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1月 初詣 [歳時記]

1月 初詣
 我が家では、紅白歌合戦が終わると、たくさん着込んで、近くの神明社へ初詣するのが恒例行事になっている。
 もともと、私が故郷に居た頃、親父の発案で始まった事だったが、故郷を離れしばらくは「初詣」とも縁遠かった。しかし、結婚した時、この行事が復活した。
 結婚当初は、もちろん、妻と二人で行ったのだが、子どもが生まれてから、寒さにめげず、眠っているわが子を抱っこしたり、愚図る娘をあやしたり、なんだかんだと20年間続いているのだった。
 今年は、東京の大学に通っている下の娘が成人した。上の娘は、大学を出て少し就職浪人はしたが、何とか就職先も決まり、いよいよ独り立ちする年になった。
 暮れには、下の娘も帰郷していて、大晦日には、例年と同じように、炬燵に入って紅白歌合戦を見て、勝敗が決まる頃には、皆、着替えを始めたのだった。
いつもの神明社は、自宅から歩いて10分ほどのところにある。
用水沿いの暗い道を、娘二人が前を歩き、妻と私はゆっくりとついていく。
何時からだろう、娘たちが私たちの先導をするようになっている。小さな手で私の両手を繋いで歩いたのは、私の記憶の中ではほんの少し前の事のようなのだが、今では、両手はポケットの中に納まってしまっている。
普段は、人影すらない小さな神社なのだが、初詣には丁度良いらしく、毎年、大勢の人が集まってくる。下の鳥居から30段ほどの石段を登り、20メートルほどの敷石を突き当たったところが拝殿になっている。すでに、年も開け、大勢の人が列をなしている。
「もっと早く来ないと駄目ね。」
隣で妻がぼそっと呟いた。遅くなったのは、お前が念入りに化粧してるからだろ!と突っ込みたくなったが、新年から機嫌を損ねるのは得策ではない。私は、「ああ・・」とぼんやりと頷いた。
「あっ、さっちゃんだ。」
下の娘が、列の前のほうに同級生の姿を見つけ、列から離れて、同級生の下へ行った。新年の挨拶をしているのか、久しぶりに遭った友達と笑顔で話をしている。妻も、近所の知り合いを見つけ、お決まりの新年の挨拶をし始めた。
私は、近所づきあいが苦手というか、ほとんどしないので、知り合いも少ない。ぼんやりと列の中に立って、一歩ずつ前進する列について行った。上の娘も、私と同様で、知り合いが居ない様で、隣でぼおっと立っていた。
「来年は来れるかな?」
上の娘がぼそりと言う。春からの仕事は、土日も年末年始もない厳しい職場だとわかっている。就職氷河期といわれる時代、仕事を選ぶ余裕も無かったのだが、何だか寂しそうな表情でいう娘を見て、複雑な心境になった。
私が慰めの言葉でもと思って、口を開こうとしたところで、上の娘も知り合いが見つかったようで、ふいに列を離れていってしまった。

20分ほどして、ようやく拝殿の前に来た。四人並んで、拝礼の作法に従って、「二拝二拍手一拝」。娘たちが幼い内に、この作法を教え込んだのは正解だった。特に、上の娘は、小さい時からきちんとできるからと、大人から褒められる事も多かった。

 そう言えば、先日、妻が何を思ったのか急にこんな事を言った。
「初詣の願かけは、自分の事をお願いしちゃ駄目なんだって。」
藪から棒に何のことだと思ったが、それは置いといて、私は訊いた。
「・・じゃあ、大学に合格しますようにとか、宝くじに当たりますようにとか、そういうのじゃ、駄目ってことかい?」
「ええ、そういうのは、神様は叶えてくれないんだって。」
「でもさ、絵馬なんかにもそう書いてるのは多いだろ?」
「だから!初詣の時だけなのよ。」
何だか、妻は妙に苛立って答えてきた。いかんいかん、このままでは角が出るぞと感じて、少し下手に出て、私は訊いた。
「じゃあ、どんな願掛けがいいのでしょうか?」
妻は、少し不機嫌な表情ながらもこう言った。
「世界平和とか、人類皆兄弟とか、飢餓撲滅とか・・とにかく、自分の幸せじゃなく、人のために、願掛けすれば良いんだって。」
ふうん、そんなもんかね?でも、今時、人類皆兄弟ってちょっと古くないかいと突っ込みたくなったが、まあ聞き流しておこう。

拝礼が終わり、矢印に沿って右の通路に出た。
娘二人は、境内の一角に設えてある「接待所」の文字に向かっている。そう、初詣客に、甘酒やお神酒が振舞われているのだった。娘の後に妻も続いている。娘二人は、甘酒をいただき、妻はお神酒を手にしている。私は下戸で、甘酒も苦手なので、彼女たちの様子を見ながら、売店でお守りの品定めとなった。

「ねえ、もう帰りましょう。寒くなってきたわ。」
妻は、少し酒臭い息で現れた。甘酒のお代わりをしている娘を呼んで、暗い夜道を戻る事にした。

「ねえ、どんな願掛けした?」
下の娘が私に訊いた。
私は、先日の妻の話を思い出しながら、
「・・まあ・・そうだな・・世界平和・・・かな?」
「何それ?変なの!」
上の娘が馬鹿にして言った。
「ねえ、お母さんは?」
妻の答えに私も興味があった。あれだけ、願掛けの薀蓄を披露したのだからさぞかし立派な願掛けに違いない。
「えっ?・・そうね、貴方たちが健康で居られますようにとお願いしたわ。」
妻はさらりと答えた。
「それだけ?」
下の娘が追求する。
「ああ、それと、今年こそ、宝くじに当たりましょうにって。」
なんだよ、それ、言ってた事とぜんぜん違うじゃないか。
「ええ?宝くじに当たったらどうするの?ねえ、少し分けてくれるんでしょ?」
上の娘は、妙に真剣に訊いてくる。下の娘も、
「私、今年も海外旅行したいから100万円くらいちょうだいね。」
と言ってくる。お前たち、おかしいぞ!正月から、馬鹿親子だぞ!と突っ込みたいが、実は私も密かに、「宝くじに当たりますように、出来れば1億円!」と願掛けしたのだった。
「お前達は?」
私が娘たちに訊いた。二人とも、示し合わせたような顔で、声を合わせて言った。
「また、来年もこうして4人で初詣に来れます様に!」


1月 成人式 [歳時記]

1月 成人式
下の娘が成人式を迎えた。上の娘の時に経験済みとはいえ、やはり、一大イベントである。「一生に一度」と言う言葉に、財布の紐も緩まざるを得ない。何とも、親心を試すようなイベントである。
成人式のイベントは、すでに2年前から始まっている。
高校を卒業すると同時に、地元の貸衣装店や呉服店から、ダイレクトメールが山ほど届き始める。最初は、これほど早く届くので、何かの間違いだろうと思っていたが、どうやらそうではないようだ。一年前には、ほぼ衣装を決めなければ間に合わない。さらに、美容院の予約も同時に埋まってしまうのだそうだ。
上の娘の時は、少しノンビリし過ぎて、途轍もなく大変な時間にしか予約が取れず、夜も明けぬうちから美容院に行き、式が始まることには、娘も疲れはて、衣装も着付けから時間が経過しすぎて、着崩れてしまったのを思い出した。
 下の娘は、そのことを心得ていて、さっさと自分でスケジュールをまとめ、準備に入った。誰に似たのか、こういうことには抜け目がない。
結果、1年前の正月明けには、晴れ着選びとなった。半分くらいは、購入するらしいのだが、滅多に着ることもなく、「もったいないから貸衣装で良いわ」という娘の言葉に、地元の老舗の貸衣装店を選んだ。
そう言えば、この子達の七五三も確か貸衣装だった。街中の老舗の貸衣装店が良いと、ご近所から聞きつけた妻が決めた。その時、「会員になると成人式のお衣装もお安くできますよ」と店員に言われ、会員になった。だが、その店は、5年ほどで廃業してしまって、結局、また新たに店選びとなった。あの時、確か、いくらかの入会金を払ったはずだが、どうなったのだろうと、けちな疑問は湧いていたが、仕方ない。今度の店は大丈夫だろうな・・とちょっと不安になりながらも、上の娘の時に会員になって、毎月積立をしてきた。

衣装選びは、その年の成人式が終わった直後だった。貸していた衣装が戻る頃を見計らって、展示会案内が届いた。
我が家は、昔からこうしたイベントは家族全員参加となる。その日も、朝から家族4人で、貸衣装店に出掛けた。数人の客が居たが、いずれも母娘だった。
「家族全員で来るなんておかしいかな?」
ふと私が妻に訊いたら、「別にいいんじゃない。」と構わないふうだった。娘二人も、何も言わない。
ロビーで待っていると、担当だという年配の女性が現れて、私たちを展示会場へ案内した。狭いエレベーターに家族全員乗り込むと3階まで上がった。静かな会場の数箇所に、親娘連れが既に衣装を選んでいた。会場の中、男性は私一人。少し、身の置き場に困った。華やかな晴れ着が所狭しと並べられ、どれを見ても綺麗だという感想しか持ち合わせず、仕方なく、担当者が用意してくれた座布団に座り込んで、様子を見ることに決めた。
娘二人と妻は、次々に気になる着物を集めてきては、私の目の前の床に広げる。「今年の流行りはこうしたものですよ。」などと担当者も持ってくる。その内、目の前には錦の池が広がった。そこから、一つ一つ、身に合わせ、「着物に負けちゃう」とか「幼なく見える」「花嫁衣裳みたい」などと半ば楽しんでいるふうであった。
さすがにただ待っているのも退屈だなと感じて、私も私のセンスで着物を選んでみることにした。「これなんかいいんじゃないか」と言って数枚を指さすと、妻と娘たちは、ちらっと見るなり、「ダメね」とあっさり却下する。数回、同じようなやりとりがあって、私も意地になってきた。私なりに、下の娘に似合うものをと考え、じっくり選び始めた。面白いもので、よく似ているようで一つ一つ皆、柄が違うのだ。職人の感性というのは凄いものだと感心する。一体、この世の中にどれだけの種類のデザインがあるのだろう。創造力は尽きることはないのだろうか。
2時間かけて、4種類くらいに絞られた。本人が選んだものが2点、妻と上の娘が選んだものが1点、そして、私が選んだものが1点だった。
それぞれ、仮に羽織ってみた。今はデジタルカメラという強い味方がある。それぞれを撮影し、見比べてみることにした。
全体に緑のもの、それからピンク色のものが二つ、そして、藤色のもの。いずれも、甲乙つけがたい・・というか、私にははっきりとどれが良いのか判断できなかった。
「これにする。」
下の娘は、藤色のものに決めたようだった。妻が、そっと値札を見て、ちょっと驚いた表情をした。そして、何か、娘に耳打ちしたようだった。すると下の娘は、緑色の着物も持ち上げて、迷っているようない仕草をした。
「どうしたんだ?その、藤色がいいんじゃないのか?」
私が尋ねると、下の娘は困った顔をして、何か言いたいのに言えない様子だった。妻の表情と娘の仕草から、だいたい予想はついた。私は詳しく聞かず、とぼけた表情で言った。
「良いじゃないか、お前の好きな方で。一生に一回のことなんだから。」
「本当?」
 娘の表情が一気に緩んだ。結局、藤色の着物に決まった。

「あの緑のは、七五三と同じ色あいだったね。」
 妻がボソリと言った。そうだ、思い出した。仏頂面の写真が家にあるのだ。上の娘も、
「そうかあ・・だから、なんだか気になったんだ。」
 下の娘は、はっきりと言った。
「うん、あれを見たときすぐ思い出したわ。朝早く起こされて、髪の毛をお団子にして、とにかく嫌だった。苦しいし、一番嫌だったのは、写真。はい、笑ってって言われたってさあ、もう笑顔なんてできないって・・・。」
 どうやら、七五三にはあまり良い思い出はないようだ。
「確か、あの着物、あなたが選んだんでしょ?まったく、センスがないんだから。」
 妻が、バカにしたような顔で私に言った。
 後で聞いたのだが、藤色の着物はあの中で一番高かったのだ。私が選んだ着物を着させようと妻が私に気を使って娘に迷っている振りをさせたのかと思ったが、そうではなく、値段の安い方にしなさいと言ったのだった。緑の着物をもったのは、ただの偶然。下の娘も私に気を使ったわけでもなかった。

 記念写真は、真夏に撮る。成人式当日は、写真なんて、撮ってる場合じゃないからだそうだ。ご苦労さまです・・ほんと、成人式は大変だ。

 いよいよ、成人式当日。朝から美容院、貸衣装店と回り支度を終えた。式まで時間があるからと、一旦家に戻った娘は、髪を結い上げ、藤色の晴れ着を着ている。化粧もいつもよりぐんと大人っぽく、所作もどこかおしとやかだ。やはり、七五三とは違う。
「あなた、そろそろ出かけましょう。」
 妻が言った。まだ、式まで一時間以上あるぞ?会場は、すぐそばの小学校だろ?そんなに早くに出かけることないだろうに・・などと思ったが、妻には逆らえない。
 マンションの玄関で、記念写真を撮った。玄関で出入りする人から「あら、もう成人なの?おめでとう。」とか「まあ、綺麗になって。」などと挨拶をいただいた。ははあ、これがあるから早く出たんだなと私は納得した。もちろん、娘への祝の言葉だが、それは、私たち親への祝でもある。ここまで娘を育て上げたのだという思いが、ご近所の方の挨拶を受けるたびに湧き上がってくる。そうか、成人式というのは、親の責任を果たしたのだという事を祝う日でもあるんだと、妻の笑顔を見て実感した日であった。

 会場に着くと、娘の同級生たちが沢山集まっていた。
 女の子たちは皆、「私が一番綺麗でしょ」と言わんばかりに晴れ着を見せ合っている。男の子たちは、真面目なスーツ姿が多い中、小さい頃からやんちゃだった一団は、派手な紋付袴で校庭の隅っこに固まって座っている。時折、何か叫び声みたいな奇声を上げては大笑いしている。まったく、男どもは成人してもどうしようもないものなのだ。
 見送りに付いてきた上の娘も、その様子を見て、
「みんな、ちっとも変わってないね。・・・これで成人?」
 などとほざいている。おいおい、お前たちだって、ちっとも変わらないぞ、いや、お前なんか成人して3年も経ってるのに、すねかじりじゃないかと突っ込みたくなった。
「じゃあ、行っておいで。」
 下の娘は、校門に向かってゆっくりと歩き始めたが、ふと立ち止まってから振り返った。
 そして、じっと私たちを見つめて言った。

「お父さん、お母さん、本当にありがとう。」
 なんだよ、急に大人びた顔付きで神妙なことを・・・私は思わず涙をこぼしそうになった。隣にいる妻に悟られたのではないかと、妻を見ると、すでにはらはらと涙を流していた。

2月 節分 [歳時記]

2月 節分
 また、この季節が来た。
節分といえば、豆まき。袋に付属している小さめの鬼の面をつけて、また豆をぶつけられる日だ。
 最初に、我が家で本格的に豆まきをやったのは、上の娘が2歳になった時だった。
ようやく物事がわかるようになった頃、鬼の面をつけた父親の姿が、本当に怖かったのか、泣きじゃくりながら、真剣に豆を投げつけられた。その後、面をとって素顔を見せても、しばらく怖がって近くに寄ってこようとはしなかった。
 
 下の娘も参戦すると、一気にヒートアップした。
 姉妹で競い合って、枡に入った豆を掴み、鬼を追い回した。もはや、鬼になるのが恐怖と言えるほど、私は・・いや、鬼は真剣に家の中を逃げ回った。部屋は勿論、トイレの中、風呂場にさえも豆が撒き散らされるのだった。
 挙句の果てに、鬼はベランダに追い出され、最後に大きな声で、「鬼は外」で締めくくりになる。ようやく、鬼から解放されると油断をした時、妻がにたりと笑顔を見せ、ベランダのサッシを閉め、ロックをするのだった。2月はまだ、いや、本格的な冬空にしばらく鬼の面を被った間抜けな父が放置されるのだ。何度か、同じ目に遭いながらも、すぐに忘れ、私・・いや鬼は罠にはまるのだった。

 その間に、妻と娘達は部屋中にまき散らかした豆を拾い集める。そして、私がいよいよ意識が遠のくほど冷え切った頃、ようやく鬼から解放され部屋に入れるのだ。
 冷え切った体は、すぐにコタツに滑り込む。亀のように背を丸め、じっとしていると、拾い集めた豆が入った枡がコタツの真ん中に置かれる。そして、一口チョコレートや落花生なども並べられる。

 すると、娘達もコタツに入り込んできて、いよいよ、目の前の者に手を付け始める。そして、必ず、妻が一言言うのだった。
「歳の数だけ、お豆を食べなさい。今年一年健康で過ごせるから。」
 娘達は幼い頃、この一言が随分ショックだったようだ。
 目の前には、枡にこんもりと入った豆があるのに、10粒も食べられないとわかり、がっかりしていたのだった。
 何故、そんな事、決まりでもあるのか?と尋ねると、妻は平然と言った。
「豆は食べ過ぎるとお腹にくるのよ。特に、あの子達は、お腹が弱いからね。」
 妻も子どものころ、母から言われたのだった。そうか、そうか、妻の言葉に納得していた。

 娘達とわいわい騒いだ節分の豆まきも、上の娘が高校生くらいになると、さすがに様変わりしてくる。鬼の面を付けて追い回される事も無くなり、下の娘が、恥じらいを覚えるころには、大きな声で「鬼は外、福は内」と叫ぶ事すらしなくなって、少し寂しい節分となっていった。
 去年は、娘達が二人とも不在となり、妻と二人で静かに豆まきをした。がらんとした娘たちの部屋にも、「鬼は外、福は内」と豆を撒いた。ベランダからも豆を撒いた。「鬼は外、福は内」、私の声だけが寒空に響いていた。

 今年も、娘達は家には居ない。それでも、妻は、毎年、生協で豆を購入して、しっかり準備だけはしているようだった。
 仕事を終え、家に帰り、夕食の後、寛いでいると、妻が「ねえ、豆まきをやりましょう。」と妙な笑顔で切り出した。私は、しかたなく立ち上がり、枡に入った豆を手にしようとしたら、妻が、「ほら、お面があるでしょう?支度して。」とさらに笑顔で言った。
 こんな笑顔の時は、変に聞き返さないほうが無難だ。何か魂胆はあるのだろうが、聞いても答えるはずも無く、機嫌を損ねるだけだ。
 私は、お面を付けた。
「これで良いか?」
「う~ん・・やっぱり、お面だけじゃ物足りないわ。・・」
 私は、娘が幼い頃の豆まきを思い出した。娘が、本物の鬼と勘違いした時は、確か・・・そうだそうだ、真っ赤なセーターを着ていたんだったっけ。
「ちょっと待ってろ。」
 私は、クローゼットに行き、段ボール箱を探した。
 古い洋服をまとめた段ボールの中に、真っ赤なセーターはあった。少しかび臭い感じもしたが、それを着て、妻の前に姿を現した。
「まあ、そのセーター、まだあったの?・・うん、良いわ。本物の鬼みたい。」
 妻は、少し笑いながら、鞄の中から携帯電話を取り出した。
「記念に写真を撮っておきましょう。」
 ちょっと妙な気分だった。なぜなら、お面を着て鬼に扮した写真が、何の記念になるのかと疑問を感じていたからだった。
「さあ、じゃあ、豆まきよ。鬼は外!福は内!」
 妻は枡に入った豆を掴むと、至近距離に居る私に思い切り投げつけた。鬼でなくとも逃げ出したくなる痛みが走る。
「おい、本気で投げるな!」
「あら、いいじゃない、豆があたれば、体の中の鬼が出て行くでしょう?」
 妻はそう言いながら、私を追い掛け回し、楽しそうに豆を撒く。終いには、ベランダまで追い詰められた。
「しまった!」私がそう言うと、妻は「ええ、閉まったわよ。」と笑いながらロックをしてしまった。この後の展開は、娘が居た時と同じだった。

「いい加減にしてくれよ、もう若くないんだ。凍え死んだらどうするんだよ。」
「大丈夫よ、それだけ皮下脂肪があるんだから。」
 妻は全く悪びれていない。
 こたつの上には、枡に入った豆やチョコレート、落花生が置かれていた。
「さあ、歳の数だけお豆をいただきましょう。」
妻と二人の歳を足せば、三桁になる。
「本当に、歳の数だけ食べるのか?」
「ええ。」
 妻は平然と言いのけた。私は、少しうんざりとした顔で目の前の豆を摘んだ。

 ブーンブーンと私の携帯電話のメール着信の合図がした。
 気の聞いた着信音が無いので、着信音はサイレントにしている。
 こんな時間にメール?と思ったが、メールを開くと、下の娘からだった。
 添付で写真ファイルがあった。
「鬼さん、ありがとう。今年はちゃんと豆まきが出来ました。」
 添付ファイルは、机の上に何か小さな写真が置かれているようだった。
 少し間をおいて、再びメールが届いた。
 今度は上の娘からだった。
「頭が真っ白、それに真っ赤な体がメタボじゃ迫力無いわ。もう怖く無いわよ、鬼さん。」
 ほっとけ、鬼だって歳は取るのだ。
 だが、来年に向けて、少し、お腹をへこませなければならんかなあ。

3月 桃の節句 [歳時記]

3月 桃の節句
 我が家には、雛人形とは別に、大事な人形がある。

 雛人形は、上の娘の初節句に、妻の実家から送られてきたものだ。
 当時、狭いアパートに住んでいた私たちを気遣って、「お内裏様とお雛様だけにしたから飾ってね」と送られてきたものだったが、人形一体が大きくて、幅150センチの雛台を置く場所に苦労した。それでも、なんとかテレビ台の上に場所を確保して飾りつけたら、居間は桃の節句一色となった。
 初節句の時には、実家の両親も招いて、近くの仕出し屋から「桃の節句御膳」を取った。まだ1才にもならない娘の前に、自分の体より大きなお膳が並んだ。楽しい祝の席となった。

 3年経って、下の娘が生まれた。その年の暮れには、実家の義父が体調を崩し寝込むようになっていた。正月に帰省したときもほとんど布団に横になっていた。生まれて半年ほどの下の娘は、おじいちゃんの布団の中に一緒に寝かせられた。あまりおとなしくない娘だったが、おじいちゃんの布団の中ではすやすやと良く寝た。
「ずいぶん、おじいちゃんが好きみたいだね。」
 妻が不思議そうな顔で、その様子を見ていたのを覚えている。

 2月末、突然、実家から連絡があった。下の娘のために人形を買ったからと言う。雛人形ひとつで困っているのに、これ以上はと思ったが、小さなものだから大丈夫だと押し切られた。
 3月、雛人形を飾った我が家に、実家の両親がやってきた。ついこの間まで体調を崩して横になっていった義父も元気になって、下の娘のために買ったという人形を携えてきた。
 その人形は、30センチ四方のガラスケースに入った子供の人形だった。
 節句の祝いは、上の娘の時と同様に、近くの仕出し屋から「桃の節句御膳」を取った。

「あんまりにも可愛くてね。ほら、この子にそっくりでしょう。」
 義母が目を細めて言った。たしかに、オカッパ頭で、少しふっくらした表情の人形は、下の娘によく似ていた。
「この人形をお店で見たとき、すぐに買おうとおじいちゃんが言ったのよ。でも、配達に時間が掛かって節句には届かないかもしれないって聞いたら、じゃあ、持っていけばいいって。」
 義母は少し困った表情だった。、
「そんなに体の具合は良くないんでしょう。無理しないでよ。」
 妻は、義父の体を心配して言った。義父は、上機嫌でお酒を呑んでいた。

 そのあと、ひと月もしないうちに、突然、義父は急性呼吸器不全で亡くなった。真夜中に連絡をもらった時にはすでに息を引き取っていた。

 2年前に、下の娘が、東京の大学に合格し、一人暮らしを始める事となった。引越しの準備のさなか、下の娘が申し訳なさそうに言った。
「この人形、もう少しここに置いといてね。卒業したら、必ず貰いに来るから。」

 祖父の記憶などほとんどないはずだが、下の娘は実家に帰るたびに、必ず仏様にお線香をあげるのを欠かさない。先日も、実家に行ったとメールをもらった。確かに、東京から実家までは、1時間ほどの距離だから、我が家に戻るよりうんと近い。
「やっぱり、おじいちゃん子っていうのかな?覚えてなくても臭いとかでわかるのかな。」
 ぼそっとつぶやいた私の言葉に、妻は笑って答えた。
「何言ってるの、本当にあなたはノー天気ね。馬鹿じゃない?」
 あまりの言われように、ちょっと腹が立った。
「しょっちゅう、実家に行ってるみたいじゃないか。娘が親孝行しないから、孫がそのかわりをしてくれてるんじゃないか?!」
と皮肉って言うと、妻は本当に呆れた顔でしばらく私を見つめていた。そして、ため息を一つ。
「あの子はね、現金な子なの。実家に行くと、必ずおばあちゃんがお小遣いをくれるらしいのよ。だから、ちょっとお財布が厳しくなると実家に行ってるだけなの。」
「ええっ?小遣い?そりゃいかん、とっちめてやらねば。」
 そう言って、私は携帯電話を取り出そうとしたら、妻が付け加えた。
「大丈夫よ。ちゃんと私がその分、送ってるんだから。実家のお姉さんからちゃんと情報は入ってるの。こないだも、行ったって聞いたから、ちゃんと釘を刺しておいてわ。」
・・そうですか・・知らぬは我が身ばかりのようですね・・。憮然とした表情の私を見て、妻はさらに付け加えた。
「でも、あの子、毎月、手紙を書いているみたい。とりとめのない内容らしいけど、ちょっとおばあちゃんが呆け始めてるみたいだからっていってね。」
 東京の娘のアパートの壁には、20年近く前に写した「祖父母に抱かれた娘たちの写真」が大事に飾られている。

 そう言えば、雛人形は、節句が過ぎたらすぐに仕舞わないと、嫁に行くのが遅くなるという話を聞いたことがある。
 我が家では、雛人形を飾るのもしまうのも私の仕事なのだ。押入れの天袋にしまってあるため、必然的に私の仕事になってしまい、飾り方の説明書をなくしてしまったために、私以外にはできないからだ。
 飾るのは、大抵、2月の21日くらい。というのも私の誕生日になると、妻がほぼ同時に思い出すからだ。そして、片付けるのは、節句を過ぎてだいたい1週間くらい。
「ねえ、はやく片付けてくれないと私お嫁に行けなくなっちゃう。」
 上の娘が、高校生になったくらいの頃から、決まり事のように言うようになった。
「ああ・・片付けなくっちゃなあ。」
 私は、生返事でやり過ごす。
「また、お父さんの気のない返事。いい加減にしてよ。」
 娘は少しふくれっ面で自分の部屋に入っていく。そうやって、何年か過ぎた。
 別に、片付けるのが面倒なのではない。
 お内裏様とお雛様の埃を払い、箱に入れる程度だし、数分もあれば終わる。
 だが、どうしても、節句が終わってすぐに片付ける気にならない。
 できれば、もう少し、私の「可愛い雛人形」を見ていたい気分なのだ・・・。


4月 桜の樹1 [歳時記]

4月 桜の樹1
 お花見は好きですか?どこの桜が好きですか?
 私には、どうしても忘れられない桜の樹があります。今ではもう見ることのできない桜の樹は、遠いふるさとの峠道に立っていました。

 その桜の樹を始めて意識したのは、小学1年生の時でした。私の家は、小学校から4キロ、子どもの足では1時間以上かかります。さらに、私の家は、峠を一つ越えたところでした。
幼稚園を出たばかりの幼い子どもに過酷な道のりです。
一学期の終業式を終えると、工作や夏休みの宿題だけでなく、学校で植えた朝顔の鉢も一人で抱えて帰らなくてはいけません。仲の良い友達は、皆、峠の下で別れます。私一人、峠を越えるのです。孤独と辛さで、なんだか、子どもながらも「死にたい」なんて大げさに考えるほどでした。それでも、誰も手伝ってはくれません。10歩歩いては、鉢と荷物を置いて座り込んで、また立ち上がっては10歩ほど・・その繰り返しでどうにか峠の頂上にたどり着いた時です。照りつける夏の日差しに、大きな日陰が見えたのです。
それは、峠から更に上にある神社の鳥居脇に、すっくと立っていた大きな山桜でした。
毎日、登校、下校で通り過ぎ、見ているはずなのにほとんど気にしていませんでした。ですが、その日、照りつける真夏の日差しに、憩いの日陰を提供してくれているのです。ほっとして、私は、桜の根元の日陰に座り込みました。蝉の声も響いていて、すっかり疲れてしまっていた私は、その気の根元でうとうとと眠り込んでしまいました。
元来、おばあちゃん子だった私は、その桜の樹にもおばあちゃんを投影していたのではないかと思います。夕暮れまで戻らない私を心配して、祖母が峠まで私を探しに来てくれて、その日は家に戻りました。

以来、学校へ通う道すがら、その桜の樹の横を通り過ぎるたびに、「行って来ます」とか「ただいま」とか心の中で言っていました。その樹を見るたびに、なんだかほっとしたり、勇気付けられたり、いつしか心の支えにもなっていたようです。
中学生の時、ちょっと遅めの初恋の相手への告白も、この樹の下でした。その女の子は、クラス一の美人でみんなのアイドルのような存在でした。意を決して告白しましたが、もちろん、玉砕。私は、坂を下って去っていく彼女の後姿を見ながら、桜の樹にすがり泣いていました。
高校生の頃には、どうしても学校に行きたくない日があり、一日中、桜の樹の根元で横になっていた事もありました。
18になり、故郷を離れる時も、通り過ぎるバスの窓から、その樹に「行って来ます」と挨拶をしました。その時には、「またいつか戻るからね」とささやいていたように思います。
それから30年近く、ほとんど桜の樹のことを忘れていました。

去年の春、娘二人が偶然家に戻っていた時、NHKで桜が満開というニュースが流れました。
娘たちは、「お花見しよう」と言い出し、近くの城跡公園の桜の花見をする事になりました。
娘たちが小さい頃、家からここまで歩いてきたものです。城跡公園の桜は、背が低く、子どもにも手が届くほどの低さで、小さい娘たちには人気の花見スポットでした。
「ねえ、ついでに市内の桜を見て回りましょうよ。」
妻は時々とっぴな事を思いつく性格なのです。まあ、それがこの人の面白いところなのですが・・。まあ、良いか、来年は皆が揃うとも限らないしな、そう思ってすぐに車を出して市内の桜見物に出かけたのです。大池公園の桜、運動公園の桜、赤磐寺の桜、など見て回りました。いずれも見事な桜ばかりです。
一通り見物し終わったところで、上の娘が言いました。
「ねえ、お父さん、小学校へ行って!」
そうだ、この娘たちが通った小学校も、校庭をぐるりと大きな桜が並んでいた。きっと見事に咲いているだろう。すぐに車を走らせました。
娘が卒業して6,7年近くに行ったことはなかったでしょう。通学路に入ったところでなんだか様子が違っているのです。そうだ、確か、環状道路を作る事になって、学校の一部が移転したはずだ。私はとっさに思い出しました。
通学路は、途中から広い道路になり舗道もありました。以前は狭くて車の行き交いにも困るほどの校門前も広くなっていました。
「ええ?なんで?」
下の娘ががっかりした声を出しました。道路拡張で学校は移転、校庭はなくなってしまっています。当然、学校を取り囲んで立っていた桜の樹もほとんどがなくなっていたのです。
娘たちは、がっかりしていたのは当然のこと。彼女たちの記憶の中の、懐かしい小学校は面影すらなくなってしまっていたのです。妻もなんだかさびしい表情を浮かべていました
「仕方ないな・・・さあ、帰るか。」
彼女たちは無言でした。せめてもと、彼女たちが通った通学路を通って帰宅する事にしました。
我が家から、学校までは、大通りを行けばわずか1キロなのですが、途中、舗道も無く、横断歩道の整備も遅れていたので、通学路は大きく迂回し、住宅地の中を通る形になっていて、倍以上の距離になっています。
ゆっくりと車を進めていると、下の娘が急に声を出しました。
「ねえ、止めて!」
彼女は、急にドアを開けて外に出ていきます。上の娘も何か思い出したのか、一緒に車を降りました。私は、安全な場所に駐車して、妻と二人で娘たちのもとへ向かったのです。
娘たちは、車も通れないほどの狭い路地に入り、急な坂道の頂上まで上っていきます。
「良かった、あったわ。」
「ねえ、お父さん、お母さん、早く!」
娘二人が、小さな子供のように手を振っています。
「ここは通学路じゃないだろ?良くこんな道知ってたな。」
私が問うと、娘たちは笑いながら、
「ここは近道なの。朝は通学団だから通れないけど、帰りはね?」
下の娘の言葉に、上の娘も、笑顔でうなずきました。
「この坂を上ると、うちが見えるの。」
確かに、我が家が坂の下に見えます。
「ここまで来ると、なんだかほっとしたの。それに、ほら。」
娘たちが空を見上げました。私たちもつられて見上げて驚きました。
そこには、大きな桜の樹が立っていたのです。
急坂を登るとき、ついつい足元ばかり見ていて気づきませんでしたが、その坂道の天辺には、小さな社があって、その脇に大きな大きな桜の樹が立っていたのです。
「お父さんもお母さんもお仕事で、うちに帰っても誰もいなかったでしょ。ドアを開けてもお帰りって言う人もいなかった。本当はね、私、とても寂しかった。」
下の娘がそういうと、上の娘は、
「私のほうが帰りが遅くなるでしょ。すると、だいたい、みい(妹)はここに居たのよ。天気がよければ、ここで宿題もやってたよね。」
と言いました。
「良かった、ここの桜が見れて。」
下の娘はしみじみとそう言いました。
妻は、じっとその桜を見上げていました。そして、桜の樹に手を添えてこう言ったのです。
「ありがとう、娘たちを守ってくれて。」
その光景を見ていた時、私は、遠いふるさとのあの桜の樹を思い出していました。

4月 桜の樹2 [歳時記]

4月 桜の樹2
あの桜は、まだあるだろうか。気になって、故郷に居る妹に電話してみました。
「ああ、兄ちゃんだけど・・・。」
「何?随分久しぶり。生きとったの?」
確かに、ここ数年連絡などしていなかったのだから、仕方ないかと思いつつ、
「なあ、あの峠にあった桜、まだあるかな?」
「桜?・・・ああ、鳥居の桜ね?」
「ああ、あの桜だ。まだちゃんと立ってるかい?」
少し妹は沈黙していました。
「兄ちゃん、しばらく戻ってないから知らないだろうけど、あの道は閉鎖されたのよ。」
「どうして?」
「峠の真下に、トンネルが出来て、町からまっすぐ産業道路が伸びて・・・うちの家の前にも大きな道路ができてね、便利になったんだから。」
「トンネル?あんな田舎にどうしてトンネルなんか必要なんだよ。」
「だって、峠を越えるのは大変だったでしょ?子どもたちは喜んでるわ。トンネルのおかげで学校が近くなったんだし・・まあ、トンネルは、産業廃棄物処理場のためだったんだけどね。」
「産業廃棄物処理場?」
「ええ、ほら、うちの山もそのおかげで売れたのよ。まあ、兄ちゃんが好きだった大久保海岸は立ち入り禁止になったけどね。毎日、大型トラックが処分場にごみを運んでるよ。」
しばらく、故郷に戻らずに居たら、浦島太郎になっていた。トンネルだの、産業廃棄物処分場だの、困った。
「バスもね、無料になったんだから。ばあちゃんたちは喜んでるわよ。・・ちょっと風向きによってはゴミの臭いが気になるけどね・・。」
「ゴミの話などどうでもいいんだよ。桜、桜はまだあるのか?」
「さあ、道路は通れないし、そうそう、去年、鳥居の辺りが土砂崩れがあったらしいから、もうだめになってるかもね。見に行く事もできないしね。」

私は電話を切りました。
故郷を省みず、長く過ごしてきた罰が当たったのだろうとまで思いました。その時、できるだけ早く、故郷へ戻って、あの桜が健在か確かめようと決意したのです。
その機会は意外な形でやってきました。
母がわりに育ててくれた祖母が危篤となったのです。90を超える歳、昨年風邪をひいてから一気に体力が落ちて寝込むようになり、最近は意識もはっきりしなくなっていたようです。
「すぐに帰って来なさい。」
久しぶりに聞いた母の声も随分年老いていました。
祖母の入院している病院は,駅からタクシーですぐのところにありました。でも、なかなかタクシーが来ません。私は諦めて、病院まで走りました。病院に着くと玄関に叔父が出ていました。
「遅かったな、さあ急いで。」
そう言って、私を病室に案内してくれました。病室の外まで見舞に来た祖母の友人が並んでいました。私の顔を見るなり、皆、顔を伏せます。病室に入ると、医師が祖母の脇に立ち、状態を伺っているようでした。私がベッド脇に着いた時、すでに祖母は虫の息でした。
「時々、呼吸が止まるんよ。」
私が、祖母の手を取るとすでに随分冷たくなっています。医師の顔を見ると、
「呼吸が乱れて、鼓動も弱くなっていますから、体温も・・」
私の様子を察知してそう説明してくれました。
「ばあちゃん、戻ったよ!」
そう声をかけると、聞こえたのか。祖母は大きく息を吸い込み、それからゆっくり息を吐き出しました。そして、そのまま、眠るように逝ったのです。
翌日には、通夜、葬儀と慌しい日が過ぎました。
全てが終わった夜の事、部屋でごろんと横になっていた私のところへ母がやってきました。そして私の横に座り、ポケットから一枚の写真を取り出しました。
「これ、ばあ様の枕の下にあったんよ。」
それは、私が祖母に連れられ、小学校に初めて行った日の朝に取られたものでした。モノクロの写真は随分ぼやけていたものの、険しい表情でランドセルを背負っている私と手を繋いでいる祖母が写っていました。そして、その写真の背景には、あの桜の樹が写っていたのです。

私は翌日、どうしても桜の樹に遭いたくて、新しく出来たトンネルの脇に、ある旧道を登ってみました。閉鎖された後、何度か豪雨もあり、ところどころ岩が転がっていましたが、何とか道は判ります。途中、里から神社へ上がる石段が見つかりました。トンネルを作った時、神社の参道は別の場所に引かれ、鳥居もなくなっていましたが、そこが昔の参道だと判りました。
「確か、この辺りにあったはずだが・・・。」
伸びた草で見通しが悪く、木々も大きくなっていて、あの大きかった桜の樹は見つかりません。
「やっぱり、無くなってしまったのかな。」
あきらめかけた時でした。
私の目の前を白い花びらが舞ったのです。いや、そう感じたのです。もう初夏、桜の花が咲いているはずはありません。でも、私には、それはあの桜の樹のものだとしか思えませんでした。草を分けて、古い石段に何とかあがって見ました。
しかし、大きな桜の樹はありませんでした。
その代わり、石段の脇には、大きな切り株がありました。まだ、最近まで立っていた様に、切り口は新しかったのです。そして、その切り株の古い根っこから、今年芽を出したと思われる細い木の芽が伸びていました。
あの桜の樹は死んでしまったわけでは有りませんでした。次の命を繋いで消えて行っただけだったのです。

あなたには、忘れられない桜の樹はありますか?


5月 端午の節句 [歳時記]

5月 端午の節句
「ねえ、お父さん、やっぱり男の子が欲しかった?」
 毎年のように同じ質問が飛んでくる月になった。
我が家は、娘二人。男の子は居ないので、端午の節句には、鯉のぼりも武者人形も、鎧兜もない。たいてい、近くの和菓子屋で、柏餅を買ってきて、夕飯の後に食べて終了なのだ。
だが、たいてい、その場で「男の子欲しかった?」の質問が飛んでくる。
娘たちが幼い頃は、小声で妻が聞いた。そして、娘たちが大きくなると、姉妹で約束したかのように交代で訊いてくる。特に、上の娘はしつこかった。おそらく、妹じゃなく弟が欲しかったなあと思っていたこともあったのだろう。

そして、私の答えは毎年一緒。
「別に、欲しくなかったさ。」
これは、心底本心である。だが、妻も娘たちも疑うような目で反応する。
妻は、女三姉妹であったため、男兄弟を知らない。せめて自分の子どもは男の子であって欲しいという願望はあったようだ。だが、私はそう思わない。

私は想像してみた。
私のDNAを半分持った男の子。おそらく、外見は私に似ているだろう。不幸だぞ。
DNAを半分持つということは、良いところばかりじゃないはずだ。ひょっとしたら、悪いところばかり半分持っているかもしれない。私の分身のような外見で、性格や能力が劣性遺伝していたらどうする。甘ったれで、自分勝手で、頑固で、人付き合いが悪く、すぐに落ち込み、そのくせ、どこか自信家。こんなやつが世界に二人も居るのは、「世間が許しても私が許さん!」というものだ。
したがって、男の子は欲しくないのだ。(男の子をお持ちの御仁には申し訳ない理屈ですが、これも身勝手な私の考えと笑っていただきたい)

娘二人、就職と大学とで家を出て行ってしまってからは、そんなやり取りも無くなった。
端午の節句は、世間ではゴールデンウィーク。だが、就職した娘の職場は、土日も祝日も関係ない。
「ごめんね、今年のゴールデンウィークは帰れないみたい。」
そう、電話で告げてきた。
「いいよ、まだ就職したばかりなんだから。また、休みが取れたら戻っておいで。」
妻と娘が携帯電話で話をしていた。風呂から上がってきた私に気がついて、妻が携帯電話を手渡す。
「なんか、話があるみたいよ、ちゃんと聞いといてね、私、お風呂に入るから。」
そう言って、さっさと風呂に行ってしまった。
「なんだ、話って?」
頭を拭きながら、少し怪訝な声で訊くと、娘は、
「今度、休みが取れたら、戻るから。」
「ああ、わかったよ。また連絡しなさい。じゃあな。」
そういって切ろうとすると、
「お父さん、会って欲しい人が居るの。」
 私は驚かなかった。これが初めてではないからだ。大学時代にも一度、同じ事があった。だが、私は拒否した。娘は大学を辞めたいと言い出し、その理由は、交際相手にあったからだ。
「結婚したいの。だから、大学を辞めて働きたい。」
開き直って平然と言う娘に私は癇癪を起こし、相手の男はもちろん、娘ともしばらく会話っさえしなかったのだ。その後、その相手とは上手く行かなくなって、別れたようだった。さて、今度はどうしたものか。
娘は電話口で、彼とは仕事先で逢って、いろいろ仕事の相談にも乗ってもらったのだという。
「見た目は良くないけど、真面目でね、仕事もバリバリできるし・・・。」
前回の彼は拒否したが、今回は会ってみようと判断した。

連休の後の日曜日に、彼の車でやって来た。ごく普通の、コンパクトカーに乗っているようだ。
彼は、玄関に入るなり、深く頭を下げた。靴を脱いで、きちんと揃えた。
まあ、躾はしっかりできているようだな。
何処に座ってよいものかと彼は迷って、その場に突っ立っていた。娘はその様子を察して、炬燵の前に座り、座布団を差し出した。彼は、座布団を脇にどけてから、正座した。
そうして、私はソファに座り彼をじっと見つめた。
確かに、外見は良くない。坊主頭で、目は小さく・・・ジャガイモのような顔つきだ。かなり緊張しているようだった。
「よく来たね。」
私の言葉に、彼はびくっとしてから言った。
「お休みの日に申し訳ありません。」
何だか、よくわからない返答をして下を向いた。妻が、コーヒーを煎れて持って来た。
「車の調子はどうだ?」
私は娘に訊いた。娘は、持っていた車のキーを持ち上げて、
「大丈夫、絶好調。・・・ああ、これ、彼が買ってくれたの。」
娘が自慢げに、キーケースを見せる。皮製で、有名ブランドのロゴが見えた。かなり高価だったに違いない。働き始めたばかりで、それほど余裕があるわけでもないだろうにと思って彼を見ると、何だか急に厳しい顔になって、娘を睨んだ。そして、持ち上げたキーケースを隠すようにした。
「いいじゃない。」
そのやり取りから、彼が自慢するような不躾な行為を嫌っている事がはっきりと判った。
なかなか、好青年らしい。
「仕事はどうだ?」
「もう毎日大変、へとへと、まだ判らない事ばかりで・・・でも、彼はすごいのよ。同期なのに、一番仕事が出来るって評判なの。私もいろいろ教えてもらっているの。それに、彼、いろんな資格を持ってるの。ねえねえ、調理師の資格まで持ってるのよ、びっくりでしょ?」
娘が、彼の自慢話を続ける。彼の顔は真っ赤になってきている。恥ずかしいのではなく、随分、腹を立てているようだった。娘はどうも彼の気持ちを察する事ができないらしい。しかし、じっと我慢している。
「生まれはどこだって?」
私はつまらない質問をしてしまった。それを訊いて何が判るのだろう。
「岐阜・・すいぶん田舎だった。」
娘が答える。
「行ったのか?」
「うん、こないだ行った。ご両親はお仕事で遭えなかったんだけどね・・。」
その言葉に、ふいに彼が反応した。
「おじいちゃん、おばあちゃんに会って貰いました。気に入ってくれたみたいでした。」
うん?おじいちゃん、おばあちゃん? こりゃいかんぞ!と私は心の中で叫んだ。そう、我が家では、自分の身内を他人に話す時、こういう言葉は厳禁なのだ。その事に娘は気付いたらしい。隣で、妻も私の顔を見ている。どうやら、眉毛あたりがぴくぴくしているらしい。それを見て妻が言った。
「そう、おじいちゃん、おばあちゃんに会えたの。」
妻はわざと、同じ言葉を使った。娘もまた、
「ええ、おじいちゃん、おばあちゃんに気に入られたみたいだから・・ねえ、お父さん。」
何を確認しようと言うのか、わからないが、娘の言葉につい「ああ」と答えてしまった。
まあ、いいだろう。きっと、このあと、娘と彼は反省会だ。あの言葉遣いはマイナス点だと指摘するに違いない。彼も、きっと気付いたに違いない。
「明日、早晩の仕事だから、そろそろ帰らないと・・・。」
そう言って、娘は立ち上がった。彼は娘を見上げた状態で少し困った顔をした。
そう言えば、ここに来てからずっと正座をしていた。大丈夫かなと見ていたら、案の定、足が麻痺れてしまったようだった。何とか堪えて立ち上がり、玄関まで歩いていった。
「また来てね。」
妻やにこやかに見送った。娘は振り返り、私の顔を見て、
「また来ても良いでしょ?」
と訊いた。
「ああ、またおいで。」
私はそう言って、彼の顔を見た。彼は、随分嬉しそうな顔をして頭を下げた。
よしよし、今度の『息子』候補はなかなか見所がありそうだ。

「ねえ、お父さん、やっぱり、男の子、欲しかった?」
「いや、別に欲しくなかったよ。」
だって、お前達が、素敵な「息子」候補を連れて来てくれるじゃないか。

6月の花嫁(そのⅠ) [歳時記]

ジューンブライド

6月が近づくと、私は憂鬱になる。今年はどうやって過ごそうか、昨年はどうだったっけ、同じじゃ機嫌を損ねるだろう、とにかく、一年の中で一番悩む時期になる。そう、私たちの結婚記念日がやってくるのだ。
妻と結婚したのは、もう26年前になる。仕事に就き、なんとかやっていける自信が出来た時、結婚を決めた。学生時代に知り合ってから5年経っている。彼女も当然結婚するつもりだったので、改めて、プロポーズなどしなかった。休日のランチタイムに、「そろそろ結婚しようか」と言って、すぐに纏まった。それから式場探しを始め、最も早く式が挙げられるのが6月だった。
「6月の花嫁は幸せになれる」などと言う言い伝えを気にしたわけではない。出来るだけ早くと考えただけだ。だが、式場のプランナーは、「ジューンブライドですね」と勝手に盛り上がって式の相談を始めた。日取りが決まった時、その日が「父の日」だという事も知った。
「お父様に、花嫁姿を見せるのが、一番の親孝行ですよ。それが父の日なんて最高ですね」
また、調子の良い言葉でプランナーは打合せを始める。彼女は、随分機嫌を良くして相談に臨んだ。
そんな調子で、結婚式の予算は遥かに超過し、私の両親に金普請をするしかなく、そのために、私の両親も式の内容に口を出すようになった。
まあ、結婚式はどうでも良い話。

今は、「結婚記念日をどう過ごすか」なのだ。
結婚一周年は、二人でワインとケーキでささやかなお祝いをした。それで充分だった。
二年目には娘が出来た。なんと、娘のバースディは、結婚記念日の翌日。したがって、二年目の結婚記念日は、彼女は陣痛の痛みと戦っていた事になる。
三年目は、結婚記念日よりも娘の1歳の誕生日のお祝いで、実家の両親も来て楽しく過ごした。
四年目には、私の両親が遠く郷里から出てきて、地殻の温泉に行った。
そして、五年目には、下の娘が、結婚記念日の1週間後に生まれて、またも、彼女は産院に居た。
この後も、しばらくは、娘の誕生日とごっちゃにして、何とか結婚記念日を過ごす事ができたのだった。
だが、その娘たちも高校生くらいになると、誕生祝を友達とやることが多くなり、必然的に、妻の関心は「結婚記念日」へ移ってしまった。
最初、とにかく何かプレゼントをすれば良いだろうと、浅はかな考えで私は「結婚記念日」に立ち向かった。なけなしの小遣いをはたいて、ささやかなプレゼントを買って帰った。。妻は、一瞬嬉しそうな表情をしたが、箱を開けて急にがっかりした表情に変わり、ほんの数秒で、プレゼントを放り投げてしまった。どうやら、彼女の意に沿わないものだったようだ。
翌年は、いろいろと考えた末に、一年目のように「ワイン」を買ってきた。
「私、赤ワインを飲むと便秘になるから。」
と何とも色気の無い返事をして不機嫌になってしまった。
この年から、急に、「結婚記念日」を迎えるのが怖くなった。
次の年、当日は仕事が立て込んでいて、プレゼントを選ぶ時間がなく、已む無く、近くの花屋で、小さな花束を買って帰った。やや遅い帰宅になったが、彼女はケーキを用意して出迎えてくれた。いつもと少し様子が違った。期待が一層大きくなったのではないかと私の脳裏には、笑顔から一気に不機嫌になる彼女が浮かんだ。手には小さな花束しかない。仕方なく、その花束を手渡す。
「ええ、花束?嬉しい。花束なんて初めてね。本当、ありがとう。」
予想以上に好反応だった。鼻歌を歌いながら、花瓶を出して、小さな花束をテーブルに飾り付けている。
「う~ん、さっぱり判らない。あんなもので喜ぶのか?」
次の年も、その次の年も、花束を抱えて帰宅するようになった。次第に、花束も大きくなる。しかし、3回目の花束で終に彼女が言った。
「もう、毎年、花束なんて、いい加減飽きたわ。」
決して機嫌が悪いわけではないが、物足りないという表情だった。
二十回目の結婚記念日は、妻の提案で指輪を作り直すことになった。お金の無かった頃に作った結婚指輪は、シンプルすぎるほどつまらないデザインだったが、それなり気に入っていた。だが、妻は、「ちゃっちい指輪だもの、作り変えましょう」とあっさり。実は、結婚して1.5倍に体重が増えた私の指は、相応に太くなっていて、最近、指輪が痛くなっていたのだった。きっと妻はそんな私に気付いたらしかった。結婚記念日に受け取ることにして、早速指輪を作った。これで、この年の結婚記念日は何とか過ごす事ができた。だが、これには妻の優しさとしたたかさが隠れていた。
指輪を選ぶ時、当然、ショーケースの他のものにも目が行く。
「これ、いいわね。こんなの欲しいなあ。」
彼女が指差したのは、ダイヤのペンダントだった。私は気付かぬ振りをしていた。
翌年、私は、同じようなデザインのペンダントを探した。彼女はきっと、こういう物をプレゼントして欲しいというヒントをくれたのだと信じた。何とか、見つけて、結婚記念日にプレゼントした。妻は小躍りして喜んだ。そして、三回ほど同様の「宝石」をプレゼントする事で結婚記念日を過ごしたのだった。(続く)

6月の花嫁(そのⅡ) [歳時記]

六月 ジューンブライド 
昨年、結婚二十五周年を迎えた。それぞれに暮らしている娘たちから続けざまに、メールが来た。
「結婚二十五周年おめでとう。お父さん、ちゃんと結婚記念日はお祝いしなくちゃ駄目よ」
余計なお世話だ。今までどれだけ苦労してきたのか、お前たちは何も知らないだろう。いや、妻だってこれだけの心労には気付いていないだろう。かといって開き直ったところで、さあ、どうする?そう思って、五月の連休明けあたりから、憂鬱な日々を過ごしていた。
五月中旬になって、妻が、妙な笑顔で言った。
「ねえ、来月の事だけどさあ、三連休取れない?」
突然の問いに答えに窮した。
笑顔で訊いた時は、否定的な返答はしてはいけない。
「ああ・・何とかなるかな。」
私は曖昧に答えた。
「じゃあ、結婚記念日の前後にお休みを取ってね。」
もう決まっているような言い方で、日程を指定してきた。
「判ったよ」
それから数日して、夕飯の時だった。いきなり切り出してきた。
「明日、旅行会社へ行きましょう。」
「旅行?」
「ええ、積立金が満期なの。それで旅行しましょう。」
なるほど、それが連休を取る理由なのか。まあ、これで今年の「結婚記念日」の迎え方が決まってほっとした。ぼんやりと返事をして夕食を済ませた。
翌日、大型ショッピングセンターの二階にある旅行代理店へ足を運んだ。事前に妻が相談してたようで、担当の女の子は、笑顔で我々を迎えてくれた。そして、満期になった積立金を確認して、旅行ギフトに引き換えて渡してくれた。それから、笑顔で
「どちらへ行かれますか?ご希望のパンフレットをお持ちしますが・・」
妻はその言葉に、きっぱりと答えた。
「北海道のパンフレットを下さい。」
行き先はすでに決めていたようだ。北海道は、新婚旅行で行ったところだった。
すぐに、往復の飛行機だけは押さえた。その日は、たくさんのパンフレットが私の前に並べられた。そして、妻は得意満面の笑顔で言った。
「お金は私が用意したんだから、貴方が後は全てやってね。」
その日から、私の悪戦苦闘の日々が再び始まった。
行き先、順路、ホテル、途中の土産物や食事の場所、全てを分刻みのスケジュールに落とさなければならない。インターネットも活用して、現地の情報も入手しながら、オリジナルの旅行に仕上げなくてはならない。候補を選定したら、妻に伺いを立てる。却下される事のほうが多かった。それでもほぼ毎日、仕事から帰ると食事の後は、ネットとパンフレットを広げてプランを練った。
「ねえ、結婚式の前みたいでしょ?」
頭を悩ましている私の様子を見て、妻は笑いながら言った。
そうだ、新婚旅行も、結婚式場のセットプランが気に入らなくて、自分たちで一つ一つチョイスして組み立てた。毎晩、二人で随分話し合った。旅行の行き先を話し合うたびに、妻の好みや嫌いな事、お金の価値観等が手に取るようにわかったものだった。
妻は私が頭を悩まして、いろいろ悩んでいる様子が嬉しそうだった。そうか、妻が求めていたのはそういうことかと今更ながらに気が付いたのだった。
かくして、銀婚式の記念旅行は、素晴らしいものとなった。

函館のホテル 「ラビスタベイ」の部屋で、妻は、夜景を眺めながら上機嫌だった。
「やっぱり、貴方のプランは最高ね。」
私の苦労はこの一言で報われる。余り几帳面な性格ではないが、何故か、こういう事は細かくプランを作らなければ気がすまないのだ。勿論、天候に合わせてサブプランも当然あったし、体調の事も考慮して、食事も何通りかピックアップしてある。今回は、特に、新婚旅行を意識して、思い出の場所も所々入れていたが、これは余り好評ではなかった。

そして、妻は、ビールを飲みながら、意味ありげにこう言った。
「さて、来年の結婚記念日はどこに行こうかしら?」
・・また、頭を悩ます時期が来るんだなと、少し嬉しかった。

ところで、結婚記念日だけじゃなく、六月といえば「父の日」。
余り、日の目を見ていないのはどういうわけだ

真夏の出来事 [歳時記]

夏といえば、怪談。やはり、熱帯夜の寝苦しい時には、怪談話は良いものだ。淀んだ空気とか、生暖かい風等があれば、雰囲気は充分。欧米のお化け、ゴーストとは違う、人の情念が作り出す『幽霊』というのは、やはり格別である。ただ、そこにいると思うだけでぞくっとする。
残念ながら、今の暮らしにはなかなか『幽霊』たちには存在しにくいようだ。
街中には煌煌と灯りはあるし、暗闇を探すのも難しい。
私の子どものころは、ぼんやりと照らす小さな街灯さえ、ぽつんぽつんとある程度だったし、家の中も、必要以外には灯りもなく、途轍もなく暗かった。納戸と呼ばれる窓一つ無い部屋は、一年中じめじめしていて、かび臭く、昼間でもそこに入るのには勇気が必要だった。庭には井戸もあって、『あそこから何か出てくるんじゃないか』と考えずにはいられなかった。一番怖かったのは、トイレだ。トイレなどという名称ではなく、便所、厠である。臭いもさることながら、ぼとんと沈む先は真っ暗で底なしのように思えた。そこから手が出てくるなんて脅かされると、夜一人で行く事などどうしてできようか。お漏らししてでも便所に行きたくなかったくらいだ。

夏休み、幼い娘たちと妻を連れて、二泊三日で、実家に戻った事がある。実家は、十年ほど前に、私が育った古い家の隣に、何とかハウスの鉄骨住宅で建て直していた。狭いマンションの我が家と違って、一軒家は広く、快適だった。娘達も妻も、のびのびと過ごせている様だった。
私の育った村は、町からは峠一つ越える辺鄙なところにある。コンビニも無ければ、病院も無い、信号さえも無い。昼間は、田畑の緑が広がり、低い山々に取り囲まれ、、目の前には穏やかな瀬戸内海が広がる風景は、日本の故郷のゲン風景そのものであった。娘達は、海岸で波と戯れ、妻も遠くをのんびり眺めて、いい骨休めと言ったところだった。しかし、日が暮れると一変する。村の中央を走る県道にわずかに街灯はあるが、実家の周りにはほとんど無く、家の明かり以外何もなかった。窓の外には漆黒の暗闇が広がり、物の怪かと思うような鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。幼い娘達と妻はかなり戸惑っていたようだった。
「ねえ、お父さん、あそこに見えるのは何?」
窓の外、遠く暗闇の中に一列に並んだ灯りを指さして、上の娘が訊いた。
「ああ、あれは漁火って言って、夜の海で魚を取ってるんだ。船に灯りをつけて魚を集めるんだよ。」
「じゃあ、あれは?」
幼稚園に入ったばかりの下の娘が、東側の窓の外を指差して訊いた。
そのほうを見たが、真っ暗で何も見えなかった。
「何も無いけど?」
「えっ?変なの?」
下の娘が指差した方角には、確か、墓地があったはず。
「なにか見えたのか?」
私は少しおかしな気分で尋ねると、下の娘は、どう説明してよいか言葉が見つからない様で、不思議そうな顔をしたまま答えなかった。
「ねえ、お風呂入ってよ」
私の母が声をかけたので、その話はそこで終わり、娘二人を風呂に入れた。

翌日、昨夜の下の娘の言葉が気になって、皆で墓掃除に行く事にした。
お盆を前に、母達が綺麗に掃除をしていて、わざわざ掃除をする必要は無かったのだが、せっかく実家に戻ったのだから、墓石でも磨いておけば罰も当たらないだろうと思っていた。妻は蚊に刺されるのを嫌って、墓の入り口あたりで日傘を指して、様子を見ている。娘達は無邪気に、墓に水を掛けてたわしでごしごしと磨くのを手伝った。
特に変わった様子は無かった。きっと夕べは、娘の見間違いに違いない。そう思い始めたときだった。
我が家の墓の隣にひっそりと置かれた丸い石を下の娘が洗いはじめた。そして急に、石に向かって話し始めた。独り言ではなく、誰かと会話しているようだ。私も妻も、上の娘も驚いた。下の娘は明らかにそこに居る誰かと話しをしている。私は声が出なかった。

家に戻っても先ほどの出来事に着いて、妻も私も口に出来なかった。夕食の時、何とか母に聞いてみた。
「うちの墓の脇にある、小さな丸い石って誰かのお墓?」
母は、ぼんやりした表情で何かを思い出そうとしているようだった。
「丸い墓?そんなのあった?」
「うちの墓の脇にさ、草に埋もれるように置かれているんだけど・・知らない?」
「ああ・・そうそう・・あれは、フミちゃんのお墓よ。」
「フミちゃんって?」
「戦争が終わったばかりの頃、ばあ様が、家に連れて来てしばらく家に居たんだけどね、」
「フミちゃんて、何処の子なの?」
「詳しくは知らないけど、ばあ様の話しでは、孤児だったらしいよ。三つだったらしい、けど、それもどうだか?もともと、体が弱くてね、小学校に入る前に、亡くなったらしいの。わたしは、その時、京都に居たから、詳しくないんだけどね。」
祖母は、今入院中で、詳しく聞くわけにもいかない。
「どうかしたの?」
「いや・・・。」
私は昼間の出来事を口にするのを止めた。
きっと、その「フミちゃん」が忘れ去られた墓を下の娘が掃除したのを喜んで姿を見せたのだろう。純真無垢な幼子だからこそ、見えたのかも知れなかった。
不思議な体験だった。
幽霊とか霊魂とか、余り信じるほうではないが、この時以降、私はそういう事もあるかもしれないと思うようになった。

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