奈が窘めるように言って、ソファの前の椅子に座った。


3-11 美里の決心 [命の樹]

「でも、私は外国人は反対よ!できれば、慎重180センチ以上でシュッとした顔つきのイケメン日本男児にしてよね。涼しげな眼をして、加奈さん、なんて呼ばれてみたいわ。」
「なあに、結局、お母さんが一番変でしょ?」
千波はけらけらと笑いながら言った。

「あのさ・・」
ソファに座って硬い表情だった美里が口を開く。
「ん?どうした?」
哲夫が訊いた。
千波が美里の表情を見て、気づいた。そして、慌てて美里の手を引っ張って立ちあがった。

千波は、美里を階段のところまで引っ張って行ってから小さな声で言った。
「お姉ちゃん、今、言うの?」
「うん。そのつもりだった。」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫。それに・・明日の約束だから。今日のうちにちゃんと話しておかないと。」
「そう・・判った。」

二人はふたたび、ソファのところに戻ってきた。千波は哲夫の隣に座ったが、美里は加奈の隣の椅子に座った。
「あのね、お父さん。お母さん。会ってもらいたい人が居るの。」
「会ってもらいたいって?」
哲夫が尋ねる。
「そうなの。私、結婚したいの。さっきお父さんが言ってた、息子になる人に会って貰いたいのよ。」
哲夫は加奈を見た。
加奈は静かな表情を浮かべている。おそらくある程度話は聞いていたのだろう。
大学を出てもう3年近くになる。そろそろそういう時期ではあるが、やはり哲夫は動揺していた。いつかはそう言う日が来ると考えていたが、まだまだ先の事とぼんやりとイメージしていた程度だった。いざ、娘から真顔で切り出されてしまうとどう反応してよいのか戸惑ってしまった。
「すごく良い人なんでしょ?」
哲夫が戸惑っている様子を見て、千波が話を進めようとした。
「うん。同じ職場の人。真面目だし、結構みんなから頼られる存在なの。優しいし、几帳面だし。」
「そうか・・・。」
哲夫はどう反応していいか、いまだにわからないままだった。というよりも、美里の言い方が余りに一般的で、どういう男なのか、具体的に想像できなかったのだ。
真面目で頼られて、優しくて、几帳面・・優等生という形容詞しか出てこない。
学生服でも来てるんじゃなかろうかと思えて、紙は七三にでも分けていて、黒縁メガネじゃなかろうな、そんな男で大丈夫なのかと思ってしまうのだった。


3-12 残された時間 [命の樹]


「とにかく、一度連れて来なさい。会ってみなくちゃなんとも・・。」
哲夫はとりあえずそう言うほかなかった。
「そう。会ってくれる?」
美里の表情が一気に安心したように見える。
「ああ・・」
「実は、明日、挨拶に来ることになってるの。良いよね?」
「あした?」
哲夫は加奈を見た。どうやら、加奈はそのことも承知しているようだった。
哲夫は、もはや逃げることができないと悟った。
「ちょっと休んでくるよ。」
哲夫はソファから立ち上がり、2階の部屋へ引っ込んでしまった。

「ねえ、お父さん、大丈夫かな?」
千波が2階に上がる哲夫の姿を目で追いながら加奈に訊いた。
「ちょっとショックだったのかもね・・まあ、大丈夫でしょう。心配なら、千波が傍にいてあげて。」
千波は立ち上がって、哲夫の後に続いて2階の部屋に行った。

店の中に残った、加奈と美里はもう一杯コーヒーを飲みながら、2階に時々目を遣り乍ら話した。
「美里、彼にはお父さんの病気の事は話してあるの?」
加奈が言うと、美里は少し顔を曇らせて言った。
「ええ・・そんなに詳しくは、話してないけど・・一応、深刻な病気でそれほど長くは生きられないって・・。」
加奈はため息をついた。
「それで、彼は?」
「それなら、できるだけ早く式を挙げようって。」
「そう・・」
加奈は少し躊躇いがちに答えた。
「良い人なのよね?」
加奈はもう一度確かめるように訊いた。

2階の部屋に戻った哲夫は、静かにベッドに身を横たえた。
天井を見つめて、ぼんやり浮かんでくるのは、美里がまだ幼稚園に上がる前の頃の光景だった。
住んでいた小さなアパートの敷地の中にあった砂場で、一人で遊んでいる。久しぶりに早く帰宅した哲夫を見つけ、「おとうさん」と叫びながら嬉しそうに駆け寄ってくる姿だった。
「知らぬ間に大人になったみたいだな・・。」
哲夫は小さく呟いた。
ドアがノックされた。
「お父さん?大丈夫?入るよ。」
そう言って、千波が入ってきた。

3-13 父と娘 [命の樹]

「苦しいの?」
千波は哲夫を気遣いながら、そっとベッドの脇に腰かけた。
「いや・・大丈夫だよ。・・ちょっと怠い感じはあるけど・・。」
「酸素ボンベとか・・お薬は?」
千波は以前に哲夫の発作を目の当たりにしたことがあった。その時は、気が動転して一体どうすればよいか判らなくて、立ち尽くし、自分は無力だと痛感していた。
千波は、その後、結から部屋にある医療器具の扱い方を教えてもらっていて、すぐにも用意しようとしていた。
「いや、大丈夫だ。要らないから・・。」
少し沈黙があった。

「ねえ、おとうさん、・・・お姉ちゃんの・・結婚って・・ショックだった?」
千波が、哲夫の心中を察して控えめな声で尋ねる。
「いや・・そんなことはないんだ。・・いずれ、お前だって結婚するだろ・・それは、お前たちが生まれた時から覚悟していることなんだから。」
「そうなの?」
千波は、哲夫の言葉が真実なのか疑うような返事をした。
「本当だよ。いずれは、それぞれ結婚し、家庭を作って、子どもが産まれて・・・そうやって命は続いていくものなんだから。嬉しい事なんだよ。」
「でもお父さん、余り嬉しそうじゃないみたいだけど・・。」
「いや、本当に・・嬉しいんだ・・だが・・・。」
「だけど・・何?」
千波の尋ね方はどこか加奈に似ているなと感じながら、哲夫は答えた。
「もう・・そんな歳になったんだなあって・・・何だか、急にお爺さんになったみたいで・・時間が経つのは早いなあって・・」
その先の言葉を哲夫は口にできなかった。千波は、哲夫の言いたい事がすぐに判った。
時間の経過は、哲夫が確実に死に近づいているという事であった。
残り時間はそう多くないだろう。加奈と二人で暮らしている時は毎日が同じように繰り返されているようで、ゆっくりとした時の流れの中に居られるように感じているが、こうして、幼かったはずの娘が大人になったのを目の当たりにすると、残された時間が急に少なくなってしまったように感じたのだった。

「間に合えば良いんだが・・・。」
哲夫は不用意な一言を漏らしてしまった。
「間に合えばって・・どういう事?お姉ちゃんの結婚式まで生きていられないっていう事?」
千波は今まで抑えていた感情を爆発させるように言った。
「お姉ちゃんだけじゃなくて・・私の結婚式だってまだあるんだからね!・・間に合うかなんて、言わないでよ!」
千波は涙を流しながら、哲夫に縋り付いた。
「すまない・・。」

3-14 美里の彼 [命の樹]

14. 美里の彼
翌日、昼前に、美里の彼が《命の樹》にやってきた。
少し似つかわしくないグレーのスーツ姿で、白いシャツに渋い柄のネクタイをしている。髪は短く切り揃えられている。いわゆるイケメンの部類ではない。どちらかというとジャガイモという顔つきだが、その分、誠実さが感じられた。
加奈と美里が出迎え、店の一番明るい席に案内した。彼は椅子に浅く腰掛け、背をぴんと伸ばして、かなり緊張している。
「コーヒーでも飲む?」
美里が緊張をほぐそうとして、わざと普通に声を掛けた。
彼は、「はい」と短く答えた。視線はじっと前方に向けたまま、一体何を見ているのかわからないが、とにかくまっすぐ前を見ている。
「そんなに緊張しなくていいわよ。」
加奈も彼の様子を見て、余りにも気の毒に感じて優しく声を掛けた。
「いえ・・・いや・・はい、大丈夫です。この方が楽なんです。」
出されたコーヒーをそのまま一口飲んだ。ちょっと顔つきが歪んだ。
「砂糖もミルクも入れてないよ?大丈夫。」
美里は、彼が普段、相当の甘党なのを知っていた。ブラックのコーヒーが飲めるはずがない。彼がちょっと情けない表情をした。

千波は、厨房からそんな彼の様子を見ていた
「大丈夫かな?あんなに緊張してるけど・・・。」
千波は、加奈に頼まれて、ショッピングモールまで車で出掛け、シュークリームを買ってきた。それを、小皿に分けながら、哲夫が彼を見てどう反応するかを想像して、くすっと笑った。

2階から、哲夫が降りてくる音がした。彼は一層緊張し、少し、視線が落ち着かなくなっている。
哲夫は、1階に降りると、店の中をちょっと見渡した。それから、厨房にいた千波を見ると、千波が何か哲夫の表情の変化を楽しみにしているのが判り、ちょっと眉をひそめた。

店のテラス側の一番陽当たりの良い席に、美里と彼が並んで座っている。向かい合うように加奈が座っている。哲夫が席に近づくと、彼がやにわに立ち上がった。その拍子に、テーブルにぶつかって、コーヒーが零れた。
「何やってんのよ!」
美里が彼をなじるように言った。
「すみません!・・。」
彼は、慌てた様子で、テーブルに広がるコーヒーを何とかしようとしている。
「千波、布巾!」
哲夫が千波から布巾を受け取り、テーブルをさっと拭いた。喫茶店のマスターとしては至極当然の動きだった。そして、布巾をいったん厨房に持っていき、コーヒーサーバーとカップを持って再びテーブルに戻ってきた。そして、無言のまま、4人分のコーヒーをカップに注いだ。
その間、彼はずっと立ったまま、哲夫の動きを見ていた。


3-15 哲夫の質問 [命の樹]

15. 哲夫の質問
「さあ。どうぞ。」と言いながら、哲夫は、椅子に座った。
「は・・はじめまして・・・・稲葉信一です。」
彼はそう名乗ると腰を直角に曲げて頭を下げた。
「何か・・スポーツをやっていたのかい?」
哲夫はいきなり質問した。彼は少し面食らったようだった。
「あ・・すまない。・・その礼の仕方が・・体育会系かなって・・。」
「野球をやってました。甲子園には行けませんでしたが・・地区では準優勝しました。」
「ほう・・ポジションは?」
「ショートでした。打順は7番でした。長打は少なかったんですが、出塁率はチーム1でした。」
「足が速かったのかな?」
「ええ・・中学校までは陸上部で、短距離の選手でした。高校で野球を始めたんです。」
「大学は?」
「入学してすぐ軟式野球部に入りましたが、腰を悪くして辞めました。」
哲夫は彼の答えを聞きながらコーヒーを一口飲んだ。
「美里と同じ職場なんだよね。体力のいる仕事だろ?腰は大丈夫なのかい?」
「もう心配ありません。毎日、筋トレもやってますし、介護の現場は、それほど力を使う仕事じゃありません。コツをつかめば筋力を使わずに、体位変換とか移乗もできるんです。ちゃんと技術を身につければ良いんです。」
彼の言葉には確かな自信が感じられた。
「どうして、介護の仕事を?」
哲夫は深く考えずに次の質問をした。彼は何か戸惑っているようだった。少し考えてから答えた。
「福祉の大学を卒業しましたし、学んだことが生かせる・・という事でしょうか?」
急に彼は自信の無い返答になった。何か、専門の大学を出てその道に進むのに理由が必要なのだろうかというような返答だった。
「じゃあ・・どうして、福祉の大学へ入学したんだい?」
哲夫が質問を変えた。
「それは・・おばあちゃんの・・いえ、祖母の事があったからです。ちょうど、大学受験の頃、おばあちゃん・・いえ、祖母が倒れて介護が必要になったんです。でも、父も母も仕事が忙しくてなかなか介護できなくて、僕がおばあちゃん・・いえ、祖母の介護をして・・それで介護の事を学ぼうと思ったんです。」
彼の口から、何度も、おばあちゃんという言葉が出た。相当なおばあちゃん子に違いない。おそらく、彼の真面目さは、祖母の影響なのだろう。哲夫もおばあちゃん子だったから、どこか同感するところがあった。
「それで・・おばあちゃんは、今は誰が介護されてるの?」
哲夫は敢えておばあちゃんという言葉を使った。
「はい、おばあちゃんは、今は元気になって何でも一人でできるようになりましたから、介護は必要ありません。」
「そう・・元気になられたんだね。良かった。」
「はい。」
彼は満足そうに笑顔を見せた。


3-16 決意の言葉 [命の樹]

16.  決意の言葉
「ねえ、お父さん、さっきから、会社の面接官みたいよ。」
美里が横から口を出した。
「そうかい?」
哲夫は、会話をしないのはからも緊張するだろうと気を使って、敢えて、質問をしたのだったが、美里にはそういう風には見えていなかったのだった。
哲夫は美里に言われてしまって、会話のすべを失ったようで、しばらく沈黙した。

「ねえ。」
美里が、稲葉信一の背を突いた。
信一は、美里の顔を見た。美里は顎を突き出すようにして、信一に話をするように催促した。信一は、一度うつむいて、話すべき言葉を何度も確認しているようなそぶりを見せた。そして、顔を上げると、深呼吸をした後で、「あの・・」と切り出した。
いよいよ本題に入るところだ。
「お父さん、お母さん。」
なんだか絞り出すような声だった。
哲夫は、お父さんと呼ばれて、かなり戸惑った表情を見せた。加奈は哲夫の横でにこにこしている。
「美里さんと・・結婚させてください。」
信一の視線はまっすぐ哲夫に向いていて、強い決意を感じられた。
哲夫が、隣の席の、美里の顔を見ると、実に幸せそうな表情を浮かべている。
仕事も真面目にやっていて、皆からも頼りにされていると聞いた。ここへ来た時も、実に礼儀正しく、むしろ真面目すぎるほどの態度であった。文句のつけようのない男に違いなかった。反対する余地などない。いや、この先そう長くは生きられない自分には、娘の花嫁姿を見ることができるのはきっと幸せに違いない。それを考えて、急いでいるに違いないと哲夫は考えるに至った。
「私の病気のことは聞いているかい?」
哲夫の問いに、信一が少し躊躇いの表情を見せた。
「ええ・・おおよそは美里さんから聞いています。」
「そうか・・。」
しばらく哲夫は沈黙し、コーヒーを何口か飲んだ。
「一つ、確認しておきたいことがある。」
哲夫は少しゆっくりと話した。
「私は、そう長くは生きられないだろう。・・・・いや、それを望んでいるわけじゃない。だが、残念ながらそれが現実だ。だからと言って、いろんなことを急ぐことはないとも考えている。誰だって、自分の寿命がいつまでかはわからない。たとえ、今、病気でなくても、事故で命を落とすことだってある。残り時間なんて誰にもわからないだろう。ただ、私の体は病気に蝕まれていて、いつ急変してもおかしくない状態だから、やパリ、他の人より長く生きられない事は明らかだ。」
哲夫は少し回りくどい言い方をしている。
「確認しておきたいのは・・二人が結婚を決めたのは、決して私の病気とは関係ないのだという事なんだ。・・先がないから、早く結婚して花嫁姿を見せようと焦っているんじゃないかと心配してるんだよ。」
美里と信一は顔を見合わせた。

3-17 迷い [命の樹]

「二人が出会ってから、それほど時間は経っていないんだろう?互いの事をしっかり理解しているのか、勢いで結婚を決めていないかとね。・・この先、二人で暮らして後悔はしないかと・・。」
信一は戸惑っている。
確かに、哲夫の病気の事を聞き、早く結婚して安心させようと言ったのは事実だった。美里も、その事も含めて今日、彼をここへ呼んだ。
「親孝行したいという気持ちは嬉しいが・・親としては、美里が本当に幸せに生きられるかどうかの方が大事なんだよ。一時の気持ちで結婚できるほど甘いもんじゃない。だから、じっくり考えてほしいんだ。そういう・・なんて言うか・・覚悟のようなものがあるのかどうか・・。」
二人はすぐに答えることができなかった。
哲夫は続けた。
「信一君、君の事が気に入らないんじゃないんだよ。むしろ、こんなわがままな娘と結婚しようと心を決めてくれたことには感謝している。だが、結婚は一生の問題だ。私の事など関係なく、考えてもらいたいんだ。」
哲夫はそれほど保守的な考え方をしているわけではなかったはずだった。だが、今日は妙に説教臭い話をしている。自分でも可笑しいくらい、まるで、随分昔に亡くなった祖父が乗り移ったようだった。
「哲夫さん・・そんなに難しく言わなくても・・二人は十分に判っているはずよ。」
加奈が、二人に助け舟を出した。
「ああ・・そうだろう。だが・・・。」
哲夫は自分でも何だか矛盾を感じながらも続けた。
「手放しで・・認めるのも・・・誰かが、くぎを刺すような事を言うべきじゃないかって・・ね。」
じっと話を聞いていた、信一が口を開いた。
「忠告はしっかり受け止めます。確かに、まだ、僕たち二人の中には、そんなに確信めいたものはありません。幸せになりたい、一緒になりたいって互いの気持ちを確認しただけです。」
「そんな・・・。」
美里が少し驚いた顔をした。
信一は美里の顔を見て言った。
「でも、僕たちは結婚します。僕にとって、美里さんは何にも代えがたい存在です。初めてあった時からそう確信していたんです。・・確かに、お付き合いを始めてからはまだそれほど、時間は経っていません。でも、僕の中では、彼女の存在を知った時から、もう随分長い時間が経っているんです。」
先ほどここへ来た時とは別人のように、自信に満ちた表情で信一はきっぱりと言った。
「そうか・・。」
哲夫は、信一の心がすでに決まっていることを確認できたようだった。
「幸せになりなさい。だが、結婚式を急ぐことはない。まだ、大丈夫だから。」
信一の隣で、美里は涙を溢している。

「ねえ、話が纏まったんなら・・お昼にしようよ。」
厨房の奥でじっと様子を伺っていた千波が少しすっとんきょうな声で言った。
「そうしましょう。ねえ、哲夫さん、サンドイッチにしましょう。パンは朝、焼いておいたから。」
「そうかい・・じゃあ、久しぶりだが・・作ろうか。」
信一も交えて、哲夫の作ったサンドイッチとコーヒーで楽しく昼食を摂った。


3-18 付き添い看護士 [命の樹]

美里はその日のうちに、信一と一緒に帰った。千波も三が日を過ごして、早目に、東京へ戻った。
久しぶりに、夫婦二人の時間が訪れていた。年末年始と、何かと慌ただしく過ぎたように感じていたが、いざ二人きりになってみると、ぽっかりと穴が開いたような感覚だけが残ったようだった。
「何だか、怠いな・・。」
哲夫が、テラスから日差しが差し込む温かい席に座って、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ・・お店を再開するんなら、結ちゃんに診察を受けておきましょうよ。」
加奈の言葉に哲夫も同意し、すぐに結がやってきた。
結は、見慣れない女性を連れていた。
背丈が随分高く、スタイルも抜群で、長い髪を一つに縛っている。彫りの深い顔立ちをしていて、モデルのようだった。
看護士といっても、往診は周囲にばれないようにするため、白衣は着ておらず、シックなワンピースを身に着けている。結もそれなりに美人で、この町ではかなり目立つ存在だったが、看護士の彼女はさらに目立つに違いなかった。
「看護士の金山さんです。」
結はそう紹介しただけで、すぐに診察を始めた。
「少し疲れが出たようですね。注射で少し様子を見ましょう。どこか痛い処とかありませんか?」
「ああ、大丈夫だよ。」
「そう・・新しい薬の効果が出ているみたいですね。胸の音は随分良くなっています。苦しくはないでしょう?」
結は哲夫に訊いた。
「ああ・・良いみたいだ。だが・・ちょっと、薬の量が多くて、飲むのに苦労するんだよ。」
「あら・・飲むのに苦労なんて・・そんな余裕の発言ができるなんて・・相当、効果があるみたい。幸一さんに伝えておかなくちゃ。」
診察を済ませると、結とその看護士は、今度は喫茶店の客となった。
「まだ、お昼済ませてなかったんです。サンドイッチ、できますか?」
結が訊いた。
先ほどまで患者だった哲夫が、厨房でサンドイッチを作り始める。何だか不思議な光景だった。だが、それ以上に、加奈は、看護士の事が気になってならなかった。
「あの・・結さん、看護士の金山さん・・でしたっけ。いつから水上医院に?」
「あ、すみません。紹介が遅れてしまったわ。・・ええと・・彼女は、金山ヒカルさん。今月からうちの病院で、働いてもらうつもりだったんですけどね・・。」
そこまで言ってから、結はちらりと隣に座っている看護士を見た。
看護士の金山に何か確認したようで、こくりと頷いた。
「実は、彼女。しばらく、こちらで働かせていただけませんか?」
加奈も哲夫もびっくりした顔をしている。
「だって・・看護士さんなんでしょ?それに、うちはそんな人を雇う必要もないくらい、暇なんだから・・結ちゃんだって知ってるでしょ?」
加奈の反応に、結は、真面目な顔に戻って言った。
「実は、彼女をおじさんの付き添い看護士として置かせていただきたいんです。」
「そんなの、聞いたことないよ。」
哲夫は驚いて言葉を発した。加奈も同様だった。


3-19 結の説得 [命の樹]

19. 結の説得
結は、二人に向かって説得するように言った。
「私、心配なんです。おじさんが急変した時、すぐに駆けつけられるようにはしているんですけど、やっぱり、すぐの処置が重要なの。加奈さんがいつも傍にいるとしても、正確な処置は難しいでしょう?・・ごめんなさい。加奈さんが無力だって言ってるわけじゃないんですよ。」
加奈は、結の言葉に先日の急変の時、なす術なく、傍で狼狽えるしかなかった自分を思い出していた。
結は続ける。
「心肺停止の状態になった時、一秒でも早く蘇生処置ができるかどうかって大事なんです。・・だから、普通は入院して、24時間看護するんです。でも、ここで普段通りの生活を維持するのであれば、それなりの備えは必要でしょう。」
「だからって・・彼女をここに住まわせるって言うことなのかい?」
哲夫が訊いた。
「ええ、そうです。」
結はきっぱりと答えた。
「しかし・・そんな事・・そう、ヒカルさんにとっても負担が大きいだろう。看護士として、もっと多くの患者のために働いてもらった方が良いに決まってる。」
「いえ・・ヒカルにとっても、ここに居ることは大事なんです。」
「そんな・・ここにいて、いったい、どんな意味があるんだい?」
結は一つ深呼吸をした。
そして、何かを決断したように哲夫と加奈に言った。
「彼女は、去年の夏まで大学病院にいたんです。でも、看護の仕事に就いていませんでした。」
「看護士なんでしょう?」と加奈が訊いた。
「ええ・・。」
「何か事情でも?」
加奈が言うと、結が再び、ヒカルに、意思を確かめるような視線を送った。ヒカルが頷いた。
「実は彼女、病院内で起きた医療事故の責任を負わされてしまったんです。患者の処置で、担当医が指示した薬が間違っていて・・彼女は指示通りにしたんですが・・結局、彼女の間違いだと言うことになってしまったんです。結果、急変した患者さんは命を落とされました。」
「ヒカルさんに落ち度はなかったんでしょ?」
加奈が尋ねる。
「ええ・・でも、大学病院は医師が絶対的な力を持っています。それも、学部長クラスとなれば、大学の体面もある。ミスを隠ぺいするのは当然という空気があるんです。だから、担当した看護士に責任を取らせて終わりです。・・でも、解雇すれば、問題が公になる恐れもあり、一時的に、医療現場から外したんです。いずれ、現場に復帰させるから黙っておけっていう事です。」
「何て酷い・・。」
加奈は憤慨していた。
「でも、そんな事よりも、彼女自身が看護士としての自信を失ってしまった事が悔しかったんです。自分の処置で目の前の患者の命を奪ってしまった、この事実が看護士としての彼女の自信を奪ってしまったんです。」
結の説明に、加奈と哲夫はヒカルの顔を見た。
「時折、彼女を病院内で見かけると、精気を失い、ぼんやりとしているんです。もう、辛くて・・だから、私が開院した時、もう一度、看護士として働いてもらいたいって誘ったんです。もう一度、自信を取り戻してほしくて・・。」

3-20 二人目の居候 [命の樹]

20. 二人目の居候
「事情は分かったけど・・ここにいるより、結ちゃんの病院で働いた方が良いんじゃないかな?」
哲夫は、今一度確認するように結に訊いた。
「実は、最初は病院で働いてもらったんです・・でも・・」
結はちらりとヒカリを見てから続けた。
「初めての日でした。待合室で何人かの患者さんがいらして・・彼女が診察室に入ろうとした時、急に落ち着かなくなって、過呼吸になって・・・その場に座り込んでしまったんです。」
「どうして?」
加奈が結に訊いた。
「待合室にいたご老人の姿が、医療事故で亡くなった患者さんに見えたそうなんです。」
「彼女のミスじゃないのに?」
加奈はやるせない気持ちで言った。
「彼女は、誰よりの優秀な看護士でした。責任感も強くって・・救命にいた時も、患者さんの小さな変化に誰より早く気付くような観察力もあって、迅速に、適切な対処ができる・・本当に素晴らしい看護士だったんです。だからこそ、自分も傷つくことも多かったでしょう。精一杯、手を尽くしても助からない事もある。今回、医師の指示の間違いに気づかなかった、自分に責任があるっ手・・自分を追い込み過ぎたんでしょう。それが、心の中に深い傷を作ってしまって・・患者さんと向き合うことができなくなったと思うんです。」
結の説明を聞きながら、加奈は涙を流している。
脇でじっと聞いていたヒカル自身も涙を流していた。
「ですから、患者さんと向き合うことができるようになるために、心のリハビリが必要だと考えたんです。」
「それなら、看護士としてここにいるのは、逆効果になるんじゃないだろうか?」
哲夫が言う。
「私も迷ったんです。でも、きっとおじさんの傍に居させてもらえれば、元気になれるんじゃないかって・・私もそうでしたから。」
結は、高校生の時、暴漢に襲われた時間一髪で哲夫に助けられた。
しばらくは、見知らぬ人とは平静に話すことができなかった。その後、何度と、哲夫や加奈と接するようになって自分を取り戻すことができたのだった。同じように、ヒカルも〈命の樹〉にいることで自分を取り戻せるのではないかと考えたのだった。

「ヒカルさんはどうなのかしら?」
ヒカルは、困った表情で、結の顔を見た。
結はこくりと頷いて、口を開いた。
「お願いします。・・水上先生から、倉木さんのお話をたくさん伺いました。自分も今のままではダメだ、なんとかしなくちゃって思ってるんです。でもそう思えば思うほどに、動けなくなる自分がいるんです。・・何とかしなくちゃって・・・。ご迷惑をおかけするかもしれません。・・でも・・」
ヒカルが、必死で何かに縋り付きたい、救いの手を求めていることはよくわかった。
「判ったわ。ヒカルさん、ここに居てちょうだい。付き添い看護士とか・・そういうのじゃなくて・・しばらく、うちの居候で良いじゃない。・・私も、学校の仕事に戻らなくちゃいけないし・・傍に誰か居てくれるなら、私も安心だし。」
加奈が決断した。

3-21 4人目の娘 [命の樹]


「良いわよね、哲夫さん?」
哲夫は反対する理由がなかった。
「ああ・・付き添い看護士っていうのはちょっと戸惑うが・・居候ってことだったらいいんじゃないか?・・今までだって、健君が居たこともあるし、部屋は余ってるんだからね。それに、パン焼きの手伝いとか、店の掃除とかやってくれると僕も助かるからね。」

「じゃあ、決まり。・・ああ、そうそう、お給料はどうしたら良いかしら?」
加奈が結とヒカルに訊いた。
「それは良いわよね?」
結が改めて確認するようにヒカルに訊いた。
「ええ。」
ヒカルが答えた。
「そう、良いわ。その代り、部屋代も食事代も要らないから・・でも、化粧品とか洋服とか・・女の子なんだから、必要なものもあるでしょうから、その時は言ってね、哲夫さんが買ってくれるわ。」
加奈はなんだか急に、太っ腹のおっかさんになったような口ぶりになっていた。
「ありがとうございます。」
ヒカルが頭を下げた。
「良かった。」
結も笑顔に変わっていた。
ヒカルは、結と一緒に一旦病院に戻って、暮らしに必要なものを取りに行った。

「おい、加奈。大丈夫かい?」
片づけをしながら、哲夫が何気なく訊いた。
「大丈夫よ。娘を二人育ててきたんだもの。結ちゃんだって、娘同様だったでしょ?もう一人、娘が増えたった思えば良いじゃない。」
「ふーーん」
「それより、哲夫さん、あなたは大丈夫でしょうね?」
加奈が少し意味ありげな表情で試すように訊いた。
「何が?・・・体は、今のところ大丈夫だよ?」
「そうじゃないわよ。あんな綺麗な若い娘がずっと傍に居るのよ。変な気を起こさないでよ!」
「おいおい、そんな心配してんのかい?娘たちと変わらない年齢だぞ。いくらなんでもそんな心配するのっておかしいぞ!」
「あら、そうかしら?」
加奈には、結の事が少し頭を過っていた。
「おかしな奴だな。大丈夫だよ。僕は、加奈一筋だから。」
「本当かしらね?」
二人は、そう言いながら、ヒカルを受け入れるための準備をした。

その日の夕方、ヒカルはボストンバック一つ抱えて、《命の樹》に姿を見せた。

3-22 ヒカルの朝 [命の樹]

22. ヒカルの朝
加奈は、翌日一日かけて、ここでの暮らし方をヒカルに教えた。
健が転がり込んできた時は、店のアルバイトのつもりだったから、懇切丁寧には教えなかったが、ヒカルには自分の代わりに、ある程度、家事もやってもらうつもりで、自分の娘に教えるように丁寧に教えた。

「朝はかなり早いわよ。哲夫さんがパンを焼く日は、5時くらいには起き出してくるはず。あなたはまだ、寝てていいわよ。朝ご飯は、哲夫さんが作ってくれるから・・まあ、お店のメニューの実験台みたいなものだから、美味しくない事もあるけど・・気にしないでね。一応、洗濯やお掃除は、ヒカルさんの仕事ってことでいいかしら?」
「はい。・・あの・・加奈さん・・私の事はヒカルって呼び捨てにしてください。お客様じゃありませんから。」
「そう・・じゃあ、ヒカル・・明日からお願いね。」
「はい。」


翌日は、哲夫が起き出す前にヒカルは目覚め、着替えを済ませてから、店の掃除を始めていた。
「おはよう。早起きだね。まだ、休んでいていんだよ。」
哲夫は階段を下りると、ヒカルの姿を見つけて言った。
「ええ・・でも、お掃除しておきました。パンを焼く日は早いからって加奈さんに伺ったんです。」
「そうか・・・」
「お体、どうですか?」
「大丈夫だよ。今日は随分楽だよ。」
「結さんから、毎朝、バイタルのチェックをするようにって言われてるんです。」
「そう・・じゃあ、頼むよ。」
ヒカルは、血圧計と体温計を小さなバッグに入れて、厨房の隅においていて、すぐに支度にとりかかった。
哲夫は、窓際の席に座った。窓の外はまだ真っ暗だった。
ヒカルは手際よく、体温計を手渡し、血圧計を腕に巻きつける。小さなモーター音だけが響いている。ヒカルは哲夫の腕を取り脈拍数を数える。
その様子は確かに、熟達した看護士そのものだった。
「良いようですね。」
「ヒカルちゃんが来てくれたから、安心できるからだろうね。」
哲夫は笑顔で返した。
「でも、無理なさらないでください。」
「ああ、そうだね。・・・しかし・・・なんだか、加奈と結ちゃんとヒカルさんと3人に監視されてるみたいだな。」
哲夫は笑顔で冗談交じりにこたえると、厨房の柱にかけてあるエプロンを身につけた。
それから、冷凍庫からパン生地を取り出し、電子レンジに入れて解凍する。その間に、裏庭の釜に行き、火入れの準備を始めた。
「あの、私にも手伝わせてください。」
「そうかい?じゃあ、薪を取って来てくれるかい、そこの軒下に積んであるから。」

まだ正月。夜明け前の最も外気温が下がる時間帯だった。
裏口を出ると、寒さに身が縮んだ。
ヒカルが薪を運んでくると、火付け用に薪を小さく割り、火口に並べる。そして火をつけると、徐々に周囲の空気も温まってくるのだった。

3-23 炎 [命の樹]

「炎って、こんなに暖かいんですね・・」
ヒカルは、窯の火口から漏れる炎に、そっと手を差し出して、温める仕草を見せる。
哲夫は、火の具合を見ながら、太い薪を綺麗に積み上げる。
「今日は、それほど多くは焼かないからこれくらいでいいだろう。」
火口の蓋を少し締めて、火が安定するように調整を済ませると、哲夫は厨房に戻った。

解凍したパン生地を、適当な大きさに切り分け、何度も何度も捏ねる。ヒカルも哲夫に教わりながら、パン生地を捏ねる。
「サンドイッチ用のパンを焼くからね。さあ、この型に入れて、蓋を閉めたら、釜戸へ持っていこう。」
ヒカルは、初めて目にする事ばかりで、楽しくて仕方なかった。

「少しだけ、みかんパンも作ろうかな。」
以前に与志さんから貰ったみかんで作ったジャムがまだ残っているはずだった。
捏ねたパン生地をさらに小さく切り分けて、ジャムを混ぜていく。
「このパンはね、保育園の子どもたちには好評だったんだよ。」
ヒカルも見よう見まねで同じように生地にジャムを混ぜていく。

先日、結に連れられてここへ来たときは、随分と大人びた、大人の女性の雰囲気があったが、こうやってパン焼き作業をして楽しんでいるヒカルは、千波や美里となんら変わらない、若い娘、いや、むしろ、子供のような表情を浮かべている。
哲夫はそんなヒカルを見て、少し安心していた。

「よし、じゃあ、パン焼き釜へ持っていこう。」
大きなトレイにできたパン生地を乗せて運ぶ。
パン焼き釜の炎は随分と落ち着いていて、釜全体が温まっていた。
「さあ、入れよう。」
釜の上段の棚に、型に入った食パンとトレイに乗せたみかんパンをそっと入れる。ヒカルは興味深そうにその様子を見ていた。

「パンが焼き上がるまで時間があるから、休んでくると良い。寒いから家の中に入っておいで。」
哲夫はそう言ったが、ヒカルは動かなかった。
「ここに居てもいいですか?・・寒くないですから。なんだか、炎の傍ってとっても暖かくて、心が穏やかになって、とても幸せな気持ちになりますね。」
ヒカルは、パン焼き釜の傍に居て、じっと火の様子に見入っていた。
まだ、明けていない夜空には無数の星が光っている。ふと、見下ろすと、湖にも灯りが見える。
おそらく、源治たちの漁船の灯りに違いなかった。ゆっくりと湖面を動いていた。

急に、がさがさと足元の木々が揺れた。
窯の火をぼんやりとみていたヒカルは驚いて、哲夫の陰に隠れる。
「与志さんだよ。」
哲夫が言うと同時に、暗闇の向こうから、与志が姿を見せた。


3-24 ヒカルと与志 [命の樹]


「おはようさん・・今日から始めるのかい?」
「おはようございます。やっぱり、与志さんでしたね。パンの焼ける匂いがしましたか?」
「ああ・・この匂いはすぐに判るさ。・・おや?その娘は?」
与志さんは、哲夫の陰に隠れているヒカルに気付いた。
「・・今日から、うちで働くことになった、金山ヒカルさんです。結ちゃんの紹介でしばらくうちに居てもらうことにしたんです。」
「ふーん、そうかい。ヒカルちゃんか。」
与志は、いつもの自分の居場所になっている、椅子に座ると。それ以上尋ねようとしなかった。
「ヒカルちゃん、この人はね、すぐ下の家に住んでる、与志さんだ。何かとお世話になっていてね、この土地も与志さんのものなんだよ。困った時はいつも助けてもらってるんだ。」
哲夫が紹介すると、ヒカルはようやく落ち着いて、与志の前に出ることができた。

「お世話だなんて・・こっちは、一人暮らしの偏屈な老人さ。こうやって、話し相手になって貰えるだけありがたいんだよ。こっちの方がお世話になってるのさ。」
与志は、ヒカルの方は向かず、暗闇の広がっている方を向いている。
「ああ、そうだ、いつもの紅茶を持ってきます。ちょっと、待っててください。」
哲夫はそう言うと厨房に入って行った。

ヒカルと与志がそこに残る形になった。
「てっちゃんの傍に居るとね・・・・不思議な事に、何だか幸せになれるんだよね。」
与志はぽつりとつぶやくように言った。
「半年ほど前だったか、健君って青年が大雨の日にここへ転がり込んだんだ。働くこととか生きる事とか・・いろんなことに投げやりでねえ・・でも、ここを出ていく時には、別人のようになっていてね、溌剌と出て行ったんだ。」
与志の言葉に、ヒカルはじっと聞き入っていた。
「・・それに、自転車屋の親父なんかは病気になって閉じこもっていたんだが・・今じゃあ、外に出歩いてばかりになった。源治なんか、孫との仲を取り持ってもらったり、こん睡状態だった娘の意識が回復したり、奇跡みたいなことがいっぱい起きたんだからね。」
ヒカルは驚いた表情で話を聞いている。

「・・とにかく、てっちゃんの傍に居るとね、何だか良い方にしか行かないっていう安心感があるんだよ。・・別に、てっちゃんが特別な力があるってこともないはずなんだがねえ。」
「水上先生も同じような事を話されてました。自分も倉木さんに救われたんだって・・。」
ヒカルは初めて口を開いた。
「ほう・・そうかい。」
「それと・・加奈さんにも。」
「ああ、そうさ。てっちゃんが、ああして居られるのも加奈さんあってこそさ。お母さんみたいに何でも相談すればいい。」
「はい。」
「よし、じゃあ、ヒカルちゃん、あんたもきっと大丈夫。幸せになれるよ。」
与志はヒカルの事情を知っているわけではなかった。だが、結がわざわざここに連れてきた事から、何か事情を抱えた娘ということは想像できた。
ヒカルは小さく頷いた。

3-25 命のパンの話 [命の樹]

25. 命のパンの話
「与志さん、紅茶入れてきましたよ。」
哲夫が再び顔を見せた。
「みかんパンの方が、そろそろ焼き上がるくらいだ。」
哲夫が窯の上段の蓋を明けると、湯気とともに、香ばしいパンの香りが広がった。
「いい具合だ。」
ゆっくりと、みかんパンを取り出した。
「さあ、どうぞ。」
哲夫は、焼き上がったみかんパンを皿に乗せて、テーブルの上に置いた。
「おお、こりゃ、美味そうだねえ。」
与志さんはしばらくパンを見つめた後、そっと手に取って二つに割る。みかんの爽やかな香りが広がると、ヒカルも手を出した。
与志さんはぱくりと一口頬張る。ヒカルも同じようにパンを頬張る。二人は顔を見合わせ、満面の笑みを浮かべる。
「ふーん・・・やっぱり、命のパンだよ。」
与志さんは満足の溜息ともにそう言った。
「いのちのパン?」
ヒカルが訊き返した。
「おや、知らないのかい?てっちゃんが焼くパンはねえ、命のパンって呼ばれてるんだよ。」
「やめてくださいよ、与志さん。そんな大層なものじゃありませんから・・。」
哲夫は苦笑いを浮かべて言った。
「浜にね、源治っていう漁師がいるんだが、その娘が交通事故で、こん睡の後、なかなか意識が戻らずにいたんだ。それがね、てっちゃんのパンの匂いで目が覚めたんだ。その時の医者がね、てっちゃんのパンを命のパンだって言ったそうなんだ。それ以来、てっちゃんのパンは命のパンって呼ばれているんだよ。」
「そんなことがあったんですか!」
ヒカルは驚いて哲夫を見る。
「偶然だよ・・特別なことをしてるわけじゃないし・・もっと美味しいパンはたくさんあるだろうし・・そんなパンがあるなら、誰よりも、僕の方が欲しいくらいだよ。」
哲夫は、食パンを釜から取り出しながら言った。
哲夫の病気の事は二人とも承知していた。だから、哲夫の何気ない一言が、二人にはとても重かった。
「何言ってんだよ!てっちゃんのパンは特別なんだよ。みんな、てっちゃんのパンを食べると元気になるって言ってるよ。保育園の子どもたちなんて、最近、先生の手に負えないほど元気だってさ。私も、このパンのおかげで長生きしてるんだからね。」
与志さんは、わざと強い口調で言った。
「そうですよ。こんな美味しいパン、初めて食べました。なんだか、元気になってきたみたいです。」
ヒカルもそう言ってから、その場で何度も跳ねて見せた。
ヒカルの様子を見て、哲夫は、釜から取り出した食パン型を抱えたまま、思わず吹き出してしまった。
「さあ、朝ご飯の支度にしよう。与志さん、また、後で来てくださいね。」
「ああ、一仕事終わったら、寄らせてもらうよ。」
与志さんを見送るころになると、ようやく、空が白み始めてきていた。
哲夫とヒカルは厨房に戻り、朝食の支度を始めた。

3-26 三人の朝食 [命の樹]

すっかり朝日が昇ったころ、ようやく加奈が出勤の支度を済ませて、階下に顔を見せた。
「おはよう。調子はどう?」
いつもの朝の会話から始まった。
「ああ、大丈夫さ。朝食の支度、できてるから。」
加奈の座る場所には、新聞とメガネが置かれている。加奈はごく自然に、メガネをかけ新聞を広げる。
「今日はね、チキンのサンドイッチにしたんだ。」
哲夫はそう言いながら、テーブルに運んだ。
「ふーん・・朝からチキン?ちょっと重そうね。・・まあ、いいわ。さあ、ヒカルちゃんもどうぞ。」
ヒカルは、加奈の隣に座った。
「今朝、ヒカルちゃんの方が早かったんだよ。パン焼きも手伝ってもらったんだ。」
哲夫はコーヒーを飲みながら言った。
「そう・・そんなに早起きしなくていいのに・・。」
加奈はそう言って、目の前のサンドイッチを手に取ると、ちらっと中身を確認してから一口食べた。
「水上先生から、毎朝、バイタルチェックをするように言われてますから。」
「そうなの。じゃあ、それが終わったら、手伝いなんてしなくていいから、休んでね。」
「はい。でも、今日はパン焼きのお手伝いをして、すごく楽しかったんです。与志さんにも会えましたし・・少し、元気を分けてもらったみたいでした。」
「そう・・それなら良いけど・・。無理しないでね。」
「はい。」
「あら・・意外にさっぱりしてるわね。良いんじゃないかしら?」
加奈は、独り言のようにぼんやりと感想を述べる。
「そうかい?」
哲夫も一口食べる。ヒカルも二人の様子を見ながらサンドイッチに手を伸ばした。
「香辛料はもう少し利かせた方が良いかな?」
哲夫が訊くと加奈が答える。
「いや、これくらいでいいんじゃない?」
加奈は、新聞を読みながら、できるだけ独り言のような言い方をしている。
余り、真剣な表情で感想を言うと、場合によっては、哲夫が落ち込むことがあるのを承知している。敢えて、いい加減な言い方の方が良いのだ。
隣で、サンドイッチを真剣に味見しているヒカルが真剣な表情で言った。
「女性にはこのくらいでいいでしょうけど、男の方には少し物足りないでしょうね。・・・でも、香辛料より、カレー味にするとか、いっそ、照り焼き風にするとかも良いんじゃないでしょうか?そうすれば、きっと満足できると思います。」
ヒカルは、哲夫の反応など予測もできなかったから、思うことを自由に述べた。
隣の加奈が、「しまった」というような表情をしたのと同時に、哲夫の表情が曇った。
「やっぱりそうか・・・・まだまだ・・味付けはダメなんだ・・・。」
哲夫はそうつぶやくと、目の前のサンドイッチの皿を持って、厨房に向かおうとした。
「大丈夫よ。きっと、喜んでくれるって!大丈夫よ。」
加奈が必死に哲夫を宥めた。
先ほどまでの生き生きした表情の哲夫とは打って変わったような様子にヒカルは戸惑った。

3‐27 呼び名 [命の樹]


加奈は小さな声でヒカルに言った。
「あまり率直に批評するとね・・あんなふうに落ち込むのよ。昔ね、私が、味付けがダメよねって強く言ったもんだから、ちょっとトラウマみたいになってるの。・・すぐに忘れるけど・・しばらくはあんなふうに、どんよりしているからね。」
ヒカルもようやく事態を理解した。
「あ、いけない!もう行かなくちゃ!あとはお願いね。暇な時は休んでいて良いから。」
加奈は、ヒカルにそういうと、わざとらしく、腕時計を見ながら立ち上がり、鞄を持って玄関に向かった。
哲夫は皿を持ったまま、玄関まで加奈を見送った。
加奈が外の階段を下りていく足音に続いて、すぐに車のエンジン音が響いた。そして、クラクションが鳴った。行ってきますの合図だった。

「いけない・・看板出してもらってないかな・・ヒカルちゃん、看板出しといて。」
ヒカルはすぐに歓談を下りて行って、看板を出した。遠くに、加奈の車が走って行くのが見えた。

しばらくは、誰ひとり、来店しなかった。
哲夫とヒカルは、朝焼いたみかんパンを小さな袋に一つずつ入れる作業をした。そんなに慌ててやることもなく、のんびりと一つずつ詰めていく。

「ひとつ訊いても良いですか?」
ヒカルがみかんパンを袋に詰めながら言った。
「なんだい?」
「実は・・あの・・倉木さんの事を何てお呼びすればいいでしょうか。」
そう言えば、ここに来てからヒカルは加奈の事は加奈さんと呼んでいるが、自分は呼ばれたことがないのに気付いた。
「哲夫さんっていうのもなんだか変な感じですし・・水上先生のようにおじさんとお呼びするのも変かなって・・。」
哲夫は思案した。てっちゃんと呼ばれることもあるが、きっとそういう呼び方はなじまないような感じだった。
「・・困ったな・・。」
そんな哲夫の様子を見て、ヒカルが言った。
「あの・・ここは喫茶店ですし。私もアルバイトという事なので・・マスターってお呼びしていいですか?」
「マスター・・か・・。なんだか落ち着かないけど・・ヒカルちゃんが良いならそれで良いよ。」
「良かった。ずっと戸惑っていたんです。」
ヒカルは笑顔を見せて、また袋詰めを始めた。
「終わったら、部屋で休んでいていいよ。多分、お昼頃までは、お客さんも来ないだろうから。」
「はい。」

3-28 漁師仲間 [命の樹]

 パンの袋詰めが終わって、ヒカルが部屋で休もうと立ち上がったタイミングで、店のドアが開いた。
「おう、今日からやってるんだろ!」
入ってきたのは、源治だった。
漁仕事を終えてそのままやってきたような服装で、店の雰囲気とは不釣り合いだった。さらに、源治の後から、同じような格好をした男が次々に入ってくる。そして、店の真ん中の席へどっかと座った。
「てっちゃん、元気そうじゃないか!」
「源治さんこそ。今日は漁の後ですか?」
「ああ、そうだ。若い衆も連れてきたんだ。いつもの頼むよ。」
「はい。」

哲夫はそういうと厨房に入る。
「ヒカルちゃん、お水とおしぼり、頼むよ。」
ヒカルは、人数分のコップに水を入れて、おしぼりと一緒にそっと運んだ。
「おや?新顔だな。」
源治の声は野太く少し粗野な感じで、ヒカルには少し恐く感じられた。ヒカルは返事もできず、俯いたまま、震える手でコップとおしぼりをテーブルに並べた。
「名前は?」
再び源治が尋ねる。ヒカルは追い込まれたような精神状態になってしまって、言葉が出なかった。
厨房で、サンドイッチを作っていた哲夫が、様子を察して慌てて出てくる。
「ヒカルちゃんです。」
「へえ、ヒカルちゃんか・・。」
「水上先生の紹介でね・・しばらく、ここで働いてもらうことになったんです。今日が初めてなんで・・まだ、慣れてないから・・。」
庇うように言う哲夫を見て、源治は察した。
「そうか・・ヒカルちゃんは結先生の知り合いか・・そりゃ、粗相はいけないな。あの先生の機嫌を損ねると、病気の時こまっちゃうからな。・・おれ、源治だ。漁師なんで、ちょっとおっかなく見えるかもしれないが・・優しいおじさんだから。」
源治の言葉に、一緒に来ていた漁師仲間が一斉に笑い出した。
「優しいおじさんだってよ。」
「優しいおじいさんじゃないのか?」
「いや、変なおじさんだろ?」
皆が茶化すように言った。
「ヒカルちゃん、皆、気持ちの良い人ばかりだから、心配ないよ。・・ああ。サンドイッチできたから、ちょっと手伝って。」
哲夫はそう言って、ヒカルと厨房に戻った。
厨房に入ったヒカルは、思わずしゃがみこんでしまった。
「大丈夫かい?」
「すみません・・びっくりしちゃって・・。」
「良いんだ。初めてなんだから仕方ないさ。でも、ここに来るお客さんは皆優しい人ばかりだから、心配いらない。普段通りにしていてくれればいいよ。」
「はい。」
ヒカルは気を取り直して立ちあがった。

3-29 工藤吉彦 [命の樹]

29. 吉彦
「これ、あのテーブルに持って行ってくれるかい?」
哲夫が優しく言った。
「はい。」
大皿にたくさんのサンドイッチガ並んでいる。人数よりもかなり多いように感じた。
ゆっくりと、厨房を出て、ヒカルは大きく深呼吸をしてから、笑顔を作った。
「お待たせしました。」
ゆっくりとテーブルの中央に置く。そして、もう一度、厨房に戻ると、サーバー一杯に入ったコーヒーとカップを取りに戻った。
「大丈夫かい?」
「はい、マスター。」
先ほどと違ってすっかり元気になって、笑顔を返した。その動きをじっと見つめている青年が居た。
「おい、吉彦・・・別嬪さんに惚れたか?」
目の前のサンドイッチをつまみ。吉彦の目の前をちらちらさせながら、源治が言った。吉彦はそう言われて、真っ赤になった。
「いえ・・そうじゃないんです・・いや・・。」
「いいんだよ。そう言うもんさ、男なんてなあ。」
源治は一緒に来た仲間たちに言う。男たちは、目の前のサンドイッチを競うように手に取っていた。
「いえ・・そんなんじゃありません。」
吉彦と呼ばれた青年の言葉遣いは他の男たちとは違っていて、明らかに、地元の者ではない事はすぐに判った。
「あの・・ヒカルさんって・・以前、浜松の病院にいらっしゃいませんでしたか?」
吉彦は、カウンターの前に立っているヒカルに向かって訊いた。それを聞いて、ヒカルの顔色が変わった。
「僕ですよ・・工藤吉彦・・ほら、工場で怪我をして救急外来で診てもらった・・。」
そう言って、吉彦は、腕まくりをして見せた。肘から肩にかけて大きく傷跡が残っている。
「その節は・・本当にありがとうございました。」
吉彦は笑顔を見せて、礼を言った。ヒカルの表情はこわばったままだった。
「覚えていませんか?」
そう言って、吉彦が立ちあがった時、ヒカルは、「イヤ!」というような言葉を発して、背を向けて蹲った。
ヒカルは、何かに、心臓を強く掴まれたように、呼吸ができず、きりきりと胸が痛む。目の前がぐるぐると回る。
「ヒカルちゃん?」
哲夫がヒカルの異常に気付いて、厨房から出て、ヒカルに近寄ろうとした。
再び、ヒカルは「イヤ!」と発したと思うと、急に立ち上がり、近寄る哲夫を突き飛ばすようにして、厨房から裏口へ向かって走り出し、そのまま、店の外へ出て行ってしまった。
吉彦は、その様子に狼狽えて、そのまま、立ち尽くした。
源治たちも、食べるのを止めて、その様子をじっと見つめるしかなかった。

3-30 秘密 [命の樹]

「おい、てっちゃん・・大丈夫かい?」
源治が沈黙を破るように口を開いた。
そして、すぐに、吉彦の方を向いて厳しい声で言った。
「おい、吉彦!お前!何やってんだ!」
吉彦は、何が起きたのかわからないような表情を浮かべている。
「すみません・・・でも・・いや、久しぶりにお逢い出来たから、一言、お礼をと・・。」
「お礼だあ?馬鹿野郎!」
源治が怒った声を出した
「いえ・・前に工場で怪我をして救急に運ばれたんです。腕を機械で挟まれて・・その時、手当してもらったんです。」
「看護士が、そんなこと、いちいち覚えてるわけないだろ!」
「いえ、その時、腕の傷だけじゃなく、足も痛めていたんです。最初は、腕の治療をしていたんですが、様子が変だとヒカルさんが気付いてくれて、足の傷も・・ほっといたら、歩けなくなるって・・こうして居られるのも彼女のおかげなんです。入院中も何かと話をしてくれて・・覚えていないはずはないんです。」
「じゃあ、人違いなんだろう?なのに、いきなり、そんな腕の傷を見せて、誰だって驚くだろ!」
呆れた表情で源治が言うと、吉彦は必死な形相で言った。
「でも・・。間違いないんです。退院してから一度病院に行ったら、もう姿がなくて・・だからずっと会いたかったんです。でも、どうしてでしょう・・」
吉彦は、戸惑った表情を浮かべたままだった。

哲夫は仕方なく、事情を説明することにした。
「彼女は、確かに、吉彦君が言うとおり、浜松の病院で看護士をしていました。でも、医療事故に巻き込まれて、看護士の仕事ができなくなってしまって、それ以来、心の病気を抱えてしまったんです。今は、彼女にとってその記憶はきっと辛いだけなんです。それを知っている人が急に現れたので、驚いてしまったんでしょう。」
源治たちは、哲夫の説明に心を痛めていた。
「うちで預かったのは、結ちゃんの頼みで・・ここなら、彼女の心を癒すことができるんじゃないかっていうんです。」
源治たちは無言で頷いた。
哲夫は、店の外に目を遣った。
「あのさ・・てっちゃん、心の病ってのはどういう・・いや・・俺たちはどうしたら良いんだろうね。」
源治は遠慮がちに訊いた。
「普通に接してくれればいいと思います。今朝、パン焼きを手伝ってもらった時は、とても良い笑顔をしていましたから・・そんなに深刻に考えなくても良いはずです。ただ・・昔の事は訊かないて欲しいんです。今の彼女をありのままに受け止めていただきたいんです。僕も、そうしていますから。」
「そうかい。・・まあ、てっちゃんがそう言うなら・・なあ、みんな。」
テーブルを囲む男達も頷いた。
「ああ、吉彦君、すまなかったね。決して君のせいじゃないから、気にしないで。」
哲夫は吉彦を見て言った。吉彦は強く頷いた。
「ああ、それから・・彼女の病気の事は、決して他言無用でお願いします。今日の事も。」
「もちろんさ。なあ。」
源治が言うと、皆強く頷いた。