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3-63 解明プロセス [命の樹]

63. 解明プロセス
朝食を終えて、再び、皆、仕事に取り掛かった。哲夫は開発室の中央にある大きな実験台の前にいて、破壊されたプロトモデルを一つ一つ点検している。
「あの・・倉木さん、エネルギー変換プロセスはだいたい解明できたんですが・・。」」
岸谷が難しい数式がたくさん書かれた書類とデータをもって来た。
「だいたいっていうのは駄目だよ。一つ一つ積み上げる事。今回の変換プロセスは大発見かもしれないんだ。丁寧に解明する事ができないといけない。」
哲夫はそう言うと、岸谷が持ってきた書類に目を通しはじめた。複雑な数式がいくつも並んでいたが、ほんの5分ほど目を通したところで、哲夫が厳しい顔で岸谷に言った。
「ここの数式・・係数が違っていないか?」
そう言って書類を返した。
岸谷は指摘された箇所が、難解だった数式の中でも、最も自信のない部分だったところで、ぴたりと言い当てられて、驚いた。
「はい。」
「コンマ以下の二桁を見直して見てくれ。」
哲夫の言葉に、岸谷が尋ねた。
「あの・・倉木さんは、もう、解明されているんでしょうか?」
「いや・・ただ、その数値に違和感があったんだ。何となくだが、甘い数値が出ているようだった。」
倉木の答えに改めて岸谷は驚いた。それは、夜を徹して、ともに解明を進めてきた工藤の口からも何度も聞かれた言葉だったからだ。
「触媒の物質構成がコンマ1g違うと正常な反応は起きない。ここの数値はそれに影響する。できれば4ケタの精度が欲しい。それくらい微妙なことは判るだろう?」
「ええ・・判りました。もう一度計算します。」
岸谷は、そう答えると自分の席に戻って行った。

すぐに、磯貝がやってきた。図面を何枚か持っている。
「倉木さん、爆発時のデータを基にして、強度補正を掛けて、設計し直したんですが・」
磯貝は持ってきた図面を机に広げた。
「もうできたのか?流石だね。」
哲夫はそういうと、図面をじっくりと見た。
「とてもよくできている。これなら、すぐにも製造ラインに乗せられるだろう。」
「しかし・・あの爆発的なエネルギーと電磁波を制御するには、プロトモデルの3倍の大きさが必要で、実用性では問題があるんですよ。」
「ああ。このままでは、難しいだろうな。」
「しかし・現状ではこれで精いっぱいです。性能を落としたとしても、コストはかなり掛かります。とても社長の言われた1週間の期限では・・。」
哲夫はしばらく無言のまま、図面を見つめる。
「何か・・突破口があれば・・・。」
「まだ、時間はある。もう一度、考え直してみてくれないか。」
哲夫の言葉に、磯貝は、頭を抱える。磯貝は、以前、製造部の設計に居た時とおんなじ感覚を覚えていた。開発部から回されてくる無茶な結成図を製造可能なものに修正する作業の、ぶつける先の無い苛立ちのような感情がじわじわと湧き上がってくるのだった。


3-64 設計図 [命の樹]

64. 設計図
「倉木さん!そう言われるなら・・あなたが設計してください。僕にはもう無理です!」
徹夜で書き上げた設計図である。考え直せと言われても、そう容易くできるものではない。精神的にも追いつめられてしまっていたのも事実だった。
磯貝の言葉で開発部の部屋の中は静まり返った。
「判った・・やってみよう。」
哲夫は静かに答え、図面に目を遣った。周囲の視線は全て磯貝に注がれていた。磯貝は居場所を失い、開発部を出て行った。
「いいんですか?」
ヒカルが哲夫に小さな声で訊いた。
「まあ、少し、頭を冷やしてきた方が良いだろう。すぐに戻って来るよ。」
哲夫はそう言うと、机の上に、真新しい設計紙を広げた。
磯貝を手伝っていた担当者たちは、しばらく、哲夫の様子を見ていたが、哲夫はペンも握らず、じっとその目を閉じたまま動こうとしなかった。
「いくら、倉木さんが凄い人でも・・無理だろう?・・一晩かけて作ったんだぞ。」
「変換出力を抑える事が最大の問題だろ?あんな爆発的なエネルギーを抑え込むなんて無理さ。」
ひそひそ声で担当者が意見を交わす。
聞こえているのかどうか、哲夫はじっと目を閉じたままだった。しばらくすると、腕を組んだ。
その様子を見つけて、工藤が言う。
「倉木さんが図面を引くのか?」
様子を見ていた担当者たちが小さく頷いた。
「無理でしょうね。」
誰かが呟くと、工藤が首を横に振った。
「あの姿勢に入ると、1時間は動かない。だが、倉木さんの頭の中ではどんどん図面ができているはずだ。目を開けた時が楽しみだよ。」
確信に満ちた工藤の発言だったが、周囲の担当者は半信半疑のままだった。
哲夫の車椅子の後ろで、ヒカルはじっと哲夫の様子を見ていたが、余りに動かない様子を心配して、声を掛けようと立ち上がった。それを見た工藤が止めた。
「今は何も耳に入らないよ。大丈夫。これが倉木さんのスタイルだから。・・君も少し席を外して、外の空気を吸ってくると良い。」
工藤に言われ、ヒカルは気掛かりなままだったが、一度、開発部の部屋を出る事にした。
1階まで、エレベーターで降りた後、玄関から外へ出た。真冬だったが、その日は西風も弱く、陽だまりは暖かい。
ヒカルは、加奈に電話をした。昨夜は、余計な心配を掛けるのではないかと、無事に着いた事だけを知らせるにとどまっていた。
「ええ・・今はお仕事に入られています。」
『変わりはなさそう?』
「・・昨夜は少しお疲れのようでしたが、今は安定しています。」
『無理しないように気を付けてね。』
「・・・ええ・・。判りました。」
電話の向こうの、加奈の声は随分と心配そうで、また、淋しそうに聞こえた。会社を辞めた後、浜名湖の畔に移り住んでから、哲夫のいない夜を過ごしたのは久しぶりだったからだろう。

3-65 総力 [命の樹]

65. 総力
ヒカルが電話を終えた時、会社の正門から、磯貝が、川端社長とともに入ってくるのが見えた。ヒカルは、ロビーの隅の鉢植えの陰に隠れるように、椅子に座った。
「磯貝、もうひと踏ん張りなんだ。ここで諦めたら終わりだぞ。」
開発室での一件を、磯貝は社長にぶちまけたのだろう。
「しかし・・1週間の期限で仕上げるなんて無理です。・・倉木さんがどれほど優秀な方かは知りませんが、我々も今日まで精いっぱいやってきました。それで行き詰ったんです。」
「ああ、君らの奮闘はよく知っている。だからこそ、あいつの力を借りる必要が在ったんだ。」
「倉木さんは、引退されて、時間も経っています。昔とは違うんですよ。」
「だが、あいつはすぐにあの製品の本当の力を見極めた。君らの成果を把握し、導いてくれている。」
川端のいう事は尤もだった。あのままでは、開発は中止せざるを得なかった。
二人は玄関を入ると、ロビーに置かれたソファに腰かけた。
「なあ、磯貝、AX-3という製品は知っているだろ?」
「ええ、もう20年ほど前に開発された汚泥処理装置ですよね。我が社の主力商品だと聞きました。」
「あれは会長のアイデアからスタートした。だが、設計途中で、特許侵害が発覚して、大幅に見直しすることになった。当時の開発部は意気消沈していたんだ。心臓部の特許に関わるところだったからだ。すでに私のいた営業部では多くの受注を取り付けていて、期限までに納品できないと大幅な違約金が発生する。我が社は経営危機に直面したんだ。」
「そんな経緯は全く知りませんでした。」
二人がソファに座っているのを見つけて、受付の担当者がコーヒーを運んできた。
「それを乗り越える事が出来たのは、倉木のおかげなのさ。あいつは心臓部の装置ばかりに気を取られていた他の担当とは違って、装置全体の設計を見直すことにしたんだ。もう、残された日が少ない中で、会長自身も諦めかけていたんだが・・あいつだけは諦めない、妥協しない、とにかく黙々と図面を引き続けた。結果、問題をクリアし、さらに高い性能の製品に仕上げたんだ。」
磯貝は川端の話を聞きながら、今の状況とよく似ていると感じていた。
「その時、倉木はまだ30歳になったばかりで、開発部の中でも若手だった。部分的な設計はしていただろうが、装置全体となるととても一人ではできるものじゃないそうだ。だが、あいつはやり切った。誰もが倉木の能力に驚いたものさ。」
「そんなこと・・とても今できる人材などいないでしょう。」
「ああ、あんな超人的な能力はな・・会長は倉木を高く評価した。だが、倉木はこう言ったんだ。自分だけの力じゃない、栗田製作所がこれまで積み上げてきた基礎技術を集めただけだと・・自分は、そうした一つ一つの技術を繋ぎ合わせただけだってね。」
「しかし・・そんなことが・・いや・・とてもできるわけがない・・・。」
川端は、コーヒーを飲み、一呼吸おいてから言った。
「後で聞いた話だが、倉木は、製造部に何度も何度も足を運んでいたそうだ。現場の責任者だけでなく、担当にも、細かい部品の製造工程や構造を尋ねていたそうだ。時には、作業の指導も受けていたらしい。その積み重ねの結果らしいんだ。それに、あいつの設計図面は、現場から見ると技術的にはハードルを一つ上げるような・・常に挑戦的なものだったらしい。製造技術の開発も、開発部の責務だと思っていたようなんだ。」
磯貝は、浜名湖から栗田製作所に向かう車中での哲夫との会話を思い出していた。哲夫の質問への自分の回答を思い出し、途轍もなく見当はずれだったことを恥じた。

3-66 期限 [命の樹]

66. 期限
「社長、もう一度、製造部へ行って来ます。きっと何か打開策があるはずです。」
磯貝は立ち上がり、足早に玄関を出て行った。川端社長は、走り去る磯貝の後姿を見つめながら、『頑張れ』と小さくつぶやいた。
「あの・・川端社長・・よろしいでしょうか?」
二人の会話が終わったことを確かめて、ヒカルが川端に声を掛けた。
「ああ・・ヒカルさん。どうぞ。・・どうかな、あいつは?」
「昨夜は辛そうでしたが・・今朝は、回復されたようで・・問題ありませんでした。」
「そうか・・だが・・そう無理はできないんだろ?」
「ええ・・午後に疲れが溜まってくると・・どうなるか・・。」
再び、受付の担当者がコーヒーを運んでくると一旦会話は中断した。
「もっと時間があれば・・・。」
川端がボソッとつぶやいた。
「あの・・1週間の期限というのは・・会社の都合なんですか?」
川端はヒカルの質問に少し躊躇いがちに答える。
「・・まあ・・それは・・それのくらいで完成してもらいたいということなんだが・・。」
「会社が傾くとか・・。」
「いや、正直に言えば、あいつの体の事を考えてね。我が社はそこまで経営に行き詰っているわけではない。ただ、3月に何らかの成果を発表できれば大幅に経営は回復できる。だが、そこまで引き伸ばせば、あいつの負担が大きくなる。それはあいつの命を縮めてしまう事になるだろう。」
「そうだったんですか・・。」
「あいつには、営業部長の頃、随分と無理を言ってきた。だが、あいつはその度にきっちりと答えを出してきたんだ。今回もきっと応えてくれるはずだ・・・。」
そう言いながら、川端の顔は曇っている。
「私もしっかりサポートします。加奈さんも心配なさっていますから・・。」
「加奈さん・・か。彼女は元気かい?随分前、会社の懇親パーティで会ったっきりだが・・。」
「ええ・・。今は、地元の専門学校の先生をなさってます。」
「そうか・・彼女は昔から面倒見が良かったらしいから、学生からも慕われているだろう。」
「私、そろそろ戻ります。」
「ああ、そうしてくれ。」

ヒカルが開発部に戻ると、哲夫はまだ机の前で腕組みをして目を閉じたままだった。心配そうに見ているヒカルを見つけた工藤が、そっと傍に寄ってきて、耳打ちした。
「そろそろだと思うよ。」
すると、哲夫が腕組みをほどいて目を開くと、製図ペンを握った。それから、目の前の用紙にフリーハンドで図面を書き始めた。
「さあ、始まったな。・・最初はね、訳の分からない・・デッサンみたいなものなんだ。たぶん、頭の中のイメージを書き落とすんだろう。それから、パーツごとに製図していく。計測もなく、完全な形を仕上げていくんだ。きっと、朝まで書き続ける・・今まで何度も見てきたんだ。」
「朝まで?」
ヒカルは驚いて哲夫を見た。哲夫は、周囲の事など全く見えていない様子で、ひたすらペンを走らせていた。

3-67 イメージ図 [命の樹]

67. イメージ図
ヒカルは、哲夫が急変しないかどうか、それだけが心配だった。
哲夫は必死の形相で、驚くほどの速さで線を引き、また消して、書き直す繰り返しだった。
「いや、違う!こうじゃない!」
呟くように言い、新しい用紙を広げ、書き始め、今度は怒鳴りつけるように、言葉にならないような声を発し、また新しい用紙を広げる。近づくことを許さない雰囲気を漂わせ、書き続ける。
「倉木さん、珍しく、苦労してるみたいだな・・・。」
工藤が呟く。
「あとどれくらい掛かるでしょうか?」
「さあ・・昔なら、1時間ほどでイメージ図くらいは描きあがるはずだが・・やっぱりブランクがあったからなあ・・。」
事情を知らない工藤は、少し抜けたような言い方をした。
2時間ほど経った頃だった。
机に向かいひたすらペンを走らせる哲夫が、急に、頭を抱え、小さく唸るような声を発して、机にうつ伏せてしまった。
「マスター!」
ヒカルが驚いて駆け寄る。工藤や岸谷は、何が起きたのか判らず、ただ様子を見ている。
「すみません。部屋に戻ります。」
ヒカルは、急いで車椅子を押して部屋に戻ろうと開発部の部屋の出口へ向かったところに、磯貝が戻ってきた。
「倉木さん?どうしたんです?」
ヒカルは磯貝の問いには答えず、一目散に、出口からエレベーターホールへ出た。
車椅子の肘掛から出る哲夫の手には、ペンが握られたままだった。
エレベーターのドアが開き、車椅子を押し入れた時の振動で、哲夫の手から製図ペンが転がり落ちた。
磯貝は、慌ててエレベーターに乗り込むヒカルと哲夫を見送ったあと、足元に落ちていたペンを拾い上げた。それを胸ポケットに差し、決意を固めた表情を浮かべて開発部に戻った。

ヒカルは、部屋に戻ると、哲夫を車椅子に座らせたまま、すぐに酸素マスクをつけた。呼吸が弱い。
それから、哲夫の体に、自分の身を寄せて、抱え上げるようにして、車椅子からベッドに哲夫を移乗させ、横にした。
オキシメーターを取り付け、バイタルチェックをし乍ら、すぐに水上医院へ電話をした。手早く、哲夫の様子を結に伝え、処置方法の指示を受けた。
「今、名古屋に幸一さんは居るから、すぐに連絡を取って行ってもらうから。また、様子が変わったら連絡して。私も向かいます。」
結はそう言って電話を切った。

ヒカルは哲夫のベッドサイドで、哲夫の指先につけたオキシメーター(血中酸素量計測器)の数値と、呼吸音、血圧を細かくチェックした。先ほどより、少し落ち着いた様だった。やはり、哲夫の体力は落ちている。これ以上の無理はさせられない。
哲夫がうっすらと目を開けた。
「どうですか?」というヒカルの問いに、哲夫は、かすかに微笑んで見せた。

3-68 次元の違う代物 [命の樹]

68. 次元の違う代物
哲夫とヒカルが開発部を出たのと入れ違いに、戻ってきた磯貝は、工藤に尋ねた。
「倉木さん、どうされたんですか?」
「いや・・それが、私たちも良く分からないんだが・・疲れたからか・・図面を書いていた途中で急に机に突っ伏してしまって・・」
工藤はそう言いながら、哲夫が座っていた机の方を見た。磯貝もそちらを見ると、机の上に1枚のイメージ図が書きあがっているのを見つけた。
「これは?」
「倉木さんが書いていたんだが・・。」
磯貝はじっとイメージ図を見つめ、徐々に驚きの表情を浮かべた。
「工藤さん、これ、凄いですよ。逆転の発想です。」
磯貝はそう言うと、ホワイトボードに哲夫の描いたイメージ図を貼り出した。
開発部にいたみんながボード前に集合する。そのイメージ図は、フリーハンドで描いたとは思えないほど精巧なものだった。だが、磯貝が驚いたのは、製図技術ではなかった。そこに描かれていたのは、これまで磯貝たちが開発してきたものとは全く次元の違う代物だった。
「これ、実際に機能するでしょうか?」
岸谷が少し不安げに尋ねる。
「いや、機能するかどうかよりも、こんなアイデアはまったくなかった。」
磯貝が呟く。
「これは、リチウムイオン電池ですよね?・・まさか、電池そのものを容器にするということか?」
工藤も驚いた様子で言った。
「ああ、そういう事だ。我々は今まで、モーターとイオン電池との接続の中間に装置を置くことで考えてきた。だから、小型化を求めてきた。だが、倉木さんは逆転させている。確かに、電池本体に組み込めば、電池のダウンサイジングも出来るし・・何より、今のハイブリッドシステムを置き換えることも可能だ。・・そうか・・そういう事か・・・。」
「ですが、触媒のコントロールユニットはどうすればいいんでしょう?」
岸谷が訊いた。
「岸谷君、それは倉木さんの図面には書かれていない。おそらく、もっと別の発想があるんだろう。」
工藤が言うと、磯貝が言った。
「いや・・違う。コントロールユニットは不要ということじゃないかな。触媒の能力を電池本体が持つことは・・出力自体が極めて大きくなるという事だろ。・・いや・・・うまく言えないが・・これ自体が、もはやリチウムイオン電池ではなくなっているんだ。そういう事じゃないか?」
それを聞いて、岸谷が思いついたように言った。
「そうか!我々は知らぬうちに、小さな電力でさらに大きなエネルギーを生む・・発電所のようなものを作ったという事ですね。」
「ああ、そうさ。僅かな電力を飛躍的に増幅できる技術なんだ!」
開発部全体が色めき立った。
「おい、みんな、手分けしてこのイメージ図を基にプロトモデルを作ろう。パーツに分けて設計図を作れば、きっと期限までに完成できる。大丈夫だ。プロトモデルで性能を証明できれば、特許申請できる。製品化はその後で良い。いいな、それぞれ得意な部分をやろう。」
磯貝が、皆の顔を見て言うと、皆、確信に満ちた顔をしていた。

3-69 容態 [命の樹]

69. 容態
開発部が一気に元気を取り戻し、活気を呈していた頃、哲夫は、静かな部屋のベッドに横たわり、朦朧とした意識の中に居た。
ドアがノックされた。驚いたヒカルはドアを小さく開けて、顔半分ほどで外を見た。
ドアの前には、受付の担当者が立っていて、後ろに幸一が居た。すぐに、幸一を部屋に招き入れる。
「ヒカルさん、哲夫さんの容態はどうですか?」
「ええ・・結先生の指示通り、投薬と酸素マスクで処置しました。少し落ち着いています。」
ベッドに横たわる哲夫を見て、幸一はすぐに聴診器を取り出し、診察した。
「完璧な処置ですね。やっぱり、ヒカルさんは看護士に戻るべきですよ。」
幸一はそう言いながら、聴診器で胸の音を聞き、体のあちこちを触診した。
「痛みはないようですか?」
「ええ・・呼吸は弱かったですが、それ以外は余り変化がありませんし、表情もこわばっていませんから、まだ、強い痛みはないと思います。長時間、机に向かって、製品の設計図を描かれていましたから、脳の負担が大きかったんじゃないでしょうか?」
「そうですか・・」
幸一は、首筋や頭頂部あたりを触診し、少し考えてから言った。
「おそらく、ヒカルさんの言う通りでしょう。・・脳内に腫瘍ができているんですから、普通以上に血流が流れたことで、脳圧が一時的に上がったんでしょう。それで意識が混濁したようですね。朝まで眠れば、回復できます。・・少し、脳圧をコントロールできる薬を処方して置いた方がよさそうだ。」
点滴の中に、新たな薬を入れ様子を見ることにした。
幸一が来たことで、ヒカルは安心した。
「ヒカルさん、しばらく僕が診ていますから・・少し、休んだ方が良い。」
幸一に言われ、ヒカルは隣の部屋で休むことにした。
ヒカルが1時間くらい横になったところで、結が来た。
「どう?」
「ヒカルさんが適切な処置をしてくれていたから、大丈夫だ。」
ベッドの脇で二人が会話しているところへ、ヒカルも隣室から戻ってきた。
しばらくすると、哲夫が目を覚ました。ベッドの周りに三人の姿を認めると、哲夫が言った。
「すまなかったね・・心配かけたようだ・・。」
「無理はしないように言いましたよね。」
結が少し怒ったように言った。
「すまない・・・。」
皆、それ以上の言葉が見つからない。そこへドアのノック音が響いた。ヒカルがドアを小さく開けると、川端が立っていた。ヒカルは、川端を部屋にいれた。結と幸一が挨拶をし、川端に哲夫の状態を説明した。
「そうか・・これ以上の無理は禁物だな・・・。」というと川端は天井を見上げた。
「川端・・大丈夫だ・・明日にはまた仕事に戻れる。イメージは完成した。あとはパーツごとの仕上げだ。あと少しで形になる。期限の1週間には間に合うはずだ。これは、栗田の未来を拓く画期的な開発なんだ。最後までやり遂げさせてくれ。」
ベッドに横たわりながら哲夫が言う。

3-70 離脱 [命の樹]

70. 離脱
川端は首を横に振った。
「いや・・駄目だ、倉木。お前はもう加奈さんのところへ戻った方が良い。充分にやってくれた。ありがとう。ここからは、私たちの仕事だ。巻き込んで済まなかった。」
川端は、そう言うと足早に部屋を出て行った。川端には、哲夫が納得することはないと判っていた。だからこそ、哲夫の答えを待たずに部屋を出て行ったのだった。
「おじさん、もう帰りましょう。これ以上、加奈さんに心配かけちゃダメよ。」
「そうですよ、マスター。昨夜も加奈さんの電話の声、淋しそうでした。」
結とヒカルの言葉に、哲夫は目を閉じた。

翌朝、哲夫はヒカルに車椅子を押されて、開発部に顔を出した。結や幸一も付き添った。
部屋に入ると、川端が皆を集めていた。
「倉木さん、大丈夫ですか?」
工藤が真っ先に駆け寄ってきた。哲夫は小さく頷いた。
「皆に伝えることがある。」
川端は開発部の皆を前に口を開いた。そして、哲夫の方を見た。哲夫はうなずいた。
「今回の開発は、社運をかけたものだった。そして、見事に開発部は答えを出した。いや、それ以上の途轍もない開発になった。まだ、完成はしていないが、ゴールはすぐそこに見えている。」
磯貝を始め、開発部のメンバーは皆、確信に満ちた表情を浮かべていた。
「この開発は、長年の会長の夢でもあり、その出発点は、ここに居る倉木君のアイデアだった。今回、最後のリードでも大きな役割を果たしてくれた。彼はわが社の誇りだ。」
川端の発言で、開発部のメンバーから拍手が起きた。
拍手はひとしきり収まるのを待って再び川端が言った。
「だが、倉木君にはここで現場から離れてもらう事にした。」
開発部のメンバーからはざわめきが起きた。みんなを代表するように、磯貝が訊いた。
「社長、あと少しで完成なんですよ。・・ここまで来てどうして倉木さんを・・。」
磯貝の反応は、川端も当然予測していたことだった。
「彼は充分に役割を果たしてくれた。もともと、社を辞めていたんだ。だが、開発が行き詰り、無理を言って頼み込んだ。ここからは、我々が仕上げるんだ。」
しかし、磯貝は納得しない。
「まだです。完成品を見ていただかないと…皆も納得できないでしょう。倉木さん自身もそのはずです。イメージ図から、本設計が始まったところです。きっと、気がかりのはずです。」
磯貝は社長に食い下がった。
「いや・・それは・・・」
「納得できません!」
社長の回答に、岸谷も反論するように言う。
ほかの皆も賛同するように声を上げた。川端は困った表情で哲夫を見た。
「ヒカル、車椅子から立たせてくれないか。」
哲夫がヒカルに言った。
哲夫がヒカルの方を借りて立ちあがる。皆、静まった。
「みんな、すまない。本当の事を話そう。」
哲夫が口を開くと、皆が哲夫に縋り付くような視線を送った。

3-71 PU-T [命の樹]

71. PU-T
「私は、末期の癌です。みんなも知っているとおり、昨日は一時意識を失った。ヒカルが手当てしてくれたおかげで生きながらえている。明日、生きていられるかどうかわからない身なんです。」
哲夫の告白に、一同は、驚き、そして、すぐに悔しそうな表情をした。哲夫は話を続ける。
「今回、川端社長から依頼があった時、もう引退した身だといったんは断りました。だが、渡された資料に会長のメモを見つけたんです。そこには<夢は未来を拓く力>と書かれていました。そうなんです。これは、今は亡き、会長から託された夢だったんです。社を辞めた時、もう叶わないものと諦め、忘れようとしていました。しかし、こうやって皆さんがあと一歩まで進めてくれていた。本当に感謝しています。だが、これ以上は無理なんです。本当にありがとう。」
哲夫の言葉に皆絶句し、どう受け止めていいか戸惑っていた。
「倉木さん・・」
共に長年仕事をしてきた工藤は泣いている。磯貝や岸谷も泣いている。
「事情を話さずにいようと思ったのだが・・。」
川端も、腕で涙を拭いながら言った。
哲夫は、川端の傍に行き、そっと肩に手を置き言った。
「川端、会長のメモの意味がようやく分かったよ。」
川端が顔を上げた。
「僕は、これを開発することで未来が開けるんだという意味だと理解していた。だが、違うようだ。」
「どういう事だ?」
川端が訊く。
「ここに居る皆を見て判った。壮大な夢を叶えようと願うから、努力する。そして、その努力を・・積み上げてきたものを継いでいこうとする若者が現れる。そうして、次の世代、次の世代へ夢が引き継がれている。夢が未来を作るんだ。会長もきっとそう言いたかったんだと・・・。」
哲夫は確信に満ちた表情で川端を見た。そして、皆を見た。
「ここにいるみんなこそが、未来の力なんだ。だから、私はここを去る事に不安も不満もない。自分にできなかったことをきっとみんながやり遂げてくれると信じているから。」
「倉木・・」「倉木さん・・。」
皆が哲夫を取り囲んだ。

哲夫たちが帰り支度をしているところに、磯貝が現れた。
「倉木さん、出発前に少しだけ僕たちに時間をください。」
そして、磯貝は、哲夫の車椅子を押して開発部に戻ると、大きなスクリーンの前に座らせた。プロジェクターの光が投影される。
「これが倉木さんのイメージ図でした。昨晩のうちに皆で分担してパーツ設計図を作成しました。」
次々に完成途中の者も含めて設計図面が映される。哲夫は一つ一つを見乍ら頷いた。
その後、岸谷が、エネルギー変換が起きている現象について、膨大な数式を並べて解説した。指摘した箇所も修正されていた。
「ここまでは到達点です。あと1週間のうちには、新しいプロトモデルを完成させます。モデル名は、PU-Tとしました。POWER・UNIT・TETSUOの略です。」
磯貝が最後に締めくくった。

3-72 帰郷 [命の樹]

72. 帰郷
哲夫が栗田製作所を出る時、川端を始め、栗田製作所の全社員が正門の前に並んで見送った。
「退職の時は、会長や社長の慰留も聞き入れず、逃げるようにして出てきたんだ。・・」
結の車の後部座席に座った哲夫が、遠い記憶を思い出すように呟いた。
「じゃあ、これが本当の退職ですね。」
「ああ・・」
結の車はゆっくりと正門を出た。
東名高速道路で1時間ほど走り、三ケ日インターを出るとすぐに≪命の樹≫に着いた。
「お帰りなさい。」
加奈が玄関で迎えた。加奈はそれ以上何も言わなかった。
「少し、ベッドで休んで下さい。」
結はそう言って、ヒカルと一緒に哲夫を2階のベッドまで運び、念のために、バイタルチェックと胸の音を聞き、「しばらく安静にしてください」と言って、ヒカルとともに部屋を出た。
入れ替わるようにして、加奈が部屋に入った。加奈はベッドの脇に座って、哲夫の手を握った。
「お疲れ様・・随分、無理したんでしょう?」
「心配かけて、すまなかったね。」
「川端さんから電話があったのよ。病気の事、知っていれば強引には頼まなかった。でも、あなたのおかげで、会社の未来が開けたと礼を言われたわ。」
「そうか・・・だが、これは会長への恩返しのつもりだったんだ。ほら・・」
哲夫はそう言って、胸ポケットから小さなメモ用紙を取り出して、加奈に見せた。それは、あのファイルに挟まっていた『夢は未来を拓く力』と書かれた会長のメモだった。
「無理をしてでも、会社に行って良かったよ。僕が若い時に描いた夢があと少しで現実のものになるんだ。そのために、若い人たちがたくさん頑張ってる。もし、叶わなかったとしても、あの夢が若い人を育てたんだって信じてる。夢は未来を拓く力だって。」
哲夫は、天井を見つめながら感慨深げに言った。
「そう・・良かったわね。」
「僕が死んでも、あの夢は残る。そして、若い人が引き継いでさらに大きな夢にしてくれる。そうやって、人はつながっていくんだよね。」
加奈は驚いた。今まで、哲夫の口から『死』を意識した言葉を聞いたことがなかったからだった。加奈が言葉を失ってしまったことに気づいて、哲夫が言った。
「ごめん・・そういう意味じゃないんだ。・・逆だよ。夢があればきっと明日も生きていける。ここに来て、会社時代とは違った夢がたくさんできたんだ。まだまだ頑張るよ。」
「そうよ。」
加奈は辛うじて涙をこらえてそう答えた。
「少し、眠ったほうが良いわ。」
加奈はそう言うと、静かに部屋を出て、階下に降りた。1階では、結とヒカルがテーブルについてコーヒーを飲んでいた。
「結ちゃん、ヒカルちゃん、本当にありがとう。無事に戻って来れて良かったわ。」
哲夫が留守にしていた間、ずっと張っていた気持ちが急に緩んだためか、加奈はそう言うと、ボロボロと涙を流した。ヒカルがそっと傍に寄り添い、加奈の背を摩った。

3-73 命の樹再開 [命の樹]

73. 命の樹再開
最初の予定通り、週末まで店は閉め、哲夫はゆっくりと休養を取った。体力も回復し、いよいよ週末土曜日から、店を再開することにした。
「朝のパン焼きは大変だから、当分は駄目よ。」
加奈は哲夫の体力を心配して言った。哲夫は寂しそうだった。
ヒカルはそんな哲夫を見て、何か役に立てないものかと考えていた。だが、パン焼きの仕事は随分と体力が必要だったのを知っている。それに、客の大半は哲夫の「命のパン」を待っている。
ヒカルは、与志のところへ相談に行くことにした。
「そうかい・・まあ、加奈さんの気持ちになればそうするほかないだろうな。」
与志も良いアイデアは無いようだった。
「私がパンを焼くお手伝いをするのはできるんですけど・・自信がなくて・・。」
「そりゃあ、そうだろ。火を起こすだけでも大変な事さ。やっぱりそこは男の力が必要だろうね。・・浜には、力の余ってそうな男たちは居るんだが・・源治に相談すれば、手伝ってくれるだろうが、てっちゃんの病気の事を話すわけにもいかないしねえ。」
「そうですよね。」
結局、答えは見つからないまま、ヒカルは与志の家を出た。みかん畑を抜けて、店に戻ろうとしたところで、吉彦に出くわした。
「やあ、ヒカルちゃん・・・久しぶり・・どこか行ってたの?」と吉彦は少し戸惑いがちに訊いた。
「ええ・・。」とだけヒカルは答えた。
「お店はまだお休みみたいだね。」
ヒカルは、事情を話すわけにもいかず、「明日から再開だけど・・」というしかなかった。ふと見ると、吉彦の左手首から白い包帯が覗いているのに気付いた。
「腕、怪我したの?」
「ああ、ちょっと、源さんの船で転んで擦りむいたんだ。結先生に治療してもらったから大丈夫さ。でも、傷が完全に治るまでは漁には連れて行かないって源さんが言うんだ。しばらく、ブラブラしてるんだよ。暇つぶしに来てみたんだけど・・。」
「包帯解けそうだから、直してあげる。さあ、入って。」
ヒカルはやや強引に吉彦を店の中に入れた。
哲夫は2階の部屋で休んでいる。加奈は専門学校へ仕事で出掛けた。ヒカルは、吉彦を椅子に座らせて、厨房の隅にあるカバンから、包帯とはさみ等が入った医療器具のカバンを持ち出してきた。
「やっぱり・・看護士なんだよね。」
吉彦は、包帯を直すヒカルを見て言った。ヒカルは先ほどからずっと同じことを考えていた。
「ねえ・・秘密、守れる?」
ヒカルは唐突に吉彦に訊いた。吉彦は戸惑ったが、頷いた。
「絶対誰にも話さないでね。」
ヒカルはそう前置きして、哲夫の病気の事を吉彦に話した。そして、最後に言った。
「明日朝からパンを焼きたいんだけど・・手伝ってくれない?私ひとりじゃ無理なの。」
「良いけど・・どうせ、漁の仕事には出られないし・・だけど・・ちゃんと焼けるかな?」
「大丈夫。火を起こしたり、運んだりする人が必要なの。火加減とか焼け具合なんかはマスターにやってもらうから。体力を少しでも使わないようにしたいの。お願い。」
「判ったよ。・・朝は、まだ源さんも量からは戻ってこないし大丈夫だ。」

3-74 吉彦の応援 [命の樹]

74. 吉彦の応援
 ヒカルはすぐに、2回で休んでいる哲夫に話すことにした。哲夫は、ベッドに置き上がって本を読んでいた。
「ヒカルちゃん、吉彦君はまだ居るかい?」
「はい。」
それを聞いて、哲夫が階下に下りて行った。吉彦は哲夫の顔を見て、どういう表情をしていいのかわからない状態だった。
「ヒカルちゃんから聞いて驚いているだろうね。でも、事実だから仕方ない。ただ、町のみんなには心配を掛けたくないんだ。だから、絶対秘密にしてほしい。」
「判りました。」
吉彦は神妙な顔で答えた。
「じゃあ、明日からしばらくお願いします。薪を運ぶのが一番大変なんだ。君が手伝ってくれればきっとうまく焼けるだろう。」
「頑張ります。」
吉彦はそう返事をすると、店を出た。吉彦は、石段を走り下り、神社へ行くと、神前で手を合わせた。なんだか、こんな自分が誰かの役に立てることが嬉しかった。そして、哲夫の病気が少しでも楽になるように祈った。
加奈が仕事から戻ると、哲夫はこのいきさつを話し、パンを焼く許可を求めた。
「仕方ないわね・・でも、本当に無理しないでよ。」
こうして、翌日、早朝からパン焼きに入る事が出来たのだった。
翌朝、吉彦は源治が漁から戻る前に家を出た。
まだ、夜明け前だった。暗い夜道をできるだけ音を立てず、灯りも持たずに、《命の樹》に向かう。神社の脇の石段もできるだけ音を立てず登ると、パン焼き釜の前で、ヒカルが出てくるのを待った。この場所には初めて来た。おそらく目の前には湖が広がっているのだろうと想像し、暗闇を見つめていると。遠くに灯りが見える。源治たち漁師の船の灯りに違いなかった。腕のけがをしていなければ、あの灯りの中に居たのだと吉彦は思い、ぼんやりと暗闇をうごく灯りを見ていた。がたがたと音がして、ドアが開いた。中から、ヒカルが顔を見せた。
「おはよう。早いのね。」
「ああ・・なんだか、目が覚めてしまって・・何から手を着けたら良いかな?」
ヒカルは、釜の脇にあった軍手を吉彦に手渡して言った。
「あそこから、薪を運んで。小さいのと太いのが必要なの。どれくらいかはわからないけど・・。」
そう言って、軒下に高く積み上げてある薪を指差した。吉彦は軍手を着けると、軒下に行った。太いものは一度に3本程度しか持てない。何度か、軒下と釜の間を往復し、ひとまとまりの薪を運び終えた頃、哲夫が顔を見せた。
「おはよう。二人とも早いね。」
哲夫は、今朝は調子が良さそうだった。すぐに、仕事に取り掛かろうとしたが、ヒカルが止めた。
「まず、バイタルチェックをしないと・・。吉彦さんも中へ。」
ヒカルは哲夫の手を引き、一度店の中へ戻った。吉彦は後について入った。
聴診器と血圧計をカバンから取り出すとヒカルは神妙な顔で哲夫の状態を確認した。
「調子は良いみたいですね・・でも、無理しないでください。そのために、吉彦さんにお願いしたんですから。」
ヒカルは、加奈の口調を真似るように言った。

3-75 炎 [命の樹]

75. 炎
前日の夜、パン生地の準備は済ませ、冷蔵庫に寝かせてある。哲夫は生地を取り出して成型を始めた。ヒカルも手慣れた様子で手伝う。吉彦がしばらく様子を見ていると、ヒカルが「吉彦さんも手伝ってよ」と言って、エプロンを渡した。小さくカットされた生地を丸め成型し、型に入れる。初めての作業に吉彦は夢中になっていた。
「吉彦君、案外、あってるみたいだね。」
哲夫が声を掛けると、吉彦ははっと我に返った。
「・ええ・・なんだか、無心になれて・・。」
「上手いもんだよ。初めてだろ?ひょっとしたら、僕より上手いかもしれない。」
褒められて吉彦は赤くなった。
一通り、パンの成型が終わったところで、釜に火を入れる事にした。
「随分、たくさん運んでくれたんだね。」
哲夫は積み上げられた薪を見ながら言った。
「吉彦君、火を起こしてみるかい?せっかくなんだから、いろいろやってみると良いだろ?」
吉彦は、哲夫に教えられながら、釜の下の火口に薪を積み上げる。そして、最後に、細い木に火を点けて、中に入れた。
空は白み始めていた。
徐々に炎が大きくなってきた。
「上手く点いたようだな。」
火口を覗くと、太い薪の表面が白い煙を上げ始めている。哲夫が少し風を送り込むと、白い煙がぱっと炎に変わった。
「最初は火が暴れてしまって、美味くパンは焼けないんだよ。しばらく燃やして、火が落ち着いたところで、生地を入れるからね。少し時間があるから、コーヒーでも飲むかい?」
哲夫が言うと、ヒカルがすぐに立ち上がって、「私が煎れます」と言って、店の中に入った。
吉彦は、釜戸の火口を見ながら、ぼそっと言った。
「哲夫さん。大丈夫ですか?」
「ああ、今日は調子がいい。それに、こうやって炎を見ているとなんだか心が休まるんだ。」
「ええ・・そうですね。炎ってどこか幻想的で見飽きない・・つい見とれてしまいますね。」
「源治さんは優しいかい?」
哲夫は少しおかしな質問をした。
「はい。良くしてもらっています。熱心にいろいろと教えてもらっています。」
「漁師になる決心はできたのかい?」
「いえ。源治さんには申し訳ないんですけど・・何か、違うように感じて・・いえ、何に向いているとか、そんな事は考えていません。生きる意味を見失っていた自分を救ってもらった御恩もありますし、漁師になって手伝う事ができるのが一番だろうとは思うんですけど・・・ただ、僕なりに何か役に立てることはないかって考えてしまうんです。」
「エンジンを修理できるって言ってたけど?」
「それは昔からやっていた事ですから・・まあ、それが漁師の皆さんの役に立てることだとも思うんですけど・・」
「何か足らない感じなのかな?」
哲夫はそう言うと、火口に火箸を差し込んで、太い薪をごろんと返した。ぱっと炎が広がる。


3-76 焼き立てのパン [命の樹]

76. 焼きたてのパン
「良く判らないんです。このままこの町に居ても良いのか、いつまでも源治さんのお宅に厄介になっているわけにもいかないし・・決断をしなきゃいけないんだと思ってるんですけど・・。」
「そうか・・。」
ヒカルがコーヒーを煎れてきた。三人でベンチに座り、ようやく昇った朝日を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
「さあ、焼き始めようか。」
哲夫は立ち上がると、最初に、型に入れた食パンから焼き始めた。次に、丸く成型したクルミパンやみかんパンを順番に釜に入れていく。
辺りにパンの焼ける香ばしい香りが漂った。
「そろそろ、与志さんがそこから顔を見せるんじゃ・・」
哲夫が言い終わらぬうちに、茂みががさがさと動いて、与志が顔を見せた。ヒカルと吉彦は、余りのタイミングの良さに思わず吹き出してしまった。
「おや?今日は先客がいるようだねえ。」
与志はそう言いながら、ベンチに腰かけた。
「与志さん、紅茶だったよね?」
ヒカルは明るく言うと、すぐに店の中へ入って行った。
「手伝いかい?」と与志が吉彦に訊ねると、「はい。」と吉彦が答える。
「おや、もう船が戻って来てるね。今日は不漁だったようだね。」
与志が湖に目を遣って言った。吉彦も湖の方を見たが、それらしき船は見えない。
「与志さん?まだ船は戻って来てませんよ?」
吉彦が言うと、与志が目は目を閉じたまま、答えた。
「いや・・もう少しで見えてくるさ。音だよ。船の音が聞こえるんだ・・だんだん近づいてくる。ほら、もうすぐ見えるよ。」
与志の言葉通り、遠くからライトを照らした船が小さく見え始めた。吉彦は驚いていた。
「毎朝、船の音を聞いているとね、どんなに小さい音でも判るんだよ。」
「そうですか・・・。」
吉彦は感心していた。
「さあ、焼き上がりましたよ。」
二人のやり取りを聞きながら釜の様子をみていた哲夫が、蓋を明けてパンを取り出した。
クルミパンとみかんパンが香ばしい香りを放っている。そこへ、ヒカルが紅茶を持って出てきた。
「さあ、焼きたてのパンをどうぞ。」
哲夫が三人の前に湯気が上がっているパンを差し出した。
4人はベンチに座って明けはじめた空を見ながら、パンを食べる。
「美味しいです。」
真っ先に言葉を発したのは、吉彦だった。
「あ、そうか・・吉彦君は初めてだったね・・・。」
哲夫が言うと、与志が微笑んだ。
「旨いだろ?・・わたしゃ、このパンを食べたくて、こうやって朝早くここへ通ってるんだ。なんたって、命のパンだからね。」
命のパンの意味が、吉彦にはようやくわかった気がして、つい涙を零しそうになって、慌てて、パンをもう一つ頬張った。

3-77 人の縁 [命の樹]

77. 人の縁
「人の縁とは・・不思議なものだね・・・。」
哲夫が少し感慨深げに言った。
病気にならず、会社勤めをしていたなら、ここに居るのは、決して出会う事などなかった人たちだった。先日、暫くぶりに会社に戻れば、そこには、そこの人間関係があり、皆が懸命に生きていた。ここにも懸命に生きる人たちがいる。
当たり前の事だが、何か、哲夫には、それ自体が何か奇跡のように感じられた。
「そうですね・・。」
同じように感慨深げに答えたのは吉彦だった。
会社を首になり路頭に迷っていた時、源治に出会わなければここには居ない。いや、この世には居なかったかもしれないと感じていたからだった。それから数ヶ月経った今、人の役に立ちたいと考えている自分がいる。源治や漁師仲間、哲夫やヒカル、この町の人に支えられている事を実感していた。
「吉彦君、ここに来て良かっただろ?」
哲夫が訊いた。
「はい。もう一度やり直せるって実感しています。本当に、町の皆さんにどうやって恩返ししたらいいか・・・、これから、頑張らないといけません。」
それを訊いて、ヒカルも言った。
「私もそうです。水上先生からもう一度看護士をと言われた時は、とてもそんな気持ちにはなれませんでした。自分は許されないように思っていましたから・・。でも、今なら、もう一度、看護士としてやり直しても良いんじゃないかって、考えられるようになりました。」
哲夫はヒカルの言葉に頷いた。
「さて、そろそろ、家に戻って畑仕事の支度をしようかね。」
与志さんは、紅茶を飲みほしてから、そう言うと、立ちあがった。
「源治の船が戻ってきたよ。吉彦、そろそろ戻らなくても良いのかい?」
与志さんの言葉に、吉彦は慌てた様子で、湖の方を見ると、源治の船が港の方へ向かって走って行くのが見えた。源治の船が着く前に、港で待っていなくてはならないのだった。
「哲夫さん、また、明日来ます。」
吉彦はそう言うと、急いで石段を降りて戻って行った。
翌日から、三日ほど続けて、同じように吉彦は手伝いに来た。次第に、パン焼きの仕事を覚え、哲夫が出てくるまでに支度が終わるようになっていて、ヒカルと吉彦はベンチで待つほどだった。
「哲夫さんの具合はどうなの?」
「ええ・・今のところは発作もなく、少し調子がいいみたいです。」
「その病気って・・治す事は無理なの?」
「見つかった時、すでに手術できる状態じゃなかったって、結先生がおっしゃってたわ。」
「あとどれくらい・・。」
吉彦はそこまで口にして、ハッとして噤んだ。
「発作が起きなければ良いのだけれど・・大きな発作が起きればおそらく・・だから、私がこうしてお傍に居るんです。」
「ヒカルさんも気が抜けなくて・・大変だね。・・」
「私より、加奈さんの方がお辛いはずよ。でも、余り気遣うと負担になるからって・・今まで通りに暮らしていらっしゃるの。きっとずっとお傍に居たいに違いないのに・・・。」
店の中から音がした。哲夫が起きてきたようだった。

3-78 源治と吉彦 [命の樹]

78. 源治と吉彦
 同じ日の午後、源治が吉彦とともに、店を訪れた。源治は妙に不機嫌な様子で、吉彦はすまなそうな表情を浮かべている。
「てっちゃん、一体、どういう事なんだ?」
源治は店に入るなり、そう言って、テーブル席に座った。哲夫は、昼の片づけを終えて、ようやくロッキングチェアで体を休めているところだった。
ヒカルは二人分の水の入ったコップを運んで、吉彦に「どういう事?」という風な目線を送った。哲夫は立ち上がって、ゆっくりと源治のところへ行く。
「吉彦の奴が、毎朝、パン焼きの手伝いに来てるって・・本当かい?」
源治の様子に、哲夫は源治の言いたいことは大体想像がついた。
「ええ・・ちょっと、手伝ってもらったんです。吉彦君も怪我をして、漁に出られないって聞いて・・家でぶらぶらしてるのなら、手伝ってくれないかって・・。」
源治はまだ納得していない。
「竜司から聞いたんだ。吉彦が、夜明け前にここに来てるってさあ。ヒカルちゃん目当てで行ってるようなら、どやしつけようと思ったんだ。若い娘にちょっかい出すんじゃない。今は半人前なんだ。一人前になって口説くのが男ってもんだからよ。」
源治は昭和の男だった。それもかなりの硬派だ。
「だがよ、毎朝ここに来てるのはパン焼きの手伝いのためだっていうじゃないか!」
「ええ・・確かに、ここに手伝いに来てもらってました。」
源治は小さく頷くとさらに言った。
「じゃあ、どういうつもりだって訊いたら、突然、パン焼きの仕事をしたい、だからてっちゃんに教えてもらっているんだって言い出したんだ。・・物覚えもよくって、もう少し修業を積めば立派な漁師になれる。それに、エンジンだって直せる。竜司たちだって、吉彦には期待してるんだ。なのに、パン焼き職人になりたいって・・なんだか、情けなくてよお。」
「それは・・済まない事をしました。・・ほんの数日、怪我が治るまででとは思っていたんですけど。」
哲夫はそう言うと、吉彦を見た。
吉彦は何か言いたげだったが、ヒカルが肩に手を置いて制止した。
「いや・・てっちゃんに、謝ってもらうために来たんじゃないんだ。・・それに、吉彦がどんな仕事をするかは本人が決めるものだしな・・・ただ、俺は、残念でならないんだ。腕のいい漁師を一人失くしたような気分なんだよ。判るかい?」
「本当に申し訳ありませんでした。・・・まあ、少し落ち着いて・・コーヒーでもいかがです?」
「ああ・・」
すぐにヒカルが厨房に行き、コーヒーを煎れ、すぐに運んできた。
源治はヒカルが運んできたコーヒーを一口飲んで、咲くほどより少し落ち着いた口調で訊いた。
「てっちゃん、吉彦は一人前のパン焼き職人になれるかい?」
「いや・・それは何とも・・本人のやる気次第・・いや、好きかどうかでしょうね。好きな事ならきっととことん打ちこめる。そうすれば、きっと、立派な職人になれる。漁師だって一緒でしょう。」
「まあ・・そうだな・・嫌々じゃ中途半端なままで終わる。いや、漁師は命を懸けた仕事だから、中途半端じゃ命を落としかねないからな。」
そこまで言って、源治は今一度コーヒーを口に運んだ。
「おい、吉彦!どうなんだ!」
源治が強い口調で尋ねた。吉彦は戸惑った表情を浮かべている。

3-79 本当の事 [命の樹]

79. 本当の事
吉彦は、源治の顔を見ながら、しどろもどろになりながら言った。
「いえ・・いつか・・哲夫さんみたいに・・こんな店が持てたらいいなと・・パン焼きの仕事も面白いし・・自分に向いてるかもしれないって・・・。」
「なんだい!そんないい加減な気持ちなのかよ!」
源治は、自信なさそうに答える吉彦に、怒るように言った。
「良いか、吉彦!店を持つなんて相当の苦労が要るんだぞ。そんな甘いもんじゃない。てっちゃんだって、そんなに軽く見られちゃあ、迷惑なんだよ!もう二度とここへ来るんじゃない!・・漁師の修行も終わりだ!・・すぐに荷物をまとめて出ていけ!」
源治は、自分の感情のコントロールが出来なくなって、思わず、言い放ってしまった。
「駄目よ!」
口を挟んだのは、ヒカルだった。
「吉彦さんがいないと困るんです。吉彦さんだって、いい加減な気持ちでここに来たんじゃありません。理由は言えませんが・・吉彦さんが必要なんです。」
源治はヒカルの言葉に驚いた。ヒカルは涙を浮かべていた。源治には、そこまで言うヒカルの気持ちがわからなかった。
「どうしたんだい、ヒカルちゃん。・・・。」
「今、こうして、吉彦さんがいるから・・。」
ヒカルはそこまで言ってもう堪え切れなくて涙を溢してしまった。そして厨房に引っ込んでしまった。
その様子に、哲夫は覚悟を決めた。
「源治さん・・すべて話します。その代り、絶対秘密にしてください。」
哲夫は、そう言ってから目を閉じ、深呼吸をしてから口を開いた。
「実は、僕は病気なんです。もう長くない。末期の癌なんです。このところ、体力が落ちていて、パン焼きの仕事は諦めなきゃいけないって考えていました。でも、パンが無くちゃ、この店も開けない。そこでヒカルちゃんが、吉彦君に手伝いを頼んでくれたんです。ここ数日、彼が来てくれて、昔のようにパンを焼くことができました。本当に感謝しています。」
突然の哲夫の告白に、源治は驚いて言葉が出なかった。
「僕もヒカルちゃんから話を聞いて驚きました。でも・・こんな僕が役に立てるならって・・。」
吉彦が加えた。
「なんだよ、病気って・・癌だって?・・嘘だろ…そんな事って・・・」
源治はテーブルを叩き、誰に訊くともなく呟いた。しばらく沈黙が続いた。
「病気が見つかって、会社をすぐに辞めました。残りの時間を静かに暮らしたいって考えたんです。最初は何もせずただぼんやりと過ごしていました。でも、これじゃ、ダメだ。ただ、死を待ってるだけだって思うようになって、ここに店を持つ事にしたんです。」
こんな話は、加奈以外にしたことはなかった。
ヒカルも吉彦も、源治もじっと哲夫の話を聞いた。
「店を開いて、いろんな方と知り合いになって、たくさん助けてもらいました。加奈もここへ来てからは随分と明るくなりました。本当にここへ来て良かった。ありがとうございました。」
「てっちゃん、止めてくれ!何だか、お別れの挨拶みたいじゃねえか。」
源治は耐えられず言った。

3-80 思いやる気持ち [命の樹]

80. 思いやる気持ち
「わかったよ。・・吉彦、ちゃんと仕事をするんだぞ!みんな、てっちゃんのパンを楽しみにしてるんだ。命のパンなんだ。町の人達の希望なんだ。・・良いか・・しっかり、仕事をして・・一日でも・・。」
源治はそこまで言ってからハッと気づいた。その言葉の先は言ってはならない事だった。
「すまない・・俺はただ・・。」
源治が取り繕うように言うのを見て、哲夫は笑顔で言った。
「良いんです。実際、そうなんです。あと何日、パンを焼けるか判りません。でも、命の続く限り、焼こうと思っています。加奈のためにも、一日も長く生きようと思っています。」
源治は涙を浮かべている。
「てっちゃん、俺にも手伝えることがあったら言ってくれ。あんたには、孫たちも、娘も助けてもらったんだ。ちゃんと恩返ししなくちゃ気が済まないんだ。」
「ありがとうございます。でも、良いんです。そうやって、気を遣って貰うとかえって辛くなります。病気の事を内緒にしていたのもそういうのが嫌だったからです。今まで通り、時々、店に来ていただければ良いんです。・・ただ・・病気の事は絶対秘密にしてください。お願いします。」
「そうかい?・・だが・・・・。」
「お願いします。」
「病気の事、知ってるのは、加奈さんやヒカルちゃん、吉彦だけかい?」
源治が訊いた。
「いえ・・結先生たちもご存知です。主治医ですから・・それから・・与志さんもご存じのはずです。」
哲夫の答えに驚いたのは、ヒカルだった。
「えっ?与志さんがご存じなのをマスターも?」
「ああ・・確証はないんだけどね・・。」
ちょうど、その時、厨房のドア口に与志が来ていた。畑で採れた野菜を届けようとしていたのだった。
与志は少し開いていたドアの隙間から、店の中の会話を聞いていた。
「店を始めた頃、パンを焼いていると時々与志さんがやってきてくれて、話し相手になってくれたんです。ただ、その頃は、パンが焼き上がる時間にやってきて、ベンチに座ってぼんやりと湖を眺めていらっしゃいました。でも・・いつの頃か、火を入れる前から顔を見せてくれて・・・時々、私の様子を見ていて下さるようになりました。」
与志は、息を殺して、哲夫の話に耳を傾けていた。
「加奈も、与志さんの家に、足しげく通うようになり、何か随分と明るくなりました。おそらく、加奈は与志さんに僕の病気の事を話したんでしょう。与志さんは、加奈の辛い気持ちを受け止めて下さっているのだと思いました。ありがたい事です。」
ヒカルも与志から、朝の哲夫の様子を見守っている事を聞いていた。だが、そのことを哲夫は気付いていないものだと思っていた。だが、実際には、知らないふりをしていただけだったのだと知り、改めて、みんなの互いを思いやる気持ちの深さに触れ、涙が溢れてきた。
与志は、手に持っていた野菜の籠をドア口に置いて、気づかれぬように家に戻って行った。
「わかった。みんなには秘密にしておこう。余計な気遣いはてっちゃんにも辛いからな。」
源治は、残ったコーヒーを飲み干すと、立ち上がり、吉彦の肩を叩いた。
「やっぱり、お前は俺の見込んだ男だった。・・お前なら、きっとちゃんと生きていける。自分の生き方は自分で決めるんだ。」
源治はそう言って店を出て行った。


3-81  小さな笑顔 [命の樹]

81. 小さな笑顔
それからは、吉彦は朝早く哲夫の店でパン焼きの仕事を手伝った。
港の漁師たちは、吉彦がパン職人を目指すことになったことを知って、しばらくは、不満そうだったが、店で働く吉彦の笑顔を見て次第に納得し、以前にもまして、店に顔を出すようになった。源治は少しぎこちない態度ではあったが、それもほんのしばらくの事だった。

3月に入ったある日の夕食で、哲夫が保育所へパンを届けるのを再開したいと言い出した。
年明け以降、中断してしまっていたのだが、保育所の園長先生が店に顔を出して、園児たちの様子を話したのがきっかけだった。
「保育所まで届けるのは無理じゃない?」
加奈が不安げに言った。
「ああ・・僕が行くのは無理だろう。でも、吉彦君に届けてもらうというのはどうかな?」
ヒカルが笑顔で答える。
「それは良いですね。彼ならきっと子どもたちの人気者になれるわ。」
翌日、吉彦は少し戸惑いながらも承諾した。
その日、焼きあがったパンを小さな袋に詰め、箱に入れると、吉彦が保育所に向かった。
予想通り、吉彦が保育所に着くと、吉彦は、小さな笑顔に取り囲まれた。
「あれ?てっちゃんじゃないよ。」「てっちゃんは?」「かなさんは?」「パン、持ってきてくれた?」「今日は何パン?」「おじさんの名前は?」
矢継ぎ早に子どもたちが吉彦に訊く。
「さあ、さあ、みんな、ちゃんと並んで!お兄さんからお話を聞きましょう。」
保母さんが皆を整列させた。そして、「さあ、どうぞ」という風に保母さんが吉彦に促す。こんなふうに迎えられるとは聞いていなかった。
ただ、届けるだけだと思っていた吉彦はどうしたものかという表情を浮かべている。
「よしくん。」
園児の一番前にいた男の子が声を上げた。そう言ったのは、源治の孫の裕だった。それを聞いて、園児たちが反応する。
「よしくん?」「誰?」「ゆうちゃんのおともだち?」
ざわざわとする。吉彦は、裕の顔を見て少し落ち着いた。
「ええっと・・僕は吉彦と言います。・・よしくんと呼ばれています。今日は、哲夫さんの代わりに、パンを届けに来ました。」
そう言うと、急に園児たちが爆笑した。
「てつおさんだって!へんなの!」「てっちゃんだよお!」
吉彦は、園児たちの反応でリラックスした。
「そう・・てっちゃんのパンを持ってきました。今日は、久しぶりなので、みんなの大好きな、みかんのパンです。たくさん焼いたから、たくさん食べてください。」
吉彦が言うと、園児たちは、嬉しそうに「ありがとうございます」と言うと、順番にパンを受け取り、部屋の中へ入ると、決まった椅子に座って行儀よくパンを食べ始めた。皆、とても嬉しそうに食べている。吉彦はその様子を見ながら、園児たちが以下に哲夫のパンを楽しみにしているかを実感し、つい、涙ぐんでしまった。(9/19)

3-82 気遣い [命の樹]

82. 気遣い
「どうされました?」
そう言って近寄ってきたのは、保育所の園長だった。
「いえ・・とても嬉しそうに、美味しそうに食べてもらっている様子を見ていると、何だか嬉しくって、感動してしまって・・・。」
吉彦の言葉に、園長は園児たちの方を見てから言った。
「ええ・・皆、楽しみにしていたんです。みんなの元気の素です。昨日、パンが届くよってお話したら、大騒ぎでした。・・パンも大好きですけど、哲夫さんと加奈さんも大好きですから。」
「そうなんですか。・・ああ、僕は工藤吉彦と言います。源治さんのところに居候させてもらっているんですが、今は、哲夫さんのところでパン焼きのお手伝いをしています。今日は、配達するよう言われたんです。」
「そうですか。ありがとうございます。」
園長は、少し間をおいてから言った。
「あの・・哲夫さん、どこかお悪いんでしょうか?」
吉彦は、どきっとした。
「お店もしばらくお休みでしたし・・先日、久しぶりにお逢いしましたけど、以前より随分と痩せられたみたいでしたし、椅子に座ってお話される様子も何かお疲れの様子で・・・。」
園長は心配そうな顔で訊いた。
吉彦は、戸惑いながら答えた。
「いえ・・そんな事もないようですけど・・・・ちょっと前の会社の用事があったようで、しばらくお休みにされていましたけど。・・・大丈夫です。これから、僕がちゃんとお届けできるようにしますから・・。」
吉彦の口振りに少し怪訝な表情をした園長だった。
「あの・・無理なさらないようにお伝えください。」
それ以上は訊かなかった。吉彦は深々と頭を下げ、保育所を後にし、水上医院へパンを届けた。
「おじさんの様子はどう?」
診察室から出てきた結がいきなり訊いた。随分心配そうだった。
「今日はお元気そうです。ああ、これ、ヒカルちゃんからです。」
吉彦は、パンと一緒に、紙封筒を手渡した。
封筒の中には、ヒカルが毎朝やっている哲夫のバイタルチェックの記録と経過記録書だった。結は、一つ一つ丁寧に目を通していく。
「ちょっと待っていてください。薬の準備をしますから。」
結はそう言うと診察室に戻って行った。
吉彦は、誰もいない待合室の椅子に腰かけた。
ヒカルから、結と哲夫の関係は、あらまし聞いていた。大学病院を辞め、ここに個人医院を開いたのは、哲夫への恩返しなのだと教えられていた。そんな決断をする結の考え方が不思議な感じがしていたが、医院の温かい雰囲気に、結の優しい気持ちを確かに感じることができた。しかし、それ以上に、この町の人にとって、水上医院は大事な命綱となっている。哲夫がこの町に来なければ、この病院もなかったはずだ。吉彦は、朝のパン焼きの時「人の縁とは不思議なものだね」と言った哲夫の言葉を思い出していた。哲夫自身がその縁の中心にいて、不思議なくらいに、その縁は幸せを呼んでくるように感じていた。(9/20)


3-83 竜司と吉彦 [命の樹]

83. 竜司と吉彦
水上医院から戻る途中、須藤自転車と玉木商店にもパンを届けた。
皆、パンを受け取りながら、哲夫の様子を気遣う言葉を言う。その度に、吉彦は、大丈夫ですと答え乍らも、心の中に苦しさが募るばかりだった。
その後、吉彦は港へ立ち寄った。
午後の時間、漁の準備のため、漁師たちは、船着き場あたりに居た。
「おい、吉彦、どうだ、パン焼きは?」
竜司が声を掛けてきた。
「ああ、丁寧に教えてもらってるよ。」
「そうかい・・まあ、ヒカルちゃんと一緒だから、お前はそれだけで十分、幸せだよな。」
竜司が少し冷やかすような言い方をした。それが吉彦にはなんだか妙に腹立たしく感じられた。
「そんなもんじゃない!」
吉彦の反応に驚いて、竜司が訊いた。
「おいおい、軽い冗談だろ・・どうしたんだ、お前らしくない。」
「・・何でもないさ・・・。」
吉彦は、胸の中に抱えた思いを吐き出したかったができず、ますます表情は硬くなった。
「おい、吉彦。何か胸の中につっかえてるものがあるんなら、聞いてやるぞ。言ってみろよ。」
そう言われても、口にする事などできない。
「すまない、もう戻るよ。」
そう言って、自転車に乗ろうとした時、水上医院から預かった薬の袋が自転車の籠から落ちて、中身が見えた。薬袋には、倉木哲夫の名前が書かれている。竜司が袋を拾い上げた。
「おい、哲夫さん、病気なのか?」
「いや・・・それは・・。」
もう吉彦はこれ以上黙っていることができなくなり、ついに、竜司に哲夫の病気の事を話してしまったのだった。
一通り、話を聞いた竜司が言った。
「そうか・・そんな事だったのか・・・。」
竜司はそう言った後、大きなため息をついて、波止場のコンクリートに座り込んでしまった。
「頼む、秘密にしてくれ。皆、そうやって哲夫さんを気遣ってるんだ。・・」
「ああ、判った。一番つらいのは哲夫さんだからな。お前も無理するなよ。困ったことがあったらすぐに相談に来るんだぞ。一人で抱え込めることじゃないんだからな。」
「ああ、ありがとう。」
吉彦は竜司に話して、心が少し軽くなったようだった。
「今、戻りました。」
吉彦は明るく挨拶して店に入った。
「どうだった?」
出迎えたのは、加奈だった。
「保育所の子どもたち、すごく喜んでいました。皆、哲夫さんや加奈さんに会いたがっていましたよ。」
「そう。また、会いに行けると良いんだけど・・・。」
そう言って振り返った視線の先には、ソファで横になっている哲夫の姿があった。脇には、ヒカルと結の姿があった。(9/21)

3-84 発作 [命の樹]

84. 発作
「どうしたんですか?」
吉彦がその様子に驚いて訊くと、加奈が辛そうな顔でぽつりと言った。
「さっき、軽い発作が起きたのよ。ヒカルちゃんがすぐに応急処置はしてくれて・・・念のために、結ちゃんにも来てもらったんだけど・・・。」
吉彦が、水上医院から町の中を回って、港に立ち寄っていた間に、起きた事だった。
「吉彦さん、哲夫さんを2階のベッドまで運ぶの、手伝って貰える?」
結が言い、ヒカルと結と吉彦の3人で、哲夫を2階に運んだ。
ベッドに横になった哲夫の傍には、加奈と結が残り,しばらく容態を見守った。
ヒカルと吉彦は、一階に戻り、椅子に座った。
「今日はちょっとお客様が多くって・・やっと途切れたところで、片付けをしていたの。マスターも今日は調子が良いからって、テーブル拭きをしていたのよ。でも、急に眩暈がしたみたいで、そのままソファに座り込んでしまわれたの。呼吸も弱かったから、すぐに応急処置をして、結先生と加奈さんに連絡をしたの。」
ヒカルはそう言うと、祈るような表情で2階の部屋の方へ視線を遣った。
「大変だったね。もっと早く戻ってくれば良かった。」
「いえ・・良いのよ。これが私の仕事だから。」
「軽い発作って・・。」
「呼吸はすぐに回復したし、意識もちゃんとあったから・・でも、眩暈が気になるの。」
二人が話しているところへ、結が降りてきた。
「どうですか?」
吉彦が真っ先に尋ねた。
「今は安定しているから・・・。」
結はそう言っただけで、席に着いた。
「コーヒー、煎れてきます。」
ヒカルは席を立ち厨房へ入るとすぐにコーヒーカップを持ってきた。
「眩暈はいつごろからか・・判る?」
結がコーヒーを飲みながらヒカルに尋ねた。
「今日のようにはっきりと判ったのは初めてです。ただ・・」
「ただ?」
「ええ・・朝のパン焼きの時、時々、様子がおかしいことがありました。パン生地をこね乍ら、ちょっと腰を伸ばして姿勢を戻すようなしぐさがあって・・・何か、視点が定まらないのを戻そうとしているふうに感じることがありました。」
ヒカルの話に、吉彦は少し驚いた。自分は、哲夫の手伝いをするのに精いっぱいで、哲夫の様子などほとんど覚えていない。だが、ヒカルはちゃんと仕事をしながら、哲夫の小さな変調を見逃していない。
「痛みは?」
「いえ・・そういう事はないと思います。」
「そう。」
そこまで話したところで、2階から加奈が降りてきた。
「もうすっかり眠ってしまったみたい。ヒカルちゃん、ありがとうね。結ちゃんも・・。」
加奈はすっかり元気をなくし、今にも泣きだしそうな表情だった。(9/22)

3-85 検査の結果 [命の樹]

85. 検査の結果
「加奈さん、念のため、検査をしておきましょう。おそらく、眩暈の原因は、脳の中の腫瘍のせいだと思います。きちんと検査をしてこれからの事を相談しましょう。」
結は、医師の顔で、加奈にそう告げると医院へ戻って行った。
結は、店を出て、医院に着くまでの道で何度も何度も立ち止まり涙を拭った。医師である自分自身の不甲斐なさを嘆いた。
翌日、朝一番に、哲夫は加奈とヒカルに付き添われて、水上医院に出かけた。
吉彦はひとり店に残ったが、一人では店を開けるわけにはいかない。臨時休業の看板を出してから、吉彦は店内の片づけをして、パン焼き窯のある裏庭で、薪割りの仕事をしていた。
「てっちゃんの調子が悪いのかい?」
与志さんが顔を出した。
「ええ・・昨日、眩暈を起こしてしまって・・水上医院で検査を受けられています。」
「そうかい・・。」
与志は遣る瀬無い表情を浮かべ、ベンチに座った。
「理不尽な事だよねえ・・どうして、てっちゃんみたいな人が病気にならなくちゃいけないんだろうね。・・てっちゃんとかなさんはここへ来てから、町の皆がどれだけ救われたか・・・私だって、話し相手も出来て・・・自分の息子や娘みたいに思ってきたんだ・・・急に生き甲斐が出来たみたいで嬉しかったんだ。」
今日の与志はいつもと違っておしゃべりだった。いや、話をしながら、しぼんでしまった気持ちをもう一度膨らませようとでもしているにちがいなかった。源治も哲夫の病気を知った時、我が事のように悲しんでいた。おそらく、町の誰もが哲夫の病気を知れば深い悲しみに包まれるに違いない。吉彦はそう感じていた。それと同時に、こんなに近くに居ながら、自分にできることがほとんどない事を不甲斐なく感じていた。吉彦は薪割りをしながら、はらはらと悔し涙を流していた。
昼前に、哲夫は、加奈やヒカルと一緒に戻ってきた。
「吉彦さん、ごめんなさいね。」
加奈がそう言って玄関を入ってきた。
「お帰りなさい。」
吉彦が出迎えると、哲夫はヒカルに支えられるようにして入ってきた。
「すぐに2階へ行きましょう。」
哲夫はそのまま、加奈に付き添われて2階の部屋に行って休んだ。
「どうだったの?」
吉彦が訊くと、ヒカルは悲しい表情を浮かべて言った。
「やっぱり、腫瘍が大きくなっているんだって・・視神経あたりまで圧迫して、視点が定まらない状態が起きているらしいの・・。」
「そうか・・・。」
「結先生はそのまま入院して治療に専念する事を提案されたんだけど・・マスターが聞き入れなくて・・家に戻りたいって・・・。」
「そんな・・・。じゃあ、もうお店もパンも・・。」
吉彦の脳裏には、与志や源治、そして、町の人達、それに、保育所の園児たちの顔がぱっと浮かんだ。
「みんな、哲夫さんのパンを楽しみにしてるのに・・・」
「仕方ないわ・・いつかこういう日が来るって・・マスターも加奈さんも・・・。」
ヒカルはそこまで口にして、口を押え、はらはらと涙を溢した。(9/23)

3-86 休業の案内 [命の樹]

86. 休業の案内
≪命の樹は、休業します。≫
神社の脇に置かれた立て看板にはこんな案内が書かれた。
哲夫は、源治や与志とも相談し、店に、親しい人達に集まってもらった。
そして、自分の病気の事を告げたのだった。
「本当に皆さんにはお世話になりました。実は、ここで店を開く前から、私は末期の癌でした。長年勤めた会社を辞め、静かな余生を送れればと一旦、この近くに転居してきましたが、やはり、死を待つだけの時間の過ごし方は自分らしくない、もう一度何か人の役に立てないものかと考えて、ここに店を開きました。少しでも長く続けたいと願っていましたが、やはり、病気は許してくれませんでした。もう限界が来たようで、これで≪命の樹≫は閉店させていただきます。本当にこれまでありがとうございました。」
哲夫は、集まってもらった人たちに感謝の言葉を述べた。
「駄目だ!てっちゃん。まだ早いよ!」
源治が涙を流しながら言った。与志が源治の背をさすりながら、同じように涙を流した。
「そうだよ・・てっちゃん・何だか、もう、お別れみたいな話をするなよ。」
玉木商店の店主が言う。
「諦めちゃだめだ。俺を見てみろ、不自由だが、こうやってちゃんと仕事してるんだ。」
須藤自転車の親父も、息子に付き添われ、顔を見せていた。
「何とかなんないのかよ、結先生!」
漁師の竜司が涙を流しながら、訊く。
「無理をすれば、命を縮めることになるんです。少しでも安静にしている事が大事なんです。」
「そんなことは判ってるんだよ!だけどさあ・・淋しいじゃないか!」
今までこれほど感情を表に出す竜司は初めてだった。
「すみません・・こんなことになるなんて・・本当にすみません。」
哲夫が頭を下げる。
「いや、てっちゃんを責めてるんじゃないんだ。もっと何か方法はないのかって・・もっと早く知っていればって・・・悔しんだよ・・・。」
玉木商店の店主が言った。
「本当に申し訳ありません・・・こんなふうに皆さんにつらい思いをさせてしまうのが嫌で・・今まで秘密にしてきたんです。でも、このまま何もご挨拶も出来ずに逝ってしまったら、もっと悲しませるんじゃないかと思ったんです。」
店の中は深い悲しみに包まれている。誰もが何も言えず、ただただ、涙を流していた。
「あの・・哲夫さん・・一つお願いがあるんです。」
吉彦が口を開いた。そして、ヒカルの方を見て頷いた。
「喫茶店を続けるのが無理なのは僕も傍に居てよくわかっています。でも、命のパンを待ってくれている人はたくさんいます。ですから、パン屋だけでも続けませんか?」
「いや・・パンを焼くのが一番大変なんだよ・・。」
哲夫は、力なくそう言った。
「知ってます。だから、パンを焼くのは僕の仕事です。そのために今日まで哲夫さんに教わってきたんですから。買い求めに来られる方にはヒカルさんが対応します。でも、パンを焼いて、買って貰うことならできるんじゃないでしょうか?」
吉彦はヒカルと相談していたようだった。(9/24)

3-87 改装工事 [命の樹]

87. 改装工事
吉彦の提案に、集まったみんなが賛同した。
次の日、結が、ある業者を連れて、店にやってきた。
「初めまして・・わたくし、こういう者です。」
その業者が差し出した名刺には、住宅リフォームの会社名が書かれていた。
「結ちゃん、どういう事?」
応対した加奈が怪訝な顔で結に訊いた。
「この方たちは、うちの病院のリフォームをお願いした方たちなのよ。ほら、昨日、パンを焼いて売るのは続けるって話だったから、お店の改装が必要でしょう?」
「でも・・そこまでしたって・・。」
加奈が少し戸惑っているようだった。
「昨日、あれから、おじさんからも、業者に訊いてくれないかって頼まれたのよ。」
「そんな・・・。」
「それとね、おじさんの療養の事も考えたいの。2階の部屋じゃ、ちょっと暗いし、発作が起きたら看護も大変でしょう。喫茶店をお休みにしたんだから、ここの日当たりの良い処にベッドスペースを作ってみたらどうかなって・・。」
「それはいいでしょうけど・・・。」
「お願い、加奈さん。医者が言う言葉じゃないかもしれないけど・・残りの時間、おじさんが普通に皆と話ができて、外の様子もわかって・・その日が来るまで満足できるようにしてあげたいの・・。」
結の思いは、加奈も一緒だった。
「判ったわ・・そうね・・その方が良いわよね。」
すぐに業者は店内の寸法を測り始めた。そして、結と加奈と一緒に、店内の改装プランを相談して、哲夫に話した。哲夫はすぐに承諾した。
改装工事は2週間ほどかかった。
その間、哲夫は、昼間は、階段下のロッキングチェアスペースで横になりながら、吉彦にパン焼きの手ほどきをし、ヒカルも一緒になって、パン焼きを覚えた。
源治や竜司、玉木商店の店主も、時々顔を見せて、吉彦が焼いたパンの試食役となっていた。
もちろん、与志はこれまでと同様に、パン焼き窯の火が入る頃になると、顔を出し、紅茶を飲んで、何でもない話をして、焼きあがったばかりのパンを試食した。最初の頃は、与志も吉彦が焼いたパンを一口食べただけで首を横に振って、がっかりした様子で戻っていく日が続いた。それでも、ほとんど毎日顔を見せ、試食した。町の皆が、吉彦とヒカルを応援していた。
工事がほとんど終わった頃の朝だった。この頃には、ほとんど吉彦一人でパンを焼くようになっていた。吉彦はその日、ミカンパンを焼いた。
「うん?!」
与志が、焼きあがったばかりのミカンパンを一口食べて、小さく唸った。
「どうです?まだ、ダメでしょうか?」
与志は、もう一口食べ、じっと目を瞑った。
「いや、今日のは、てっちゃんのパンに負けないほどになったよ。これなら大丈夫。」
工事が終了した。
出入り口のすぐ脇に、パンを並べる棚が設えられ、小さなレジスターを置いたカウンターも出来た。一番日当りが良く、庭を眺めることができる南側のスペース、春に赤い薔薇を植えたテラスに面した場所が、哲夫の静養場所となった。(9/25)

3-88 春の風 [命の樹]

88. 春の風
木蓮の花の蕾は大きく膨らんで、そろそろ開きそうな季節になった。
≪命の樹≫の立て看板には、「パン小売りしています。」の文字が書き加えられた。
吉彦の焼くパンは、種類は少なかったけれど、それなりに評判が良かった。以前からの常連さんは、吉彦の事を、「よし君」と呼び、「命のパンを守ってちょうだいね」と応援してくれるようになっていたし、なにより、町の皆が、哲夫と話をするために入れ替わりやってきては、パンを買っていくので、毎日ほとんどパンは売れてしまうのだった。
哲夫は、昼間は、日当りの良いスペースで、ロッキングチェアに腰かけ、顔を見せる町の人と世間話をして過ごす事ができた。
「哲夫さん、今日は保育所にパンを届けてきます。今日、卒園式なんだそうです。」
吉彦が、今朝焼いたパンをトレイに並べながら哲夫に言った。
「そうか・・もうそんな時期なんだね。」
「ええ・・園児たちは哲夫さんに会いたがっていますよ。」
「行ければいいんだけどね・・。」
この頃、哲夫はもう自力で歩くことが難しくなっていた。腫瘍が大きくなっていて、眩暈がひどくなって、立ちあがるのもやっとだった。
加奈が勤める専門学校も、卒業を前に、もう授業も亡くなっていて、ずっと哲夫の傍に居られるようになったので、日中は哲夫のロッキングチェアの横に小さな机を置いて、仕事をしているようになっていた。
「それで・・哲夫さんにお願いがあるんです。」
「なんだろう?」
「パンの袋にメッセージを入れて欲しいんです。今日のパンは、卒園式で園児たちに配ることになっているんです。お願いします。」
「メッセージって言われても・・ねえ。」
手伝っているヒカルも言った。
「みんな、マスターと加奈さんに会いたがっているんです。卒園していく子どもたちにとって、これが保育所で貰う、最後のパンなんです。きっと思い出も多いはずです。何か、一言で良いんです。」
「そうかい?」
まだ、哲夫は躊躇っているみたいだった。
「いいじゃない、私も一言書かせてもらうわ。みんなから、いっぱい元気をもらったからお返ししなくちゃね。」
加奈も哲夫の隣で言った。
「・・・判ったよ。」
哲夫も承諾した。
吉彦とヒカルは、パンを包む小さな紙を園児の分だけ持ってきて、ロッキングチェアの脇の小さなテーブルに置いた。二人は、園児たちの名前を書いて、それぞれ一言ずつ、袋に記した。

吉彦とヒカルが、保育所に届けるパンの支度を終えて、出かけようとした時に加奈が言った。
「園児の皆さんに、よろしく伝えてね。」
加奈が鼻にかけた老眼鏡からちらりと二人を見ている。そこには少し寂しそうな笑顔があった。
「ええ、伝えます。・・じゃあ、行ってきます。」(9/26)


3-89 薔薇の新芽 [命の樹]

89. 薔薇の新芽
加奈と哲夫は、日差しの入る暖かいスペースでぼんやりと外を眺めていた。
「もう、すっかり、二人がこの店の顔になったみたいね。」
加奈がぼそりと呟いた。
「ああ・・。」
哲夫もぼそりと呟いた。
「千波がね、来週には、戻ってくるって・・。」
「ああ・・そうだったね。部屋の支度はできているのかい?」
「ええ・・・改装の時にね、結ちゃんが、千波が戻ってくるのを知って、ついでにって言って、2階の改装もお願いしてくれたの。・・2階の部屋はすぐに千波が使えるようになってるわ。」
「そうか・・それなら安心だ。・・吉彦君はどうしてるんだ?」
「彼は、与志さんのところに住んでるみたい。与志さんが、そうしろって言ったらしいのよ。朝早くパン焼きに来るのに、源治さんのところじゃ、迷惑だろう。年寄りの一人暮らしだから、若い人が居てくれれば安心だって・・。何だか、親子みたいに暮らしてるのよ。」
「へえ・・そうなんだ。そのうちに、畑仕事も覚えるんじゃないかな?ほら、以前に、ミカン畑を継いでもらえないかって頼まれたことがあっただろ?」
「そうだったわね。・・・まあ、どうなるかわからないけど、そうなるといいのにね。」
「ところで、あの二人、結婚とかしないのかな?」
「結婚?」
加奈はちょっと驚いた顔をした。
「朝から晩まで一緒に居るんだし、気持ちも通じ合ってるんじゃないかい?」
哲夫が当然という顔をして言った。
「・・よし君の方は、昔からヒカルちゃんの事が好きなのは誰もが知ってることだけど・・ヒカルちゃんはどうなのかしら?・・そんなふうに彼の事を考えてるようじゃないけど・・。」
「そうなのかい?」
「ええ・・今はそんな余裕はないんじゃないかしら?」
加奈はそう言ってちょっと後悔した。それは、ヒカルが哲夫の看護のためにほとんど毎日気が抜けないという事を意味しているのと同じだと気付いたからだった。
「そうだったね・・でも、もし、二人が一緒になってくれてこのままパン焼きの仕事をここで続けてくれるなら、僕も安心なんだけどね。」
「そうね・・・。」
加奈はそう答えるのがやっとだった。
「おや?」
哲夫が外を見ながら急に身を乗り出すようにして言った。
「どうしたの?」
加奈も外を見た。
「ほら・・あそこ。」
哲夫が指差した先には、薔薇の弦があった。そこには、薔薇の赤い新芽が伸び始めていた。加奈が、窓を開けて、テラスに出て、赤い新芽をさがしてみると、いくつも出ているのが判った。
「たくさん、出てる。たくさん花が咲くかしら。」
加奈は笑顔で振り返った。(9/27)

3-90 園児の行進 [命の樹]

90. 園児の行進
保育所に向かった吉彦とヒカルは、卒園式の最後にパンを配る役になっていた。
卒園式は、保育所の隣にある、町民会館で行われていて、園児の父兄だけでなく、町長や役場の職員、自治会長が来賓として招かれ、玉木商店の店主など、町のおもだった人たちも招かれていた。
「お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、ありがとうございました。町のおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん、ありがとうございました。先生、ありがとうございました。」
卒園式の最後に、園児たちの、卒園のお礼の言葉が町民会館に響いた。
そして、園児たちは、集まった人たちの大きな拍手に送られて、列を作って、退席していく。その出口で、吉彦とヒカルは園児たちに、小さな袋に入ったパンを一つずつ手渡していった。
「ありがとう。」
園児たちの晴れやかな笑顔が返ってくる。
「わあ!何か書いてある!」
最初に受け取った園児が叫んだ。
「哲夫さんと加奈さんから、みんなへの卒園のお祝いの言葉だよ。」
吉彦が言うと、園児たちは、貰ったパンの袋を丹念に見始めた。
春には小学校へ入学する子どもたちである。そこに書かれた文字を読むことは容易かった。
「ありがとう・・てつお・・かな・・ホントだ!てっちゃんとかなちゃんからだ!」
見つけた子どもたちは歓声を上げた。
そして、その袋を大事そうに、親たちに見せた。
「ねえ、てっちゃんは?」
園児の一人がヒカルに尋ねた。
「今日は来られないって・・・。」
園児はがっかりした表情を浮かべた。
別の子が訊く。
「まだ御病気、良くならないの?」
あどけない顔で心配そうに聞いてくる。
親たちから、哲夫の病気の事をどんなふうに訊いたのだろう。吉彦はどう答えたらよいか困ってしまっていた。すぐは、ヒカルが言った。
「ええ・・でもね・・てっちゃんもかなちゃんもみんなに会いたがっていたのよ。」
「そうかあ・・」
「じゃあ、みんなで会いに行こうよ。」
「そうそう。そうしよう。みんなでお礼を言いに行こうよ。」
「そうだね、てっちゃんが早く元気になるように、お歌を歌ってあげようよ。」
「そうしよう。」
園児たちは無邪気に話し合い、勝手にそう決めた。
もはや、親たちが説得しても聞く様子はなかった。
園児たちが出した答えに、招かれていた町の人達は困惑した。だが、孫の裕の晴れ姿を見に来ていた源治が、園児たちを前にして言った。
「そうか、じゃあ、行こう。きっとてっちゃんも喜ぶだろう!」
何と源治が先導して、≪命の樹≫まで園児たちは向かうことになった。
町民会館から、町の大通りを抜けて、≪命の樹≫がある岬の先へ向かって、園児たちはきちんと列を作って歩いた。親たちも当然、後ろに続く。突然、街中に小さな行進ができた。(9/28)

3-91 天使の歌声 [命の樹]

91. 天使の歌声
園児たちの行進は、街中を抜け、≪命の樹≫へあがる石段の脇にある鳥居に着いた。
「みんな、神社に行って、てっちゃんの病気が早く良くなりますようにってお願いしよう。」
園児たちは源治の言う通り、神社の本殿の前で、手を合わせて、熱心にお祈りをした。後に続いてきていた親たちも同じように手を合わせた。
「よし、じゃあ、行くよ。」
源治は、石段を登っていく。後に園児が続き、そしてさらに親たちも続く。
「誰か、来たみたいね。」
石段から響いてくる足音に気付いた加奈が、窓を開けて外に出た。
源治が石段を上がり切って手を振った。
「あら?源治さん・・」
加奈はそこまで言って言葉に詰まった。
その後を、晴れの日の姿をした園児たちが次々に上がってきたからだった。
「哲夫さん・・・。」
ロッキングチェアに座っていた哲夫からは園児たちの姿は見えなかった。
「どうしたんだい?」
「ほら・・あの・・」
加奈が言いきる前に、園児たちがテラスの前に整列をした。哲夫の座るロッキングチェアからもその様子は見えた。久しぶりにみる園児たちだった。どの子も以前に見た時と違って、皆、しっかりとした顔つきになっている。先頭に、源治の孫、裕が立っていた。
「てっちゃん、今までパンを届けてくれてありがとうございました。」
はっきりとした口調で、裕が言うと、並んだ園児たちも声を揃えて、「ありがとうございました」と言った。
「てっちゃんの病気が早く良くなるように、みんなでお歌を歌います。」
予想もしない事だった。哲夫はロッキングチェアから身を起こそうとした。すぐに加奈とヒカルがやってきて、哲夫を支える。
♫ たとえば君が 傷ついて くじけそうに なった時は
  かならずぼくが そばにいて  ささえてあげるよ その肩を
   世界中の 希望のせて   この地球は まわってる
   いま未来の 扉を開けるとき   悲しみや 苦しみが
   いつの日か 喜びに変わるだろう アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる ♫
もしも誰かが 君のそばで  泣き出しそうに なった時は
  だまって腕を とりながら  いっしょに歩いて くれるよね
   世界中の やさしさで この地球を つつみたい
   いま素直な 気持ちになれるなら 憧れや 愛しさが 大空にはじけてひかるだろう
   アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる
   いま未来の 扉を開けるとき アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる ♫
その歌は、園児たちが卒園式で歌った歌だった。
哲夫も加奈も、その歌声に涙が止まらなかった。吉彦もヒカルも、そこに居合わせた全ての人にとって、園児の歌声は、天使の歌声に他ならなかった。(9/29)


3-92 薔薇の花 [命の樹]

92. 薔薇の花
園児たちの歌声を聞いたその日から、哲夫は何か急に体が軽くなったようだった。眩暈もほとんどしなくなり、自分で歩けるほどに回復していた。
「加奈、ちょっと、外に出たいんだ。もう暖かくなったから大丈夫だろう?」
ある朝、哲夫が加奈に言った。
「そう・・でも、無理すると反動が心配・・。」
「大丈夫さ。薔薇の蕾が大きくなってきたんだ。添え木をしてやりたいんだよ。」
加奈が外を見た。
「そこのテラスに出るだけなんだ・・大丈夫だろ?」
「そうね・・・。ヒカルちゃん、どうかしら?」
パンの支度をしているヒカルに加奈が訊いた。
「そうですね・・朝のバイタルチェックでも異常はありませんでしたから・・良いでしょう。」
ヒカルの許可も出て、久しぶりに、哲夫は戸外へ出た。早春と呼ぶには暖かすぎる日だった。
テラスには、哲夫が蕾の付いた薔薇の枝を支柱に止める仕事がしやすいようにと小さな椅子も置かれた。手袋と鋏,クリップなどが物置小屋から出され、脇に置かれた。
「加奈にも教えておかなくちゃな・・・。加奈、一緒にやろう。」
「ええ、良いわよ。」
加奈も帽子を被り、哲夫の隣で、哲夫の言う通り、不要な枝葉を鋏で落としてからクリップで支柱に縛っていく。
2時間ほど、ゆっくりと二人で作業をした。ヒカルはパンの支度をしながらも、ちらちらと様子を伺っていた。
「よし、これで良い。こうしておけば、もう1週間もすれば、綺麗な薔薇が咲く。去年より随分と蕾が多いから、あと1年すれば、きっと支柱をいっぱいにするほど花をつけるだろう。あの場所から外を眺めると、きっと、小さな絵画のように見えるはずさ。」
「そう?楽しみだわ。」
「ああ・・楽しみだね。」
そう言ってから、哲夫と加奈はしばらく、小さな椅子に座ったまま、外をぼんやりと眺めていた。
そこから見える山は、ぼんやりと白みがかって見える。春の息吹が感じられる。

『ホーホケ・・ケキョケキョ・・ホ~。』
何処からか、鶯の鳴き声が響いてきた。鶯の初鳴きはまだ未熟だった。
「まだまだヘタね。もっと練習しなきゃ。もうすぐ春が来るのに・・。ねえ。」
加奈がくすっと笑ってから言った。

哲夫は静かだった。

「もうすぐ春が来るのよ・・・真っ赤な薔薇も咲くし、大好きな桜の花も大きな蕾になってる。ねえ、もうすぐ春よ。眠ってる場合じゃないわよ・・ねえ。」
哲夫は静かに目を閉じていた。
「哲夫さん・・・ねえ・・起きてよ・・・ねえ。」
加奈は、細くなった哲夫の体を強く抱きしめる。
「ねえ・・哲夫さん・・・哲夫さん・・・・。」
(第3部完)