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再開のご報告 [苦楽賢人のつぶやき]

ようやく(予定よりも早く)、ネット回線が開通しました。

NTTとソネット事務局の関係が透けて見えましたが、現場で工事をしてくださった方(NTTの委託工事業者)は、雨天にも拘らず、黙々と作業いただき、予想以上に快適な状態になりました。感謝です。

中断していたお話も、再スタートとなります。

少ない読者の方々には、深く御礼申し上げるとともに、引き続き、お付き合いいただければと願っております。

今後とも、よろしくお願いいたします。

なお、再開は6月11日(月)ですので、よろしくお願いいたします。

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2-11 惨劇 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

佐藤健一郎は、若い男たちに小突かれながら、母屋を出て、サイロのある建物に入った。
「おい、金はどこだ!早く出せ!」
強面の兄貴分の男が太い声で脅すように言った。その様子から、昼間のやり取りを聞いていた、上村と下川は何が起きているのかすぐに判った。男たちが金を取り返しに来たのだった。
「命が惜しけりゃ、全部出せ!」
その言葉に、佐藤健一郎は、先ほど自分が隠した場所を指さした。
「持って来い!」
すぐに、弟分の男が佐藤健一郎と一緒に、飼料の山の中から、アタッシュケースを引っ張り出して、兄貴分のところまで運び出した。アタッシュケースがゆっくりと開けられた。しかし、中は、飼料屑が詰まっているだけだった。
「おい、これはどういう事だ!金は、金はどうした!」
兄貴分の男が強い口調で佐藤を問い詰める。問われた本人もどういうことか理解できない。兄貴分の男は顔を紅潮させ、佐藤を殴りつける。
「ふざけてないで、金を出せ!」
そう言いながら、何度も殴りつける。そのうち、佐藤は気を失ってしまった。
「おい、金を探すぞ!」
兄貴分の男はそう言うと、佐藤を放置して、母屋に戻る。
家人たちは、物音に気付いて起きだしていた。最初に、男たちに出くわしたのは、佐藤の父親だった。男たちの様子から、尋常ではない事はすぐに察知した。そして、土間に置かれていた鉈を手にした。
「出ていけ!」
高齢ながらも気丈な父親は、若い男たちに向かって、鉈を振り上げて威嚇する。しかし、若い男たちは、ひるむことはなかった。弟分の男が、父親を蹴りつけると、転んだ隙に、父親から鉈を取り上げた。
「おい、金はどこだ?・・昼間、息子に渡した大金はどこだ?」
凄んで問い詰める。しかし、父親は意味が解らない。
「ちっ!」
弟分の男は舌打ちすると、無表情に、鉈を振り下ろす。それは、父親の首筋を直撃し、真っ赤な血が噴き出した。それを見た弟分の男は、正常さを失った。訳の判らない言葉をつぶやき、凶器に満ちた表情を浮かべて、奥の部屋に向かう。
そこには、佐藤の母親と妻が立っていた。弟分の男は躊躇することなく、鉈を振り下ろす。二人とも、叫び声さえも上げる間もなく、絶命した。さらに、奥の部屋に踏み込んだ。そこには、小学生の男の子が立ちすくんでいた。
「ワー、ワーッ!」
男の子は、恐怖のあまり、叫び声をあげる。それでも、若い男は容赦なく、鉈を振り下ろす。
もはや、家の中は血の海になっていた。
後を追って、母屋に入った兄貴分の男は、余りの光景に驚いた。金を手にする事が目的だったはずが、一家皆殺しとなってしまっていた。
「おい!おい!やめろ!」
兄貴分の男の声で、弟分はようやく正気に戻った。全身、返り血を浴びていた。
「兄貴、どうしよう・・・。」
「この馬鹿が!」
兄貴分の男はそう言うと、弟分が手にしていた血塗れの鉈を取り上げて、手近にあったタオルで持ち手を丁寧に拭きとった。
「・・しかたない、・・一家心中に見えるよう細工するしかない・・・。」
そう言うと、鉈を持ったまま、サイロのある建物に戻って行った。
佐藤健一郎はまだ気を失ったままだった。
兄貴分の男は、鉈を佐藤健一郎の右手に握らせる。そして、弟分と佐藤の靴を取り換え、一度、母屋に戻らせた。そして、血に染まった床をひとしきり歩かせると、再び、サイロのある建物に戻り、佐藤にもう一度靴を履かせた。それから、建物の隅にあったトラクター用のガソリンタンクを運び、佐藤の全身に浴びせた。
「これで良いだろう。」
兄貴分の男は、そう言うと、藁に火をつけ、横たわる佐藤に投げつける。ガソリンに塗れた佐藤の全身を劫火が覆った。叫び声さえもなかった。
「おい、逃げるぞ!」
二人の若い男は、急いで車に飛び乗ると、峠の方角へ走り去っていった。
一部始終を、佐原、上村、下川の三人は、息を潜めて見ていた。
予想外の出来事だった。だが、確かに目の前で、一家皆殺しが行われた。そして、その発端は自ら招いたことだという事は明白だった。そのうち、佐藤健一郎の全身を包んでいた炎が、サイロの中の飼料にも燃え移る。三人は慌てて、建物を飛び出した。
「逃げよう!・・このままじゃ。俺たちが殺人犯になる。」
勝手な言い分だったが、上村の言葉に、佐原も下川も頷いた。
大きな袋を抱え、母屋の前を通り過ぎた時、佐原の目に人影が見えた。いや、そんな感じがした。
「ちょっと待ってくれ。」
佐原はそう言うと、抱えていた袋を地面に置き、母屋の裏口から、中を覗いた。
食卓の置かれた部屋の灯りで見える光景は、言葉にできないほど惨いものだった。佐原は蹲った。そんな様子を見ていた下川が、佐原の横に立ち、同じように中の様子を確認する。下川は医学生だった。実習の中で、手術の見学があり、真っ赤な血液が流れ出る光景はある程度見慣れていた。だが、そんな下川さえもその場に蹲ってしまった。
「おい、急げ。」
既に、出口付近まで逃げ出していた上村が声を掛ける。
「ああ・・すぐ行く。」
下川が答える。
「佐原、行こう。」
「ちょっと・・待ってくれ・・ほら・・あそこ。」
佐原が指差した先には幼子が立っていて、こちらを見ていた。

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2-12 救いの情け [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「あの子、連れて行こう。」
佐原が言った。
「何、言ってるんだ?連れて行ってどうする?」
下川は、余りに突飛な佐原の言葉に、驚いて訊いた。
「だが、このままじゃ、可哀そうだ。皆、死んでしまって・・あのままじゃ、あの子も死んじまう。」
「そう言っても・・連れて行って、どうするんだ?」
「わからない。だが、このままじゃ・・・。」
佐原は涙を流している。
二人が話している間に、その幼子は、血の海の中をぼんやりとした表情で歩いて、裏口まで出てきていた。
「仕方ない!」
下川はそう言うと、目の前に立っている幼子に、自分の上着を掛け、まるで目隠しをするようにして、脇に抱え込んだ。幼子は抵抗しなかった。
「行くぞ!」
下川はそう言うと、佐原の背を叩き、車に向かって走り出した。佐原は、大きな袋を二つ抱えて、下川に続いて暗闇の中に走り出した。
周囲に気を配りながら、林の中に隠しておいた自分たちの車まで、一目散に駆けた。すでに、上村は車に乗っていた。下川は後部座席に座り、上着で隠すように連れてきた幼子を横たえる。佐原が乗り込むと、上村は車を急発進させた。
先ほどの男たちの向かった道と同じ方向へ走り続けた。幸い、行違う車は一台もなかった。
峠道は、幾重にもカーブが続く。上村の運転する車は、タイヤを鳴らしながら、とにかく、忌まわしい現場から少しでも遠ざかりたい、その思いだけで、走り続ける。どこに向かっているかなど、どうでも良かった。峠を幾つも越えた。3時間近く走り続けたが、その間、三人は無言だった。先ほどの光景は、映画かドラマの一場面で、現実に起きた事ではないと思い込みたかった。
気づくと、空が白み始めている。
国道をひたすら西へ向かって走ったようだった。左手に広がる海、太平洋だろう。水平線から朝日が顔を見せると、長いトンネルを抜け出したような、悪夢から解き放たれたような感覚を覚えた。
上村は、国道沿いの小さなパーキングスペースに入ると、駐車場の一番隅に駐車した。
「少し、休もう。」
運転し続けてきた上村は、随分と疲れていた。体力と精神力の両方を奪われ、そのまま、シートを横たえて眠ってしまったようだった。下川は、自分の上着で隠すようにして連れてきた幼子の様子を見た。静かに寝息を立てているようだった。その寝顔を見て、下川も一気に緊張が解けて、眠気が襲ってきた。佐原は、札束が詰まった袋を両脇に抱えたまま、すでに眠っていた。
初めに目を覚ましたのは、下川だった。脇に居た幼子が目を覚まし、下川の腕を揺すり起こしたのだった。
「なんだ?」
幼子は、苦しそうな顔をしている。
「なんだよ、言ってみろ!」
しかし、幼子は何も言わず、一層苦しそうな表情を浮かべて、下腹辺りを押えているようだった。
「トイレか?」
下川が訊くと、幼子は頷く。
下川は、幼子の口に手を当て、声を立てさせないようにして、佐原を起こす。佐原は、下川の合図に気付き、そっとドアを開けて外に出た。そして、助手席のシートを倒して、幼子を外に出した。早朝のパーキングスペースには、人影はなかった。佐原は、幼子を抱えると、小走りにトイレへ向かった。
「一人で行けるか?」
佐原が訊くと、幼子はこくりと頷いた。
「行って来い。ここで待っててやるから。」
幼子はすたすたとトイレの中へ入っていく。待っている間、周囲に気を配りながら、ふと考えていた。
『あいつ、昨夜の事は覚えていないのかな?・・いや、そんなはずはない。・・あの中に居たんだ。何が起きたかくらいわかっているだろう。・・だが、どうして、泣かない?・・』
そこへ、下川がやってきた。
「トイレだ。お前は?」
「ああ・・俺も・・、先に行け。」
短い会話を交わし、下川がトイレに入る。残った佐原は、遠くに見える山々に視線を遣る。あの山の向こうで、あの惨劇は確実に起きた。おそらく、まだ、誰にも発見されていないに違いなかった。自らの罪を今になって思い知っているのだった。
ふいに、右手を掴まれ、佐原は驚いて飛びのいた。幼子がトイレから戻ってきて、佐原の手を握ったのだった。撥ねつけられるような形で、握った手を離された幼子も、驚いている。その表情は怯え切っていた。
そこに、下川が戻ってきた。二人のただならぬ様子を見た下川は、咄嗟に幼子を抱き締めた。
「どうしたんだ、佐原君。」
下川は、佐原を落ち着かせようと、わざと静かな口調で訊いた。
「いや・・何でもない。急に手を握られてびっくりしただけだ。済まない。」
佐原も冷静になって答えた。
「大丈夫だよ。心配ない。」
下川は抱きしめている幼子に言った。罪の意識からか、下川は幼子を庇うように優しく言った。
「お前、名前は?年はいくつだ?」
佐原が訊く。
幼子は、口を動かそうとするが、声は出ていない。そのうち、泣き出しそうな表情になった。
「良いんだ・・大丈夫だ。もう良い。答えなくていいよ。」
下川が庇うように言った。そして、下川は佐原に向かって、小さな声でこう言った。
「目の前の惨劇で、失語症になっているのかもしれない。無理に訊かない方が良い。」
下川は医学生だった。精神科の領域も学んでいて、幼子の表情や仕草から、そう推測した。
「だが・・どうする?名前が判らないんじゃ・・。」
佐原が訊く。
「この子の名は、優香だ。・・家に入った時、表札を見た。間違いない。・・年は判らないが、体格から推察すると、おそらくまだ学校に入っていないんだろう。」
下川はあっさりと答えた。

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2-13 飴 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

 下川と佐原が、優香を連れて車に戻ると、上村が目を覚ましていた。
「おい、どういう事だ?」
上村は驚いた表情で言った。
「いや・・あの家から連れてきたんだ。」
佐原が答える。
「そんなことは判ってる。どうして連れてきたのかって訊いているんだ!」
上村はかなり苛立った様子で訊く。当然である。あの現場から何とか逃げ出し、この先、如何に怪しまれず逃げおおせるかが最大の問題である。そんな状況で、幼子を連れて来るなど、到底理解できなかった。
「あそこに、この子一人、残して置けるか?」
下川が言う。
「だからって、連れて来てどうする?警察に連れて行けば、俺たちの罪もすべて露見するんだぞ。」
上村は怒りが収まらない。
「わかってる。だが・・」と佐原が言う。
「ここに置いていこう。そのうち、誰かが見つけて保護してくれるさ。」
と上村は冷たい表情で言う。
「いや、駄目だ。この子は、きっと・・失語症になっている。精神的にかなり不安定だ。あの惨劇を見て、心が壊れてしまっているんだろう。ここで、置き去りにすれば、きっと一生治らなくなる。もう少し、精神的に落ち着くまでは一緒に居た方が良い。」
下川が言うと、上村は反論した。
「そんな・・お前は馬鹿か!事件の証人なんだぞ。このまま、口がきけないなら、俺たちの事だって話しようもないだろう?好都合じゃないか。ここに置いていく。」
夜明け直後のパーキングスペースには、人影などない。前の国道を通り過ぎる車さえなかった。
「せめてもう少し先まで連れて行こう。ここじゃ、可哀そうだ。そうだ。札幌まで連れて行こう。人通りが多い所で解放すれば、何とかなるんじゃないか?」
佐原が問題を先延ばしする提案をした。
「わかった。じゃあ、こうしよう。」
呆れ顔で上村は、そう言うと、これからの逃避行の方法を提案した。
「いいか、ここからは3人で一緒に動くのは止める。どこかで、大きめのスーツケースを買って、金を詰めて、3人で分けて持つ。そして、一番近くの駅で、まず、佐原を降ろす。そして、札幌で下川を降ろす。それぞれ、別々のルートで東京へ向かうんだ。・・落ちあうのは、下川のアパートが良いだろう。・・下川は、仙台から新幹線で一番先に東京へ帰るんだ。佐原は、日本海側から列車で東京へ。俺は、苫小牧へ向かってフェリーで東京へ向かう。できるだけ、バラバラに動いた方が良いだろう。」
「判ったが・・この子は?」と佐原。
「それは、お前たちで何とかしろ。札幌で解放するとしても、怪しまれないようにするんだ。良いな。」
上村はそう言うと、車に乗り込んだ。
下川と佐原は顔を見合わせる。
「優香の事は俺に任せろ。」と下川が言った。
すぐに車は札幌に向かって国道を走り出した。
途中の小さな町で、大型のスーツケースを買い、袋に入っていた札束を移し替えた。そして、上村の提案通り、まず、佐原が最寄りの駅で車を降りた。
佐原が車を降りる時、優香が佐原の手を強く握った。そして、自分のポケットに入っていた、一粒の小袋に入ったバター飴を一つ、佐原に差し出した。
「これは?」
佐原は驚いて優香の顔を見た。
優香は何も言わない。ただ、涙を一粒溢した。
下川はそんな優香を見て、「きっと、君にお礼をしているんだろう。」と言った。
佐原は複雑な気持ちだった。彼女を不幸のどん底に落としたのは、紛れもなく、自分たちなのだ。だが、その幼子には理解できていないに違いない。
「済まなかった。」
佐原はその言葉しか出て来なかった。
そして、踵を返すと、駅に向かって走り出した。優香は走り去る佐原の姿をじっと見つめたままだった。
暫く車を進め、札幌駅の手前で、優香を連れて下川が車を降りた。
「いいな!その子は置いてくるんだぞ。」
上村はそう言うと、二人を駅前の通りに置き去りにして、走り去っていった。
上村の車を見送った後、下川は、優香に訊いた。
「お腹は空いてないか?何か食べるか?」
優香は小さく頷く。二人は、駅前の小さな喫茶店に入った。
二人は一番隅の席に座り、優香はサンドイットとオレンジジュース、下川はトーストとコーヒーを注文した。早朝とあって、客はほとんどない。喫茶店の店主も、客が少ないせいなのか、奥の厨房に入ったままだった。
暫くして、注文の品が運ばれてくると、二人は黙々と食べた。不思議と食欲だけはあった。優香もぺろりと平らげていた。喫茶店のカウンター席の隅、天井との間に設えられた棚には小さな赤いボディのテレビが置かれていて、NHKのニュースが流れている。
全国のニュースに続いて、北海道地方のニュースに切り替わったが、昨夜の事件はまだ報道されていなかった。下川は、それを確認すると、不道徳ながらも安堵の感情が湧いてくるのだった。
通勤時間が近づいてきたのだろう。徐々に、通行人が増えているようだった。
「そろそろ行くか。」
下川は、右手で優香の手を強く握り、左手で大きなスーツケースを押しながら、店を出るとまっすぐに、駅に向かった。上村には、優香を札幌駅で解放すると約束したが、下川にはできるはずはなかった。佐原もそれは承知しているはずだった。
下川は、窓口で、一旦、青森駅までのチケットを買った。大学生と幼子の二人連れは、少し不思議な関係に見えるはずだった。あとで、事件が発覚し捜査が始まった時、幼子の行方を追う中で、二人の存在は必ず発見されるだろう。足取りを追われた時、行先が東京と判るのではないかと不安になり、途中駅まで購入することにしたのだった。
上村は、チケットを受け取ると、優香の手を握り、ホームに向かった。

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2-14 逃避行 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

佐原は、函館本線から青函トンネルを経て、青森に出ると、日本海側を東京まで向かうルートを取った。
佐原も、下川同様、万一の事を考え、新潟駅までのチケットを購入した。東京には、乗り継ぎが悪くて、函館を出て2日は掛かる見込みだった。それなら、特急を使用せず、できるだけ在来線の鈍行列車を選んでいくことにした。
途中で購入した帽子を深く被り、俯きがちに席に座り、目立たないように注意した。日本海側の列車は、それほど混んでいない。佐原の席の周りに他の客が座る事も少なく、少し気持ちに余裕が出きた。窓の外には、豊かな自然の風景が見える。ぼんやりと眺めていると、数日前に大罪を犯し、大金をもって逃げている事を忘れられるようだった。
ふとポケットに手を入れると、あの幼子がくれた「飴」が入っていた。透明の小袋に入っているのは、黄色のバター飴だった。佐原はしばらく、その飴を見つめた後、ゆっくりとポケットにしまい込んだ。胸の奥から、じわじわと得体のしれない感情が湧きあがり、強く歯を食いしばった。ただ、瞳からは止め処なく涙が溢れてくる。
数日前まで、工事現場で黙々と働いていた。そこには、自分がただその日を生き延びる、それだけの日々があった。寂しい生き方なのかもしれない。だが、誰も傷つけず、世間の片隅で息を潜めて静かに生きていた。今は、それと似ているが、重大な罪を犯し、生きる事さえも憚られる存在に違いない。救われることなどない、そんな道を進んでいるようだった。

上村は、フェリーで苫小牧から東京まで向かうルートを取ることにした。
苫小牧港に到着し、フェリーの運航を確認すると、すぐに出航する便が確保できた。上村は、船に乗り込むとすぐに客室へ入ると、できるだけ目立たない席に座り、大きく深呼吸をした。
罪の意識を感じないわけではない。だが、殺人を犯したのは、あの二人組だ。自分たちは、現金を盗んだだけだ。罪を問うのならば、あの二人組の男にこそ、厳罰が下るべきだ。こんなことになったのは、只々、運が悪かったんだと勝手な言い訳を考えていた。
それに、あの幼子だ。置き去りにしたほうが良かったはずだ。いずれ発見され保護されるに違いない。佐原と下川は余計な荷物を背負いこんだだけだ。置いておくわけにはいかなかった?そうじゃないだろ?むしろ、見も知らぬ男に、否応なく連れて来られただけだ。拉致したのと同じだろう?なぜそれが判らない。上村は、フェリーの席で、一つ一つ思い出しながら、佐原と下川への不信感を募らせていた。
船窓からは、太平洋の海原が見えている。
視線の先にかすかに水平線が見えるようだが、空との境目ははっきりしない。現実なのか、夢なのか、今の自分の状況さえもはっきりしないようで、ただ、ぼんやりと、眺めていた。

下川は、優香を連れ、仙台へ向かっていた。
奥羽本線の車内は、乗客も少なく、車掌もほとんど回って来なかった。優香も疲れてしまったのか、青森駅で乗車して、すぐに眠ってしまった。
下川は、この先を考えていた。東京に着いた後、手元のある大金と優香をどうすれば良いのだろう。あの場に置いておくことは出来ず、連れてきたものの、やはり、大学生の自分には、幼子をどう扱えばよいのか判らない。やはり、どこかで置き去りにするほかないのだろうという考えに行きつく。しかし、失語症の幼子を本当に置き去りにできるのか、罪を重ねることになるのではないか、ぐるぐると頭を巡り、頭痛がしてくるのだった。
ふと、脇の席の優香の寝顔を見ると、あどけない表情を浮かべていた。
親兄弟を目の前で斬殺された光景はきっと一生忘れることはないだろう。それに、見も知らぬ男に、見知らぬ土地へ散れていかれる身の上を、この先、どう受け入れるのだろうか。そして、そうした精神的ストレスが引き起こした「失語症」はいつか感知するのだろうか。幼子の将来を想像すると、自らの罪の重さを再認識するのだった。
仙台駅に到着しても、優香は目を覚まさなかった。よほど疲れていたのだろう。下川は優香をおんぶして、新幹線のチケット窓口へ向かう。
大きなスーツケースと優香、佐原に会いに行く時には、こんな自分は想像もできなかった。どちらも、自ら望んで手にしたものではない。いや、むしろ、手放したい気持ちの方が強いかもしれない。あの惨い現場が何もかも変えてしまった。
下川は、新幹線チケットを購入するとすぐにホームに向かう。乗客が多くなっていて、座る場所などなかった。下川は、ひとつ大きな溜息をついた。
それがきっかけだったかどうか、背中の優香が目を覚ました。周囲を見回すと見たことのない大きな場所、たくさんの人が並んでいる。時折大きなアナウンスが流れる。優香は急に怖くなり、下川に強くしがみついた。
「ん?起きたのか?」
下川が少し頭を後ろに回そうとした。その時、優香の目に赤い模様が映った。下川の首筋から肩にかけて、赤い痣のようなものがあった。それは、斜めに一筋、傷痕のようにも見えた。優香はそっと指先でその赤い痣のようなものに触れる。
「止めろよ!」
下川が少し声を荒げるように言った。その声に、優香は身を縮める。
「すまない。・・ちょっと冷たくて・・それは小さい時の怪我の跡なんだ。・・ブランコから落ちて、肩から背中に深い傷を負ったんだ。もう少しで死ぬところだった。」
優香は、下川の言葉をしっかり聞いている。
「さあ・・目が覚めたんなら降りてくれ。」
下川はそう言うと、優香を降ろした。優香は、眉をひそめて下川を見ている。
「ああ・・傷の事か?もうすっかり治っているから、心配ない。」
下川はそう言うと優香の頭を撫でた。
俺の心配をしている場合じゃないだろう。これから彼女はどう生きていくのだろうか、このまま東京へ連れて行ってどうすればいいのか、下川は、再び、あの問が頭の中を巡る。
ちょうど、上野駅行きの新幹線がホームに入ってきたところだった。

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2-15 置き去りの理由 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

(15) 置き去りの理由
下川は、その日の夜には東京に着いた。
下川のアパートは、東京郊外の町で、周囲にはまだ田園風景が残っていて、アパート周辺も静かな住宅街だった。下川の実家は、病院を経営していて、裕福な家庭だったため、下川は、2DKの間取りの広い部屋を借りていた。上村は、そのことを知っていて、三人の落ちあう場所を、下川のアパートにしたのだった。学生一人住むには広すぎる部屋で、一部屋は全く使っていなかった。優香には、その部屋を使わせることにした。アパートは、家族住まいも多く、子どもが出入りしていても不信感は抱かれない。それ以前に、アパートにどんな住人がいるのか、まったく関わりのない環境だったため、下川は優香を連れている事に神経質にならずに済んだ。
二人が戻ってくるまでの間に、下川は、優香のために必要なものを買い揃えることにした。
衣服だけは、優香を連れて行かないと難しかったので、大型量販店で購入し、それ以外は、アパート近くの商店街で購入した。優香は、変わらず、話せなかった。衣服を選ぶ時、店員に不審がられないよう、下川が幾つか選び、優香の反応を見て決めた。幼子のものを買うなど初めてで、とりあえず、今着ているものに似たものをいくつか選んで購入した。
食事は、それまでほとんど外食だったので、冷蔵庫はあるものの、調理器具などほとんどない。万一あったとしても、料理などやったこともない。朝食用にパンと牛乳程度は購入したが、結局、近くのファミレスに行くことにした。優香は、おそらく、北海道では外食などしたことがなかったに違いない。ファミレスに入ると、優香は物珍しそうな表情で店内を見ている。席に着き、メニューを広げる。少し誇張気味のメニューの写真を食い入るように見て、ハンバーグを指さした。まだ、午後6時を回ったくらいの時間だったため、比較的店内は空いている。家族連れの姿もほとんどなかった。
二日ほど、下川と優香、二人で過ごした。
依然として会話は一方通行なのだが、意思疎通は出来るようになっていて、時々、優香が笑顔を見せるようになっていた。
その笑顔を見るたびに、下川は、考え込んでしまう。彼女は、父や母の事を思い出さないのだろうか?見知らぬ他人と過ごす事に何の抵抗もないのだろうか?あの惨い光景を目の当たりにして、無意識に、記憶を封印してしまったのだろうか?あまりにも、普通に、接してくれる優香を見ていると、失語症以上にもっともっと深刻な状態にあるのではないだろうかと考えてしまうのだった。
上村と佐原は、二日後のほぼ同じ時間に、下川のアパートに現れた。
佐原は、この3日間、ほとんど食事がのどを通らず、見るからに憔悴しきった表情を浮かべて現れた。下川のアパートに入るなり、座り込んでしまった。それを見た優香は、佐原の体に寄り添うようにして、背中を摩った。まるで、母親が子供を慈しむようなしぐさを見せた。

少し遅れて、上村が現れた。大罪の事などすっかり忘れてしまったかのように、アパートの前に車を停めると、軽快な足取りで階段を駆け上がり、玄関を叩いた。
「戻ってるか?」
上村は、旅行先から戻ったような上機嫌の声だった。下川は相反するように沈んだ表情でドアを開ける。バタンとドアを閉めると、急に、上村の態度が変わった。
「いい加減にしろ!そんなんじゃあ、周囲に怪しまれるだろう!」
罵声ともとれるような声を浴びせ、部屋の入ると、隣りの部屋に優香が居るのを確認した。
「ちっ!まだ居るのか!」
吐き出すように言うと、下川を睨み付ける。それを見て、優香は佐原の背中に隠れた。
「さあ、これからどうする?」
部屋の壁に背をつけて置かれた古びたソファにどかりと座ると、上村は、下川と佐原に訊いた。
下川も佐原も、すぐには答えられなかった。とにかく、あの場所から遠ざかりたい、忘れたい、その一心だったようで、東京に戻り、少しばかりの安堵を感じているところだったからだ。
「佐原、お前は、金を持って実家へ戻れ。・・ああ、そうだった、実家は無くなったんだったな。まあ、いいさ。その金で借金を返して自由の身になればいい。とにかく、大学を辞めアルバイトをして借金を返し宝といって、郷里に戻るのが自然だ。良いな。」
佐原は頷いた。
「下川はどうする?そのまま、大学に残るか?・・まあ、そうだな。お前は頭が良いんだ。そのまま、医者になればいい。そして開業するとき、その金を使え。今は、金に困ってるわけじゃないだろ?むやみに使うな。」
上村は、東京に戻ってくるまでに、二人今後の事をじっくり考えてきた様子だった。
「君はどうする?」
下川が、上村に訊いた。
「俺は、もともと、寺の次男坊。とっくに親からも見放されてるんだ。暫く、こっちで自由にやるさ。まあ、一度、親に顔を見せてこようとは思うが・・・しばらく、あの金には手を付けないようにするさ。」
「そうか・・・。」
「それより、お前、その子、どうするつもりだ?このまま、お前が面倒みるつもりか?」
上村の問いに、下川は答えられなかった。
「悩んでる問題じゃないだろう?学生のアパートに幼子が居るなんて、不自然だし、おそらく、そこから足がつくに決まってる。」
「だが・・」
「だが・・じゃないぞ。もういいさ。俺が連れて行く。あそこで話した通り、どこかで置き去りにしてやるさ。どうせ、お前たちにはできないだろう?」
そこまで言うと、上村はすっくと立ちあがり、佐原を押しのけて、優香の前にしゃがみこんだ。
「まだ、話は出来ないんだろ?」
試すように上村が訊く。優香は、歯を食いしばり、涙が零れそうになっている。
「泣いたって駄目だ!俺は、こいつらとは違う。お前はもう天涯孤独なんだ・・親兄弟は誰もいない。命があること自体、不幸ってもんだよ。・・心配するな、殺したりはしない。・・・親のいない子は、施設に入るんだ。・・俺は、良い処を知っているんだ。そこへ連れて行ってやる。そこなら、大丈夫さ。」
何か意味深な笑みを浮かべている上村を、優香は、睨みつけている。
「まあ、いいさ。お前に好かれようとは思っていない。さあ、行くぞ。」
上村はそう言うと、優香の腕を強く握り引っ張った。思わず佐原が止めようと手を出したが、上村は、もう片方の手で佐原を殴りつける。
「お前は馬鹿か!お前たちができないから、俺がやってやるんだろう?感謝しろよ。」
上村は吐き捨てるように言うと、そのまま、優香を引っ張って、玄関を出て行った。佐原は、慌てて、カバンを掴み、上村の跡を追い、玄関を出た。上村は、階段下に停めた車に、優香を押し込んで、出発しようとしていた。佐原は、階段を転げ落ちそうになる勢いで降りると、上村の車の前に立ちはだかった。
「待て、俺も行く!」
そう言うと、佐原は、助手席のドアを開け乗り込んだ。そのまま、上村はクルマを発車させた。

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2-16 別れの夜の出来事 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

上村は、まっすぐに首都高速に乗り、東京料金所から、東名高速を西へ向かった。下川のアパートを出発してから、上村も佐原も口を開いていない。
 車窓から、富士山が近くに見えるようになった。御殿場の足柄サービスエリアの看板が見えたところで、ようやく、上村が呟いた。
「ガソリンがないな。」
上村の車は、できるだけ静かにパーキングに入り、給油スタンドに立ち寄った。ガソリンスタンドの店員が近づいてくると、上村は唇に指を当て、静かにしろというジェスチャアをした。
「満タンにしてくれ。できるだけ静かにな。ああ、釣銭は要らない。」
上村は、静かに言うと、ポケットから1万円札を取り出して店員に渡した。
店員は、助手席に座って眠りこけている佐原の姿を見つけて、事態を把握し、静かに作業を進めた。
給油中、上村は押し黙って何か考えているようだった。
満タンになると、一旦車を駐車場の一番はずれに停めた。
「トイレに行って来よう。おい、お前も行くぞ。」
そういうと、優香を無理やり連れだした。
「さあ、行って来い!」
上村は、優香の背を小突くようにして、トイレに向かわせる。優香は、幼いながらも、ここで置き去りにされるのだと判って、動こうとはしなかった。
「わかった。そうだ、ここでお前を置いていく。そのうち、誰かが声を掛けてくれる。その人について行けば良い。良いな。」
上村は勝手な言い草で、ポケットから一万円札を取り出し、優香に握らせながら続ける。
「腹が減ったら、これで何か買って食え。さあ、行け!」
上村はそう言うと、優香を置き去りにして、一目散に車に駆けだした。
そして、振り返ることなく、車に乗り込むとすぐに発車させた。
タイヤがスリップして甲高い音を上げるほどの猛スピードで、車は足柄サービスエリアを飛び出していった。

沼津インターを超えた辺りで、ようやく、佐原が目を覚ました。そして、後部座席に優香の姿がないことに気付いた。
「おい、あの子は?」
答えは判っていたが、まさか、こんなに早く実行するとは思ってもみなかった。
「ああ・・足柄のサービスエリアで置いてきた。」
「お前、なんてことを!」
「大丈夫だ。あそこは真夜中でもトラックが入っている。24時間、誰かが居る。そのうち、どこかの善人が声を掛けるさ。」
「おい、戻れ!」
「ふざけるな!戻ってどうするんだ?連れて行くのか?」
「何でもいい!とにかく戻れ!」
逆上した佐原が、運転している上村のシャツを掴む。
「止めろ!」
車は高速道路を時速100KMを超える速度で走行している。
急にシャツを掴まれた上村は慌ててハンドルを取られそうになる。しばらく、車は右左と蛇行して走った。
「止めろ、佐原!危ない!」
「うるさい!俺たちは大悪人だ。死んだほうがましだ!」
佐原は、抵抗する上村の腕を強く掴んだ。上村が力任せにその腕を離そうとした時、急ハンドルを切ってしまった。
「あっ!」
どちらが叫んだのか判らない。
だが、確実に車は常軌を逸した動きをし、何度かスピンして、中央分離帯にぶつかり、1回転した後で、道路の外壁に激突した。後続のトラックがいたが、少し前から異常な動きをしているのを発見して、車間距離を取っていたため、単独事故で済んだ。
 しばらく、意識が朦朧としていたが、佐原が先に動いた。幸い、出血はしていないようだった。運転席の上村は、ハンドルと座席に挟まっていて動けないようだった。
「おい、大丈夫か?」
佐原が声を掛けると、歪んだ表情を浮かべながら、上村が何とか返答した。
「すぐに助けを呼ぶから。」
佐原がドアを開けようとした時と、上村が手を伸ばして引き留め、苦しそうな声で「後ろのカバンを・・。」と言った。億単位の現金が詰まったカバンが乗っているのをすっかり忘れていた。
「あれを見られないように・・・」
上村はそう言うと、意識を失った。
佐原は、助手席を出ると、すぐに、後部席にあるカバンを引っ張り出した。そして、車の脇の安全な場所に運んだ。それから、非常電話まで歩いていき、連絡した。
10分ほどが過ぎた頃、救急車と道路公団の車両がやってきた。
道路公団の隊員は、発煙筒を点け、後続車の衝突を避けるための作業を手早く進める。そして、救急隊員は、運転席の上村の様子を確認すると、手早く席から上村の体を引き出し、担架に乗せる。そのうちに、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
サイレンの音を聞いて、佐原は、ふっと自分たちの置かれている状況を思い出した。大金を持っている事に気付かれれば一巻の終わりだ。心臓がドクドクと音を立てる。
咄嗟に、佐原が「すみません。このかばんも一緒に持って行ってもらえませんか?彼の貴重品がたくさん入っているんです。僕が持っているわけにはいかないので・・すぐに、病院には行きますので。」と救急隊員に懇願した。救急隊員は、一旦は断ったが、佐原の状態も考慮したのか、渋々受け入れてくれた。大きなバッグが、上村とともに救急車で消えていった。佐原は少し安堵した。
救急車と入れ替わりに、パトカーがやってきた。警官が二人降りて来て、厳しい表情で佐原に事故の状況を確認した。佐原は、できるだけ平静を装い、救急車で運ばれた上村が運転していたのだが、おそらく、東京から長距離運転でかなり疲れていたので、ハンドル操作を誤ったのだと答えた。警官は、佐原の供述をメモし、ブレーキ跡や衝突の状況を確認し、さらに、佐原が飲酒していないかも確認した。警官の動きを目で追いながらも、佐原は次第に頭痛がしてくるのが判った。やはり、衝突の衝撃でどこか痛めているようだ。あらかた、警官からの事情聴取が終わったころには、佐原は立っていられないほどの頭痛を感じて、その場に座り込んでしまった。そこに居合わせた警官がすぐに救急へ連絡し、ほどなく救急車が到着して佐原も病院へ搬送された。

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2-17 出会い [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

上村が事故を起こしたことを、下川は知ることはなかった。その後、三人は連絡を取り合う事もなく、それぞれの道を歩き始めた。北海道の一家惨殺事件も報道されず、何もなかったかのように10年以上の時が流れた。

佐原は、上村より早く退院し、一足先に橋川市へ戻ると、借金を返し、上村の実家である量円寺にも多額の寄付をして、一家の墓の永代供養の了解を得たあと、しばらくは、大阪で働いた。
大学をやめ、東北を転々としながら働いてきた経験が生きて、いろいろな会社や商店とのネットワークを広げ、人材派遣の仲介の様な仕事をするようになっていた。そのころ、妻とも出逢い、身を固める決心をしたと同時に、橋川市へ戻った。そして、弱い立場にある労働者が少しでも優遇されるよう、会社への折衝を第一とした人材派遣会社を立ち上げたのだった。

上村は、その後、再び東京に戻ると、普段通りの生活に戻り、何とか大学を卒業して地元に戻っていた。そして、高校時代の仲間と何やら怪しい事業を立ち上げては、幾度も失敗を繰り返した後、上村議員の娘に見初められ、婿入りした。そして、「上村議員」の地盤を引き継ぎ、2世市議へと転身したのだった。
その頃には、土建業者や議員連中の、談合や癒着などといった、田舎町固有の悪習慣に対して、正義を貫く姿勢を前面に出し、時には、過激なパフォーマンスで市民からは「正義の味方」というイメージを定着させていた。
上村と佐原は、橋川市と豊城市と隣町にくらしていたのだが、敢えて連絡を取らなかった。

下川は、あれから、一心不乱に勉強し、素晴らしい成績で医学部を卒業した後、インターンを経て、しばらくは、僻地医療に身を置いていた。医師の使命というものとは程遠く、とにかく、世の中の隅っこで息を殺して生きたいと考えていたからに過ぎなかった。できればこのまま、年老いて朽ちるまで潜むような生き方が出来ればいいのだと考えていた。だが、僻地医療で奮闘する若き医師として、ローカル放送局に取り上げられたせいで、そういうくらいを続けるわけにはいかなくなった。
大学時代の恩師から、先進医療を学び直すよう勧められ、静岡にある国立病院へ転勤することになった。大病院の外科の医師として迎えられた下川は、できるだけ大人しく、目立たないように注意した。それが逆に、同年代や若い医師から尊敬を集めることになり、若くして医局長となった。傍から見れば、大出世であり輝かしい前途を感じさせるものだったし、下川もその運命を少しずつ受け止めるようになっていた。しかし、下川には、あの日、上村が強引に連れて行った優香の悲しそうな表情が心の底にこびりついていて、思い出すたびに、胃袋を掴まれるようなキリキリとした痛みが襲ってきて、叫びだしたくなる衝動に駆られるときがあった。いや、実際、過酷な業務によるストレスからか、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患い、入院することになってしまった。体調が回復すると、国立病院を辞め、県立病院へと転職した。
運命的な出会いは、そんな時だった。
県立病院では、内科医として勤務した。ただ、国立病院から転職してきた事が周囲からの期待を集める結果となってしまい、医局員の立場ながら、医師だけでなく看護師や技師たちからも相談に乗る事が前にもまして多くなっていたのだった。
そんな時、ちょっとしたトラブルが発生した。若い医師と検査技師が、検査手順を巡って言い争いになった。通常は、技師側が引き下がるのだが、その時は技師が執拗に食い下がったため、つい、若い医師が手を出してしまったのだった。
殴られた技師は、遠藤健一だった。
正義感が強いというのが表向きの評価だが、意固地な部分が強く、同僚の中でもぶつかりやすい性格として、少し、周囲から距離を置かれていた。
言い争いの種は、単純な事だった。客観的にみれば、医師の主張は明らかに間違っていて、検査科内では遠藤に同調する声が強かった。その上、暴力を振るわれたのだから、医師側が全面的に非を認めざるを得ない。しかし、当該の医師は譲らなかった。仕方なく、下川が仲裁に入ることになった。
下川は、すぐに検査科の部屋へ向かった。数人の技師が憮然とした表情を浮かべている。周囲を見回し、当該の技師を見つけると、まっすぐ、遠藤の前に進んだ。
「遠藤さん、君の主張が正しい事は、私も認める。それに、怪我までさせてしまって、大変申し訳ない。」
下川は、遠藤を前に率直に詫びた。医師のプライドなど微塵も感じられない。医師とは、簡単に非を認める様な人種ではないと考えていた技師たちは、下川の態度に驚いた。
当の遠藤は、そんな下川を見て、驚いたものの、素直に受け入れることができなかった。
「あの医師には、しばらく休んでもらう事になった。いや・・君を殴ったことだけじゃない。日常的にストレスが溜まっていて、少し、精神的に不安もあったようだ。だから、休養を取るべきだと話していたところだった。・・こうなる前に、医局長に進言して、手を打つべきだったのだが・・・私の責任だ。申し訳なかった。」
そこまで言われて、遠藤も受け入れざるを得なかった。
そんなことがあって、遠藤は下川医師を病院内で誰よりも信頼できる医師だと信じるようになった。時折、昼食も共にとるようになり、医師と技師とが協力することが大切なのだという事を何度となく聞かされていた。
数年が立った時、病院の慰安旅行が催され、遠藤は偶然、下川と同じ日の参加となった。行先は、伊豆長岡温泉への一泊旅行だった。
先に声を掛けたのは、下川だった。
「やあ、遠藤君。一緒だったんだな。」
旅館のロビーで、部屋の鍵を受け取る場面だった。
「あの・・下川先生、同室はいかがですか?」
遠藤は鍵を見せて訊いた。
「ああ・・僕は構わないが・・君こそいいのか?」
「ええ・・御存じの通り・・技師の連中からは距離を置かれていて、同室になる奴なんかいませんから。」
「そうか・・それは良い。実は僕も、立場がな・・医局長というのはやはり、煙たがられるようでね。」
「じゃあ・・行きますか。」
遠藤と下川は、旅館で同室となり、そのまま、夕食も隣同士で摂った。
「風呂、行きますか?」
夕食を終えて、遠藤が声を掛けた。
「ああ・・いや・・僕は遠慮しとくよ。・・」
「え?温泉に来て風呂に入らないんですか?」
「ああ・・実は、体に大きな傷があるんだ。あまり、見られたくなくてね・・。」
「何言ってるんですか・・女の子じゃあるまいし・・良いじゃないですか・・それに、ほら。みんな、カラオケで盛り上がってますから、今ならきっと誰もいませんよ。」
遠藤は少し強引に下川を誘った。下川も、宴会場の様子を見て、大丈夫だろうと判断し、遠藤に誘われるまま、大浴場へ向かった。

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