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命の樹(序) [命の樹]

「それなら、あそこに行くと良いだろう。」
分解したエンジンを前に、油に塗れた笑顔で呟くように言った。視線は、今、取り外したばかりのクランクに注がれたままだった。
脇には、歪んだ丸椅子に居場所がなさそうな格好で座った、10代の青年が居る。
表情な硬く、何か思い詰めているような、でも、何かを求めているようでもなく、おそらく、自分の若さをどこに向けていいのかわからない、そんな表情だった。
口を開いたのは、20代後半の男であった。
「俺もさ・・・今のお前みたいだったと思うよ。」
10代の青年は、無表情のまま聞いているのか、聞いていないのか微動だにしない。
「何とか、会社に入ったのは良いが、途轍もなく、場違いなところに居るみたいでさ。満足な仕事なんかできないくせに、どこか認めてもらいたくて・・・何かが違う、何かが違うって・・いつも心の中で叫んでいたような気がするよ。」
一区切り、言葉をつづけると、再び、エンジンの方へ向き直り、先ほどの部品と見比べている。男の言葉に、青年は表情も変えず、硬くなったままだった。
「その店は、浜名湖の周遊道路を西へ走ると見えるよ。」
少し手を止めて、視線を天井に送り、何かきちんと思い出そうとしているようだった。
「小さく突き出した岬の上に建ってる、赤い屋根が目印になるんだ。でも、近づくと、ふいに視界から消える。まあ・・山影で見えなくなるだけなんだが・・・。」
男は少し笑みを浮かべている。きっと、そこへ行った時のことを思い出したのだろう。
男の言葉に、青年は少し遠くを見るように顔を上げた。
「きっとここらにあるだろうって見当をつけて・・進んでいくと、小さな自転車屋がある。・・・これを見落としちゃいけないぞ。そこに小さな焼き板が掛かってる。・・・喫茶【命の樹】はこの先ですって・・すごく遠慮がちに書いてあるんだ。」
そう言いながら、男は青年を見て、親指と人差し指で四角い形を作って見せた。それは、案内板と呼ぶにはあまりにも小さいサイズだった。
青年は少し表情が変わった。
四角く形作った指が真っ黒に汚れていたのと、おそらく、その指で鼻先でも触れたのだろう。男の鼻は真っ黒に汚れていて滑稽な表情をしていたのだった。それでも、【命の樹】の事を熱心に語ろうとするのとあまりにもアンバランスで、可笑しくなってしまっていた。
そんな青年の変化などお構いなしに、男は話を続ける。
「角を曲がると、両脇に古い民家が立ち並んだ通りがある。そうだな・・・300m位の通りだ。よおく見ると、その突き当りには、鳥居が建ってる。門前の町ってとこかな?一本道だから、もう迷うことはないだろうと、安易に入り込むととんでもないことになる。・・・まあ、これ以上説明するとつまらなくなるから・・そこから先はお前が確かめてみろ。・・・とにかく、そこから【命の樹】っていう店まではすぐだから。」
ようやく青年は、男の話の興味を持ったようで、一言聞いた。
「その店って何か旨い料理でも食わしてくれるんですか?」
その問いに、少し考えてから男は答えた。
「いや。たぶん、ない。」
男の答えは妙に中途半端だ。店を勧める以上、料理を勧めるべきなのだが・・・。
「その店は、サンドイッチしかメニューにはないんだ。ああ・・それと、コーヒーくらいかな。マスターなコーヒーにはこだわりを持っていたけど・・さほどおいしいとは思わなかったな。だいたい、メニューがひとつっきりってのは、客をバカにしてる!」
男の言葉は変だった。良い店だから進めるのが普通だが、半ばけなしている。
「じゃあ・・・景色がいいんですか?・・そうだ・・・奥さん?ママ?がきれいだとか?」
青年の問いに再び男は頭をひねった。
「景色はまあ、そこそこかな。なにせ、浜名湖を見下ろせる高台にあるからな。ママは・・まあ、あの年にしては綺麗なほうかもしれないが・・店にはほとんどいないし・・。機嫌がいい時は、絶品のパスタを作ってくれるんだが・・店の料理にはしていないみたいだからな。」
男との話はなんだかつじつまが合わなくなってきている。
青年もようやく興味を持ってきたのだが、いきなり、話が見えなくなってしまった。
「じゃあ・・・健さん、どうしてその店に行ってみろっていうんですか?」
男の名は健さんというらしい。
「いや。店の料理とかじゃなくて、あそこに行くことが大事なんだ。行けばきっと何か自分の中になかったものが手に入る。そんな場所なんだよ。」
健さんはそこまで言うと、再びバイクの方に向いて、修理を始めた。
その間、青年の頭の中には、浜名湖のほとりに建つ、赤い屋根の小さな喫茶店のイメージが広がっていた。ひげを蓄えた白髪交じりのマスター、その眼はすべてのものを見通すような深い色をしていて、寡黙だけど、大事なことをしっかりを教えてくれる。柔らかい風がそっと吹き抜けていく空間。・・・
「ああ、そうだ。もう一つ伝えておきたいことがある。マスターは、大した人物じゃないぞ。物知りみたいだけど、中途半端なんだな。大事な事はすぐに忘れてしまうし、どこかぼんやりしていて、奥さんには頭が上がらないし・・・。」
「何だか、健さんみたいですね。」
「バカ言うな、俺はあの人みたいにはなれない。・・とにかく、良い人なんだ。近くにいると、ほっとするっていうか、安心するんだ。逢ってみる価値はある。でも、何かを教わろうなんて無理だからな。そこは期待しない方がいい。」
「じゃあ、いったい、何が良くて、そこに行けっていうんです。」
「さあ・・言葉じゃうまく言えないけど・・・今、お前がどん詰まりの中にいるようだったから、そこへ行くと良い。俺もそうだったから。さあ、修理できたぞ。大事にしろよ。」
そう言って、目の前のバイクのシートを丁寧に拭いて、青年に見せた。
「もし、あの店に行くようだったら、ドーナッツを買って、手土産にもっていくと良い。俺から聞いたって言って、それを差し出せ。きっと奥さんは喜んで迎えてくれる。奥さんの好物なんだ。あそこで奥さんに気に入って貰えれば、しばらく、世話になれる。」


1.朝日の中で [命の樹]

物語は、5年ほど遡る。

「おはよう。」
二階からゆっくりと階段を降りてきたのは、【命の樹】の奥さん、加奈だった。パジャマ姿でまだ少し眠そうだった。

この店のオーナーである、倉木夫妻は、五十歳になったのを機に、二人とも、会社勤めを辞めて、街場の自宅を処分して、この田舎に移り住んだ。
最初は、1年ほど、貸家を住まいにしていたが、高台のこの地を手に入れて、小さな店を作った。
赤い屋根のログハウス風の建物で、一階は喫茶店、二階には夫婦の居室のほかに二つほど部屋がある。時々、東京や名古屋に住む娘たちが顔を見せる。二人の娘はすでに成人し、それぞれに暮らしている。

店を開いてまだ1年半ほどしかたっていなかった。

主人の哲夫が厨房から声をかけた。
「おはよう。調子はどうだい?」
加奈は、ブラインドを開けながら答えた。
「ええ、元気よ。あなたは?」
「ああ、大丈夫だ。」
少し妙な挨拶だが、これが二人の朝のお決まりの会話だった。

加奈は、玄関に行って新聞を抜き取ると、朝日が差し込んでいる東の窓際の席に座った。
一応、喫茶店なので、白木のテーブルとイスが4セットほどおいてある。一つは西側の窓の下、一つは東側の窓の下。そして、二つのセットは、南に開いた掃き出し窓のところに並んでいた。中央には、大きめの真っ赤なソファセットが置いてある。
加奈は、老眼鏡をかけて、新聞を読み始める。そこへ、哲夫が、トレイに乗せた、朝食を運んでくる。
「ありがと・・・」
小さく呟くと、大きめのコーヒーカップを持ち上げて一口飲んだ。それから、視線をトレイの上に置かされたお皿にやる。
「さあて・・今日のメニューは何ですか?」
加奈の問いかけに、厨房に戻った哲夫が、遠慮がちに答える。
「今日は・・いつもの保育園へ届け物をする日なんで、小さめのパンを焼いてみたんだ。」
「ふーん。」
奥さんがちょっと口をとがらせるような表情をして、目の前の小皿に乗ったパンを見た。
口を尖らせたのには訳がある。
いつもは大抵、何かのサンドイッチが朝食メニューなのだ。
だが、時折、こうして新作のパンが登場する。
だが、哲夫が焼く新作のパンは二回に一回はお世辞にもおいしくないのだった。だが、率直のおいしくないと感想を述べると、哲夫の落胆ぶりは尋常ではなく、しばらく、何もできなくなるほどで、機嫌を取るのに苦労する。
だから、こんな風に新作が出てきたときは、加奈はこの後の展開を想像して、すぐに食べる気になれなかったのだった。
しかし、目の前にはすでに、子供の握りこぶしほどの小さくて丸いパンが二つ乗っている。

加奈がこういう気遣いをしていることを哲夫は気付いているのだろうか?加奈の心の中にはそんな疑問が絶えず湧いている。いや、おそらく何も気づいていないだろう。そういうことには気づかない鈍感さが哲夫の取り柄でもあるのだから。
加奈は、勇気を出して小さなパンを手に取った。
ほんのりと柑橘系の香りがしている。まだ焼いたばかりで温かい。半分に割ると、中から一層強い柑橘の香りが広がった。
「うーん、良い香り。」
この一言で、哲夫は満面の笑みを浮かべた。
加奈が半分に割ったパンをぱくりと頬張る。少し酸味はあるが気になるほどではない。それ以上に、口から鼻に抜ける香りが心地よく、噛んでみると甘さが口に広がる。
「これって・・・オレンジ?・・・じゃなさそうね。」
「ああ・・・この前、与志さんに貰ったみかんジャムを使ったんだ。最初は、ジャムパンにしようかと思ったんだけど・・・小さな子どもたちだから、ジャムをこぼして服を汚したしちゃうかなって思って・・生地に練りこんでみた。」
加奈は哲夫の得意げな顔を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「合格!」
加奈の言葉に哲夫は小さくガッツポーズをして見せた。

「いけない、遅刻しちゃう。」
加奈は残りのパンとサラダを搔き込むと、バタバタと二階へあがっていった。
しばらくすると、身支度を整え、すっかり化粧も済ませた加奈が階段から転げ落ちるように降りてきた。
「今日は、午後も授業だから少し遅くなるかも・・・。」
「ああ、わかった。」
加奈は、車で三十分ほどのところにある専門学校の講師をやっていた。
ここへ来る前、介護の仕事に就いていて、多くの資格を持っていたので、知り合いを通じて、講師の口を手に入れたのだった。
「じゃあ、行ってきます。」
玄関を開けて出ていく加奈を哲夫は見送った。
「ああ・・看板、出しといてくれるかい。」
加奈は、哲夫の言葉に、手を挙げて答えた。
そして、高台から下へ降りる石段に足音を響かせて出かけて行った。下の方から、クラクションが一つなった。加奈のいつもの合図だった。

2.常連の与志さん [命の樹]

パン焼き窯は、厨房の勝手口を出たところに造られていた。
レンガを積み上げたしっかりした造りで、薪を使うタイプだった。
一度にたくさんは焼けないが、じっくりじっくり焼き上げる、そのゆったりした時間が哲夫は好きだった。不慣れなうちは火加減が判らず,随分だめにしてしまった事もある。天候にも左右される。真夏は地獄のような暑さだし、雨が降ればほとんど焼けない。それでも、そういった天候に左右されたのんびりした暮らしが好きだったのだ。

今日は、天気も良かった。火を入れて落ち着いたところで、すでに成型を終えたパンを窯の中へゆっくりと入れた。窯の横にあるベンチに座り、顔を上げると、朝日が湖を照らしてキラキラと輝く風景が広がっていた。ふーっと息を吐き遠くを眺めた。
パンが焼きあがるまで、こうしてのんびりと景色を眺めていると、決まって、来客がある。

その客は、玄関からはやって来ない。
パン焼き窯のある垣根の隙間から現れる。
がさがさと藪が動くと、ちょうど人ひとり通れるほどの垣根の隙間から、姉さん被りに野良着姿の女性が顔を見せた。
「やあ、おはようございます。与志さん。」
「ああ。おはようさん。」
与志さんは、70を超える老婆だった。
いつも朝早くから畑に出ていて、パンを焼いているときに限って、こうやって現れるのだった。おそらく、パンの焼ける匂いに誘われて来るに違いなかった。
与志さんはめったに店の中には入らない。
野良着で店を汚すのが嫌だということもあるが、パン焼き窯の裏手は、与志さんの畑を見下ろせる絶好の場所であり、その風景をじっくり楽しめるベンチが気に入っていたからだった。与志さんは、10年以上前にご主人に先立たれ、一人暮らしだった。喫茶【命の樹】が建っている土地はもともと与志さんのものだった。畑仕事用に小さな小屋を建てていたのだが、事情があって手放さざるを得なくなって、地元の不動産会社を通じて、倉木夫妻が買ったのだった。
与志さんの家は、畑を挟んですぐ下にある。だから、与志さんは畑仕事をしながら、気が向くと、こうやってパン焼き窯の横にあるベンチに来るのだった。
「今日も湖は静かだねえ。」

与志さんのいつもの言葉を聞くと、哲夫は決まって同じことを考えた。
きっとここからの眺めはご主人と一緒に眺めていたに違いない。そして、ここへ来るのは、少し寂しさを感じた時なんじゃないか。

「与志さん、ちょうど良かった。今日は与志さんに貰ったジャムで新作を作ったんだ。試食してみてくれますか?」
「ああ・・」
「ちょっと待っててくださいね。・・・ええっと・・・紅茶で良かったよね。」
哲夫はそういうと、厨房に戻ってすぐに、与志さん専用のカップに紅茶を入れてもってきた。
ベンチの前には小さなテーブルがある。ほとんど与志さん専用みたいなものだった。
哲夫はテーブルに紅茶のカップを置き、すぐにパン焼き窯を覗いた。
「うん・・いい具合に焼けてる。」
そういって、ゆっくりとパンを取り出し、小皿にパンを二つほど載せてテーブルに置いた。
「さあ、どうぞ。」
与志さんは、すでに紅茶に口をつけていた。そして、焼きあがったばかりのパンをしばらく眺めた後、ゆっくりと二つに割った。与志さんは、そっと鼻を近づけて言った。
「ほう・・みかんジャムを使ったんだね。」
哲夫は少し複雑な表情で答える。
「ええ・・・生地に練りこんでみたんです。どうかな?」
与志さんはぱくりと口に入れ、ゆっくり噛みしめるように味わっている。少し眉間に皺を寄せたが、すぐににこりと笑って言った。
「うん・・いいねえ・・・。」
「そう?良い?実は加奈も旨いって言ってくれたんだよね・・・。」
哲夫は得意そうな顔つきに変わった。
それを見て、与志さんは少し意地悪な表情で言った。
「やっぱり、私の作ったジャムは最高だね。」
「ええ?・・」
哲夫が少し落胆したような表情を見せたところで、与志さんは大笑いして、「いや、パンは最高だよ」と言った。哲夫も笑った。

「ねえ、与志さん。また今度、違うジャムもくださいな。」
「そうかい?・・そうだね、もうすぐ、梅の実の収穫に入るから、今度は、梅ジャムを作ってみようかね。」
「梅ジャムか・・・どんな味になるかな?」
哲夫はちょっとパンには合わないかもなと考えた。
「大丈夫さ、私が作るジャムなんだよ。きっと旨いに決まってる。」
与志さんは嬉しそうに答えた。
「これ、保育園に届けるんですよ。」
「そうかい・・きっと、みんな喜ぶだろう・・・。そういえば、あの子はどうしてる?」
「ああ・・・サチエちゃん?・・」
「ああ、それと妹のユキエちゃん・・・ちゃんと、暮らしてるんだろうね?」
「ええ・・サチエちゃんは今春には小学校に入りましたし、ユキエちゃんも保育園です。なんとか、親子三人暮らしているみたいで・・時々、店にも来てくれますよ。」
哲夫は思い出していた。


3.サチエとユキエ [命の樹]


サチエとユキエは姉妹だった。
半年ほど前に、哲夫は偶然、神社の入り口で姉妹と出会った。

晩秋の夕暮れ、哲夫は買い物を終えて店に戻るところだった。
いつもなら、鳥居をくぐってすぐに右の石段を店の方へ登っていくのだが、その日に限って、何か、神社へお参りしなければならないように思えて、足を向けた。
柏手を打ち、拝礼をして手を合わせていると、どこからか、しくしくと小さな泣き声が聞こえてきた。神社の森は深く薄暗い、さらに日暮れ近くなり、闇が近づいてきている時間帯だった。哲夫は恐るおそる、泣き声のする神社の裏手に回ってみた。
そこには、幼い姉妹が身を寄せるように座っていた。
「どうしたんだい、こんなところで?」
哲夫の声に、姉妹は驚いたように身を縮めた。そして、捨てられた猫のような眼で哲夫を睨み付けた。
「寒くないかい?」
哲夫の問いかけに、姉の方が首を横に振る。
「もう暗くなってきたから・・家まで送ってあげよう。」
そう言うと、再び首を横に振り、妹を強く抱きしめ頑なに拒む気配を見せた。
そこに、与志さんが現れた。
畑仕事を終え、自宅に戻る途中、哲夫の声を聞きつけたのだった。
「おや・・どうしたんだい?」
与志さんはそう言うと、哲夫を見た。哲夫の困った表情と小さく固まるように座る幼子の姿に大体のことを察した。
与志さんは、幼い二人に近づいて、優しく二人の手を取った。
「もうこんなに冷たくなってるじゃないか。お腹も空いてるんじゃないのかい?さあさあ、婆ばと一緒に行こう。」
そう言って二人を抱きしめた。そこに、加奈も仕事を終えて戻ってきた。
二人は、与志さんと加奈に抱っこされて、【命の樹】に連れていかれた。
もうすっかり外は暗くなってしまった。
窓辺の席に二人を座らせると、加奈が温かいミルクとパンを二人の前に差し出した。
「さあ、どうぞ。あったまるわよ。パンも食べてね。」
妹の方はいったん手を出しかけたが、姉に手を引っ張られてすぐに手を引っ込めた。
「良いのよ、遠慮なんかしないで。さあ・・・」
与志さんも二人の前に座って、同じように差し出されたミルクを飲んだ。
「ああ。旨いねえ。温かい。さあ、お食べ。良いんだよ、さあ。」
その様子に我慢できなくなったのか、妹がミルクを飲んだ。そして、パンを手にして口に入れた。
「おいしい・・・お姉ちゃん、おいしいよ。」
姉の方も、妹の様子を見て、我慢の限界に達して、ついにミルクを口にした。そして、ぽろぽろと涙をこぼした。今まで溜めてきた何かが一気に噴き出したようだった。
哲夫は、駐在所に電話をかけていた。幼い姉妹、きっと、親も心配しているに違いない。
すぐに二人の身元は分かった。
町の入り口近くにある古いアパートに住んでいる、サチエとユキエの姉妹だった。
以前にも何度か二人がアパートの外で泣いているのを近所の人に保護されていたのだった。
アパートには母親と三人で暮らしているのだが、元夫が、時々、ふらっと現れては、金をせびりに来るのだった。現れるときにはたいてい、酒を飲んでいて、アパートの外で大声を出したり、そこらのものを壊したりする。それを止めようと中に入れると、暴力をふるう、それが怖くて部屋から逃げて隠れていたのだった。

警察からの連絡を受けて、母親が【命の樹】にやってきたのは、夜10時を回ったころだった。
まだ20代前半くらいの若い母親だった。
目を真っ赤に泣きはらした様子で、口元には切れた痕と青あざも見える。明らかに暴力を受けているのが判った。母親は、店の前で何度も何度も頭を下げた。
「まあ・・いいから・・中へどうぞ。」
哲夫はそういうと母親を店の中へ入れ、椅子に座らせた。
「少し、落ち着きましょう。」
加奈がホットミルクを作って持ってきた。
「さあどうぞ。」
母親の名は、飯田郁子といった。
警察から聞いた話の真偽を確かめると、郁子はあっさりと認めた。
「みんな・・私が悪いんです・・・。あの子たちに怖い思いをさせてしまって、母親失格なんです・・・」
そう言って泣き始めた。
「そうじゃないだろ!みんな、元旦那のせいだろう!」
郁子の話を聞いていた、与志さんが腹立たしそうに言った。
ふと見ると、サチエもユキエもうつらうつらと眠そうな様子だった。
「今夜は、もう遅いし、ウチで寝かせてあげましょう。・・郁子さんも一緒にどう?」
「でも・・ご迷惑ばかりおかけしてしまって・・申し訳ないです・・・。」
「良いのよ。部屋は空いているし・・アパートに戻るのも大変でしょう?」
その日は、親子三人、2階の部屋に布団を並べて休ませる事にした。

哲夫と加奈は、ベランダのロッキングチェアに座り、コーヒーを飲みながら夜空を見上げていた。
「郁子さんって、まだ25歳なんだって。」
「ええ?じゃあ、うちの娘より若いんだ。」
「そうなのよ。」
「それで、二人の子どもを育ててるんじゃ大変だな。」
「そうよね。その上に・・。」
「ああ、たちの悪い元夫が付きまとってるなんて・・・何とかなんないのかね?」
「そうね・・悪縁を切るのは簡単じゃないのよね・・・。」
「何とかならないのかなあ・・。」

4.サチエとユキエ② [命の樹]

4 サチエとユキエ2
翌朝、三人が起きた時にはすでに朝食の支度は済んでいた。
「さあ、どうぞ。」
加奈は、窓際のいつもの自分の席に座って、三人を招いた。
「ごめんね。いつも、朝はサンドイッチなの。哲夫さんが朝食を用意しているのよ。」
哲夫は、サチエとユキエには小ぶりなサンドイッチを用意していた。はちみつとバター、ブルーベリーのジャムサンド、それとエッグサンドだった。
「お母さん、おいしいよ。」
妹のユキエが、口いっぱいにサンドイッチを頬張って、無邪気に言った。
「うん。おいしい。」
姉のサチエも一口食べて言った。
「ありがとう。そう言ってくれるとうれしいよ。」
郁子も、目の前のサンドイッチを口にした。
「本当・・美味しいね・・。」
そう言いながら涙ぐんでいた。
「サチエちゃん、ユキエちゃん、いつでも遊びにおいで。おいしいパン作って、待ってるから。」
哲夫は二人の頭を撫で乍ら言った。
親子三人は、朝食を終え、何度も頭を下げて、店を出て言った。

それから一月ほどが経った時だった。
夕食を終えて、片づけをしていると、店の玄関をどんどんと叩く音がした。誰だろうと哲夫がドアを開けると、必死な表情をしたサチエが立っていた。裸足だった。
「どうしたんだい?」
サチエはがたがたと震えている。
「お母さんが・・・お母さんが・・・。」
サチエはそういうと哲夫に縋り付いた。二階から降りてきた、加奈がその様子を見て、ただ事ではないと直感して言った。
「哲夫さん、すぐに警察には連絡して!私、アパートに行ってみるから。」
そう言って、加奈が店を飛び出していった。

加奈がアパートに着くと、部屋からユキエの叫ぶような泣き声が聞こえた。ドアを開けると、ユキエは、横たわった母親の傍らに座って泣いている。
「ユキエちゃん、大丈夫よ。」
加奈はすぐにユキエを抱きしめた。そして、横たわった郁子の様子を見た。
「郁子さん!大丈夫?」
反応がない。明かりをつけると、床には真っ赤な血が広がっている。
駐在所から警官が駆けつけてきた。
「救急車を!救急車を呼んでください!」
すぐに救急車が到着して、郁子を搬送した。

元夫がいつものように金をせびりに来て、断った郁子に逆上して、包丁で刺したのだった。すぐに、元夫は港近くで発見され、逮捕された。
幸い、郁子の傷は致命傷ではなく、1か月ほどの入院治療で済んだ。

「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません・・・。」
郁子は病室のベッドの上で泣いていた。
「しばらく、二人はうちで預かるからね。大丈夫、二人とも聞き分けのいい良い子だし、哲夫さんも可愛い娘を相手にできて幸せそうだし・・・だから、あなたは、何も心配しなくていいの。それより、早く怪我を治して、あの子たちに元気な姿を見せてちょうだい。」
病室で、加奈は郁子を前に笑顔で言った。
それから、郁子が退院するまでの間、サチエとユキエは【命の樹】で暮らすことになった。
サチエは、朝早く起きて、哲夫がパンを焼くのを手伝うのが気に入っていた。
パン生地をこねて成型し、焼きあがったパンを食べるのがこの上なく好きになっていた。ブドウパン、くるみパン、かぼちゃパン、チョコパン、どれも大好物になっていた。
ユキエは、加奈が毎晩絵本を読んでくれるのが大好きだった。それと、加奈と一緒にお風呂に入って髪を洗ってもらうのが何より好きだった。
哲夫は、何十年ぶりかに小さな娘ができたようで、サチエとユキエのやることの一つ一つが愛おしくてたまらなかった。加奈にしても、同様であった。
二人とも、毎日、笑顔で暮らした。しかし、夕方になると、パン焼き窯のある場所に二人はこっそりとやってきて、町の様子を眺めるのだった。その視線の先には、郁子が入院している病院があった。

1か月して郁子が退院した。しかし、まだ普通には動けず、親子三人で、もう一月ほど【命の樹】で暮らすことになった。

哲夫は、ベランダのロッキングチェアでコーヒーを飲みながら言った。
「二人を自分の娘のように思ってきたけど・・よく考えると違うね。」
「え?そりゃそうでしょ?本当の娘じゃないんだから・・・・。」
「いや・・そういう意味じゃないんだ。」
「どういうこと?」
「郁子さんが来てみて判ったんだ。ほら、郁子さんはうちの娘と同世代だろ?」
哲夫の言葉に、加奈もどういうことか判って、少しがっかりしたような表情をした。
「そうね・・・娘じゃなくて・・・」
「そうさ・・孫だろ?・・ね、加奈おばあちゃん。」
「嫌だわ・・おばあちゃん・・ああ、がっかり・・・。」
「でも、楽しかったねえ、ここ数か月は。」
「ええ・・とっても。あの子たちも早く結婚してくれないかしらね。」
加奈は、壁にかかった家族写真を見て呟いた。

5 奈美 [命の樹]


哲夫は、その頃の事を思い出すと、涙が零れそうになるのだった。
「ええ・・サチエちゃんはもう小学校に入りましたし、ユキエちゃんは保育園です。郁子さんは近くの工場に就職できて、ちゃんと暮らしているみたいです。時々、お母さんも一緒に、遊びに来ますよ。」
「そうかい・・それなら安心だが・・・。」
与志さんは、湖を眺めながら静かに言った。
「与志さん、ゆっくりしていってね。」
そう言うと、哲夫は、焼きあがったパンを届ける箱に詰め直すために厨房に入っていった。
与志さんは満足そうな顔で、残りのパンを口に運び、紅茶を飲んでいた。

哲夫は、厨房でちょうどパンが収まるサイズの紙袋にひとつひとつ包み込んで、平箱に移していた。その間には、客は一人も現れなかった。支度が終わると、箱を抱えて店を出た。
そして、石段を降りると、看板を裏返した。
≪しばらく不在ですが、じきに戻ります。よろしければ、店の中でお待ちください。≫
看板にはそう書かれていた。何と不用心な事かと思うが、滅多に客の来ない店にはちょうど良いのだった。

哲夫は、自転車の後ろに箱を載せて紐で縛ると、がたつきはないか何度か確認して、ゆっくりと出発した。保育園まではほんのわずか、鳥居を抜け、街並みを過ごし、門まで出ると左に曲がる。周遊道路を少し行くと、保育園が見えてくる。
園庭には子どもたちの遊ぶ元気な声が溢れている。
哲夫の自転車が近づくと、誰かが見つけて叫んだ。
「てっちゃんが来たよ!」
その声に、園児たちが一斉に集まってくる。
「てっちゃん、今日は何パン?」
「ジャムパン?」
「アンパン?」
口々に訪ねてくる。その声の中に、聞きなれた声が聞こえた。
「てっちゃん!」
ユキエだった。あの頃よりずいぶん大きくなっていた。

パンの入った箱を持って、園の中に入ると、園児たちはまっすぐに列を作った。
哲夫が箱を開けて一つ一つ園児に手渡す。いつの間にかそういう習慣になっていた。小さなパンを紙袋に入れたのはこの為だった。
哲夫の前に、小さなもみじのような手が広がる。
「はい」
そう言って、紙袋を一つ乗せると「ありがとう」と言って、小さな手が紙袋を大事そうに包み込む。みんなに行き渡ると、先生が声を掛ける。
「さあ、席についてね・・・いい、じゃあ、手を合わせてください。」
その声に園児たちは一斉に「いただきます。」と大きな声を上げる。そうして紙袋を開けてパンを食べ始める。哲夫の最も幸せな瞬間だった。
ふと見ると、ユキエと同じ組の女の子が一人、隅の方に座っていて、紙袋を開けようとしないのに気付いた。見慣れない女の子だった。その様子をユキエが気付いた。
「あの子、奈美ちゃん。ちょっと前にお友達になったの。」
最近編入したようだった。哲夫がそっと近づいて、訊いた。
「奈美・・ちゃんっていうのかな?」
その子は驚いた表情で哲夫を見て、こくりとうなずいた。
「奈美ちゃんは・・パンは嫌いだった?」
奈美は首を横に振った。
「じゃあどうして食べないの?」
その問いに、奈美はもじもじして答えられないような表情をしている。
「おいしいよ、食べてみて?」
奈美はこくりとうなずいて、紙袋を開けたが、じっと覗きこんだままだった。そうしているところへ、ユキエがやってきて言った。
「ねえ・・てっちゃん、お姉ちゃんの分も貰っていい?」
「ああ・・たくさん持ってきてから、もってお帰り。」
「お母さんにも良い?」
「ああ、いいさ。」
哲夫がそう答えると、じっと袋の中を覗きこんでいた奈美が驚いたように顔を上げた。
「え?貰ってもいいの?」
その問いに、哲夫は優しく答えた。
「ああ・・たくさん持ってきてるから・・・奈美ちゃんは幾つ欲しい?」
奈美は、手を広げ、思い出すようにして指を折った。
「三つ・・・裕くんとおじいちゃんとおばあちゃんの分・・・。」
「え?お父さんとお母さんの分は?」
哲夫が訊くと、奈美は俯いた。
そのやり取りを見ていた保育園の先生が哲夫に耳打ちした。
「奈美ちゃんのご両親・・少し前に交通事故に遭われて・・お父様は亡くなってしまって・・お母様もまだ入院中なんです。今、近くのお爺様のお宅に・・・」
哲夫は、言葉を失った。その様子に、先生が、
「さあ・・美奈ちゃん、はい、三つ。カバンにしまっておいてね。」
「ありがとう・・。」
奈美はそう言うと、満面の笑みを浮かべ、手にしたパンを大事そうにカバンにしまいこむと、席に戻って満足そうにパンを食べ始めた。

6 源治 [命の樹]


一週間が過ぎた日、加奈を送り出した後、哲夫は保育園へパンを届けるために、パン焼き窯に火を入れていた。与志さんはまだ現れていなかった。
ごそごそと厨房とパン焼き窯を行き来しているとき、ふと、玄関先に人影があるのに気付いた。
誰だろうと不審に思って、哲夫は、パン焼き窯のある裏手から、玄関へ回ってみた。
そこには、長靴に作業ズボン、Tシャツ姿の、白髪の男が立っていた。日に焼けた腕は太く、筋肉隆々で、一見して、漁師と判る風体だった。その男は、玄関からしきりに中の様子をうかがっているようだった。
「あの・・何か御用でしょうか?」
哲夫は男の背中越しの声を掛けたために、男はびくっと驚いて振り返り、じっと哲夫を睨みつけるような格好になってしまった。手には白い発泡スチロールの箱を抱えている。
「礼をしたくて来たんだ。これ、受け取ってくれ!」
男はそういうといきなり箱を哲夫に突きつけた。
「いや・・礼と言われても・・心当たりがないんですが・・・。」
哲夫は戸惑った。初対面の男から礼と言われても全く心当たりは無い。男は、眉間に皺を寄せて、さらに哲夫を睨みつけた。
「哲夫さんだろ?・・保育園にパンを届けてるって聞いたんだが・・・。」
「ええ・・確かにパンを届けてます。今日も届けるんですよ・・それが・・」
「だから・・なんだ・・そのパンで・・」
男は、どこから話すべきか少し戸惑っている様子だった。哲夫は、その様子に気付いて
「立ち話というのもなんですから・・宜しければ、中へどうぞ。」
と中に招きいれようとしたが、「この風体だからな・・」と男は遠慮した。
「ならば、裏へ回ってもらえますか?ちょうど今、保育園に持っていくパンを焼いているんです。様子が気になるので・・・・ああ・・裏にも、椅子がありますから・・ああ、そうだ、コーヒーいかがです?」
哲夫は男の返事を待たずに、玄関からパン焼き釜のところへ男を連れて行った。
「ここへどうぞ。すぐにコーヒーを煎れて来ますから。」
そう言うと勝手口から厨房へ入った。男は、ベンチに腰掛け、周囲を見回した。パン焼き釜からパンの焼ける匂いが漂っている。目の前には湖が広がり、なんて気持ちの良い場所なんだろうと感じていた。
目の前の生垣ががさがさと動くと、与志さんがひょっこりと現れた。
「おや?お前、源治じゃないか。なんだい、こんなところに、一体どうしたんだ?」
「いや・・俺は哲夫さんにちょっと用事が有って・・。」
「ふうん?で、てっちゃんは?」
「コーヒーを持ってくるって。」
与志さんはそれを聞いて、男の横に座った。
「ばあさんもここへよく来るのかい?」
「ああ・・気が向いたときに・・な・・。」
そんな会話をしているところに、哲夫が出てきた。
「やっぱり、与志さんもいらしたんですね。さあ、どうぞ。与志さんには紅茶を・・」
そう言うと、テーブルにコーヒーと紅茶を並べた。
与志さんは紅茶を一口啜ると切り出した。
「源治、お前の用事ってのはなんだい?」
その言葉に哲夫が反応した。
「源治さんっていうんですね。まだ名前も伺ってなかったから・・。」
「なんだい、お前、名乗らずにここにいるのかい?それでなくても怪しい風体なのに・・とんだ礼儀知らずだねえ。」
与志さんは源治を見下すように言った。
「うるさいよ、婆さん。俺は、礼を言いに来たんだ。」
「礼を?おや珍しい。・・お前も礼をいう事を覚えたのかい?」
初老の男を捕まえて、まるで子どもに言うように与志さんは言った。
「昔からの知り合いですか?」
哲夫が尋ねると与志さんが答えた。
「源治の事なら、赤子の時から知ってるんだ。若い頃には放蕩の限りをして、随分、皆に迷惑を掛けたもんさ。まあ、今は良い爺さんになったみたいだがねえ。」
「うるさいな・・なあ、哲夫さん。保育園にパンを持って行ってるんだってなあ。」
源治は、与志さんが現れた事で少し和んだように切り出した。
「ええ・・週に一度だけなんですが・・・」
「奈美って子を知ってるだろ?」
「ええ・・先週、初めて気づきましたが・・・。」
「奈美は俺の孫なんだよ。知ってるとは思うが、あの子の両親は、大きな事故にあって・・父親は死んじまった。即死だったそうだ。・・・母親の方は・・俺の娘なんだが・・・奇跡的に助かってな。今、病院にいる。」
「保育園の先生にお聞きしました。そうだったんですか・・・。早く元気になられると良いですね。」
哲夫が答えると、源治は大きな溜息をついた。
「いや・・おそらく・・無理だ。医者の話では意識は戻らないだろうって。大きな事故だった。連休を使ってうちへ帰省するって連絡があって、気をつけろとは言ったんだが・・それが・・高速から降りたばかりの、うちまであと僅かのところで・・大型トラックと衝突したんだ。奈美や裕も・・裕ってのは弟の方だが・・乗ってたんだ。だが、娘が二人を庇う様にして、車に挟まっていたらしい。それで二人はほとんど無傷だったんだ。車は見る影も無いほど大破していた。トラックの居眠り運転らしいんだが・・」
源治の話をじっと聞いていた与志さんがふと漏らすように言った。
「不憫だねえ・・。」
哲夫は源治に掛ける言葉を失っていた。源治は、遠くを見ながらコーヒーを一口飲んだ。

7 礼の意味 [命の樹]


「奈美も裕も、うちへ来てからずっと元気が無かったんだ。まだ、両親の話はしていないんだが、子どもなりにわかっているみたいだ。だが、寂しいって泣くことをしないんだ。笑う事もない。何だか、死んでるみたいなんだ。・・奈美は保育園に行き始めて少し話しもするようになったんだが・・裕は何一つ言わなくなった。じっと一日、縁側に座って外を眺めてる。まだ三つだぞ・・そんな小さな子が・・・。」
源治は、そう言いながら涙ぐんでいる。
「おれも、女房も、何とか元気付けようとしてるんだが、変わらない。女房なんか、子ども達の様子を見ては毎日のように泣いている。」
哲夫は保育園で会った時の、奈美の笑顔を思い出していた。
「でも、奈美ちゃんはこの間、保育園で素敵な笑顔を見せてくれましたよ。」
「ああ、そうなんだ。あの日、保育園から奈美が戻ってきた時、びっくりするほど元気だった。そして、縁側に座っている裕のところへ一目散に駆け寄って、カバンの中から紙袋を取り出したんだ。」
「・・あのパンですか?」
「ああ、小さなパンだった。裕の奴、奈美からパンを貰うと、パクっと食べたんだ。そしたら、美味しいって口を開いたんだ。そして残りを綺麗に食べると、にっこりと笑ったんだよ。」
源治はそのときの情景を思い出して、満面の笑みを浮かべていた。
「初めてだったよ。あいつのあんな笑顔。そしたら、奈美もにっこりと笑ったんだ。女房はそれを見て涙を流したよ。俺もな。・・奈美はカバンにもう二つパンを持ってた。裕が食べたのを見てから、俺たちにもくれようとしたんだが、俺は、裕の笑顔が見たくてなあ。二人で食べるように言ったんだ。二人は縁側にちょこんと座って、美味しそうに食べてた。それから、裕は、随分元気になった。奈美も毎日嬉しそうに保育園に行くようになったしなあ。女房ももう泣く事も無くなったし・・。」
「そうですか・・それは良かった。」
「だから、哲夫さんにどうしても礼を言いたくてね。」
「いえ・・僕はただ、パンを作っただけですから。裕君が元気になったのは、奈美ちゃんのお陰でしょう。きっと奈美ちゃんも裕君が元気が無い事を苦にしていたんじゃないでしょうか?それに、そんな裕君を見て奥さんや源治さんが悩んでいるのも辛かったんじゃないでしょうか?奈美ちゃんの気持ちが裕君に伝わったんでしょう。」
それを聞いて、与志さんも言った。
「きっとそうだろうよ。お姉ちゃんというのは、時に母親代わりをするもんさ。」
「きっとそうですよ。だから、お礼なんて要りません。むしろお礼を言いたいのは僕の方です。僕の作ったパンでそんなふうに元気付けられる事があるなんて・・教えてくださって本当にありがとうございました。」
哲夫は心からそう思っていた。保育園でパンを配る時、子ども達の笑顔だけで充分幸せを感じることができていた。だが、源治の話しはさらに自分のパンが役に立っている事を証明してくれている。この町に来て良かった、哲夫はそう強く感じていた。
「いや、このままじゃ俺の気がすまない。これを受け取ってくれ。今朝、獲ってきた魚だ。俺にはこれくらいしかできないからな・・。」
源治は脇に置いていた発砲スチロールの箱を哲夫に突き出した。蓋を開けると、きらきらと光る魚がたくさん入っていた。
「おや・・美味しそうだね。キスかい?」
「ああ、今、旬だからな。」
哲夫は礼を言って受け取り、少し、与志さんにも分けた。
「源治さん、パンを食べてみてください。焼きたてできっと美味しいはずです。」
哲夫は源治の返事も訊かずに釜へ行き、焼きあがったパンを出してきた。
源治と与志は、パンを口にした。
「ふうん・・これは梅を使ったね?」
「ええ・・与志さんにいただいた梅ジャムを入れてみたんです。どうですか?」
「ああ、旨いよ。」
源治も頷いた。
哲夫は満足そうな笑顔を浮かべ、焼きあがったパンの並んだ皿を持って立ち上がり、「ゆっくりしていってくださいね。」と言うと、厨房へ入って行った。
「さあ、仕事、仕事。」
与志は残った紅茶を飲み干すと、そう言いながら、垣根の間から畑へ戻って行った。
源治は、与志を見送ると、厨房を覘いた。中で、哲夫がパンの袋詰めをしているのが見えた。源治は少し躊躇いながらも、そっとドアを開けて声を掛けた。
「あのさ・・哲夫さん・・。」
「源治さん、どうしました?」
「その・・保育園に持っていくパンを袋詰めしてるんだろ?」
「ええ、いつものことです。」
「俺にも手伝わせてもらえないかな?」
「ええ・・いいですよ。さあ、どうぞ。」
「そうかい?」
源治は、哲夫の横に立つと、黙々とパンの袋詰めを始めた。源治はそのごつい手で小さなパンをひょいっと摘まむと、白い紙袋に入れて、両端をくるりと回して口を閉じた。そして、全て終えると満足そうに帰っていった。

哲夫は、保育園にパンを運んだ。いつものように、子どもたちが次々にパンを受け取る。その中に、元気な笑顔の奈美の姿もあった。
「奈美ちゃん、はい、パン。今日は4つ、持ってお帰り。特別なパンだからね。」
「とくべつなパン?」
奈美は哲夫の言葉にきょとんとした。
哲夫は奈美の耳元で小さく言った。
「今日のパン、源治さんが袋に詰めてくれたんだよ。」
奈美は、一瞬、驚いた表情を見せ、すぐに、満面の笑みを浮かべ、哲夫から大事そうにパンを受け取った。

8 診察の日 [命の樹]


夕方に、加奈が帰宅すると、哲夫は今朝からの出来事を嬉しそうに話して聞かせた。
「良かったわね。」
加奈は、哲夫の話を一通り聞き終えると、哲夫に負けないくらいの笑顔で、そう言った。
「ああ、良かった。ここへ来て良かった。人の輪の中で生かされてるって実感したよ。」
「そうね。」
哲夫の言葉を聞いて、加奈はほろりと涙を流した。それに気づかれないように、加奈が立ち上がって言った。
「今日は、私が夕飯を作るわね。」
加奈が、エプロンを着けて冷蔵庫を覗き込むと、白い皿にキスが開いてあるのを見つけた。それに気づいて哲夫が言った。
「たくさんキスを貰ったから開いておいたんだ。フライか天ぷらかにしようよ。」
「いいわねえ。じゃあ、今日は天ぷらにしましょう。残りは、フライにできるようにパン粉をつけて冷凍しておけばいいわ。・・ねえ、キスフライのサンドイッチっていうのも良いんじゃないかしら?」
哲夫も厨房に入り、夕食作りを手伝い、その日は、キスの天ぷらをおかずに楽しく夕食を済ませた。

片づけを終えて、二人は、中央に置かれた真っ赤なソファに座って、コーヒーを飲んで寛いでいた。
「ねえ、次の診察は明後日よね?」
哲夫は少し疲れたのか、うとうとしながら答えた。
「ああ、明後日だよ・・・。」
「大丈夫よね?」
「ああ・・ここへ来てから調子は良い。大丈夫さ。」
夜が更けていった。

翌々日、加奈は休みを取って、哲夫を病院へ送っていく事にしていた。病院は、浜松市内の大学病院だった。
「今日は、CT検査もあるから午前中いっぱい掛かるよ。駅前にでも行ってくれば?」
哲夫はそう言ったが、加奈は一緒にいるといって駐車場に車を停めた。
病院に入るとすぐに診察室へ向った。
「あら、随分、元気そうですね。」
診察室には、30代の女性の医師がパソコンを前に座っていた。
「水上先生、お久しぶりです。最近、調子がいいんですよ。」
そう言いながら哲夫は椅子に座る。
水上医師は、哲夫の顔色や目の様子、胸部・腹部に聴診器を当てて、音を聞き、触診まで手早く済ませた。
「じゃあ、今日は、CT検査と血液検査、エコーもやっておきましょう。」
水上医師がそう言うと、若い看護士が検査室へ案内した。
診察室を出ると、加奈が長椅子に座って待っていた。加奈は、哲夫の顔を見て微笑んだ。そして、階段の方を指さして、コップを持つ仕草をした。病院内にある喫茶店に行くという合図だった。哲夫は了解したというふうに頷いた。
哲夫が検査室に向うと、加奈はすぐに診察室に入った。
「加奈さん、おじさんに変わった様子はありませんか?」
水上医師はかなり深刻な表情を浮かべて加奈に尋ねた。
「・・引っ越してから、かなり調子は良いみたいです。見た目にはずいぶん元気になったなあって・・・。」
「そうですか。・・・体重は?」
「変わってないはずです。食欲もあるみたいですし、毎朝、早起きして店の準備もやってます。パン焼きの腕も随分上達したみたいです。先生も一度いらしてください。」
「あの・・加奈さん・・先生って呼ぶの、やめてもらえませんか?何だか、変な感じ。いつもみたいに、結って呼んで下さい。」
「え?でも・・ここでは水上先生でしょう?」
水上医師は少し嫌な表情をしながら話をつづけた。
「まあ良いです。検査の結果を見なければわかりませんが、もうすぐ、痛みが強くなるかもしれません。痛むが強くなれば、食欲も湧かなくて、次第に体力が落ちてきます。そうなると、一気に深刻な状態になると思いますから。小さな変化でもすぐに知らせてください。早く処置すればそれだけ長く生きられるはずです。」
「はい・・・すぐに・・。」
加奈は涙を浮かべていた。そう話す、水上医師も涙を浮かべている。
「くれぐれも、無理だけはさせないでください。」

加奈は、水上医師と話をしたあと、喫茶店に行った。
検査には1時間ほど掛かった。検査を終えて診察室に戻って来ると、加奈が診察室の前の長椅子で待っていた。加奈は「大丈夫?」というような視線を送る。哲夫はいつもの事差というふうに微笑んだ。
診察室に入ると、水上医師がCT検査の結果やエコーの結果を食い入るように見ていた。
「どうですか?」
哲夫が椅子に座って医師に尋ねる。
「うーん・・・」
水上医師は、哲夫の方を見ず、じっと検査結果を見比べている。
「まあ・・大きな変化はないようね。薬はちゃんと飲んでいますね?」
「ええ・・。」
「今のところ大丈夫でしょう。ただ、無理は禁物ですよ。調子が悪くなったらすぐに連絡してくださいね。」
「はい。でも、先生もお忙しいでしょう。」
哲夫の返事に水上医師は半ば怒ったような表情で言った。
「何、言ってるんですか!良いですか、たとえ何があろうと、おじさんの具合が悪ければすぐに行きますからね。おじさんには1日でも長く生きていてもらわないと・・・」
水上医師はそこまで言うと、医者らしくなく涙を浮かべていた。
「ごめん・・結ちゃん、ちゃんと連絡するよ。ごめんね。」
「もう・・おじさん・・おじさんが居なくなったら・・私・・。」
哲夫の言葉に、水上医師は、もう医師であることを忘れていた。


9 おじさん [命の樹]


水上医師が≪おじさん≫と呼んだのには理由があった。
まだ、水上医師が高校生の時、暴漢に襲われたところを、哲夫が偶然通りかかって救ったことがあったからだった。

18年ほど前の夏の日の出来事だった。
哲夫はまだ名古屋の製造メーカーで開発部のリーダーになったばかりだった。終電で帰宅するのが常だったが、その日はいつもより早く帰宅できた。それでももう午後9時を回っていた。
駅から自宅までは自転車だった。自宅のマンションが遠くに見える辺りまで来た時、悲鳴のようなものが聞こえた気がした。自転車を停めて、聞き耳を立ててみた。空耳か?と思ったが、念のため辺りを観察してみた。
右前方に小さな神社があった。神社に上がる石段の脇に、ピンク色の自転車が倒れていて、学生のカバンらしきものが転がっていた。もしやと思い、近づいてみると、再び悲鳴が聞こえた。こんどは空耳ではない。
声は神社の横の土手の下から聞こえたようだった。近くに街灯はなく、月明かりでぼんやり様子が見える程度だった。慎重に声のする方に近づいてみた。草むらの中に人影が見えた。目を凝らしてみると、男が誰かに馬乗りになっているように見えた。
「何してる!」
哲夫が声を掛けると、一瞬人影はびくっと動きを止めた。
「た・・す・・け・・て・・」
口を押えられているのか、とぎれとぎれに漏れるような声がした。
「止めなさい!こら!やめろ!」
哲夫は暴漢だと確信して怒鳴った。
哲夫の声に、男が立ち上がり、フーフーと肩で息をしながら、哲夫の方を向いて、鬼のような形相で睨み付けた。手にはキラリと光るものが握られている。
男はじりじりと哲夫に近づいてくる。次の瞬間、ドスンと男は哲夫に体当たりをした。左脇腹に鈍い痛みが走る。哲夫は男の腰に手を回し、ベルトを強く掴んだ。男は身を離そうともがこうとしたが、哲夫はがっちりとベルトを掴んで離さない。
「さあ・・はやく・・逃げるんだ!・・どこでもいい、近くの家に飛び込むんだ!」
女子高生らしい女の子は哲夫の声にはっと気づいて、身を起こした。
哲夫が男と揉み合っている様子を見て、女の子は「わあ」と声を上げて駆け出した。
男は、追いかけようと再び身をよじる。その度に脇腹が強く痛む。哲夫は意識が徐々に朦朧とし始めていた。そのうち、女の子が飛び込んだ家から数人の家人が飛び出してきた。周囲の家からも何事かと出てきた。
哲夫はついに気を失って倒れ込んだ。その隙に、男が逃げようとしたが、周囲は既に多くの人が取り囲んでいた。
「すぐに、警察が来る。もう逃げられんぞ!諦めろ!」
男は為すすべなく取り押さえられた。パトカーのサイレンが響いている。
「怪我をしてる!救急車を!」と誰かが叫んだ。
哲夫の腹部にはナイフが突き刺さったままだった。真っ赤な血が流れている。

哲夫が目を覚ますと、病院のベッドの上だった。脇には加奈が座ったまま眠っていた。
身を起こそうとしたら、腹部に激痛が走った。
「いてて・・」
その声に加奈は目を覚ました。
「気がついた?」
「ああ・・。」
加奈は哲夫の返事を確認すると、ナースコールを押した。すぐに医師と看護師がやって来た。医師は、哲夫の顔や目を診察して「もう大丈夫でしょう」といって帰っていった。看護師が腹部のガーゼを交換した。
ふと見ると、加奈がぽろぽろと泣いている。
「どうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ!無茶するんだから!死ぬところだったのよ!」
「そんな、大げさだなあ・・・。」
その会話を聞いて、看護師が言った。
「いえ・・大げさじゃありませんよ。三日間もこん睡状態だったんですから。」
「三日?・・・そんなに?」
「先生は、最初、覚悟してくださいなんておっしゃったんだから・・・。」
加奈はまだ涙が止まらなかった。
哲夫は「心配かけてごめんな?」というのが精一杯だった。

意識が戻った事を聞いて、すぐに警察がやってきて、事件の様子をしつこく尋ねてきた。おそらく、証拠固めをしているのだろう。発見した時のこと、男がどのように向ってきたのか、ナイフはどのように持っていたとか、よく覚えていないことも尋ねられた。ようやく一通りの質問が終わったところで、哲夫が訪ねた。
「女の子は無事だったんでしょうか?」
「ええ・・幸いにも・・無傷でした。」
哲夫は安堵した。
薄明かりの中、遠くに逃げ去る女の子の後ろ姿はぼんやり覚えていたが、無事だったかどうか、気になっていたのだった。警察が帰ると、哲夫は少し眠った。

午後、加奈が子どもたちを連れてやってきた。
「お父さん、大丈夫?」
上の娘の名は、美里(みさと)といい小学6年生だった。下の娘は千波(ちなみ)で3年生になる。二人の娘は神妙な顔で訊いた。
「ああ・・大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて。」
そう答えると、二人の娘は哲夫に抱きつくようにしてわあわあと泣いた。
事件の事は加奈から聞いていたのだろうが、意識が戻るまでは会わせない方がいいだろうと、加奈は二人に留守番をさせていたのだった。二人は、随分と心細かったに違いなかった。哲夫は二人を抱きしめ、何度も何度も謝った。

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