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峠◇第2部 ブログトップ
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2-1-1.玉浦沖 [峠◇第2部]

「おい!これから行くのか?どっちだい?」
向島の漁師たちが、銀二に声をかけた。
「ああ、今は値が付くからな。大久保の沖あたりに行ってみるさ。玉浦に揚げると良い金になる。ここで、一儲けしないとな。」
銀時は、軽く答える。
銀二は、向島の漁師、年は30歳。3人兄弟の真ん中。
漁師だった父から仕事を教わった。その父は、酒好きが災いして、肝臓を患って10年ほど前に亡くなった。しばらくは母と住んでいたが、1年ほど前に亡くし、兄弟で生きてきた。
兄の金一は会社員になり、転勤ばかりの日々、ほとんど顔を会わしていなかったが、母を亡くした年に追う様に他界してしまった。
末っ子の鉄三は、銀二とは少し年が離れており、ようやく二十歳になったところだった。今は、近くの釣り船屋で板前の修業をしている。
 
銀二は、いつものように、夜の太刀魚漁に出かけた。この時期は、大久保海岸の沖が絶好の漁場だった。
港を出て30分ほどで、漁場についた。すぐに、仕掛けを投入したが、一向に反応はなかった。潮の流れが今日に限って緩かった。
「おかしいなあ。今日は全然だめだなあ。」
と一人つぶやきながら、船を、玉付崎の沖のほうへ向け、ゆっくりと船を進めた。
移動しても、なかなか反応がないので、しばらくどうしたものかと海面を見ていた。

しばらくすると、集魚灯に照らされた海面の少し向こうに、白いものがゆらゆらと浮かんでいるのが見えた。
最初は、ビニールか何かの漂流物かと思ったが、近づくにつれ、それが人だと判って、慌てた。
船を近づけて見ると、白いワンピースのような服に長い髪、どうやら身投げした女性だと思った。
漁に出て、死体を引き上げるのは気持ちが滅入る。嫌々ながら、船を横付けして引っ張り上げた。

「おい!生きてるか!」
体をゆすってみたが反応はない。
やっぱり、だめかと思いつつ、胸に耳をつけると、弱いながらも、心臓の鼓動は聞こえている。
これはいかんと慌てて、背中を叩く、そして、呼吸をさせるために胸を押す、銀二は救命処置の仕方を習ったことはなかったが、とにかく、呼吸をさせて水を吐き出させないといけないと直感でわかっていた。何度か続けているうちに、急に、海水を吐き出し、呼吸を始めた。
銀二はやれやれと思って、座り込んだ。

「ここで浮いていたんだから、きっと、あの岬から身を投げたんだな。」とつぶやいた。
そして、船の灯りで照らされた娘の顔をよく見てみた。
色白でやわらかい顔立ち、長い髪、年の頃は二十歳ぐらい。
「おいおい、この娘、見たことあるぞ。ええっと・・・誰だっけな?」
銀二は、向島の漁師だが、母の実家が玉浦だったので、行き来するのが日常だった。玉浦の漁師も知り合いは多い。
「そうだそうだ。玉谷の娘だ。名前は・・・そうそう、和美とか言ってたな。」
少し前、玉浦の港で見かけたことがあった。波止場に一人座っていて、近くにいた漁師から名を聞いたのだった。そして、和美が無理な縁談を勧められているということもその時に聞いていたのだった。
「縁談が嫌で身投げか?そんなに嫌な奴なのかい?」と呟いた。
中途半端な噂話しか知らない銀二では、そう考えてもおかしくなかった。
和美の身の上に起こった全ての事を知っていれば、身投げするほどの絶望を理解できたかもしれない。
「さてどうしたものか」
放っておくわけにもいかないし、玉浦に連れて行っても病院があるわけもでもないし、嫌な奴の居るところに帰るのはやはりなあと思いながら、結局、向島につれて帰ることにした。

港には誰もいなかった。
病院に連れて行くにしてもこの夜中だ、一旦、自分の家に連れて行き休ませておこうと考えた。
銀二の家は、浜にある漁師小屋だった。家族で住んでいた家は父と母が亡くなり、兄が出て行き、弟も住み込みで働く事になったので、借家だった事もあり、この漁師小屋で充分だと住み着いたのだった。

銀二は、夜の港から、娘を背負って帰った。
とりあえず、3畳ほどの座敷に横にした。まだ、娘は目を覚まさない。
夏とはいえ、濡れたままでは体が冷えてしまって良くないだろうと考え、土間にある囲炉裏に火を起こした。
娘を見ると、体が冷えてしまったためか、震えているようだった。

銀二は、仕方なく、着替えさせることにした。
「変な事をするわけじゃないぞ。お前さんを心配しての事だ。許せよ。」
と独り言を言いながら、娘の洋服を脱がし始めた。すると、右肩から腕に掛けて白い包帯が巻かれていた。少しめくって見ると、火傷の跡のようだった。それほど古くない。ひょっとしたら身投げする直前なのかもしれなかった。よほど深刻な事態が娘の身に迫っていたのだと直感した。

揺れる囲炉裏の火に照らされた娘の裸体は、息を呑むほどに美しかった。銀二にとっては、その美しさはまるで天女のごとく高貴なものに感じられ,不埒な気持ちなど萎えてしまっていた。美しい体に火傷のキズ。悲しい境遇を語るには十分だった。

銀二はつま先から頭の先まで、丁寧に心を込めて拭いた。まるで、娘に取り付いた悲しい悪魔を払いを落とすように何度も何度も丁寧に拭いてやった。そして、自分が持っている衣服の中でも最も清潔だと思うものを着せてやった。そして、布団を敷き、そっと、寝かしつけてやった。

銀二は、ひととおり終えるまで、神仏の儀式を行うような気持ちだった。今までに味わった事のないような、清清しい気持ちになれた。そして、囲炉裏端にござを敷いて、眠りについた。

2-1-2.介抱 [峠◇第2部]


翌朝になっても、娘はまだ目を覚まさなかった。よほどショックを受けているようだった。
医者に連れて行くことも考えたが、体に傷は無かったようだからとしばらく介抱して、様子を見ることにした。というより、昨夜の娘の裸体を目にして、何か宝物を授かったような、他の誰にも見せたくないという気持ちが湧いていたのだった。

銀二は、足りない頭をフル回転させ、元気にするために何をすべきかを考えた。
何か栄養のあるものを食べさせないと、と台所に行ったが、男の一人暮らし、満足な食材など無い。娘が眠っているうちに、買い物をしておこうと考えた。そして、玉浦の様子も気になっていた。娘が居なくなって、玉谷の家も大騒ぎになっているだろう。様子を見てきて、娘に教えてやれば、死のうなんていう気持ちもなくなるだろうと考えた。
銀二は、玉浦の港へ船を走らせた。

玉浦の様子を聞くには、にしきやが絶好の場所だった。あそこに行けばほとんどの情報が手に入る。ついでに買い物も済ませれば良い、そう考えてにしきやへ向かった。

にしきやの娘が店番をしている。あのおしゃべりなら簡単に聞きだせると思った。
「おい!元気か!」銀二はいつもこう言って店に入っていた。
店番の娘は、返事もせず、帰れというような仕草で答える。これもいつもの事だった。
娘といっても、去年結婚して、子どもを産んだばかりだった。
「なあ、昨日、何か起きなかったか?」と銀二が訊いた。
「いやあ、びっくりしたよ。火事があったんだよ。ほら、峠の近くの玉谷の家でね。」と
娘は、玉谷の家が全焼して夫婦が焼け死んだ事や娘が行方不明になっている事を話した。
「他に身寄りの者はいないのかい?親戚とかさ。」と銀二。
「うん、息子さんが一人。今は東京の大学に居るそうで、今朝から連絡を取ろうとしてるんだけどね。電話番号はわからないし、警察でも困っているそうだよ。だから、取りあえず、葬儀は玉林寺でね。玉水の親父さんとうちの父ちゃんが相談していたんだ。」と娘は答えた。
「確か、娘の縁談があったんじゃないか?」と銀二。
「縁談?ああ、そういう話もあったかな。ごめんね。あまり良く知らんわ。」と言葉を濁した。
「ふーん。縁談って相手は誰だい?」と訊いたが、それ以上は話せ無いような素振りだった。

銀二はこれ以上はちょっと変かなと感じて、
「なあ!病人に栄養をつけるには何を食わせれば良いんだい?」と話題を変えた。
「誰が、病気なんだい?」と娘。
「誰だって良いじゃないか。なあ、教えろよ。」と銀二。
「うーん。最初から栄養の濃いものは止めて、最初はおかゆが良いんじゃない?」と娘。
「ああ、そうか。ならさ、作り方、書いてくれ。」と銀二が少し戸惑いながら続けた。
「えー?銀ちゃんが作るの。まあいいか、・・」と言いながら、そこにあった紙切れに書いて渡してくれた。
「あと、ジュースとかとにかく消化が良くて食べられそうなものを少しずつ食べさせなさいよ。」
と娘は教えてくれて、店にあるものをどっかりと並べた。そして、
「今日は、払ってくれるの?」
と嫌味そうに訊いたので、銀二は、
「ああ、今までのつけも全部まとめて払ってやるよ!」と言って精算した。
「ありがとな。じゃあな」と店を出た。

荷物を抱えて船に戻った。
向島へ向かう途中、銀二は考えた。火事になって親御さんも亡くなった、和美にはもう戻るところが無い。しばらく面倒見ることになるなと心に決めた。
そして、向島に戻る途中、玉浦の山の反対側に、玉の関へ行く事にした。

2-1-3.小料理屋 [峠◇第2部]


玉の関は、昔は塩田が広がっていて、その積出港として栄えていた。問屋とか両替とか、狭い港町にひしめくように家屋が建っていた。塩田の労働者が多い町で、一角には遊郭もあった。戦後になってからは、塩作りは下火になり、次第に衰退していったが、塩田跡を使って、自衛隊基地ができた事で、また昔の賑わいを取り戻していた。

港に船をつけて、銀二は、表通りから路地を少し入ったところを目指していた。
そこには、以前から親しくしている『紫(むらさき)』という小料理屋兼食堂があって、困ったらいつでもおいでという、女将さんが居たのだった。

「こんちは!銀二です。女将さん、いる?」
と玄関を叩いた。まだ、暖簾が出ていない。中から、女将さんが
「何なの?・・銀ちゃん?まだ店始まってないんだけど。」
と言いながら、引き戸を開けて顔を出した。
銀二より10歳くらい上だろうか、色白で上品な顔立ち、少し中年太りの域に入っているが、若い頃には随分美人だったと思われる。大きな瞳の左下に小さな泣きボクロがあるのが印象的だった。

「女将さん、何も訊かず、俺の頼みを訊いてくれ!頼む!」
銀二は、女将さんの前で手を合わせた。
「なんなの?!藪から棒に!いっつも、銀ちゃんはそうなんだから。まあいいわよ。で、なんなの?頼み事ってのは?」と女将。
「女物の洋服を分けてくれないか?」と銀二は恥ずかしそうに頼んだ。
「え?なんですって?あはは、は、は・・」と女将は声を出して笑った。
「どうするつもりなの?まさか、銀ちゃんが着るの?」と茶化すように続けた。
「訳は訊かないって約束じゃないか!」
「まあいいわよ。で、どんな人に着せるのよ?年配の人?それとも、若い娘さん?背丈は?」
「いや、それが・・・なんでも良いんだよ。女将さんがいらなくなった服でいいんだよ。」
「そういったってね。あたしはほら、この通りの体格だからさ、もし、細くて若い娘さんなら着れないんじゃないの。それくらいは教えてよ。」と女将が訊いた。
「わかったよ。若い娘だ。背丈は女将さんぐらいだが、体格は・・半分くらいかな?」
「半分?・・失礼しちゃうわ、半分なんて。少し細いくらいって言えないの?」と言いながら、女将さんは店に戻って行った。

しばらくして、紙袋二つ抱えて出てきた。
「はい。あたしのじゃあんまりだから、娘の箪笥に入っていたものよ。どうせ、帰って来ても、着る事もないだろうからどうぞ。それから、もうひとつは、下着よ。女の人っていうのは大変なんだから。こら、中を見るんじゃないの!もって行って娘さんに渡せばいいからね。」と銀二に渡した。

「ありがとう。恩に着るよ。また、ちゃんと礼には来るから。」
と言って帰ろうとした時、女将が、銀二の襟を掴んで、
「ちょっと待ちなさいって。他にもいろいろ必要な物があるはずでしょ。ついでにこれも持って行きなさい。」
と言って、銀二の胸ポケットに、1万円札を何枚か捻じ込んだ。
「それから、早いうちに一度連れてきてね。あたしはいつだって銀二の味方なんだからね。必ず来るのよ。」
と言って、さっさと店に入って行った。銀二は、店に向かって、拝むように頭を下げた。

銀二は、急いで船を走らせた。
家を出てから、もう3時間近く経っている。その間に娘が目を覚ましていないか心配だった。
銀二が家に着いた時、娘はまだ横になったままだった。やはり、よほどショックが大きかったのだろう。
銀二は、娘が起きた時、すぐに食べられるようにと考えて、にしきやの娘に貰ったメモを見ながら、おかゆを作り始めた。昼を過ぎても、夕方になっても、娘は目を覚まさなかった。

昨夜と同じように、娘の服を着替えさせ、温かい湯を沸かして、きれいに体を拭いてやった。
今日は髪も洗ってやった。長い髪は細く艶やかで、触れているだけで幸せだった。
それでも娘は目を覚まさなかった。
銀二は、娘がこのまま目を覚まさないじゃないだろうかと、心配になっていた。

2-1-4.回復 [峠◇第2部]


3日目の朝、ようやく、娘は目を覚ました。
最初は、自分が何処にいるのか判らない様子だったが、岬から身を投げた事は覚えていて、誰かに助けられ、ここにいるのだという事がようやく判った。
起きようとしたが、体に力が入らない。その様子に気づいた銀二が近づいて、声を掛ける。
「おお、やっと目が覚めたかい。あんた、丸二日も眠っていたんだぞ!」
聞き慣れない声に、娘はびくっとし、布団を被った。すぐには、返事が出来なかった。
銀二は、そんな娘の様子を見て、少し優しく、
「もう大丈夫なのかい?」
と訊くと、娘はようやく、布団から顔を出し、こくりと首を縦に振った。
「事情は知らないが、命を粗末にするもんじゃないぞ。」
とありきたりの言葉を続けるほか無かった。
銀二の言葉に、娘は急に涙を流し始めた。
「まだ、無理しない方がいい。そうだ、腹減ってないか?何か飲むか?どこか痛むか?」
銀二は、娘の涙を見て、どうしていいかわからず、慌てて訊いた。
娘はようやく口を開いて、「お水を・・・」と途切れがちな声で言った。
銀二は、台所に飛んでいって、そこらにある器の中から、一番綺麗そうなものを選んで、水を入れた。
娘に手渡そうとしたが、横になったままで飲めなかった。
銀二は、優しく娘を抱き起こして、飲ませてやった。
娘は、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。銀二は、娘をゆっくりと横にした。
「もう少し、横になっていな。顔を洗ってくる。」と言って、銀二は外に出た。

銀二の漁師小屋の前には、砂浜が広がっていた。ようやく意識を取り戻した娘を見て、銀二は安堵した。そして、砂浜に座り込んで、タバコを吸った。遠くに、玉浦が見える。

しばらくして、小屋に入ると、娘が起き上がっていた。
「私は、和美と言います。玉浦のものです。」と言った。
「そうかい。」と銀二が返した。
「昨夜、家は火事になりました。我が子ともども逃げ出しましたが、父や母はおそらく亡くなったと思います。」
と続けた。
銀二は、にしきやで大体の様子は聞いていたので驚かなかったが、「わが子」と聞いてびっくりした。この若い娘が子どもを産んだとは思えなかった。
「わが子って、お前が産んだのかい?助けた時に、近くにはそれらしいものは見えなかったが・・・ダメだったか・・」と銀二。
「いえ、良いんです。私も死のうとしたのですから・・」と和美。
「でもよ、火事から逃げ出したっていうのなら、死のうなんておかしいじゃないか!」と銀二が訊く。
和美は、その言葉を聞いて、玉浦での出来事を銀二に話した。
初めて愛した男を村の青年たちに殺されたこと、そして、愛した男の子どもを身篭り、父母に反対されても産んだ事、傾いた家のために身売り同然の縁談や縁組が持ち込まれたこと、そして、父母が殺され、家に火をつけられ、逃げ出したところを、岬まで追われ、わが子ともども身を投げた事等を話した。
銀二は、じっと和美の話を聞いていた。一通り事情を聞いた銀二は、こう言った。
「そんな悲しい人生、あってたまるか!今日から、あんたは、別の人生を生きるんだ!」
そう言った銀二もよく意味がわからない事を言ってしまったと思った。
和美は、「そんなこと・・・」と銀二に問う。

銀二は、戸惑いながらこう言った。
「俺は頭が悪いから良くわからないが、お袋がさ、よく言ってたんだよ。生きていればなんとかなるって。・・・そうだよ。俺の船に助けられたのは、きっと、まだ死んじゃダメだって言う事、なんだよ。・・・そうだ、別人になればいいんだよ。玉谷の人間だから、悲しいんだ。別に人間にさ。・・・そうだなあ・・」
そこまで言って、銀二は思案した。そして、
「その方法はまた考えよう。とにかく、今は、体を戻す事だ。いいな。」
銀二はそう言って、和美を横にさせた。
「俺はこれから漁に出かけてくる。寝てりゃいいからな。」
銀二は、そう言うと家から出て行った。

2-1-5.漁の土産 [峠◇第2部]

銀二は、いつものように漁に出た。港を出てから同じ事を考えていた。
別の人生といっても、この島で誰かに見つかれば、おかしな噂を立てられるに決まっている。俺は構わないが、若い和美には可哀想だ。あれこれ詮索されるのも嫌だろうし、玉浦の人間に知れるとまたどんな目に遭うかも分からない。どうしたものかと考えていたが、なかなか良い考えが浮かばなかった。
その日の漁は、立て網漁だった。いろんな魚が獲れるが、雑魚ばかりでなかなか良い値が付く魚が取れなかった。夕方には、港に帰り、水揚げした。1匹だけ、大きな鯛が獲れたが、市場には出さず、持ち帰る事にした。

銀二が家に着いたのは、もう日暮れを過ぎ、夕闇の中だった。
いつもなら、真っ暗な小屋へ帰るのだが、今日は明かりが点いている。一人暮らしが長かった銀二には、その明かりがとてつもなく幸せを感じさせてくれた。

戸を開けると、和美が台所に立って、掃除をしていた。銀二に気付くと「お帰りなさい。」と言った。
銀二は、何だかその言葉がむずがゆくて、どう応えてよいか戸惑い、つい、「まだ寝てろって言っただろう」とぶっきらぼうな返答をしてしまった。
和美は済まなそうな顔で、
「だいぶ動けるようになったから。それに、何かしてないと、思い出してしまって・・」と急に涙ぐんだ。
銀二は、和美が子どもを亡くしたことを悔いている事は十分にわかっていたので、それ以上は言わず、
「これ、今日獲れたんだ。滅多に取れないからな。これを食べて精をつけな!」
と、大きな鯛を差し出した。そして、
「これ,うまく捌けるか?」
と訊いた。和美が困った顔をしたのを見て、銀二は、包丁を持って台所に向かった。

「漁師が食べる料理だからな。そんな豪勢なものは出来ないが・・まあ、食べられると思うから・・」
と言いながら、器用に鯛をおろしていく。片身は刺身に、片身はぶつ切りにして米と一緒に土鍋に入れた。頭とあら骨は、鉄鍋に入れて囲炉裏にかけた。30分ほどするといい匂いがしてきた。
「そろそろ良いだろう。」
狭い座敷に卓袱台を出し、土鍋と抱えてきた。

「ええと、これは鯛めしだ。それから、刺身。それと鯛汁な。」
ちょっと自慢げな銀二だったが、和美は、まだ気持ちが晴れないのか、無表情で座っている。
茶碗によそって、さあ食べようというところで銀二が、
「おおっと、ちょいっと待った。」と言って、小屋の外へ出て行った。

しばらくすると、手に何か持って入ってきた。
「鯛汁にはこれがなくっちゃな。」と言って、手のひらを広げると、小さな山椒の葉があった。
「これをな、ほら。」と言って、手のひらに載せて、ぽんと叩く。すると、山椒の香りが広がった。
「それ、お前もやってみな!」と和美に手渡した。
和美は言われたとおりに、手のひらに載せてポンと叩く。同じように、爽やかな山椒の香りが広がった。
「な、良いだろ。これを鯛汁に入れると、臭みが消えて美味くなるんだ。ああ美味い。」
その様子を見て、和美がふっと微笑んだ。助け上げてから初めて見る笑顔だった。銀二も嬉しくなった。
「さあ、食べろ。美味いはずだから」と勧めた。
和美は、そっと鯛めしに箸をつける。ちょっと塩からかったが、美味しかった。そして、鯛汁に口をつける。言われたとおり、山椒の香りが鼻をくすぐり、鯛の甘味が口の中で広がった。
生きていてよかったと心から思えて、涙が零れた。
「おいおい、涙を流すほど不味かったか?」と銀二が問う言葉が可笑しくて、涙を流しながら笑った。

2-1-6.夏の夜 [峠◇第2部]


 夕飯を終えて、片付けをしながら、銀二が和美に言った。
「ああそうだ。そこに紙袋があるだろう。見てみな。」
和美は言われるまま、座敷の隅に置かれた大きな紙袋を開いてみた。
一つには、いろんな洋服が入っていた。もうひとつには、下着が入っていた。
「これ、どうしたんですか?」と和美が訊いた。
「ああ、知り合いから貰ってきたんだ。気に入らないものもあるだろうが、まあ、良いだろう。とりあえず着替えは必要だろうからな。」と答えた。
和美は、ひとつ取り出して当ててみた。
「おお、なかなか良いじゃないか。」と銀二は褒めてみせた。

大きさはちょうど良い様だったが、少し派手なものが多かった。ワンピース等も短かった。そして、流行のジーパンも入っていた。玉浦に居た時には、厳しい父の言いつけで、ほとんど無地のワンピースが多かったので、こういう洋服を見て改めて思った。そうだ、別の人生を生きるのだ。今まで着た事のないような洋服も着なくちゃと思った。
「ありがとうございます。大事にします。」と、洋服を抱きしめながら、和美が答えた。

「おお、そうだ。その人がな、女の人は他にもいろいろ必要なものがあるからと幾らか金をくれたんだ。もちろん、また返しに行くけどな。元気になったら買い物に行こう。」
和美は少し躊躇した顔をしていた。銀二はその様子に気が付いて、
「大丈夫さ。徳山の港まで行くからさ。ああ、それと、一度、その洋服をくれた人のところにも礼に行こう。玉の関だが、小料理屋の女将さんなんだ。あそこも玉浦の人間は来ないから大丈夫さ。」

片付けも終わった頃、銀二は、
「風呂を沸かすが、入るか?体も汚れてるだろう。」と訊いた。
和美はこくりとうなずいた。
「じゃあ、少し待ってろ。俺んちの風呂は、外にあるんだ。俺一人の時は、見られたって構わなかったが、お前が入るとなりゃまずいだろう。ちょっと囲いを作るからな。」
と言って家の裏に出て行った。

銀二の家の風呂は、長州風呂(鉄製の釜風呂)だった。もう使わなくなったものを貰い受けてきて、自分で石組みをして作ったものだった。ちょっとした屋根はついているが、囲いなど無い。もちろん、銀二の家は海岸縁に建っているし、近くに家は無い田舎町なので、覗きに来る様な酔狂な人間はいないが、やはり、若い娘となれば嫌だろう。
日よけに使っていた立て簾を何枚か引っ張り出してきて、風呂の周りに立てかけた。
銀二は、ぐるっと1周し、中が見えない事を確認して満足そうに、湯を沸かす準備を始めた。

和美は、銀二の様子が気になって、おぼつかない足取りで、裏に出てきた。
「おい、家の中にいろって。まだ、そんなに早く入れやしないから。」と銀二が言うと、
「私にも何か手伝わせて下さい。」と和美が言った。
「じゃあ、そこにある木から枯れ枝を小さく取って、焚口に放り込みな。」と銀二が答えた。
和美は、滝口の前にある丸太に腰を下ろして、枯れ枝を焚口に入れ始めた。
銀二は、井戸から水を運び、風呂に張った。薪が入った焚口に、松葉の焚付けを重ね、火をつける。
宵闇の中で赤々と炎が広がった。それを見て、急に和美が顔を覆った。
数日前の火事を急に思い出してしまったのだった。
和美の異変に銀二は気づいた。そして、和美を両手で抱き上げて、家の中に連れて行った。
和美は小さな声で「ごめんなさい」とだけ答えた。
「湯が沸くまで横になっていろ。」とだけ銀二は言い、和美をおろして出て行った。

30分ほどして銀二が声を掛けた。
「湯が沸いたから、先に入れ。誰も覗きはしない。不安なら、俺が見張りをしてやるから。」
「銀二さんが先に・・」と和美が言ったが、
「いや、俺の体は潮まみれだから、入ると湯が汚れる。お前が先だ。」
と銀二が言うので、和美は言われたままに、風呂場に向かった。
「ああ、石鹸とタオルはそこにあるだろ。それから、底板を踏んで入るんだぞ。でないと火傷するぞ。」
「はい。・・あの、洋服は?」
「そこに、木箱があるから、その上に置いとけば濡れない。ああ、ちゃんと着替えは持ったか?」
まるで、子どもに教えるように銀二は言った。

久しぶりの湯船だった。銀二に救われ、取り留めた命。生きているんだという実感がじっと湧いてきた。すると、劫火の中で逝った父母や身投げして命を落としたわが子を思い出して、涙が溢れてきた。私だけ、こんな温かい思いをして良いのかと悔やんでいた。

「湯加減はどうだい?」と、屈託の無い銀二の声が聞こえた。
随分、遠くから聞こえているようだった。和美に気を使ってわざわざ遠くから訊いてくるようだった。
銀二の優しさが心に沁みた。そして和美が答える。
「いい湯加減です。銀二さん、ありがとうございます。」
和美はそう答えるのが精一杯だった。

2-2-1 長い髪 [峠◇第2部]

翌朝、銀二が目覚めると、すでに和美は起きていて、朝食の支度をしていた。
昨夜の残りの鯛の身を醤油で煮ていて、良い香りが部屋の中に漂っていた。銀二にとって、こんな朝は、母を亡くして以来の事だった。

「おはよう。もう大丈夫かい?」と銀二が言った。
和美はこくりと頷き、
「ごめんなさい。勝手に台所を使ってしまって。昨日の残り物だけど、朝ごはんを作りました。」
と遠慮がちに言った。
「ああ、美味そうなにおいがする。顔洗ってくるから・・」と言って銀二が小屋から出て行くと、和美は布団を挙げ、卓袱台を出して、並べ始めた。
二人は、向かい合って卓袱台の前に座って、ご飯を食べ始めた。

何を話せばよいのか、銀二は思案していた。何しろ、昨日までは、元気にする事で必至だったが、いざ、元気になってみると、若い娘と二人でこうしてご飯を食べている事だけでも途轍もなく奇妙な事に感じられたのだ。
そんな様子を察してか、和美も何も言わずにいた。
食べ終わるまで二人は無言だった。

茶碗を流しに運び、一息つく頃にようやく和美が、
「ねえ、銀二さん。お願いがあるんです。」と切り出した。
「お・・おう、なんだい?」と銀二。
「別の人生を生きろって銀二さんから言われて、私も考えたんです。それで、お願いなんです。」
「だから、なんだよ。」
「ええ、この髪を切って欲しいんです。生まれてからずっと長い髪でした。でも、今日からは別の人生を生きると決めたんです。ひとおもいにこの髪を短く切ってしまいたいって・・」
「そうかい。でもな、床屋じゃないし、上手くできるかな。」
「いいんです。とにかく、銀二さんに短く切ってもらいたいんです・・」
「わかった。」
銀二はそう言うと、網を直すための手鋏を道具箱から取り出した。ここではなんだからと、浜に出て、髪を切ってやることにした。
「いいんだな?」と銀二。
「ええ、思い切って切ってください。」

少しずつ、髪を切っていく。銀二には、女性の髪の長さなんてわからない。後ろ髪は肩口でばっさり、それに合わせて横も切りそろえた。前髪だけは自分で切るといって鋏を手にとって少しずつ切っていった。
みょうちくりんな髪型に仕上がった。
「すまない。よくわかんなくて。」
と言いながら、歪んだ手鏡を和美に渡した。和美は、しばらく鏡を見ていたが、涙をポロリと零して、
「銀二さん、ありがとう。これですっきりしました。今日から新しい人生を見つけます。」
と微笑んだ。
銀二は、切り落とした長い髪を片付けながら、一束ほど、懐に忍ばせた。

「よし、今日は買い物に行こう。その髪なら、お前の事を知り合いが見つけてもわかりゃしないだろうって。」
と銀二が言った。
「どうやって?」と和美。
「俺の船で行く。港まで行くと、俺の知り合いの奴らに何を言われるかわからないからな。お前は、この浜の先にある桟橋で待ってろ。おれが船を持ってくる。そこから乗れば良い。」
「わかりました。」
「それと、貰ってきた洋服から、一番明るいのを選んで着ろ。気分も晴れるだろうから。いいな。すぐに船を取りに行くから準備しとけよ。」
銀二はそう言って、さっと着替えて出て行った。

和美は言われたとおりに、赤い花模様のワンピースに着替えて、浜の先にある桟橋へ向かった。
30分ほどして、銀二の船が見えた。
仲間の漁師に勘繰られないよう、一旦、港から沖へ出て、向島を一周して反対側からやって来た。
銀二の船はさほど大きくは無いが、早かった。瀬戸内の海はいつもに増して穏やかで、まるで鏡の上を滑るように進んだ。ポンポンという船のエンジン音だけが響いていた。

2-2-2.買い物 [峠◇第2部]

2時間ほどかけて、船は徳山の港に着いた。年に2,3度ほど来ている港だった。
ここは、玉浦や向島とは比べ物にならないほど大きい港で、市場には、競り台がいくつもあって、遠洋ものの水揚げもあるのだった。市場の裏手には、商店街があった。
もう昼前ということもあり、市場は人影も無く静かだった。市場を抜けて、商店街のある通りに出た。買い物客はそれなりにいたが、平日の昼間で、静かなほうだった。
「なあ、何か欲しいものはないか?俺にはわからんから、自分で欲しいものを買って来い。」
といって、小料理屋の女将さんから貰ったお金をそのまま和美に渡した。和美は遠慮したが、銀二が強引に手に持たせた。そして銀二は、「買ったものは俺が持ってやるから・・」と少し後ろを歩いた。
それならばと和美は心を決めて、食料品店に向かった。そして、まず、野菜をたっぷり買い込んだ。そして、味噌や醤油等の調味料、小麦粉、パン粉、乾麺、お茶、油・・・とにかく、食料品ばかりを買い始めた。そして、石鹸や歯磨き、便所紙、洗濯用の石鹸等を買った。銀二は、元気に買い物をする和美を見て嬉しくなった。
だが、途中で
「おい、そんなものじゃなくて、自分のものをもっと買え。ほら、靴とか、化粧品とか、欲しいものあるだろ。」
と言って制止した。

和美はその言葉を聞いて、立ちすくんでしまった。
自分のものをと言われても、何が必要なのか、分からなかったのだ。今の自分に何が必要なんだろう。化粧をする事が必要なのだろうか?着飾る必要はあるのだろうか?今は、何も欲しいものが見当たらなかった。それほどに、心の中が空っぽになっている事に改めて気づいたのだった。
そして思わずそこに座り込んでしまった。

和美の様子を見て銀二は、どう声を掛けてよいものか戸惑った。元気な様子で買い物をしていた和美を見ているうちに、忌わしき出来事をすっかり忘れていたのだった。辺りを見回すと、パン売り場があった。
銀二は思わず、
「おい!パン 食べたくないか?」と言った。
特に意味は無かったが、座り込んだ和美を動かすために、手近にあったものを見つけ、とにかく訊いた。
和美がふっとパン売り場を見た。銀二は食パンを両手に抱えて、踊るように見せている。その様子が可笑しくて、和美はふっと笑った。
「おお?パン好きか?それならたくさん買っていこう。」
銀二は、食パンを4斤も買い込んだ。もう両手いっぱいの荷物になっていた。
「一回、荷物を置きに船に戻ろう。それから、昼飯を食おうぜ。」
銀二は、出来るだけ陽気に和美に話しかけた。
一旦荷物を船に置いて、昼食を取ろうと、また、商店街へ戻った。

昼時ともなれば、どこの食堂も混雑していた。2.3軒、暖簾を押して入ってみるが、満員ばかりだった。
そうしているうちに、和美が言った。
「ねえ、銀二さん。さっき買ったパンを食べましょう。」
と言い出した。せっかく徳山の町まで来てと銀二は思ったが、まあ、和美が言い出したとおりにしようと考え、
「ああ、それが良いや。じゃあ、何か飲み物を買おう。」
ちょうど、目の前に、食料品店があった。瓶に入った牛乳が目に付いた。銀二はそれを2本買った。
「滋養には牛乳が一番だよな。」と自己満足な言葉を言いながら抱えて、船に戻った。


2-2-3.食パンと牛乳 [峠◇第2部]


「ねえ、銀二さん、船を出して。何だか、海の真ん中で、お昼ご飯を食べたい気分なんです。」
「ああ、そりゃ良いや。今日は海も凪いでるし、ゆったり波に揺られながらってもの良いよな。」
そう決まると、すぐに銀二は船を出した。

徳山の港から、まっすぐ沖に向かった。30分も走ると、もう陸地は見えなくなってしまった。
「あまり出ると、大型船の航路になるからな。この少し先に、小さな島があるんだ。島って言ったって、松の木が5.6本生えてるような小さい岩島だがな。俺は時々上がってみるんだ。」
そう言って、船を向けた。5分ほどで島が見えた。船を着けるような場所が無いので、浅瀬まで船を近づけ、碇を下ろして船を停めた。
「俺が抱えていってやるから、お前はこれを持ってな。」
と言って、パンと牛乳の入った袋を和美に渡した。そして、銀二は、ざぶんと海に入った。腰くらいまでの深さがあった。そこから、和美を抱きかかえて、陸へ上がった。

砂浜に漂着した流木に二人は座って、昼食にした。
「あ、食パンと牛乳だけでよかったか?」
と銀二が言い出した。
「ほら、なんだ、ジャムとかバターとかさ、そんなもの買って来なかったぞ。」
「そうだ。ねえ、さっきお砂糖を買ったでしょ。銀二さん、あれを持ってきてくださらない?」
「おお、おお、いいぞ。」
銀二はまた、腰まで潮水に浸かりながら船に戻ると、砂糖の袋を持ってきた。
和美は、それを受け取ると、封をあけた。そして、食パンを1枚取り出して、たっぷりとのせ、半折りにして銀二に渡した。銀二は、それまでパンを食べた事が無かった。何だか頼りないし、少しすっぱいような独特な臭いがどうも苦手だったのだ。しかし、和美が手渡してくれたパンはとても美味そうに思えた。銀二は大口を開け、一気に半分くらい噛み付いた。砂糖の甘さは良かったが、何だか口の中でもさもさする。飲み込もうとしてもどうにものどを通らない。そうこうしている内に、のどに詰まらせた。
和美は銀二の様子を見て、びっくりした。そして、袋の中から牛乳を取り出して銀二に渡した。蓋を開けると、牛乳と一緒にパンを飲み込んだ。
パンの縁から零れた砂糖と急いで飲んだ牛乳が零れて、銀二のシャツは、おかしなことになってしまった。
それなのに、銀二は、すぐまたパンに噛み付いた。そして、1枚をどうにか食べ終わると、
「ああ、美味かった。パンに砂糖はばっちりだな。お前も食べろ!」と嘯いている。
まるで子どものような銀二の仕草に、和美の心は、溶かされているようだった。
「ねえ、銀二さん。こうしていると世界に二人だけって感じがしてきますね。」
和美がしみじみと言い、海の遠くのほうを眺めていた。銀二もその言葉を聞いて、同じように視線を遠く水平線へ向けた。

「そろそろ戻るか。今日は、夜、漁に出るんだ。」
「ねえ、私も漁に連れて行ってくださらない?一人で家にいるといろんな事を考えてしまって・・」
「ああ、構わないが、大人しくしてるんだぞ。また、海にでも落ちられたんじゃたまらないからな。」
と笑顔で銀二が答えた。

2-2-4.出漁 [峠◇第2部]

4.出漁
 買い物の時と同様、和美は浜の外れの桟橋で待っていた。
 漁に出るには、ワンピースでは行けない。家に戻り、シャツとジーパンに着替えた。
 銀二の船がやってきた。夕暮れの中で、銀二の船は、ライトを点けて向かってくる。
船に乗り込むと、銀二は和美に、雨合羽と長靴を出した。夏とはいえ、海水を浴びた体に夜風となれば風邪を引く。せめて、合羽でも着ていれば、冷えは防げるだろうと言う事だった。

漁に向かう銀二の顔つきは、昼間とは別人だった。操舵室から顔を出し、遠く行く先を見つめている。
「ねえ、銀二さん、どのあたりまで行くの?」
「ああ、島の南側に行く。20分ほどで着く。」
実は、銀二は、港を出てからずっと考えていた。この時期、玉浦の沖が太刀魚のもっとも良い漁場なのだが、和美を連れて行くには余りに酷だと感じていたのだった。そこで、向島の南側の浅場に行き、流し網漁をする事にしたのだった。

島の南側は、浅場が広がっていて、海草も多く、小魚は結構取れる。波は穏やかで、月灯りが美しかった。じきに船が漁場に着いた。銀二は、網を少しずつ波間に入れ始めた。和美も手伝おうと立ち上がると、波に揺れる船で体がふらついた。銀二は、「じっとしてろ!」と怒った。昼間の優しい銀二ではなかった。
1時間ほど経ったところで、網を上げ始めた。集魚灯の灯りに、銀色に光る小魚が見え始めた。少し引き上げて、銀二が言った。
「ゆっくり網を上げるから、網に掛かった魚を外してくれ。」
和美がゆっくり立ち上がって、網を持った。網のあちこちに、ちぎれた海草に混じって、小魚が引っ掛かっていた。ピチピチと跳ねる魚を握って網から外した。魚は、船の真ん中にある生簀に入れられた。鯖や鯵が多かったが、他にも見たこともない魚も多かった。どれも皆、元気に飛び跳ねる。和美は夢中になって魚を外し続けた。作業を続けているときは頭の中には何もなかった。悲しい記憶もすっかり消えていた。

2時間ほど、夢中で作業をした。網を上げ終わるころには、生簀の中は一杯になっていた。
銀二は、操舵室に座って、タバコを吸った。そして、
「俺な、漁に出るといつも思うんだ。俺は、この海に生かされてるんだなって。」と呟いた。
銀二の言葉に、和美は自分が銀二に救われた運命も、きっとこの海に生かされたのだと思った。

「さあ、そろそろ、港に戻るかい。」と銀二。
それを聞いた、和美は
「ねえ、銀二さん。お願いがあるんです。玉浦のあたりまで行って貰えませんか?」と言った。
「なんだって?」
銀二には意外な頼みだった。あの忌まわしい記憶を思い出させないよう、敢えて、別の漁場を選んだ。
「新しい自分になるために、最後に、あの場所を見ておきたいんです。」

銀二は、すぐに船を走らせた。ほどなく玉付岬の沖に着いた。
夜更けの海は真っ暗で、かすかに山影がわかる程度だった。
「このあたりでお前を拾い上げたんだ。潮の流れが緩くて、助かったんだ。」
銀二が思い出すように言った。
「玉浦の沖は、潮の流れが複雑なんだ。玉付崎辺りは特にな。大久保海岸のほうへ流れる潮と玉浦の西へ向かう潮の流れがあって、ぶつかり合うときもある。そんなときは大抵沖へ向かう潮になる。それが、お前を見つけたときはどの潮もなくて静かに留っていたんだ。まるで、大きな池の中にいるようだった。だから、お前は助かった。だからな、まだ死んじゃいけないって事なんだよ。」
「でも、私にはもう何もないんです。」
「違う。今は何もないかも知れんが、これからやらなければいけない事があるはずなんだ。今はわからなくてもきっと見つかる。みなそうやって生きてるんじゃないのか?」
和美はじっと銀二の言葉を聞いていた。

岬を回りこむと玉浦の港の明かりが見えてきた。ぽつりぽつりと人家の明かりも見えている。和美はじっと目を凝らすようにその灯りを見つめていた。そして、この村で過ごした日々の思い出を封印するようにゆっくりと目を閉じた。
「銀二さん、ありがとう。向島へ戻りましょう。」
銀二は返事もせず、舵をきった。玉浦がどんどん遠ざかっていく。

向島の島影が見えてきた。
「海で死にたいっていう奴がいるが、海の本当の姿を知らないから言うんだ。俺はこの海で生きてる。何度か、嵐にあって死にそうな目にあった。どんなに抗っても、海は許してくれない。引き込もうとするんだ。」
「私は、浮いていたんでしょ。」
「そうだ。海に抱かれて死にたいなんて、甘い考えを持ってる奴は、大抵、海の底に引き込まれて、何日か経って浮いてくる。海の底に引き込まれて死ぬとな、体を魚たちに食い散らされる。惨い姿になる。そして、腐ってガスが溜まって、パンパンに膨れて浮いてくるんだ。見れたもんじゃない。だけどな、事故で誤って落ちた時は、たとえ命を落としても、すぐに浮いてくる。綺麗な顔してるんだ。きっと、海が情けをかけるんだろ。死んじゃいけない人間は、すぐに浮かせてくれんだ。だから、お前は生きなきゃいけないんだ。どんなに辛くっても、下を向いちゃいけない、上を向いていれば必ず何か見えてくる。」
今夜の銀二は妙にまじめな顔つきだった。和美にというよりも、自分に言い聞かせるような言い方だった。

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